通じ合う二人の願い
夜空に白銀の満月が浮かんでいる。
アーノルドとエリーナを乗せた馬車は月明かりの下を進み、風車の街フラワーヴェントに到着した。
馬車はレンガで舗装された街道を軽やかに進んで、街の一番奥に建つ大きな屋敷の前で停まる。
アーノルドはエリーナの手を取って共に馬車から降りた。
「疲れただろう、エリーナ。今晩はここで疲れを癒やそう。頬の手当てをして、軽い食事も用意しようか」
「お気遣いありがとうございます……私はもう感謝の気持で一杯で、なんとお礼を申し上げたらいいのか……必ず、私の生涯をかけてでもご恩をお返しいたします」
アーノルドは青く透き通った瞳で、エリーナを見つめながら微笑んだ。
「エリーナ……君は大変なときでも、道義を重んじることができるんだね。今のご時世で、エリーナのように美しい心を持つ人はどれだけいるだろうか……感心するよ。でも、お返しは大丈夫。エリーナが笑顔で喜んでくれたら、私も嬉しい」
エリーナはアーノルドの言葉に胸を打たれて、鼓動が早まるのを感じる。
エリーナは胸の鼓動を抑えるために肩を縮めてお辞儀した。
「ア、アーノルド様……その、とても嬉しいお言葉です……!」
「気持ちを正直に伝えたまでさ。顔を上げておくれ」
アーノルドはそう言うと、エリーナを優しくエスコートして屋敷の扉をノックした。
すると、男性の使用人が出迎えにくる。
「お帰りなさいませ、アーノルド様」
「ああ。夜分遅くまでお勤めご苦労。彼女はエリーナ・ハンス男爵令嬢だ。紅茶と茶菓子の用意を頼む。あと、医療品も持ってきてくれないか」
「かしこまりました」
エリーナは屋敷のことを立派な宿屋だと思っていたので、アーノルドのやりとりに驚いた。
「え? ここはアーノルド様の……?」
「そういえば、まだ説明していなかったね。国中に私の別荘があって、ここはその内の一つ。私が留守の間は使用人たちが管理しながら生活しているんだ」
ふと、エリーナは屋敷の隣に広がる小麦畑に目を奪われる。
小麦は月明かりと夜風を浴びて、まるでアーノルドとエリーナを祝福するかのように揺れ動いていた。
「すごく綺麗……夜風でなびく小麦の姿が幻想的ですね。この小麦畑も……?」
「そうだよ。私の敷地だ。時間が許すときは収穫を手伝うときもある。さあ、身体が冷える前に中に入ろう。二階からの眺めも素晴らしいんだ」
「はい! 失礼いたします」
アーノルドはエリーナを二階の客間に案内し、運ばれてきた医療品から腫れを抑える軟膏を取り出した。
「じっとしていてね、エリーナ」
「そ、そんな! 医療品をご用意いただくだけでも、身に余るお気遣いです! せめて自分で塗りますので!」
「ははは! そんなに恥ずかしがらなくても大丈夫」
アーノルドの指先がそっとエリーナの頬に触れる。
エリーナは恥ずかしさのあまり、腫れていないところも赤くなっていないか心配しながらじっとした。
アーノルドが塗り終わると、エリーナの頬に残っていた痛みが完璧に消えていく。
アーノルドは手拭いで指を拭き取りながら具合を聞いた。
「どうだい? 国政調査で怪我をしたときによく使うんだ。効いているといいんだが……」
「とても楽になりました。もう痛みが引いていくのが分かります」
「よかった。もしかして、頬の腫れはカザフ子爵の暴力が原因かい……?」
エリーナは首を横に振る。
「ベラノーラ男爵令嬢という方が、よく子爵邸を出入りしいて……」
「ベラノーラ男爵令嬢が、エリーナのことを……?」
「はい……」
「そうか……すまない、余計なことを聞いてしまったかな」
「いえ、そんな。私は気にしていませんから」
二人の話が途切れると、使用人が扉をノックして入ってくる。
使用人は紅茶と茶菓子をテーブルに置いて颯爽と退室した。
アーノルドはエリーナに紅茶を勧めながら、それに因んだ話を始める。
「私はワインや紅茶を傾けながら過ごす時間が何よりも好きでね……それでも、お茶会や社交パーティーにはどうにも馴染めない。国政調査の道中には社交パーティーの予定も入っているんだが、できることなら席を外したいくらいだよ」
「アーノルド様が社交の場で困っている姿は、あまり想像がつかないのですが……」
