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第10話 断崖絶壁のティータイム

「も、もちろんですとも!」


 ワイは引きつった営業スマイルを、背後で鞭をしならせる悪役令嬢――セレニア様に向け続ける。

 彼女は「…ほう?よろしいでしょう」と、面白そうに口の端を吊り上げた。その目が全く笑っていない。


(絶体絶命やないか!)


 だが、やるしかない。ワイは、この絶望的な状況を乗り切るための舞台監督になったつもりで、周囲に叫んだ。


「おい、そこのおっちゃん!ぼさっと突っ立っとらんと、さっさと動かんかい!」

「へ、へい!」


 ワイは怯える御者を顎で使う。

「セレニア様のための至高の一杯やぞ!薪は、よく乾いた樫の木!釜は、一度綺麗に磨き上げた鉄の鍋!火加減は、ワイが指示するまで、決して強めてはならん!」

「は、はいぃぃ!」


 次に、乗客のおばちゃんに目を向ける。

「そして、そこの奥様!あなたの水筒、お借りしますぞ!中身は、もちろん聖なる泉の水ですな?…ただの水?チッ、仕方ありませぬな!」


 御者や乗客たちは、ワイのあまりにも尊大な態度と、背後で鞭を構えるセレニアの威圧感に完全に呑まれ、大慌てで指示通りに動き始めた。

 その隙を突き、ワイは震えながら立ち尽くすリリアの隣に寄り、セレニアに聞こえない声で囁いた。


「リリア!ワイに合わせろ!ええか、これからセレニアを眠らせる薬を作る。そのためには、あの辺に咲いとる、甘い香りの花が必要なんや。バレたら殺される!セレニア様のお茶に入れる、最高のハチミツ代わりやって言うて、全部摘んできてくれ!頼んだで!」


 ワイの言葉に、リリアは小さく息を呑んだ。しかし、彼女はすぐに、強い意志を瞳に宿してこくりと頷いた。


 リリアは、言われた通り、街道の脇に広がる野花の群生地へと向かう。彼女がそっと目を閉じ、意識を集中させると、彼女にしか見えない不思議な光が、無数の花の中から、ある特定の種類だけを照らし出した。

 彼女は迷うことなくその花――『夢見の花』だけを摘み取ると、小さなブーケのようにして戻ってきた。


「せ、セレニア様のお茶に入れる、蜂蜜の代わりでございます…!とても、甘い香りが…」


 リリアが震える声で差し出すと、セレニアは「ふん、雑草ですわね」と鼻を鳴らしながらも、その香りの良さに、少しだけ興味を示したようだった。


 やがて、焚火と鍋、水、そして全ての材料が揃った。

 ワイは、気絶した野盗団を背景に、今まさに始まろうとしている、前代未聞の地獄の茶会の準備が整ったことを確認した。


 街道の脇に、即席の焚火と鍋が用意された。

 その光景は、あまりにもシュールだった。

 背景には、白目を剥いて気絶している野盗団。観客席には、馬車の陰から遠巻きにこちらを覗う、怯えきった乗客とリリア。

 そして、舞台の中心には、これから至高の一杯を淹れるという茶人ワイと、その一挙手一投足を、腕を組みながら氷のような瞳で見つめる、ただ一人の貴賓(悪役令嬢セレニア)。


