プロローグ
柔らかな陽の光が降り注ぎ、湖から涼しげな風が流れる。
すがすがしい緑の匂い。
遠くの山は青々として美しい。
おそらくここは異世界ナーロッパの中でも、今一番安全で穏やかで美しい場所だろう。
湖畔に立つ大きな屋敷の庭でバーベキューの支度をしている青年。気が弱そうで、頼りなさそうだが、その顔は優しかった。鼻歌を歌いながら、炭の支度をしていた。
「お嬢様~炭の準備ができましたよ」
屋敷の中から一人の女性が出てきた。年のころは十五、六くらいほどけば腰まで届きそうな、まっすぐな漆黒の髪をポニーテールにまとめている。どことなく気品のある美しい顔立ち。エプロンを身に着けて、大きなお皿にバーベキュー用の肉、野菜をのせて、先ほどの青年のそばに歩みよりながら、頬を膨らませていた。
「陛下、わたくしはもう、あなたの主人じゃないのですよ。いい加減、名前で呼ぶのに慣れてください」
「すみません、ノアール。でも、僕もプライベートの時は昔のように名前で呼んでほしいです」
「わかりました、カイル。それで、ネーラはどこですか?」
ノアールはその黒い瞳で猫獣人のネーラを探す。
「ネーラなら、バーベキューに肉しかないって言ったら、魚を取ってくるって言って、湖の中に入って行ったよ」
そう言ってカイルが指さした方向には黒猫耳の娘が湖の中からこちらに向かって手を振る。
「あの子、まさか素っ裸で……」
ノアールはお皿をテーブルに置きながら、ため息交じりにつぶやく。
「ネーラ! 上がってきなさい」
ノアールの声に応えるように水の中から上がってきた黒猫獣人。しなやかな肢体に長く細い尻尾。頭には猫耳。パンツだけをはいて、両手にいっぱいの魚で胸を隠して、二人に近づいてくる。
「もう準備できたニャ?」
「準備ができたの? じゃないわよ。また勝手なことを……カイルの護衛ということを忘れているんじゃないんでしょうね」
「まあ、いいじゃないか。ここに何の危険があるって言うんだい。それに僕と君がいれば、どんな危険も問題ないよ」
「まあ、そうかもしれませんが……」
「そうだ、そうだニャ。カイの言うとおりだニャ。ノアは真面目すぎるんだニャ」
「あなたがお気楽すぎるんです」
「まあ、まあ、二人とも……それよりも、やっと手に入れたこの生活を満喫しようじゃないか」
そう、あの怒涛の日々を乗り越えて、やっと手に入れた穏やかな日々。
その始まりはノアールの従者であったカイルが勇者一人に選ばれた時だった。