氷雪の蛍火⑵
女性のあとに続いて、病院への道を歩く。踏み荒らされた白い地面の上で、その人は淑やかに傘を閉じた。たたずまいや仕草から、穏やかな人だと想像がつく。
同じエレベーターへ乗ることになり、妙な緊張が生まれた。五階を押すはずの指が動かず、その人が降りた六階で足を止めた。
なりゆきでついて来たわけじゃない。何かに引き寄せられるようにして、僕はそこへ向かっている。
女性が入った病室を通り過ぎ、思い出した。初雪が降り注ぐ中、言葉を交わしたあの日のこと。
あの人は──。
「兄ちゃん」
細々としたかすれ声に、体が震えた。聞き覚えのある声の持ち主は、僕が振り返るより先に、また言葉を繋ぐ。
「あんた、ここでなにしとる?」
シワだらけの目がまん丸となり、老女は驚いたようにこちらへ近づいて来た。その表情は独特のオーラをまとっており、頭の片隅から呼び覚ます必要もない。
小夜の祖母であると、すぐに判別できた。さっきの女性が、母親であると気づいていなくても、答えは同じだったろう。
「もしや、そこに小夜が……」
「今日は、いません」
「そうやろな。そんな気がしたわ」
控えめな音量で返すと、祖母は静かに唇を閉じた。初めから分かっていた、そんな表情にもとれる。
小夜の実家である朱鷺からは、電車で乗り継ぎ何時間もかかる。
なぜ、彼女たちが英の病院にいるのだろう。父親、家族の誰かでも入院しているのか。
手招きされるがまま、病室へ足を踏み入れた瞬間、心臓が跳ね上がるようにして止まった。目の前にいたのだ。しとやかな茶色の髪を垂れ下げ、白い肌に酸素吸入をつけてベッドへ横たわる女性ーーいつも僕の隣にいる綾瀬小夜が。
人形のような体は、指の先すらピクリとも動かない。
どうなっているんだ? 小夜は死んだと言っていた。でも、彼女はこうして病室にいる。
思考が追いつかないでいると、丸椅子に腰掛けていた母親が立ち上がり、軽く頭を下げて去って行った。不思議そうに僕を二度見したあと、祖母にボソッとなにかを告げて。
「よく寝ているだろ。もう二年も眠り続けとる」
隣に並んだ祖母が、丸い網かごから林檎を出して皮を剥き始めた。その落ち着きが、この場の異常さを演出している。
「……なん……で」
混乱する頭では、しっかりとした言語を話せないらしい。他に言いたいことは山ほどあるのに、上手く取捨選択ができなくなっている。
皮から耳が生まれ、林檎のうさぎが皿の上に並べられた。
「お前さんが会っとる小夜は、魂や。小夜の念が彷徨って、お前さんの前に現れたんじゃろう。生き霊というやつや」
「……生き霊」
復唱するのがやっとだった。
毎日こうして、果物をそばに置いているらしい。いつか目を覚ましてほしいと、願いを込めているのだとか。
二年前の冬、小夜は交通事故に遭った。恋人との別れ話のあと、横断歩道へ出た直後に引かれたようだ。そのまま二年間も昏睡状態が続いていると、祖母は語った。
機械と息をする音だけが響く病室を出て、きつく手を押さえる。指の震えが止まらない。
小夜が生きている。驚き、嬉しさ、恐怖。どれだか分からない感情が、爪の先まで押し寄せている。
──魂の分裂がなくなれば、小夜は目覚めるだろう。生き霊の消滅。そうなれば、お前さんと出会ったことも、なかったことになってしまうがな。
会話の一部でしかないそのセリフは、家へ帰っても僕の心を掻き立てた。