「では、お淹れします」


 ワイは、わざとらしく一つ咳払いをすると、芝居がかった優雅な動きで、偽りのティーセレモニーを開始した。


「まず、最高級の茶葉『紅の眠り(レッドスリープ)』を、聖なる水で清めます」


 ワイはそう言いながら、野盗から奪った『赤眠草』を、おばちゃんから借りた水筒の水で、じゃぶじゃぶと雑に洗う。


「次に、この茶葉が持つ本来の香りを最大限に引き出すため、当家に伝わる秘伝の石臼で挽いていきます」


 そして、その辺に落ちていた平たい石の上で、別の石を使ってゴリゴリとすり潰し始めた。

「この時、星々の運行に合わせて、右に3回、左に7回…これが、秘伝でしてな」


 ワイの適当な解説に、乗客たちが「へぇ…」と、なぜか感心したように頷いている。もう何でもアリか。

 ワイはペースト状になった茶葉を煮立った鍋に投入し、最後にリリアが摘んできた『夢見の花』を手に取った。


「仕上げに、『妖精の蜜』を数滴…。これで、味わいに天上の深みが加わるのです」


 ワイが花びらを一枚一枚、優雅に鍋へと散らした、その時だった。


「まだですの?」


 氷のように冷たい声が、ワイの背中に突き刺さる。


「長々と、何をもったいぶっているのです。わたくしを待たせるとは、良い度胸ですわね。その指、鞭で弾き飛ばされたいのかしら?」


「ひっ!」


 ワイは小さな悲鳴を上げ、危うく鍋をひっくり返しそうになる。冷や汗が背中を伝うのを感じながら、必死に営業スマイルを貼り付けた。


「ま、まあまあ、セレニア様!最高の味を引き出すには、こ、これくらいの時間と手間が必要でして…!ほら、もうすぐ完成ですから!」


 鍋の中の液体は、いつの間にか美しいルビー色に変わり、花々の甘い香りを放ち始めていた。

 ワイは「味見を…」と言いながら、おそるおそる木のスプーンで液体をすくい、最後の仕上げに『鑑定』する。


【鑑定結果:表】

 名称: 奇妙な匂いのハーブティー

 詳細: 様々なものが混ざっている。飲むには勇気がいる。


【鑑定結果:裏】

 名称: 即効性の『ぐっすりポーション』

 詳細: 対象を6時間、深い眠りに誘う。副作用として、とても寝覚めの良い夢を見る。 味は、驚くほど美味しい。


(よっしゃ!完璧や!味も美味いなら、あのお嬢様も文句なく飲むはず…!ワイの勝ちや!)


 勝利を確信したワイは、これ以上ないほど恭しい態度で、セレニアに向き直った。

 乗客から借りた、少し欠けた湯呑に、美しいルビー色の液体を注ぐ。立ち上る湯気は、まるで高級な香水のように、甘く華やかな香りをあたりに振りまいた。


 ワイは震える手で、それをセレニアの前に差し出す。


「お待たせいたしました、セレニア様。特製ブレンドティー『淑女の安らぎ(レディ・リポーズ)』でございます。どうぞ、ご賞味ください」


 セレニアは、その湯呑を疑いの目でじっと見つめる。


「…本当に、ただのお茶ですわね?毒など入っていませんでしょうね?」

「も、もちろんですとも!セレニア様のお口に入れるものに、そのような無粋な真似、このアレスが決していたしません!」


 ワイの必死の言い訳を、彼女は「ふん」と鼻で笑う。だが、その鼻が、湯気から立ち上る極上の香りを捉えた。彼女の眉が、ぴくりと動く。

(…なんですの、この、抗いがたいほど甘美な香りは…)


 プライドが邪魔をして、飲みたいと言えない。だが、香りの誘惑には抗えない。

 葛藤の末、彼女は尊大な態度を崩さぬまま、一つの妥協案を口にした。


「…まあ、良いでしょう。わたくしの寛大さを示し、一口だけ、味見をしてさしあげますわ」


 そう言って、彼女は湯呑を受け取ると、小鳥のように、ほんの少しだけ唇をつけた。


 その瞬間。


(なっ…!?なんですの、この芳醇な香りと、とろけるような甘さは…!花の蜜の甘さと、果実のような酸味が完璧に調和して…不覚にも、美味しい…!)


 彼女の翠色の瞳が、驚きに見開かれる。

 そして、一度崩れた自制心は、もう戻らなかった。

 セレニアは「一口だけ」という自分の言葉も忘れ、まるで乾ききった喉を潤すかのように、湯呑に残った液体を、ごくごくと一気に飲み干してしまった。


「ぷはっ…!」


 セレニアは少しだけ頬を赤らめ、ハッとして自分の失態に気づく。

 彼女は咳払いを一つすると、威厳を取り繕うように、腕を組んだ。


「…まあまあ、ですわね。悪くはありませんでしたわ」


(勝った!)

