突然の婚約破棄、運命の出会い
「エリーナよ! 失望したぞ、この卑しい田舎者が! たった今この瞬間をもって婚約を破棄する!」
「ど、どうしてですか? カザフ様。私が一体なにを……?」
「とぼけるな! 俺の金を盗んで私腹を肥やしていたのだろう? お前は若いし、顔も体型も悪くないから大事な仕事を与えてやったというのに……この恩知らずが!」
エリーナは突然のことに頭が追いつかない。
彼女は婚約を結んでから今日という日まで、カザフ子爵のためだけに尽くしてきた。
エリーナがカザフ子爵と婚約したのは、今から半年ほど前のこと。
婚約のきっかけは十七歳になったエリーナの誕生日パーティに、カザフ子爵が遠路はるばる訪れたことだった。
カザフ子爵は縁談を進める中でエリーナの美貌を大層気に入り、エリーナに財産管理を任せることにする。
エリーナもその期待に応えようと、ここ半年間カザフ子爵の財産を必死にやりくりしていた。
エリーナは必死に身の潔白を訴える。
「そんな……! 私はカザフ様の財産が尽きぬよう、日々の出費や収入をまとめていただけです。盗みなど考えたことすらありません」
「よくもぬけぬけと嘘を並べられるものだな! ベラノーラから聞いたぞ。お前が不正を働くところを見たとな!」
カザフ子爵がそう言うと、彼の愛人――ベラノーラが大げさにうなずく。
すると、ベラノーラは唐突にカザフ子爵のそばから離れてエリーナの前に立った。
そして彼女の頬に勢いよく平手打ちする。
痛烈な音が室内に響いた。
「わたくしはひと目見た時から、こんなみすぼらしい女に財産管理を任せてはいけないと思っていたわ。わたくしが不正を見抜けなかったら、この家は崩壊していたわよ!」
エリーナの頬にジンジンとした痛みが走る。
エリーナは涙をこらえながら、ベラノーラの言いがかりを否定した。
「そ、そんなことはありません! なにかの間違いです!」
カザフ子爵はベラノーラを手招いて抱き寄せると、自身の肥え太った腹の上に彼女を寝かせた。
二人はエリーナと婚約を結ぶ前から親しい仲で、ベラノーラは頻繁に子爵邸を出入りしてはカザフ子爵と遊び呆けている。
カザフ子爵はベラノーラの腰に腕を回しながら、ニヤニヤと邪悪な笑みを浮かべた。
「エリーナよ。ベラノーラをよく見てみろ。このはち切れんばかりの豊満な乳房と、美しいくびれを! こんなにも美しい者が嘘をつくわけがないだろう!」
「まぁ、カザフ様ったら! 本当のことを言われてしまったら……照れてしまいますわ」
「ふふふふ……今日もたっぷり可愛がってやろう」
カザフ子爵はそう言う傍ら、涙ぐむエリーナの哀れな表情と魅力的な身体を興奮気味に見つめている。
エリーナはその視線に酷く寒気を覚えた。
カザフという男が淫らであることも、女性を肉体だけで評価していることもエリーナは知っていた。それでも長所を見つけようと今日という日まで努力を重ねてきた。
その努力は、カザフ自身の長い舌で否定された。
カザフ子爵は声を荒げ、打ちひしがれるエリーナにさらなる追い打ちをかける。
「貧乏なうえに盗みまで働くお前に居場所はない! さっさと出ていくがいい! 婚約破棄だけで済ませてやることをありがたく思え!」
エリーナにはもう、返す言葉が浮かばない。
「……今まで、お世話になりました」
エリーナは頭を下げると、急ぎ足で部屋を出ていく。
彼女は荷物を詰め込んだ鞄を持って、子爵邸の門を抜けた。
必要最低限の物しか持ち出していないはずなのに、エリーナはやけに鞄が重たいと感じる。
「ごめんなさい。お父様、お母様……私、絶対に幸せになるって約束したのに……私はベラノーラさんと違って社交的じゃないし、世間知らずだから……それで愛想を尽かされたのかしら……」
エリーナは最寄りの街を目指して月明かりが照らす並木道を歩いて行く。
エリーナは道の途中で、カザフ子爵と過ごした半年間を思い返した。
必死だったばかりで、良い思い出は一つも浮かんでこない。
途端に頬の痛みが増し、目尻から涙がこぼれた。
「まずは、お父様とお母様に報告しないと……えっと、馬車代、足りるかしら」
この街にはエリーナの行くあても頼るあてもない。
街に到着した彼女は、涙を拭って馬宿に向かう。
