星空症候群⑶
まだ何も知らない。何も出来ない。僕らが中学生をそう見るように、二十二歳の女性にとって、十七の高校生なんて青い子どもにしか映らないだろう。
小夜が窓を開けると、冷たい空気が一気に押し寄せた。氷の国にいるような凍てつく夜。
ベランダへ出る彼女は、見ているこっちが寒くなる格好だ。小さな肩に、そっとブランケットを掛ける。
数多の星が近く感じて、この空間だけ、僕の目には別世界のように映った。
「明日は晴れるね」
遠い目をして、小夜は空の彼方を見つめている。
時折、星空は遠い記憶を蘇らせる。僕は、約束の日を思い出した。別々の場所で、同じ空を見ていたあの日。どういう気持ちで、月城は星を眺めていたのだろう。
言いかけた言葉を、伝えたかった気持ちを、待ってくれていた?
最後まで勇気を出せなかった僕に、失望しただろうか。
「星空症候群って、知ってる?」
手すりに肘を付く小夜が、ぽつりと言った。初めて聞く言葉に、首を傾げて。
「聞いたことない、ですね」
懐かしそうな目をする小夜が、静かに語り出した。
「ひとりで星空を見てると急に切なくなって、泣きたくなって。ぜんぶ忘れて、この星空のどこかに消えたい……って思ったりする」
心地よい声を、僕は黙って聞いた。
急に誰かに会いたくなって、声が聞きたくなる人が夜空に浮かぶ。そんなどうしようもない気持ちになることを、星空症候群と呼ぶらしい。
ほのかな月明かりと夜風が麗しさを演出するように、しなやかに揺れる髪から風呂上がりの香りを振りまく。
そんな小夜を直視することが出来なくて、僕は視線を下げた。
「星空って、日常が美化されるのよ。この広い空の下で、私はこんなに頑張って、誰よりもあなたを想って生きてるのにって。悲劇のヒロインになった気分にさせられるのかもね」
落ち着いた声色は、徐々に心へ染み込んでくる。
「星空症候群を命名したのって、小夜さん?」
あははと小さく笑って、彼女は首を振った。
「残念ですが、私の、心のパートナーが言ってたこと」
手すりを握る小夜の手に、力が入っている。
彼女にとって、大切な人なのだろう。心のパートナーという言い方が妙に引っかかるけど。
生前、何か思い詰めていたのか。今朝の涙は、関係しているのだろうか。
「黙り込んで、何考えてるの? 好きな人のこと?」
不意打ちに近付いて来た顔に、思わず体がのけ反った。
「そんなんじゃないから!」
取り乱して、みっともない。そう思うのに、体はさらに赤くなろうとする。
雪のような感触が頬を包み込む。レースに覆われた手が、触れていることに気付いた。
また、心臓が跳ね上がる音がする。
「すごく冷えてる。気付かなくてごめんね。部屋戻ろ?」
まっすぐな瞳が、いつも以上に大人に思えて嫌だった。
「……平気です」
頬の手を軽く払うと、僕は不機嫌な目を下へ向ける。
脈が波打つ音が分かる。血液が心臓から流れ出す時、ドクドクという大きな音と一緒に緊張を運び出している。
僕が慣れないことでも、彼女にとっては普通のこと。自分だけ動揺していることが、悔しくて恥ずかしい。
「怒ってるの?」
「怒ってない」
「うそ、怒ってるよね?」
「怒ってない! ……です」
徐々に弱々しくなる声。気持ちがコントロール出来なくなると、相手が傷付くような態度を取ってしまう。
あの頃から、僕は何も変わっていない。こんな自分が嫌になる。
拳を握っていた手ひらが、ふっとやわらいだ。優しい温もりが、頭を撫でたから。
「人生って、思い通りにいかないよね。毎日踏ん張って、常に苦しみから逃げたくて」
雪のように儚げな指先が離れて、小夜は空を見上げた。
「でも、いざ真っ暗な世界に放り出されたら、怖い寂しいって泣くんだよ。もう少し、生きていたかったって」
視線が絡み合って、ドキッとする。その瞳孔が、この暗闇を全て吸い込んでしまうように見えて。
「上書きしたら、忘れられるのかな。早く忘れたい。ねえ、お願い。成仏……させてよ」
閉じられた瞼に、きらりと光る滴が現れる。
状況を察知するより先に、小夜が胸の中に飛び込んで来た。何かに怯えるような肩。幼い少女を宥めるように、今度は僕が彼女の頭を撫でる。
何が正解かは分からない。
ただ今は、心の奥底にある何かが爆発してしまった彼女の盾になりたい。
長い睫毛に、水の玉がきらきらと揺れている。闇に浮かぶ宝石に、僕はどうしようもなく惹かれていた。