 ワイが内心でガッツポーズをした、その直後だった。


 セレニアの体の力が、ふっと抜けていく。さっきまでピンと伸びていた背筋が、少しずつ丸くなっていく。


「なんですの…なんだか、少し、視界が…ふわふわ、と…」


 彼女の呂律が、怪しくなっていく。


「眠く…なってきま……した……わ……」


 こてん。


 セレニアは、小さな音を立てて首を傾げると、そのまま前のめりに倒れ込み、ワイの肩に寄りかかるようにして、すぅすぅと穏やかな寝息を立て始めた。


「…………」


 静寂が、訪れる。

 ワイは、肩に伝わる美少女の重みと、その無防備な寝顔に、ただただ冷や汗を流すことしかできなかった。

 断崖絶壁のティータイムは、なんとか、ワイの勝利で幕を閉じたのだった。


 ◇


 最初に沈黙を破ったのは、馬車の陰からおそるおそる顔を出した、乗客の一人だった。


「…お、おお…」


 誰かが、ぽつりと呟く。


「あ、あの恐ろしいお嬢様を…眠らせた…?」


 次の瞬間、わっと歓声が上がった。


「すげええええええ!」

「英雄だ!この坊主は俺たちの英雄だ!」

「あんな化け物みたいな強さだったのに…!それを、お茶一杯で!」


 乗客たちは、さっきまでの恐怖も忘れ、涙ながらにワイに万雷の拍手を送ってくる。

(英雄ちゃうわ!ワイは、ただの被害者や!)

 ワイは、肩にのしかかるセレニアの重みと、乗客たちの的外れな賞賛に、ぐったりとしながら内心でツッコミを入れた。


 そこへ、リリアが心配そうに駆け寄ってきた。


「せ、セレニア様は!?大丈夫なのですか!?」

「ああ、ただ寝とるだけや。ちょっと、おっちゃん、すまんが手伝ってくれ」


 ワイは御者に声をかけ、二人で眠ってしまったセレニアをそっと抱え上げると、馬車の中の座席に優しく寝かせた。その寝顔は、さっきまでの鬼のような形相が嘘のように、穏やかで、あどけない。


 リリアが、そんなセレニアの寝顔を、まだ少し不安そうに見つめている。

 ワイは、彼女を手招きすると、馬車の外で、リリアにだけ聞こえる声で、ことの真相を説明した。


「リリア、よう聞いとけ。これはワイらだけの秘密や」

「…はい」

「セレニアが豹変したのはな、呪いなんや。ワイへの嫉妬心が引き金になって、一時的に『悪役令嬢』に戻ってしまうらしい。本人は、元に戻った時、その間の記憶が全くないんや」


 リリアは、息を呑んだ。彼女の瞳から、セレニアへの恐怖の色が消え、代わりに深い同情の色が浮かぶ。


「そんな…セレニア様も、ずっと呪いで苦しんで…。鞭を振るっていた時も、本当は…」

「せや。だから、これからはワイらで、彼女を支えたらなあかん。お前も、仲間やからな」


 ワイの言葉に、リリアは涙ぐみながらも、力強く、何度も頷いた。

「…はい!わたくし、協力します!セレニア様が、悲しい思いをしないように…!」


 その時だった。御者が、気絶したままの野盗たちを指さして、困り果てた顔で尋ねてきた。

「で、アレス様…この野盗どもは、どうしやす?」


 その言葉に、ワイは振り返った。

 地面に転がる間抜けな野盗団、馬車の中で穏やかに眠る仲間、そして、隣で固い決意を瞳に宿す、新たな仲間。

 ワイの口元に、不敵な笑みが浮かぶ。さっきまでの疲労は、もうどこかへ吹き飛んでいた。


「決まっとるやろ」


 ワイは、ゴードンが落とした斧を拾い上げると、その刃を鑑定する。


【鑑定結果:表】

 名称: 野盗の大斧

 詳細: 見た目は威圧的だが、作りは粗い。手入れもあまりされておらず、刃こぼれがいくつか見られる。


【鑑定結果:裏】

 名称: ギムリの弟子の出世作

 詳細: ドワーフの名匠ギムリの一番弟子が、師からの独立を懸けて打った斧。実用性を重視したため装飾はないが、作りは一級品。そこそこの値がつく。


(よし、これも換金やな)


 ワイは、ニヤリと笑うと、高らかに宣言した。


「こいつらをありったけのロープで縛り上げて、馬車の屋根に積んで、一番近い街の衛兵に突き出すんや。ついでに懸賞金も貰わなあかんな!災い転じて福と為す、や!」


 最悪の危機を乗り越え、さらに仲間との絆を深め、おまけに金儲けの算段までつけるワイの姿に、御者も乗客も、そしてリリアも、もはや呆れるのを通り越して、尊敬の眼差しを向けるしかなかった。

 こうして、ワイらの波乱万丈な一日は、ようやく終わりを告げようとしていた。

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