盲目
カザフ子爵は、全てを失った。
残されたのは肥えた体と、辛うじて繋ぎ止めた命だけ。
「くそ~……俺の邸宅を好き勝手荒らした挙げ句、神聖な宝物庫を牢屋に作り変えて俺を閉じ込めるとは! このクズどもめぇ! しかし、ここ最近は何もかも思い通りにいかんな。なぜだ? おかしいぞ……何かがおかしい……意味がわからん」
「あら、間抜けなブタがブヒブヒ鳴いているわ。耳障りだから、口を縫いつけてしまおうかしら?」
邪悪な笑みを浮かべたフォルネが、鉄格子の外からカザフ子爵を見下ろしている。
カザフ子爵は歯を食いしばってジタバタと暴れた。しかし、背面で縛られた両手はびくともしない。
「クソーー! この腐れアバズレめぇ! 俺をここから出せ、出せーーー!」
瞬間、ヒュンッと空を切る音が鳴った。カザフ子爵の肩が裂ける。
「ヒッ! い……痛いっ!」
ムチだ。ムチが振り下ろされた。
フォルネはムチをピンと引き伸ばして、まるで屠殺場でブッチャーナイフを振りかぶるように目を細める。
彼女の声は女性らしくか細いものから、男勝りでドスの効いた低い声に変貌した。
「立場をわきまえろクズ。糞まみれの家畜のほうがまだ賢いぞ。お前は何者だ? 言ってみろ」
「ヒッ……お、俺は……か、カザフ子爵」
もう一度ムチが振り下ろされる。お次は逆の肩が裂けた。
「ヒギャァアアア! お、俺は、い、いえ、僕は! 天下の盗賊団アンツ・バエナの豚ですぅ!」
「そうか。なら、お前はここにいるべきじゃない。牢屋は人間用だろ? ほら、ついて来い……豚小屋まで案内してやるよ」
「出してくれるのか!」
またもやムチが振り下ろされる。今度はカザフ子爵の膝が裂けた。
「ァダァーーーッ!」
「豚なら豚らしく鳴け。豚らしく這いつくばれよ……ほら」
「ふざけるなー! 俺は人間だぁー! 見て分かるだろぉ!」
フォルネは舌打ちしてさらにムチを振り上げる。
その瞬間、ファルネの背後から恰幅の良い壮年の男が現れた。そして彼女の手首を掴む。
「そこまでだ、フォルネ。お前、この男を殺すつもりだったろ」
「あら……ライナス様。どうしてわかったんですか?」
「これだけ殺気立っていれば誰でも気付く。生かしておけと言ったはずだ。こいつはまだ利用のしがいがあるからな」
ライナスは盗賊団アンツ・バエナのリーダーである。
彼の漆黒のオールバックヘアーに紅い瞳、そして青白い肌が薄闇に映える。
フォルネの声は普段の女性らしいものに戻った。
「ちゃんと理由があるんですよー。この豚、とにかく気色悪くて、こいつが呼吸をするだけで腹が立つんです」
「フォルネ。それは理由じゃなくてお前の感想だ。気持ちは分かるが堪えてくれ」
ライナスはフォルネの手からムチを取り上げて、鉄格子に手をかける。
「カザフ子爵。お前には、ベラノーラという女がいただろ」
「あの盗人女がなんだ! あんなアバズレはこっちから願い下げだ!」
「今の有り様は、あの女のせいだとは思わないか……?」
カザフ子爵は目を見開く。
「それは……たしかに、そうだな。あのアバズレのせいで俺は……」
「カザフ子爵。俺達が手荒い真似をしているのは、お前を高く買っているからだよ。こうでもしないと危険なんでね」
ライナスはそう言って、牢屋の錠を解いてみせる。
フォルネは驚いて目を丸くした。
「何をするつもりですか、ライナス様?」
「黙っていろフォルネ……カザフ子爵。お前はベラノーラの物を盗み、売り払おうとした。元婚約者の両親に偽りの婚約破棄で脅しをかけた。情けも躊躇いもないお前は邪悪で……天才だ!」
カザフ子爵は首を傾げる。
「たしかに俺は天才だが……」
「そう、お前は天才なんだよ! 実は、次の標的はベラノーラと決めている。そこでお前の助けが必要なんだ。彼女をここに誘き出してほしい。お前にとっても、あの女から人生を奪い返すチャンスだろ。協力してくれるならお前を閉じ込めたりはしない」
「ほんとうか!」
フォルネは信じられないと言いたげに眉をひそめた。
ライナスは構うことなく続ける。
「お前は天才だが、多くの者がそれを知らない。思い知らせてやるんだ。己の力を。裏切り者のベラノーラを後悔させてやれ」
「ふ……ふふふ。そうだな。いいだろう。ベラノーラを誘い出せばいいのだな? 天才の俺にはお安い御用だ」
カザフ子爵はベラノーラに復讐したあと、ここから逃げ出す算段を立てる。
一方で、ライナスから邪悪で天才という評価を受けたことがこの上なく嬉しかった。
ライナスはほくそ笑んでうなずくと、牢屋の戸を開け放つ。
「決まりだな。まずは傷の手当をしよう。フォルネ。団員を二人呼べ。作戦の準備を始める」
「……わかりました」
フォルネはライナスから言われた通り、手が空いた団員を二人連れてきた。
ライナスは手が空いた団員二人にカザフ子爵の身柄を任せ、医務室に連れて行かせる。
フォルネは二人きりになったところで、ライナスの腕を掴んだ。
「ライナス様。さっきの話は本当なんですか? 天才だとかなんとか」
「爪の垢くらいは本当だ。あの嬉しそうな顔を見ただろう? あれは間違いなく、勘違いの天才だよ。なんの根拠もなく、世界は自分を中心に回っていると思い込んでいる。首謀者の役にうってつけだろう。豚もおだてりゃ悪の道……なんてな」
「あのブタが首謀者? 無理がありませんか」
ライナスは歩きながら説明を始める。
「俺たちは表向き、なんの罪もない行商人だ。今のところ疑いの目はない。全ての悪行をカザフ子爵のせいにすれば、俺達は陰で動きやすくなるだろ。都合が良いことに、カザフ子爵は貴族からも領民からも信用を失っている。あのブタが我々のことを話したところで誰も信じまい」
「なるほど……それであんな心にもないことを」
「あのブタにはしばらく隠れ蓑になってもらう。ベラノーラ狩りの次は……エリーナ・ハンスだ。地獄を見せてやろう。アーノルド・サンダルク」