淡雪と哀雨⑵
朱鷺駅へ向かう途中、こじんまりとした喫茶店へ立ち寄った。
外観はレトロを醸し出していて、扉を開けるとアンティークで重厚な雰囲気が広がっていた。まるで明治時代へタイムスリップしたかのような空間。
「素敵なカフェでしょ。静かで落ち着くの。学生時代はよく来てたなぁ」
勉強をする学生たちがいる奥の席を眺めて、小夜は懐かしそうな顔をした。
「スタボもファミレスもない田舎は、他に行くところないからね」
クスッと笑う姿を見て、僕も自然と頬が緩んだ。
小夜の学生時代は、どんな子だったのだろう。凛としていて、時折見せる表情が儚げで。触れられそうで触れられない。
もし僕らが同い年で、その時に出会っていたとしたら……。こうして肩を並べて、同じ時を刻むことはなかったかもしれない。
ステンドグラスに照らされた小夜はとても眩しくて、輝いて映った。
ウインナーコーヒーの生クリームを、小夜が小さめのスプーンですくって口に入れる。そのままコーヒーは飲まないで、こちら側へカップを差し出した。
「なんとなく懐かしい風味がする」
味が分からないからなのか、そんな曖昧な感想を笑顔で言って除ける。
何も返す言葉が見つからなくて、僕は黙ってコーヒーを飲んだ。普通に美味しい。 思ったより、甘くない。
小夜の家からここまで歩いて来る間、ずっと考えていた。今日、彼女を故郷へ連れて来て良かったのか。
全てを忘れたいと小夜が涙した夜がとても印象的で、衝撃でもあった。思い出を消し去る事は、容易いことではない。
だからせめて大切な家族に会えば、その人たちのために成仏しようと思い直してくれるのではと思った。良い思い出は胸に秘めたままで。
レトロな絵が付いたメニュー、青いタイルが個性的な丸テーブルに、窓際に吊り下げられたカラフルなガラスの暖簾。
それらを見る小夜の眼差しは、会った中で一番生き生きとしていた。過去を慈しむ顔だ。
「そうだ! スマホ貸して?」
「もう飲んでるけど、また撮るんですか?」
いいからと催促され、僕は仕方なくスマホを渡した。
徐に席を立った小夜は、僕が座る椅子の横へ並ぶ。
「えっ」の瞬間に、パシャリとシャッター音が鳴った。画面の中には、右を向いて口を開けている僕がひとり。当然ながら小夜の姿は写っていない。
「なんで一緒に?」
「ここにあるじゃない。この右の空間に私がいる証。理人には見えてるでしょ」
確かに、僕の隣にもうひとりいるように見える。小さな写真は彼女の存在を示していた。
小夜の心の中で、何かが変わり始めているのだと確信出来た。
会計を済ませようと財布を開けた時、小夜が入り口の扉を向いたまま静止していることに気付いた。
二十代半ばくらいの男性と、同年代くらいの女性が仲睦まじそうに腕組みをして歩いて来る。
瞬きもせず、その光景を網膜に焼き付けるように、彼女はじっと見据えていた。
突然、強く手を握られたとたん、逃げるように喫茶店を飛び出した。
何も言わず、ただひたすらに長閑な道を突っ走る。乱れる息吹だけが頭上に飛び交って、僕はされるがままに走り続けた。
先に速度を緩めたのは小夜だった。肩で息をしながら、脱力した足を一歩一歩踏み締めるように前へ出す。手は繋がれたまま、歩幅を合わせて歩いた。
ひっそりとした朱鷺駅に着くと、小夜が静かに重い口を開く。
「何も聞かないの?」
乱れた髪は頬や唇にくっ付いている。目の下は涙でぐちゃぐちゃで酷いものだ。早くあの場から立ち去りたかったことを物語っていた。
「話してくれるんですか?」
握っている手を離そうとしないのは、僕も同じ。
「前に話した別れ話。あれね、あの人が浮気してた相手に負けちゃったの。遠距離だったから、心を繋ぎ止めておけなかった……私が悪いんだろうけど」
「なに、それ」
