ひと目惚れ
犬派か猫派か、という質問をよく耳にしたことがある。俺、白田雪隆はそのどちらでもない。うさぎ派だ。
物心がついたときからそうだった。ふわふわで、お目々ぱっちり、極めつけはまるみを帯びたシルエット。あんなに可愛い生き物を嫌いになるやつなんてこの世にいるのだろうか。
うさぎを飼いたくてしょうがなかった俺は子供ながらの可愛さをフル活用して「お願い買って?」と親におねだりした。答えはノー。笑みを浮かべて威圧する母親のあの顔を今だに忘れられない。
俺は絶望したが、諦めきれるわけなかった。小学校にありがちなうさぎ小屋の飼育担当からなけなしのお小遣いで買った『可愛いうさぎの飼い方』と書かれた本をボロボロになるまで読み込むなど、できることは全部やった。いつか自分が大人になって、一人暮らしを始めて、社会生活のスタートとともにうさぎとワンダフルな毎日を送れる日を夢見て。
それが今日だ!
待ち焦がれつづけた日がついにやってきた。スッポンポンのまま街中を騒ぎまくってもいい。それくらいテンションが上がっている。ケージは用意した。水飲み、食器、トイレ、牧草入れ、ハウス、ケージの中にいても楽しめるようにと時間をかけて選んだ遊具たち。うさぎのためのものが完璧に揃っている。さあ、あとは今日から一緒に住むうさぎさんを迎え入れるだけだ。白田雪隆、これからホームセンターへ行ってきます!
「いらっしゃいませー」
ドキドキしてきた。どうしても口元がニヤついてしまう。周りからキモい奴だと思われていないだろうか。
小動物コーナーの前までやってきた。あの自動扉の向こうに俺の求め続けてきたうさぎたちがいる。胸の高鳴りとともに、いざ出陣。
ウィーンと自動扉が開く。目の前に天使がいた。他のうさぎを見るまでもなく、正面すぐの子うさぎに俺の心は一瞬にして奪われていた。
この子が欲しい。
近づくと、狭いケージの中でぴょこぴょこと動き回っていた。ネザーランドドワーフ、ブルーグレーの毛色、生後六ヶ月の女の子と表示されている。興奮しすぎて鼻血が出そうだ。
「あの、お客さま。ケージに触れられるのはちょっと……」
「あっ! すみません、つい……」
俺としたことが。我を忘れて売られている動物のケージには触れてはいけないという当然のルールさえ忘れてしまっていた。
「すみません。この子をください」
「はい。分かりました。では、誓約書の説明を致しますので、そちらの席にお座りください」
誓約書とは詰まるところ、『ペットを最後まで大事に育ててください』ということだ。言われるまでもなく、俺はこの子を我が子のように可愛がり、大切に育てる。それが飼い主の責任というものだ。
誓約書にサインし、あの子は小さな段ボールに入れられ、レジへ行ってお金を払った。ペットのことで金額について触れるのは野暮なことだが、二万九千円した。うん、高い。ネザーランドドワーフは人気種ゆえなのか知らないが、ミニウサギなどに比べてけっこうお高めなのである。
いつもならガンガンにかけている音楽をやめて無音で車を走行させる。うさぎの聴力が優れているのは有名な話。野生で狩られる側のうさぎたちは獰猛な狩人から逃げるために耳を発達させたのだろう。おい、後ろのバカ車。ゆったり走ってるからってクラクションを鳴らすのをやめろ。俺の姫さまが多大なストレスを感じていたらどうしてくれる。
「よぉし。入っていいぞ」
段ボールを開けると意外にもすんなり出てきた。はじめて見るケージの中を鼻をクンクンさせて確認している。
「――って、おえ!?」
ケージからぴょーんと飛び出していった。おかしいな。俺の聖書(可愛いうさぎの飼い方)によれば、家に出迎えた直後は慣れない環境でデリケートになっているためこちらからは手を出さず、ケージの中でそっとさせておくのが鉄則と書いてあったのに。あの子は活発で好奇心旺盛なのだろうか。俺がセッティングした遊び場で楽しそうに走りまわっている。お店の狭いケージから出たくて仕方がなかったのだろう。見よ、あの華麗なジャンプを。うさぎは楽しいと高くジャンプする。ネットの動画で何度も見たやつだ。生で見ると可愛すぎる。
遊びすぎて疲れたのか、脚を伸ばして座っていた。
「今日からお前の名前はルナだ。よろしくな、ルナ――」