道中、エリーナは酒場の前を通りかかったところで後ろから肩を掴まれた。
振り向くと、そこには柄の悪い中年の男が一人。
「よぉ、姉ちゃん。こんなところで夜遊びかい? 悪い子だねぇ。そんなにムラムラしてるなら、俺と発散しないか?」
エリーナは首を横に振る。
恐怖のあまり身体が縮こまって、抵抗する力が入らない。
「ち、違います……! あの、離してください!」
「へへへへ。欲情したウサギみたいに震えちゃって……そんなに俺のこと気に入っちゃった?」
中年男性はエリーナの腕を掴んで強引に抱き寄せようとした。
その瞬間、剣の鞘が空を切って中年男性の手を叩き落とす。
「いてぇ!」
エリーナは驚いて尻餅をついた。
彼女と中年男性の間に、一人の青年が立ち塞がる。
青年は色白い手をエリーナの前に差し伸べた。
「大丈夫かい? 怪我はない?」
青年の容姿は麗しく、整ったショートヘアーの金髪は夜明けを告げる朝日のように鮮やかだった。エリーナを見つめる彼の瞳は、雲一つない晴天のように青く透き通っている。
エリーナは見惚れるあまり、返事が少し遅れてしまった。
「え……えっと、あなたは……?」
「私は――」
青年が名乗ろうとしたその時、中年男性は青年に向かって殴りかかる。
青年は中年男性に見向きもせず、身体を右に反らして鮮やかに不意打ちを回避。
そして鞘に収めたままの剣を優雅に振るい、鞘の先端で中年男性を思い切り突き飛ばした。
青年は何事もなかったかのように、エリーナのことを見つめながら続きを名乗る。
「アーノルド・サンダルクというものだ」
青年の名前を聞いた中年男性は、恐れおののいて一目散に走り出す。
「れ、冷血のサンダルク公爵だ! 逃げろー!」
アーノルドは中年男性の背中を見送りながら腕を組む。
「全く……その呼び方は勘弁してほしいね」
「れ、冷血の……?」
「仕事柄、妙なことを言われがちでね。それより、手を貸すよ」
エリーナは彼の助けを借りて、ゆっくりと立ち上がる。
「あ、ありがとうございます……!」
「礼には及ばないさ。もう遅い時間だから、君の家まで送ってあげよう」
「あ……えっと……」
エリーナはなんと答えるべきか悩んでしまう。
「その、私……この街にはもう、帰る場所がないのです」
「え……?」
「お恥ずかしい話なのですが……婚約を破棄されて、家を追い出され……これから実家に帰らなくてはいけなくて」
彼女の事情に、アーノルドは心を痛めた。
さらにエリーナの服装や荷物の様子から、急いで支度してきたことをうかがい知る。付添人がいないことも気掛かりだった。
「左頬が赤いね……少し腫れているみたいだ。もしかして、今の男に?」
「いえ。もう痛みもありませんし、大丈夫です。どうかお気遣いなく」
「そうか……」
アーノルドはそう言いつつも、面持ちに同情の悲哀を宿す。
エリーナが暴力を振るわれたことは一目瞭然だった。
「……もしよければ、私の馬車に乗っていかないかい? 実家まで送ってあげよう」
「そんな……! 私はただの通りすがりですし、こうして助けて頂いただけでも感謝しきれません。これ以上、公爵様の手を煩わせるわけにはいきませんから」
「安心して。私の仕事は国政調査というものでね。仕事で辺りを巡回中だから、道すがらきみを送り届けるよ」
そう言うアーノルドに高貴な近寄り難さはない。
差し伸べる手や立ち振る舞い一つとっても、アーノルドはただ一心にエリーナの身を案じている。
エリーナは驚きと感謝の気持ちで、赤くなった頬に一筋の涙を流した。
「ほ、本当に、よろしいのですか……?」
「あぁ。もちろん」
エリーナは一歩下がって深々とお辞儀する。
この上ない感謝の気持ちを伝えるために、彼女は精一杯頭を下げた。
溢れる涙が止まらなくて、一滴、二滴と雫が落ちる。
「ありがとうございます……! 公爵様は、命の恩人です……!」
「そんな、大袈裟だよ」
アーノルドはエリーナの手を取り、彼女にハンカチを渡して涙を拭うよう促した。
そして歩調を合わせながら馬車のもとにエスコートする。
「そうだ、君の名前は?」
「エリーナ・ハンスです」
「ハンス……もしや、ぶどう園とワインで有名な、ハンス男爵家のご令嬢かい?」
「はい。公爵様に覚えて頂けるなんて、とても光栄です」
