きらめく湖の街サンルート
エリーナとアーノルドは共に馬車に揺られて、新たな街へと到着する。
アーノルドは馬車の小窓から外の景色を指さした。
「街に入ったよ、エリーナ」
エリーナは身を乗り出して小窓を覗きこむ。
すると、白い石造りの建物が、馬車の速さに合わせてゆっくりと窓の外を流れていく。
石造りの建物はどれも天井が丸くて繋ぎ目がなくく、汚れ一つない純白だった。
「すごい……独特な建物ばかりですね。初めて見ました」
「ああ。私も他の街では見たことがない。そのまま外を見ててごらん」
馬車が曲がると、エリーナの視界一杯に広大な湖が広がった。
湖は太陽光を反射して、純白の建物を光り輝かせる。
エリーナの瞳も感動の輝きを帯びた。
「わぁ〜……とっても綺麗」
「ここはきらめく湖の街、サンルート。私はこの街の景色が大好きでね。君にも見てほしかったんだ」
サンルートの街並みも湖も、何度も訪れているアーノルドには見慣れたものだ。
それでも彼の心には新鮮な気持ちが蘇る。
エリーナが隣で感動していると、アーノルドも共に感動することができた。
アーノルドは思う。心の底から喜ぶエリーナの幸せな笑顔は、きらめく湖よりも遥かに美しく眩しいものだと。
エリーナはその美しい笑顔のまま、アーノルドのことを見つめた。
「ありがとうございます……! 私も、この街が好きになりました」
「それは良かった。ここに私の別荘があってね、しばらく滞在する予定なんだ」
「本当ですか! 嬉しいなぁ……じゃなくて、えっと、とても嬉しいです!」
わざわざ言い直すエリーナの仕草に、アーノルドは微笑みを浮かべた。
「そんな、かしこまらなくても大丈夫だよ。厳格な場所でなければ親しげで構わない。私の執事や家政婦たちも、みんなそうしてくれる」
「そんな、私は仕え始めたばかりですし……」
「エリーナは真面目だね。私は気にしないから、エリーナの好きなように話しかけてくれ」
アーノルドは朗らかな笑顔でそう言った。
彼の言葉が単なる建前や社交辞令ではなく、心の底から出た言葉なのだとエリーナは気付く。
「私は田舎者ですから、言葉選び一つとっても不安ばかりで……今のアーノルド様のお言葉で、とても救われた気持ちです」
「そう言われると、私としても嬉しいよ。でもね、エリーナ。私が知る限り、この世界に田舎者なんて人種は存在しない。大切なのは、出生でも爵位でもなく、心の在り方だと思っている……だから、どんな言葉選びだろうと、エリーナはエリーナだよ」
アーノルドが話し終えるのを待っていたかのように丁度馬車が止まる。
アーノルドは先に馬車から降りて、エリーナの手を取りエスコートした。
彼女の目に飛び込んできたのは、きらめく湖を一望できる小高い丘。
その丘の上に、白い石造りの宮殿が建っている。
「こんなに立派な建物、生まれて初めて見ました。まるでおとぎ話に出てくるお城みたい」
「あれが私の別荘だよ。しばらくは、ここがエリーナの仕事場になるね」
「えぇ! このお城が、アーノルド様の別荘! しかも私の仕事場!」
エリーナは目を丸くして飛び上がった。
アーノルドは彼女の驚く様子がツボにハマって、いたずら好きな少年のように吹き出してしまう。
「ぶっ……アハハハ! そんなに驚かなくてもいいじゃないか」
「初めて見たら、誰だって驚きますよ!」
「やっぱり、エリーナには素のままでいて欲しいな。そのほうが楽しい」
二人は共に別荘の門前に立つ。
すると、執事の一人が速やかに門を開け放ち、家政婦や召使いたちが一斉に列を作った。
「おかえりなさいませ、ご主人様。ご無事で何よりでございます」
エリーナは圧倒されて、緊張のあまりガチガチに固まってしまう。アーノルドに付いていくだけで精一杯だ。
すると、茶髪のオールバックヘアーに燕尾服の老人――カルロス執事長がアーノルドの隣を歩き、彼の上着を速やかに預かる。
続けて、エリーナの上着と荷物も預かろうとする。
カルロス執事長はアーノルドよりも背丈が高く、その身長は優に二メートルは超えていた。
「お荷物は私めがお持ち致します。ご遠慮は要りませんよ、お客様」
「え? あ、いえ、そんな」
見かねたアーノルドがフォローに入る。
「カルロス。彼女は新しい書記長だ。旅先で出会ったんだが、とても誠実で凛とした人でね。うちで働いてもらえないか声をかけたんだよ」
「なんと! それは大変失礼致しました」
「エリーナの荷物は二階の客室に運んでおいてくれ。私は彼女に別荘の中を軽く案内する」
エリーナは恐る恐るカルロスに鞄を預けた。
カルロスはニッコリと笑みを浮かべて、重たい鞄を軽々と受け取る。
彼はまるで空っぽの網カゴを担ぐように鞄を持ちながら、アーノルドに問いかけた。
「此度の内政調査の報告書は、アーノルド様ではなく、エリーナ様にお作り頂くということですか?」
「そのつもりだよ。まだ詳しい話はできていないんだが………」
内政調査と聞いたエリーナは、か細い声でアーノルドに問いかける。
「あの、私の仕事って……?」
「ああ。端的に言うと、国王陛下に送る報告書作りだね」
「えええぇ!」
エリーナは自分の叫び声に自分で驚き、両手で口を抑えた。
「責任重大じゃないですか……!」
「大丈夫だよ。誤字で病院を潰しかけたこともあるけど、なんとかなったし……」
カルロスは当時を思い出して眉間をつまむ。
「あれは酷かったですな……火傷に効く薬が沢山あると書こうとして、なぜか火薬と書いてしまったのです。同時期に物騒な事件が相次いだものだから余計大騒ぎに……病院が犯罪組織になるところでした」
「あれは本当に申し訳なかった……寝不足はミスのもとだね。二度と三徹はしないと心に誓ったよ」
エリーナは高まる責任感に英気を吸い取られて、頬がみるみるうちにコケていく。
「わ……私の一筆で……ひ、人の人生が、狂ったり、そうでなかったり……」
「ご、ごめんごめん、エリーナ! からかって悪かった。誤字事件のときも、ちゃんと事なきを得たから安心して欲しい」
「ヒッ……実話……ノンフィクション……」
先が思いやられる出迎えだったが、きらめく湖は彼女の新たな門出を祝うように白い町並みを茜色で染めている。
アーノルドの別荘も鮮やかな茜色に染まっていた。
その頃、夕焼けを地獄の業火に見立てる黒ずくめの一団が、アーノルドの喉元に向かって着々と魔の手を伸ばしていた。