奇妙な同居人⑷
ドアの閉まる音が響いて、意識が戻る。
赤い頬をした数人がパンツ一枚で、ふらふらと冷蔵庫の前に立っていた。
ハッとして隣に視線を向けるけど、さっきまで腰を下ろしていた小夜の姿はなく、しわの寄ったソファーのカバーだけが残されていた。
こんな一瞬のうちにいなくなるなんて、空でも飛んで行ったのか?
慌てて家を飛び出してしばらく行くと、街灯に照らされる影が視界に入った。
長い坂道の休息にと、古くから置かれている木目のベンチに、小夜が腰を下ろしている。何か物思いにふけるように、ずっと先へ続く坂を眺めて。
夜の軫宿はとても静かで、どこからか鈴の音が聞こえてくる。見えない妖が行列を作って、この石畳の坂を歩いているみたいだ。
「私ね、二十二歳なの」
突然なんの話だと思いつつ、隣に並んだ僕は相槌を打つ。
「おばさんって、思った?」
「五歳しか変わらないし。思ってないですよ」
会話の意図が見出せなくて、夜空に浮かぶ星を眺めながら彼女の言葉を待つ。
流れる沈黙の理由は分からないけど、この無音な時間を無駄だとは感じなかった。
「私のこと、気持ち悪くない?」
まるで、空気が話しているような弱々しい声。僕が何か言ったら、壊れてしまいそうなほど。
「いまさら、何言ってるんですか」
「知り合いでもなくて、理人より五歳も上だし……死んでる、し」
最後の言葉が、一番言いたかった本心だろう。喉の奥が、震えていたから。
「気持ち悪かったら、初めに速攻で逃げてますよ。僕には、普通の人と同じに見えます」
厄介ごとに巻き込まれるのは、面倒だと思っていた。でも、今日一緒に過ごして残ったのは、人として悩む気持ちだった。
戻らないことを心配したり、言ってしまったことに後悔して、放っておけないと心が葛藤した。
小夜が普通の人間だったら、こんな感情を抱いただろうか。おそらく、ここまで関わる前にどこかで境界を引いていたはず。
知らずのうちに、僕は幽霊である彼女を受け入れていた。幽霊だったからの方が、しっくり来るかもしれない。
何か言いたそうに飲み込んでを、小夜はずっと繰り返している。
チリンチリン。再びひぐらしの鳴くような音が聴こえた。坂の下から首輪に鈴を付けた猫が現れて、僕の足にスリスリと体を擦り付けて来る。
軫宿のどこかで飼われているのだろう。たまに見かけたことがある。妖の犯人は、お前だったのか。
頭をくしゃっと撫でてやると、猫は甘えた鳴き声を上げた。
「お前は素直に甘えられて、可愛いね」
しんみりしながら小夜がぽつりと話すと、猫は見上げてもう一度ニャアと鳴いた。
彼女の言葉に返事をするかのタイミングで、僕らは思わず目を合わせる。
「猫ちゃん、私が見えるの?」
また猫がニャアと返事をする。
動物は霊を見やすいというのは、強ち間違いではないらしい。
満足したのか、猫はふらふらと僕らの前から去っていった。小さな背中を見つめる小夜の瞳が、きらりと光る。
「……今日のケーキね、本当は味が分からなかったの」
飲み込んでいた言葉を、閉ざしていた胸の内を、小夜は静かに話し始めた。
「窓ガラス、鏡、写真も全部に私はいなくて、急に怖くなった。ああ、ほんとに死んだんだ。この世界に存在しちゃいけない……空気なんだって」
一粒、もう一粒とあふれ出た雫が彼女の手に落ちる。わざと元気に振る舞っていた理由が、気持ち悪くないかと尋ねて来た意図が、ひとつに繋がった気がする。
たぶん、僕に見捨てられることを恐れているんだ。
「それって、僕が見つけたからですよね?」
僕が認識さえしなければ、闇を彷徨いながらも、小夜はこの世界を諦めていただろう。存在していたいと思わせたのは、僕のせいなのかもしれない。
「冷えますから、家に戻りますよ」
「……でも」
差し出す僕の手を拒んで、触れることに躊躇っている。
「そうだ、これ」
上着のポケットから、昼間にセレクトショップで見ていた黒レースの手袋を出した。
「せっかくだから、何か残る物をと思って。さすがに、ワンピースはやめましたけど」
戸惑いながらも、長い指がレースの隙間へ入っていく。黒の指先が街灯に照らされて、とても綺麗だ。
「帰りますよ」
ぐっと握った手のひらから、氷のような感触が伝わって来る。
「触れる……理人のこと、触れた。今だけは、私も人みたい」
「僕には普通に見えるって、言いましたよね」
頷く頬には、新しい雫が流れていた。
「出会った責任負わせて下さい。このままどこか去られたら、後味悪いんで」
「……ありがと」
今にも壊れてしまいそうな小夜と、月城を重ねているのかもしれない。
遠ざかろうとする後ろ姿に、気づけなかったこと。優しい言葉のひとつも掛けれなかったことを、後悔していたから。
ひとり置き去りにすることは、出来なかった。




