音
「どうだ? ハルト」
静寂に満ちた鍛錬場。
そこに佇んでいるのは二人の人間。女性の方は険しい顔つきで目を瞑り座り込む少年を見下ろしている。そしてその少年は何かに耳を澄まして考えていた。
魔法ならざる異能の力––––煌力を使いこなすため、その修行を行っているのである。
「声…声が聴こえます。これは話し声、かな?」
それは感じたのを素直に口に出した結果だった。
耳に響くのは可愛らしい女の子の声。姿が見えるわけではないが、声色から大体は推測できた。歳は自分より一つか二つ下と言ったところだろう。会話の内容から、誰かにドレスの自慢をしているようだ。心底嬉しくて仕方ない、と言った心情がその声から伝わってくる。
「声? …成る程な」
ハルトの返答にソフィアは納得した。ハルトの煌力について、何かしら検討が付いた頷きだった。
一方、ハルトは置かれている状況がよく分からないまま、出来るだけ聞こえてくる声の内容に耳を傾けようと、全神経を尖らせた。
少女は誰と話してるのか。もう一人の人物は何者なのか。そもそも何でこんな声が聴こえるのか理解できないまま、深く目を瞑る。
『お嬢様。嬉しいのは分かりますがそのように振り回されては裾が破けてしまいます。私めがお預かりしますから…』
『うふふ。ごめんなさい、あまりにも嬉しくて。嗚呼、次のお茶会が楽しみだわ。早く来週にならないかしら!』
『一昨日行われたばかりでしょう。さあ、ドレスを此方へ。これから勉学の時間です。家庭教師も既にお見えになっていますよ』
『ちぇっ。分かっているわ。退屈な時間だけれど、サボると母様が五月蝿いからね。仕方ないわ』
もう一人の人物は少女の従者だと直感した。少し大人びた少年の声。彼がドレスを受け取って勉強部屋に向かうよう口にすると、たちまち少女の不機嫌な声が耳に伝わる。
いいぞ、とハルトは舌を舐める。原理はよく分からないが、初めは少女だけだったのがもう一人の少年の声まで聴くことができた。このまま別の人間の声も聴くことができれば––––。
「……っ!」
そう思った矢先、頭に激痛が走った。突き刺すような棘の痛み。ハルトは堪らず頭を抱えてその場に蹲った。
「落ち着け。すぐに引くはずだ。…最初にしては充分だ」
痛みが引いたのを確認してゆっくり目を開けると、相変わらず生真面目な表情で此方を見据えているソフィアの姿があった。
無意識に自分の耳に手をやる。先ほど聴こえていた声は、嘘のように無くなっていた。
「ソフィアさん。今のは一体…?」
「ハルト。推測だがお前の煌力は音…遠くの音を感じとって聴くことや、自分が発した音を武器にして使う類のものだ」
音。
彼女の推測通りなら、今しがたの状況も納得できる。自分は確かに他人の声を聴いていた。それもすぐ近くにいる人間のものではない。何処かの貴族令嬢。その一連の会話を耳にしていた。
「まだ不完全ではあるが、お前は既に遠く離れた人間の声を聴くことが出来た。後は上手くコントロールするだけだろう」
実感が湧かない。今のが煌力の一部だと言うのか。他人が発した音を感じ取れると考えると、凄いというよりも怖い、という重圧がのし掛かった。
「まだ何とも言えないが、これを武器に出来ればお前にとっても好都合だろう。超音波として扱えれば相手の思考を妨害できるし、動きを止める手段にもなる。また空気を振動させることを強化していけば、それは純粋な衝撃波にもなる」
ハルトよりも先に煌力の本質を理解している。開いた口が塞がらなかった。吹き出た汗を拭って、彼女の意見を聞く。
「今後も毎日、煌力の訓練を行え。まずは今やった声に耳を澄ますことからでいい。聴こえる範囲、人数などの限界を正確に把握するんだ。武器としての使い方はそれからにしよう」
異議はない。いっぺんにやろうとも限界があるし、自分もまだこの煌力を把握し切れていない。ならば地道に一歩ずつ訓練していくのが賢明だろう。
分かりました、と首を縦に振って立ち上がると、ソフィアが唐突に肩の前後運動を始めた。その意味がよく分からず、率直な疑問を彼女にぶつける。
「あの…ソフィアさん? 何をするつもりですか?」
「無論、お前との稽古さ。喜べ、ハルト。今日は非番の日なんだ。一日中私がしごいてやるぞ。嬉しいだろう?」
ニッコリと笑うソフィア。清々しいまでに満面の笑みを浮かべる彼女を見て、ハルトはこの後の自分を予測する。