頭を撫でようとしたらサッと逃げられた。ふっ、わかっている。急に現れたどこの馬の骨とも分からない奴にいきなり心を開くわけもない。だが、このくらいのことで俺はめげたりしない。これから時間をかけて徐々に距離を縮めていけばいいだけの話だ。
ちなみにルナというのはこの間観た動物番組で紹介されていたチャウチャウの名前で、うさぎを飼ったら絶対これにしようと決めていた。誰か俺のネーミングセンスを褒めてほしい。
ルナが自らケージに戻ってきて、フードを食べはじめる。カリカリといい音がする。ネザーランドドワーフ専用の割といい値段のもので、低カルシウムというところがポイントだ。うさぎはカルシウムを摂りすぎると膀胱炎などの病気にかかりやすいので気をつけねばならない。牧草ももぐもぐ食べている。うむ、いい食べっぷりだ。
おっと、ルナがまた出てきて遊びはじめた。俺もそろそろ夕食にするとしよう。長期間の狭いケージ生活に加えて、はじめて乗る車に不審人物との遭遇にと、彼女も色々疲れたことだろう。今はこのまま自由に遊ばせてあげることにしよう。
「はー、食った食った。慣れない自炊にしてはまあまあの出来だったな。明日の朝は何を食お――ぬわぁあああ!!?」
部屋の真ん中でくつろぐ可愛い子ちゃん。その姿にそぐわぬ糞とおしっこだらけの周り。しかも、そこら中の柱まで齧られた跡がある。しまった、うさぎの習性を忘れていた。縄張りを広げるために糞とおしっこをまき散らし、ストレス軽減や歯の伸びすぎ防止のために硬いものを齧るのだった。
「ルナさん、女の子なのにはしたないてすわよ……」
いや、違う。これは俺が悪い。俺の不注意が招いた結果だ。ペットの習性を理解して未然に防ぐことも飼い主の務めだ。これからは改めよう。
「ルナ。もう夜遅いし、そろそろケージに帰ろうか――」
捕まえようとしたらサッと逃げられた。
「ルーナさん。お家に帰るお時間ですよー」
バタバタバタッと慌ただしく逃げ、隅っこに隠れるルナ。
沈黙。
ここからケージに返したい飼い主と絶対に捕まりたくないうさぎによる壮絶な戦いが幕を開けた。
じりじりとルナに近づき、身を低くして警戒するルナが反対方向へ走りだしたところで俺もそちらへ向かいケージへと追い込む。ケージの手前で大きく手を広げて進路を塞ぎ、中へ入るしかない状況を作り出す作戦。だが、俺の腕を軽々と飛び越えた。
「素晴らしい脚力!」
もう一度ルナににじり寄る。今度は俺の腕を飛び越えさせない。ルナが警戒しながら逃げる先へ俺もカニ歩きで近づき、ゆっくりとケージのほうへ向かうように仕向ける。ケージの斜め手前まできたところで俺は大の字になってガバッと追い込む。瞬間的な脚力で左へ逃げた先へ俺はすぐさま手を伸ばした。よし、いった! あとはルナの体をケージの中に押し込むだけ。と思った瞬間、一瞬の踏み込みだけで真反対の方向へ逃げられた。
「見事な反射神経!」
勢い余ってズサーッと倒れ込む。うさぎ、恐るべし。
俺が観た動画のうさぎさんたちはみんな飼い主に大人しく抱かれて甘えていたのに、なんなんだこの子は。
そこで俺は作戦を変えてみた。部屋の中にあるありとあらゆるものを動かして防壁を作り、俺とルナとケージだけの空間を作り出す。あとはなんとかしてルナをケージに入れるだけ……と思ったら、すんなり中へ入っていった。逃げられないとわかり、諦めたのだろうか。
ダンッとスタンピング(脚で床を蹴る行為)をされた。あ、怒ってる。「チッ。また狭いケージの中に入れやがって」という声が聞こえてきそうだ。
「はあ、はあ、マジ疲れた」
四つん這いになって荒い呼吸を繰り返す。仕事と一人暮らしの両立で運動する暇もなく体力のない社会人にこの激しい争いはキツすぎる。
思い出した。糞とおしっこの始末をしなくては。糞はちりとりとほうきでゴミ箱へ。おしっこはティッシュで拭き取ったあと除菌シートで徹底的にこすった。柱は……うん、アパートの管理人さんに心の中で謝っておこう。
思ったより、うさぎとの生活は大変そうだ。とくにはじめて飼う人にとっては「思っている動物と違った」と思われてもおかしくない。でも、俺は。
あの愛くるしい姿を見ると全部許せる。こんなものは屁でもない。最後まで付き合ってやるさ。