「楽しむフリはできても、欲望の眼差しに嫌気がさしてくるんだ。皆、私のことを見ているようで見ていない。私に近寄る女性の目には、公爵夫人として出世する妄想だけが映っている。私は出世に必要なモノでしかないらしい」
エリーナはアーノルドの言葉に理解を示した。
彼女の脳裏にベラノーラの姿が浮かぶ。
「そうなのですね……大勢の人が社交の場にいても、それでは悲しい気持ちになりそうです」
「分かってくれるかい? 社交パーティーでいつも疲れているせいか……エリーナとこうして話をするのが、とても落ち着くんだ。久しぶりに穏やかなひとときを過ごせている気がする」
「アーノルド様からそう言って頂けると、とても嬉しいです。私は目上の方とお話しするとき、いつも緊張してしまうのですが……アーノルド様とお話していると、私も穏やかな気持ちなります」
「それは良かった。折角だから、もっと楽しい話をしようか」
アーノルドは紅茶の風味を一口味わったあと、とある執事について話し始める。
「私の家には屈強な執事長がいるんだが、彼はとんでもない男でね。ある日、王都の城下町で開かれた式典で、私は国王様に大事な書類をお渡しした。そのとき、強烈な突風が吹いて……あろうことか、書類が飛ばされてしまったんだ」
「それは一大事ですね……!」
「書類は天高く舞い上がり、そびえ立つ王城のてっぺんに届くかと思われた。そのとき……」
アーノルドは間を置いて緊迫感のあるムードを作った。
エリーナは固唾を飲み込んで続きを待つ。
満を持して、アーノルドは口を開けた。
「うちの執事長が、ものすごい走ってめちゃくちゃ跳んで書類をキャッチしたんだ」
「え……?」
キョトンとするエリーナに、アーノルドはもう一度言う。
「ものすごい走ってめちゃくちゃ跳んで、書類をキャッチしたんだ」
「え……あの……本当に……?」
「本当だ。国王様に誓って本当だ。だって私と国王様は、一緒に口をあんぐり開けてその様子を眺めていたからね」
「国王様も……! 私もその場にいたら、きっと同じ顔をしていたと思います」
アーノルドは心底嬉しそうに、そして楽しそうに笑った。
「とんでもないだろう。うちの執事長は」
「はい! とんでもないお方ですね」
エリーナもアーノルドに釣られて和やかに話し始める。
エリーナの父親――ハンス男爵は、爵位を得るまで複雑な書類とは無縁の生活を送っていた。
爵位を得て間もない頃、ハンス男爵は膨大な事務作業に嫌気が差して急に踊り始めたことがある。
エリーナは父親の踊りを思い出すだけで笑いそうになった。
「その、私のお父様は書類が苦手で……お父様の事務仕事を手伝ううちに会計や簿記を覚えたんです。私が書類を片付けている間、お父様は隣で踊っているんですが……」
「ほう……機会があればぜひとも披露してもらいたいな」
「それはもうおかしな踊りで。なんと言いますか、腕をクネクネしながら脚はガニ股で、身体を前後に揺らしながら左右に……ぷっ、ふふ、すいません。思い出すと笑いが」
「気になる……ハンス男爵の奇怪な踊り、とても気になる」
その晩、二人は身分の差や爵位を忘れて、時間を気にせず談笑を楽しんだ。
様子を見に来た使用人が時刻を告げたところで、二人は眠りに就く準備を始める。
エリーナは来客用の寝室に向かう前に、アーノルドの前に立って深々と頭を下げた。
「アーノルド様。とても楽しいひとときを共に過ごせて、私は幸せ者です。今日は本当にありがとうございました」
「そんなにかしこまらなくてもいいよ。顔を上げて、エリーナ」
「はい」
アーノルドはエリーナに屈託のない笑顔を向ける。その笑顔は高貴な公爵というよりも、無邪気で明るい青年の笑顔だった。
エリーナはそんな彼の笑顔を、まるで太陽のようだと感じる。
アーノルドはワクワクしながらエリーナのことを見つめた。
「今日の続きを明日の馬車で聞かせて欲しいな。私も面白い話を考えておくから」
「はい……! 喜んで!」
「それじゃあ、また明日!」
エリーナの暗く悲しい家路は、アーノルドとの出会いで明るく楽しいものに変わっていた。
家に帰れば終わってしまう旅だけれど、こんな時間がいつまでも続いてくれたらいいのにとエリーナは思う。
アーノルドも、同じことを思っていた。