気絶する回数が倍になるなぁと他人事のように思いながら、彼女に稽古をお願いした。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
それから更に二週間あまりの時間が流れた。
言われた通り、煌力の特訓に力を注ぎ、少しでもコントロールできるように勤しんでいた。
無論、身体能力の向上も怠っていない。基礎となる体をしっかり鍛え上げなければ何も出来ないし、想定される敵にも対処できないと痛感していた。
今日も今日とて、日課のトレーニングを終えた後に自分の煌力を使いこなすべく考えていたのだが。
「うーん…」
ハルトは激しく頭を悩ませていた。
この二週間で煌力の性質をほぼ把握していた。一定の距離にいる生物の声を聴き取れる能力。植物は無理みたいで何度試しても失敗に終わった。
その距離およそ半径一km。これが現時点における限界だった。今後次第で更に伸ばせる可能性もあるが、取り敢えず効果範囲は分かったので置いておくことにした。
問題なのは聴こえてくる声だった。あれから様々な人物の声を聴き取れたが、特定の者だけを聴くというのが困難を極めていた。
発動するたびに聴こえる声は完全にランダム。一度一人の人間に絞って一日中聴こうと試みたが、自分でもまだコントロールできていないため途中で途切れてしまった。再度試してみたが徒労に終わっている。
どうやらこれは煌力の範囲内に入った生物の声を、自動的に感知するという仕組みなのだろう。自分からどうこうできるモノではないのだと理解した。
だからと言って何もしない訳にはいかない。効果範囲は分かったのだからそれから出来ることはないか、もっと自分の煌力を知り尽くすために試す手段を模索していた。
「…ふう」
軽く息を吐く。
目を閉じて身体の力を抜いた。煌力の発動は未だに慣れない。最初からすんなり行えてはいなかったが、全神経を擦り減らすことを毎回やるとなれば、嫌気が差しても仕方がないかもしれない。
泣き言を押し殺し、集中する。この世界の全てに耳を傾けるような感覚。身体で感じ、心で聴く。子どもの時ならば考えられない体験に身を委ねた。
今までは一人か二人の会話を聞くだけに留まっていたが、半径一km以内で可能な限り多くの声を聴き取ることはできないか。特定が無理なら現状の最大限をちゃんと確認する必要がある。
負担はかかるかもしれないが手を抜いてはいられない。この煌力を武器として扱う訓練が後には控えているのだ。強く意識して、ハルトは煌力を発動させた。
(まだだ…)
誰かしらの声が聴こえる。だがこれで終わりではない。より多く。より長く。名も知らぬ者たちの声を耳に響かせるため、ハルトは顔を強張せた。
やがて意識が捲り上がる気分を抱き–––––それが形となって全身に巡った。
『よっしゃあ! 今日はハイウルフの討伐に向かうぞ! 野郎共、準備は済んでるな?』
『もう少し値切ってもらえはせんのか? これじゃあとても買えないよ』
『あんた、いつまで寝てんだい! さっさと顔洗って稼ぎに行ってきな!』
『また誤訳です。前回教えた通りここの文法は–––』
『ルイス様、本日も腕によりをかけて作らせて頂きました。どうぞお召し上がり下さい』
『そう言えば、聞いた話によると例の国で政変が––––』
『ああ、楽しみで仕方ない。早く次の商品を出してくれ』
「あ––––––ああああああああァァァァ!!」
それは正しく悲鳴だった。
止めどなく押し寄せる苦痛。それはまるで雪崩のようにハルトの聴覚に襲いかかった。誰かが聞いていれば肌を粟立たせて即座に駆け寄っただろう。自分の脳では許容し切れない声の暴力が、ただただハルトを苦しめた。
駄目だ。これは駄目だ。これは流石に耐えられない。想像以上の痛みに、慌てて遮断しようするが、コントロールが覚束ない。否、遮断するための精神が不安定だ。鈍器を骨の髄まで叩き付けられる感覚。それでも必死に身体をバタつかせた。止めろ、止めろ、止めろ、止めろ、止めろ––––––。
そして完全に声が聴こえなくなった時には、その全身をぐったりと床にへばり付かせていた。
「死ぬかと思った…」
何となく口にしたその言葉に、ソフィアとの会話が頭を過る。
“–––本気で強くなりたいと思うならば、一度死ぬような状況に陥らねばならないからな”
ああ、つい先ほどその意味を味わった。皮肉めいた笑み。そう簡単にはいかないと分かっていたのに、その言葉の本質を理解できた気がした。
けれど、へこたれる暇はない。いつもより重い体に鞭を打って、引き続き研鑽に励むのだった。