アーノルドはエリーナを先に馬車に乗せて、彼は後から対面の席に乗った。
「私も品評会に参加していてね。そこでハンス男爵のワインを初めて口にしたんだ。今では休日に欠かせない一品だよ」
「本当ですか! お父様も喜びます」
すると、二人の会話を遮るように一人の老人が馬車に近付いてきた。
「お待ち下され、エリーナ様! カザフ子爵がお呼びです!」
エリーナが反応するより早く、アーノルドは腰に帯びた鞘を手に取り、床に勢いよく突き立てる。
そして老人に睨みをきかせた。
「カザフ子爵の従者だな。このような夜更けに護衛も付けず、馬車の手配もなしに彼女を追い出しておきながら……今さらなんの用だ?」
「あなたは、アーノルド・サンダルク公爵! そ、その、我が主から手紙を預かってきたのですが……要約しますと、罪を認めるならば、家に戻って来ても良いと……」
エリーナはアーノルドと共に顔をしかめる。
二人は互いに視線を配って、しばしの間考え込んだ。
エリーナは意を決し、従者に向かって手を伸ばす。
「わかりました……手紙を下さい」
エリーナは、手紙を読んでゾッとした。
内容は自分の非を認めて許しを請い、今晩に二人目の相手となるなら婚約を考え直すというもの。
これはまたとない復縁の機会。だが、エリーナはもう、あの子爵邸に戻りたくない。
エリーナは青ざめてうつむいた。
弱る彼女に、アーノルドは優しく声をかける。
「私のことは構わず、ゆっくり考えるんだ。君が答えを出すまで、私は待つよ」
「はい……ありがとうございます」
アーノルドと共に街を去るか、身を捧げて復縁を試みるか、エリーナは選択を迫られた。
エリーナはカザフ子爵の手紙を握りしめる。
「カザフ子爵とは初めての縁談で、お父様もお母様も、私を笑顔で送り出してくれました」
アーノルドはうなずきながら、エリーナの言葉に耳を傾けた。
「そうか……」
「このまま帰ってしまっては、悲しませてしまいますよね……」
エリーナは悲報を持ち帰って、両親の顔を曇らせたくない。
ただ、この手紙に従ったところで、両親をひどく悲しませてしまう気もする。
エリーナはふと、アーノルドの温かい視線を感じた。
アーノルドは穏やかな声で話し始める。
「エリーナ。私はこれまでの仕事で、カザフ子爵の悪い噂ばかり耳にしてきた。君の様子を見て確信したよ。悪い噂は本当だ」
「アーノルド様……」
「私はただの通りすがりだから、聞き流してくれてもいい。君の選択を尊重する」
アーノルドはエリーナの不安に寄り添うように、青く透き通った瞳で彼女を見守る。
彼の切実な優しさはエリーナの心に染み入るように伝わっていた。
比べて、カザフ子爵が親身になってくれたことは一度もなかった。
元婚約者の眼差しは、いつも欲望に染まっていた。
「私は……戻りません」
エリーナは手紙をぐしゃぐしゃに丸めて、カザフ子爵の従者に返す。
「私は、アーノルド様のご厚意の下、旅路を共にします」
アーノルドは頬を緩めて、エリーナを歓迎する。
「そういうわけだ、カザフ子爵の従者よ。主に伝えておけ。次の監査は容赦しないとな」
「は……はいっ!」
従者は尾を踏まれたネズミのように一目散に走り去っていく。
アーノルドは手早く馬車の戸を閉めると、剣の柄で天井を突き、騎手に出発を告げる。
「短い間だけど、よろしく、エリーナ」
「こちらこそ、よろしくお願いします。アーノルド様」
アーノルドが差し伸べた手を、エリーナは両手で包み込む。二人は固い握手を結んだ。
「アーノルド様の手、あったかい……あ、すいません! つい……」
「ハハハ! 無理もないさ。外を歩いて冷えたのだろう。途中で温かい飲み物でも用意しようか」
「なにからなにまで、ありがとうございます」
エリーナは赤らんだ頬を隠すように窓の外を覗く。
彼女は流れ行く街に別れを告げて、これからの旅路に想いを馳せた。
初の異世界恋愛です!
右も左もわからない中、じっくりと考えていく内にエリーナやアーノルドたちのことがどんどん好きになっていきました。
ふらっと読みに来た方にもそんな気持ちになってもらえたならと思います。
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