「さっきの女の人かは分からないけど。でも、見たくなかった」
僕の胸に頭を寄せる。小刻みに肩を震わせる小夜の手を引いて、気付いたら走り出していた。
何があったのか、詳しいことは分からない。勝手な妄想はどんな風にだって出来た。
だけど今の僕にとって、そんな事はどうでも良かった。
「な、なに? どこ行く」
「いいから。ついて来て」
時間を巻き戻すように、来た道をひらすら進み続ける。
誰もいない景色を通り過ぎて、見えて来たのは一組のカップル。さっき喫茶店にいた小夜の元恋人だ。
「ちょっと、待って」
古びたバスの待合小屋に身を潜めると、唇を慄かせる小夜へ向けて声を落とす。
「行って来て下さい」
何を馬鹿なことを言っているという顔をして僕を見ている。
心残りをなくしていかなければ、彼女は成仏出来ない。
いや、そうじゃない。ただ単に腹が立った。黒い煙のような感情が胸の底から湧いて来て、黙って見過ごすことが出来なかった。
足元に積もったふわふわの雪を掬い上げる。固くこぶしを握ると、小さな玉の塊になった。
「人を苦しめておいて、自分だけ幸せになるなんて理不尽です。そういう人は、ぶつけてやらないと分かりませんよ」
「……でも」
「小夜さんが負い目を感じる必要なんて、ないはずです。好きだったんですよね、その人のこと」
俯く瞳が揺らいで、大きな水の玉が零れ落ちる。
何かを決意したように、彼女はグッと唇を結んで前を向いた。
「ねえ、待って!」
見向きもしないで、男は通り過ぎていく。聞こえないことは承知の上のはずだけれど、もう一度小夜は名前を呼んだ。
それでも止まる気配がないと分かると、手の中にあった雪玉を男の背中へ投げ付けた。
「あ? なんだ?」
僕へと向けられた視線は、敵意を示したまま距離を縮めてくる。
再び腕に当たった雪が崩れて落ちた。何かが飛んで来る衝突は感じているようだけど、どうやら見えてはいないらしい。
「お前、何かしたか?」
ベンチへ座る僕の前に立つ姿は、苛立ちを隠すことなく威圧的に思えた。
無理もない。この人からしたら、ここにいるのは僕だけなのだから。
無言で放たれた雪は、男の腰や足を攻撃する。その度に体を捻っては首を傾げて、それでも怒りの矛先はこちらへ向けられた。
何も見えないんだ。見えている人間のせいに仕立て上げたいのだろう。
「くそっ、意味分かんねーことしとんじゃねぇ!」
「ねえ、さっきからどうしたの? 何しとんのよ」
隣を歩いていた女性が戸惑うような声を上げる。
「こいつしかおらんやろ。なんかして……」
のっそり立ち上がって、彼より少し目線が低いことにイラッとしながら口を開く。
「呪われてるんじゃないですか?」
もやもやとした炭のような煙が身体中に纏わり付いている。それは悪魔の羽根を伸ばし、あなたを締め付けようとしていると告げた。
「もしかして、人を苦しめることをしてませんでしたか? 例えば、大切な人を裏切る浮気、とか」
心当たりがあったからなのか、男は怯えた表情で腰を抜かして、そのまま這いつくばるような格好で逃げ出した。
何度もごめんなさい、と謝りの言葉を口にして。残された女性は、当然の如く血相を変えて追いかけて行った。
少しやり過ぎたか。これくらいじゃ足りないか。
雪道へ足から崩れ落ちそうになる小夜を抱き止めると、腕を掴む細い手が打ち震えていた。
「何も、言えなかった。あの人には聞こえないけど、言ってやりたかったのに」
胸の内に残された言葉を、僕が聞くことはなかった。
これで蟠りが浄化されたとは思わないけど、小夜の唇は少しだけ上がっていた。
腕の中で小さくなっている彼女を、震えるこの肩を抱きしめたい。
この人をもっと笑顔にしたい。
囚われている檻から、いつか連れ出してあげたい。




