奇妙な同居人⑴
嘘のような一日を終え、楠駅から電車で揺られること一時間半。軫宿でバスを降りると、肩に霊でも憑いているような重い足取りで石畳の坂を上がる。
町並みを見渡しながら、小夜が後ろを歩いている。湿った落ち葉の香りが、秋の気配を感じさせていた。
水車小屋を通り、昔ながらの郵便局を過ぎて、木に囲まれた坂をひたすら進む。
「空気が綺麗。町の雰囲気も素敵ね。君の家は、もうすぐ?」
「この坂を上がったところです」
「ふーん、さっきの水車小屋も良かったなぁ」
どこからどう見ても、小夜は普通の人間にしか見えない。けれど、彼女が幽体であることを認めざるを得なかった。
校内で僕に付いて回る彼女に視線を送る者は誰一人としていなかった。空気だった。それを霊と言わず何というか、教えて欲しいくらいだ。
「わぁ……!」
坂を上り切った彼女が、目を輝かせながら見上げている。雨上がりの虹が薄っすらと空に橋を掛けていた。
手のひらを大きく開き、彼女はかかとを浮かせて七色の輪を掴む素振りをする。
「天国に一番近い女だね」
「なんですか、その変なキャッチフレーズ」
長い睫毛が瞬きをするたび、艶やかな唇が小さく開くたびに心臓が小さく跳ね上がる。
恐怖心あるいは不気味だとか、そういう気持ちにならないのは、まだ僕が彼女に対してどこか人という意識を持っているからなんだろう。
帰宅後に母と言葉を交わしながら、その反応を確認してみるけど、やはり小夜の姿は見えていない様子だった。
ひとまず彼女を自分の部屋に上げて、ネクタイを緩める。シャツのボタンを外しかけて、僕はベッドの上に腰を下ろす彼女に目を向けた。
「あの、仮に幽霊だとしても、部屋の外に出ててくれませんか」
「なによ、それくらい気にしないよ」
「僕が気にするんです」
冗談だよとクスクス小さな笑い声を上げながら、彼女は部屋を出て行く。どうしてか、その後ろ姿が懐かしく感じて、少しばかり胸が苦しくなった。
黒の長袖Tシャツに腕を通し、黒い細身のパンツを履く。
開けたドアの向こうに小夜の姿はなく、がらんとした冷たい空気が漂っていた。今日の出来事が夢だったなら。
「羽月くん」
背後から声を掛けられた。透き通るような彼女の声に似ている気がして、心臓を鷲掴みされたような苦しさが襲う。
振り返ると、ベッドの前に小夜の姿があって、驚いている僕を見て微笑んでいた。柔らかな目元と華奢な雰囲気がさらに月城を連想させる。
「羽月くんは……やめて下さい」
「じゃあ、名前で呼んだ方がいい?」
「それ以外なら、なんでもいいです」
苗字で呼ばれると月城の声で再生される。もういない彼女と重なってしまうのが辛い。
ベッドに座ってふかふかと揺れてみたり、ちょこんと降りてカーテンや窓に触れてみたり。何か考えているみたいな難しい顔をしながら、小夜は僕の前に立った。
じっと見つめられて思わず目を逸らす。なんだろうと思っていると、指先に冷たいものが触れた気がした。感触はなくて、氷から出る冷気みたいな印象だった。
僕の指に触れているであろう彼女の指先は、皮膚をすり抜けて半透明だった。
それから小夜は、トイレや風呂にも入り人間と変わらない生活をしていた。
ただひとつ。物や衣服は触れても、人肌に直接触れることは出来ないようだ。何度試しても指は色が薄れて、僕の肌は冷気しか感じない。
小夜は黙っていたけど、少し寂しそうに見えた。
夜に吹く風がカタカタと窓を揺らしている。ベッドの上で横たわる彼女に、床に敷いた布団から僕は目を天井に向けたまま話し掛けた。
「小夜さんが開けたドアとか持ったコップは、僕の家族に見えてるのかな」
少し間を開けて、小さな息の混じった声が返ってくる。
「ここは私が本来いるべき場所とは違う世界だから。物に触れた瞬間に、それは私と同化して私の一部になるみたい。優待離脱みたいなイメージかな。だから、こうして布団を持ち上げたとしても、私を認識しない人には、ただの敷かれた布団にしか映らないと思う」
盛り上がって見える掛け布団が、僕にはゆっくりと沈んで行く様子が分かった。
実際に小夜と鉢合わせた家族は、騒いだり驚いた反応をすることはなく普通の日常を過ごしていた。だから、彼女の説明がすんなり胸に収まったのかもしれない。
「ねえ、理人は彼女いるの?」
「……いきなり? そっちはいたんですか」
「事故に遭ったの、ちょうど別れた日だったんだ。 私が振られたんだけど、相手にしたら後味悪過ぎだよね」
泣いているのか、ぐすんと鼻をすする音が寝返りと一緒に聞こえた。そんな僅かな音でさえ、この静かで狭い空間は彼女の存在を知らせてくる。
瞳を閉じると、真っ白な雪の中を歩く月城が手を振ってこっちを見ている。何か言いたそうに小さく口を開いているけど、声は聞こえない。
薄っすらと瞼を上げながら、最悪ですねと吐息混じりに笑った。一度心から思った人の死を惜しまない奴なんて、いないはずだから。
「彼女なんていません」
「それなら良かった。恋人いたら、さすがに居候するの申し訳ないかなって」
こちらに寝返りを打つ音がベッドの上でしたけど、僕はわざと反対側を向いたまま。
「彼女作れば、出てってくれるんですね」
「悪いとは思ってるよ。こんな変なことに巻き込んじゃって。でも頼れる人が居なくて! 未練が無くなれば、自分の世界へ行くと思うから」
慌てて飛び起きたのか、ベッドがギシギシと鳴っている。床に足の着く音がしてすぐ背後に気配を感じた。
「だから、見捨てないで」
今にも消えそうな儚げな声で、反則だ。
「ちゃんと成仏して下さいよ」
寝巻き越しの肩からふわっとした冷たい感触が伝わって、僕の鼓動はゆっくり加速を始める。布一枚を挟んだ彼女の指先が、確かに触れていると感じられた。
冷たい夜を一緒に駆けた月城の指先を思い出して。
──もう二度と、僕は誰かを好きになんてならない。




