二人乗り
向かい側から歩いてくるクラスの女子と、すれ違いざま流れる視線が絡み合う。互いにすぐ目を逸らすけど、その瞬間が、僕にはスローモーションに見えた。
青とグレーのグラデーションが冷たい空気を作る放課後。バスケ部の練習へ向かうため、僕は体育館通路を渡っていた。
「可愛いよな、月城。幽霊部ってさ、部室とかあんのか?」
僕が唯一、中学で話をする響木が、振り返りながら口を開ける。
「……天文部な。どっか空いてる教室使ってんやろ」
「こんな時間に星なんか見れんやろし、普段何しとるんやろな」
さあなと興味がない素振りで、僕は真正面を向いたまま返事をした。
月城サヤは、成績も良く容姿も端麗なため、校内で一際目立っている。
風の噂では、最近芸能事務所に所属したらしい。そんな話さえ納得出来てしまうほど、彼女は特別視されていた。
「ユーレイ部ってさ、確か五人くらいしかおらんのやなかった?」
「そうそう。それで女子はあの子一人らしいやん」
「わたし絶対無理ー! よっぽどの男好きしか入らんよねぇ。ちょっと可愛いからって、調子乗ってんじゃない」
背後から、容赦なく投げ出される女子の声。雑言は徐々に大きくなって、足早に僕らを抜き去って行く。
「あいつら、普通に月城と喋っとるよな。可愛いとか言ってさ。女ってくそ怖ぇ」
唇を半開きにする響木の横で、あえて無表情を保つ。そんなのは上面の顔で、さっきの言葉が本心だ。
月城サヤは人気がある反面、女子からの誹謗中傷もよく耳にする。ほとんどが、彼女の容姿に対する妬み嫉み。
現に天文部の男子は、彼女をちやほやするような性格ではない。
冬の体育館は凍てつくような寒さで、ウォーミングアップを始めてしばらくは体が強張っている。
うちの中学は強豪校ではなく、中体連もそこそこの成績。響木に誘われてなんとなく入部しただけの僕にとって、部活にそこまでの入れ込みはない。
勝てたらラッキー程度で、何かに執着する事はないに等しい。それは、物、食、人も同じこと。
練習を終えて外へ出ると、白い吐息が小さく広がった。
花火のように湧き出ていた噴水は、力尽きたように静寂として、辺りは夜が更ける準備をしている。
正門横の駐輪場には、自転車が数台残っているだけで閑散としていた。
がっちりとタイヤに巻き付けられた鍵のダイヤルを回していると、視線の先に靴が見えた。
黒のハイソックスを履いた脚が、少し膝の見えるプリーツスカートからすらりと伸びている。
背中まである胡桃色の髪を揺らしながら、こちらに背を向けて立つ月城がいた。
「そんなとこで、何してんの?」
跳ね上がりそうな心臓を抑えて、冷静に声を掛ける。
「鍵、無くしちゃって。羽月くんは、今帰り?」
口角をキュッと上げて、月城が柔らかな声で近寄って来た。
なんとも言えない緊張を腹の底で感じながら、自転車のキックスタンドを上げる。
「……うん。月城さんって、家どこやっけ」
「色白町だよ」
「結構、遠いね」
地面の落ち葉に視線を向けて、ゆっくりと二輪のタイヤを回転させた。
ハンドルを握る指と湿った土を踏みしめる足が、心なしか強張っている。
「……方向一緒やから、乗ってく?」
素っ気ない口調だ。それほど話したことがなく親しくもないため、彼女は断るだろうか。
下がり気味だった視線を上げた月城が、少し間を開けて。
「ちょっと困ってたから、嬉しい。ありがと」
雪景色に咲く桜のように、僕の張り詰めていた心を溶かす。
校門を出て、通い慣れた道を走る。ゆっくり回転するタイヤが唸り声を上げ始めるが、ペダルを踏む足がいつもより軽やかに感じた。
冷たい向かい風が頬を刺し、小さな指が触れている肩は熱を帯びていく。
「羽……て……部だ……ね?」
背中越しに線の細い声が、途切れ途切れに聞こえて来る。今にも、風に掻き消されてしまいそうで、耳を後ろへ傾ける。
「ごめん、なんて?」
「羽月くんって、バスケ部だったよね?」
冷えきっているはずの背中が、一瞬にして体温を上昇させた。
柔らかな声がすぐ耳元で響いて、鼓膜が震える。
「私、バスケ出来ないからすごいなぁ。球技自体が得意じゃないんだけどね」
「僕なんか全然……なんの取り柄もないし。 響木は凄いよ。あいつ見てると、たまに自分が虚しくなる」
自分の言葉に息を呑む。人に本音を漏らしたのは、初めてだった。マイナスな印象を与えたのではないか。
「そんなことないよ。羽月くんは優しい人だと思う。だから、こうして話すきっかけが出来て嬉しい」
月城の言葉は、まるで魔法のようだ。僕の消えかけた心の火を、一瞬にして炎にしてしまうのだから。
平坦だった歩道は、定規を当てたように長く伸びた下り坂になった。
ブレーキを軽く握りながら、今にも宙を飛ぶようなスピードで駆け下りていく。風を切るという表現がとても似合う。
そのためなのか、肩に置かれた細く長い指は、見えない何かに脅えるかのように一層力を強めていった。
「ねえ、昨日のふたご座流星群見た?」
「テレビでちょっと見たくらい……今年は凄かったみたいやね」
「羽月くんは、星興味ない?」
「いや、興味ないわけじゃない」
あるわけでもないから、少し濁した返事になる。
天文部である月城に対して、単純に否定的な人間だと思われたくなかった。嫌われたくない。
坂道は弧線を描いたような緩やかなカーブになって、乱れる呼吸を宥めながら自転車を走らせた。
新しめの家が多く並ぶ住宅地に入ってしばらくして、洋風な白っぽいタイルのアパート前で自転車を止める。
あれからここへ着くまでの間、月城は一度も口を開かなかった。彼女のひとつひとつの言葉、仕草に心理が左右される。この沈黙が小さな心臓をより掻き乱していた。
膝丈のスカートを押さえながら、月城がゆっくりと地に足を付ける。
「ありがとう。結局、家まで送ってもらっちゃったね」
長い髪を耳にかけて、柔らかな笑顔を見せる。かけたところから、風に揺れて少しの後れ毛が出て、それが妙に色気を作っていた。
これっぽっちも意識などしていないような態度で、「じゃあ、また明日」とサドルにまたがる。
そんな僕を見つめながら、月城はピンと立てた人差し指を空へと掲げた。
「また、流星見えるよ」
首を傾げると、続けて。
「とっておきの場所があるの。今度教えてあげる」
「あ、うん」
子どものように無邪気な笑みを浮かべて、月城は約束ねと家の敷地へと消えて行った。
余韻に浸るように、小さく上げた手をゆっくり下ろす。
突拍子もないことを言い出す人だ。そう思いながら、漆黒の空を見上げた胸は、行き場のない高鳴りを覚える。
彼女に特別な感情を持ってはいけない。
全てを吹き飛ばすように、真逆に待つ闇を目指して、僕は全力で疾走した。