氷雪の蛍火⑸
一層寒さが増し、家の近くに聳え立つ梅の木は蕾が可憐に開き始めた。
気づけば小夜と出逢って二ヶ月余りが過ぎていた。オムライスを作ってくれた日からずっと、帰宅すると毎日おかえりと僕を抱きしめ、僕はただいまと返す。
口には出さないけど、お互いにまだ会える喜びを確認し合うみたいに。
二月に入った日曜日。昼下がりの穏やかな光を浴びて起床した。ぬるま湯で顔を洗い歯を磨く。寝癖を直して、黒シャツに細身のパンツで身だしなみを整える。
自室のドアの前、壁に背をあずけて小夜を待った。なんとも言えぬくすぐったい心境で。
一緒に出掛けるのは初めてではない。でも、今日はどうしてか、そわそわしている。
「変じゃ……ないかな」
上半身を半分だけ扉から出して、恥ずかしそうに白い頬を染める彼女の姿に胸が高鳴る。
花柄のブラウスに、膝上のタイトなスカート。もちろん手元には黒レースの手袋が付けられていて、エレガントな装いだ。
ワンピースに憧れていた彼女へ、僕がプレゼントしたもの。特に意味はなかった。ただ、着て欲しくなったから。
「ねえ、何か反応してよね」
惚けていた胸元に、コツンと拳が当てられる。
「ああ、うん……似合ってます。店員さんに聞いて買ったから、好みじゃなかったらすみません」
「ううん、すごく好き。こんなお洒落な格好した事ないから、ちょっと緊張しちゃう」
少し目線が下がる瞼がキュッと上がると、黒目が上方に偏って艶っぽく見えた。
暮れ紛れ時、僕らは家を出て石畳の坂を下りて行く。道沿いの両側にはアイスキャンドルが並び、ほのかな灯りが連なって薄暗い町を照らす。
キャンドルの中には紅葉や南天が入っていて、より美しさを際立てていた。
僕の住む軫宿は昔、宿場長だった。現在では、ほとんどが普通の民家になっているけど、水舎小屋と古い街並みはそのまま残されている。
このアイスキャンドルの正体は、各宿場町の跡地一帯で行われる『氷雪の灯祭り』という催しだ。
木目のベンチ、軫宿郵便局、そして水車小屋の前にも氷の灯が並んでいる。
坂の下には昔ながらの商店が顔を揃え、普段は閉まっている各々も、この祭りの間だけ特別に暖簾を上げる。
五平餅やおやきを食べながら神社の前を通り、しばらく先へと進むと小さな川が現れた。
まだひと気のない河原に降りて、灯のともる石の橋を渡って行く。その幻想的な世界は、淀んだ人間の世界を忘れさせてくれる。
僕たちは河原の丸石に腰を下ろし、水面に写る灯を眺めた。
「このキャンドル、最後は溶けて無くなっちゃうんだね。こうして見てると、命の灯火みたい」
静寂としたこの空の下で、水の流れる緩やかな音が僕らしかいないことを知らしめる。
微妙に離れた距離。けれど、手を伸ばせば指に触れられる間隔は、互いに意識している事を現していた。
あの交通事故により、君は二年前から昏睡状態で入院している。今も生きている。そう明かすと決めた。
月城の母親と話した時、となりから苦しみの音が漏れていた。自分の家族と重ねていたのかもしれない。
心残りを消していくほど、新たな未練が生まれ、長く一緒にいるほど、とどまっていたいと思わせてしまう。
生きたいと目覚めさせなければ、小夜を見殺しにすることになる。小夜の家族を裏切ることになる。そう気づいた。
もう少しこのままでいたい。彼女に触れたい。心の奥底から押し出る邪心は、捨てなければならない。
「ねえ? 私が前に、生まれ変わりってあると思うか聞いたの……覚えてる?」
視線を川に向けたままの小夜が呟く。
ザッと強い風が吹いて、草木や彼女の長い髪が空へさらわれそうになった。
「覚えてますよ」
「今はどう思う? やっぱり、ないかな」
