氷雪の蛍火⑹
凍てつく寒さが冬の本番を知らしめる二月下旬。深く積もる雪の下には、小さな命が芽生える準備を始めている。
黒のパーカーと黒デニム姿に鞄を肩から下げ、一度降りた階段を勢いよく駆け上がった。
「あのさ、スマホ忘れて……」
部屋のドアを押し開けながら、発する言葉が小さくなっていく。
閑散とした素っ気無い部屋に溜息を溢して、机に置き忘れたスマホを徐に掴んだ。
小夜が消えた夜から二週間が経った。彼女のいない日常には慣れて来たつもりだけど、たまに誰もいない空間に話し掛けている自分がいる。
進学や就職先が決まっている三年は、自由登校の期間に入った。すでに推薦で大学に合格している僕は、現在線路の上を走っている。
揺れる度に隣りの三好に肩が当たり、彼女は少しだけ気まずそうに体を縮めた。
洸哉の見舞いへ行くために、わざわざ遠回りをしたいと言った僕のわがままに、彼女が付き合ってくれているのだ。
小夜が成仏して、心にぽっかり穴が空いた状態だった。なんとか普通の生活をして来れたのは二人のおかげだ。大袈裟に聞こえるだろうけど、人間なんてそんなものだ。
哀しみを紛らわせてくれる存在がいなければ、何も手に付かず今頃は廃人と化していただろう。
目的地とは別へ進んでいた列車を乗り換え、英総合病院へ到着した。
濡れたアスファルトを踏み締めるスニーカーに、黒い羽根が落ちてくる。まるで死神の落としものみたいだ。
たまに自分の存在価値を見出せない時もあるけど、こんな僕を受け入れてくれる人がいる。
「長く付き合わせてごめん」
「ほんとだって。でも、ちょっとは気分転換出来た? 会った時、なんか消えちゃいそうな顔してたから」
「……まるで幽霊やな」
「もう、それは言葉の綾でしょ! 揚げ足取るな」
核心に迫るようなプライベートな部分に、三好は深く触れてこない。それほど興味がないのか、敢えて気を遣っているのか。
どちらでも構わないが、僕にとってはその方が気分的に有り難かった。
だから僕も、彼女と洸哉のことには触れないようにしている。それがお互いの距離感というか、暗黙のルールみたいなところがある。
それでも以前より、ずっと心が近くなったように感じられた。
混み合う総合受付の前を通り過ぎ、エレベーターの前で足を止めた。隣に立つ三好が、何やらそわそわとしている。かかとをピョンピョンと上げ、脚をもじもじと動かす表情が硬くなった。
「もしかしてトイレ我慢しとる?」
「ちょっと! レディーに向かって直球すぎ……ごめん、やっぱ先に病室行ってて」
小走りに奥へ去って行く後ろ姿から目を戻し、僕は点滅するエレベーターに乗った。
長時間拘束していたから、言い出せなかったのだろうか。申し訳なかったと感じながらも、やはり女心は良く分からない。
六階のボタンへ指が動きそうになるけど、ぐっとこぶしを握って五階を押す。
小夜の生き霊が消えてから、何度かここへ足を運んでいる。目を覚ましたのか、どうなったのかは不明だ。あれから一度も、祖母や母親を見かけていない。あの日に行けた六階の扉を、まだ開ける自信がない。
病室へ入ると、洸哉が珍しくイヤホンを付けて横になっていた。窓側を向いているからなのか、僕が来たことに気付いていないらしい。
「洸哉?」
顔を覗き込んでから、寝ていたことを知った。穏やかな寝息を立てる彼の前に腰を下ろす。午前中に検査があったらしいから、疲れたんだろう。
レースカーテンの向こう側には薄暗い雲が広がっていて、白い傘が歩いて来るのが目に映った。その光景をぼんやりと見つめながら三好を待つ。
──何気なく過ごしてる毎日は、当たり前に来る未来じゃないってこと。だから、こうしてまた会えたことに感謝しないとね。
いつかの小夜の声が、脳裏に再生される。
「……そうやな」
小さなため息と一緒に、憂いが零れ落ちた。雨の音が胸へと染み込んでは消えていく。
洸哉が退院する一週間前。いつものように病室へ向かう足を思わず止めた。正確に言えば、僕の意思に反して脳が指令を出した、と言った方が良いかもしれない。
目の前の〝図書コーナー〟と記された場所から、車椅子を押して出て来た女性。華奢きゃしゃな体に細い手足、少し離れたここからでも柔らかだと分かる髪。少女と女性の風貌を持ち合わせた人。
見間違えるわけがない。それは紛れもなく、幽霊だと僕の前に現れた綾瀬小夜だった。
「小夜……さん?」
生身の身体を持つ彼女を目の当たりにして、僕は息を呑む。
一ヶ月前。僕の前で消えてから、ずっと心の中で探していた。もしも、生きて戻れたのなら、また会えたなら……。
立ち尽くす僕の方へ視線が飛んで来た。その距離は、病室約二部屋分ほど。
目が合うと、彼女はハッとしたように顔の色を変えた。驚き、戸惑い、そして喜びのような顔ばせだった。
「待ってて、今そっちに行くから」
桜のような笑みを浮かべながら、車椅子のハンドリムを握り車輪を動かす。
覚えていてくれた。忘れないでいてくれた。
ゆっくり近付いて来る彼女に、なんと声を掛けたら良いのか。複雑な胸中で揉まれていると、彼女の弾むような声が響く。
「小夜さ……」
「黙ってて、ごめんなさい」
言いかけた言葉が受け止められることはなく、通り過ぎる彼女の風に掻き消された。
「さーや。本を読みたいなら、誰か呼んでくれんと。みんな心配するでしょう」
僕の後ろにいたらしい中年女性が注意を促うながすと、彼女は愛嬌のある声でごめんと目を細める。小夜の母親だ。
笑いかけた相手は、僕ではなかった。
「しばらく動かしてない手を使うのって、体力消耗すごいや。ほんとに、また歩けるようになんのかな」
「一ヶ月やよ? マッサージしてもらってたとは言え、本当に体動かしとらんかったのかってレベルやって、看護師さんも言ってたでしょう。リハビリ頑張れば、そのうち歩けるわよ。奇跡の眠り姫って言われとるみたいやしね」
「その名前やめて下さいって言ったんやけどなぁ」
小さくなっていくその後ろ姿を、まるで映画のワンシーンを見ているような感覚で眺めていた。
そこには、僕の知らない綾瀬小夜がいた。
どうやら、僕の事を覚えていないらしい。
花を握る手に一層力が入る。
一度も振り返ることはなく、彼女は母親と話をしながら角を曲がって姿を消した。
「……待って、あの、──小夜さん!」
駆け寄った先には、振り向いて不思議そうに僕の顔を見る彼女の姿があった。眉を下げて、首を傾げている。
「はい、えっと……?」
顔付きや雰囲気はあの時のままなのに、全く知らない人のようだ。
「いえ、すみません……人違いでした」
逃げるようにその場を去った。
覚悟はしていたつもりだった。けれど、想像より現実はあまりにも残酷で、すぐには受け入れられないだろう。
僕の知っている綾瀬小夜は、もういない。本当に、消えてしまったんだ。
喪失感に押しつぶされないよう、小夜が生きている喜びだけを考えよう。そう言い聞かせるしかなかった。