「……分かりません。運命とか生まれ変わりとか、そうゆうの信じてないから。でも、僕は小夜さんに出会った。それだけは紛れもない事実です」
白い吐息が現れては、すぐに暗闇の中に消えていく。草葉に置く露のように。
おもむろに伸ばした手が、彼女の指に触れた。
「成仏しなくていいから」
「……え?」
「生きていて……ほしい」
キャンドルの小さな灯りに照らされながら、小夜は潤む瞳を堪えている。まるで、なにかを察しているかのように。
左の指先にある柔らかな感触が、ふわりと消える。黒いレースの手袋が冷たい地面に落ちていた。
「そっか……もう、時間なんだね」
震えながら胸の前で握る彼女の右手は、氷のように透き通っている。衝動的にその腕を掴んで、小さな体を抱き締めていた。胸の中で蝶の羽音のような声が聞こえて、背中に細い手がそっと触れる。
コートを掴まれる感覚は片側しかなくて、その手は小刻みに戦慄いていた。
「手が、なんで……。もしかして、小夜さん、気づいて……?」
強める腕には、まだ彼女の感覚がある。恐怖心に襲われながら、僕は抱きしめることしか出来ない。
目を覚まして欲しいと、事実を告げると決意したけど、別れはもうしばらく先だと決めつけていた。
「初めは、早く成仏しないとって思ってたの。でも、理人といるうちに、このままでもいいかもって、思い始めて」
震えながらも落ち着いた声で話すから、うなずいて聞くしかなかった。
彼女との時間は、もうほとんど残っていないと悟ったから。
「気づいたのは、少し前。いろいろ違和感が出て来て。事故から二年経ってるって、知った。もしかして、私、まだ死んでないのかもって。成仏したいじゃなくて、理人と一緒にいたいって思うようになったの。生きていたい……って」
「……小夜さん」
「でも、怖くて。いつ消えちゃうか、元の自分に戻ったら、理人の記憶からなくなっちゃうんじゃないかとか。そんなことばかり考えてた。いっそのこと、私のこと嫌いって言ってくれたら……突き放してくれたら」
「そんなこと言わない」
最後の言葉に被せるように、胸の奥から声が出ていた。
「いつからなんて、分からない。どこがって聞かれても即答出来ない。けど、嘘は言えない。言いたくない。好きだから。何回でも言う。僕は、小夜さんが好きなんです。どうしようもなく……、好きになってしまったんです」
抑えられなかった。想いがあふれ出すとは、こういうことなんだ。
彼女が消えてしまう勢いからではない。知らないまま、去って欲しくなかった。伝えておかなければいけないと思った。
──もう二度と、彼女には会えないかもしれないのだから。
そっと体を離した小夜の瞳から、見たことのない大粒の雫が流れ落ちていた。しなやかな体が宝石のように光を放ち、暗闇の中で輝き始める。
頬に手を伸ばし、優しく触れた。光のせいなのか、しっかりと肌を感じることが出来る。
「初めて……、触れた。あったかい」
「理人の手って、こんなに温かかったんだね。知れて、嬉しい」
体温があるように感じられるのは、きっと小夜を包む小さな星たちが熱を持っているからだろう。
濡れた下瞼を親指で拭う。彼女の瞳の中には僕がいる。しっかりと、その瞳子に焼き付けてくれている。
徐々に顔が近付き、小夜はゆっくり瞼を閉じる。甘い感触が口元と脳内に広がって、それは一瞬にして立ち消えた。
静かに目を開けると、空には虹の星が放たれたように七色の光りが耀いていた。片方の瞳から一粒の滴が零れ落ち、もう片方からも。涙は止めどなくあふれていく。
「……小夜さん……小夜さん」
星の光が消えた空の下は、金剛石のように暗く、キャンドルの灯は溶けてなくなっていて、色のない世界に僕だけが座っていた。




