光弘くんは死にたくない!
二×××年、某月某日。秋川光弘、二十九歳独身、彼女なし。彼はハイライトが消えた瞳で去年買い換えたばかりの昆虫用飼育ケースを眺め、深いため息をついた。
目の前で繰り広げられているのは今年ふかさせ、可愛がってきたカブトムシ達の交尾。ギシ、ギシ、ミシ、ミシと軋むような独特の異音を発しながら行われる熱烈な絡み合いに、こいつらの子供を俺は見ることができないのかと悲しい気持ちが湧上がった。
光弘の住む世界には可笑しな掟がある。必要のない、何故存在しているのか分からない掟がある。それにより現在、彼は大変苦しんでいるのだ。
ここで突然ではあるが、光弘の来歴を少しばかり紹介したいと思う。小さな頃は私立の共学幼稚園。小学校から高校まで男子校。大学は理系。院まで進み、現在甲虫に関わる研究室に所属している。まあ、自分の夢に向かって走ったいい人生である。
そんな彼がどうして苦しんでいるのか。彼の来歴をもう一度良く見て欲しい。どうだろう、おわかり頂けただろうか。光弘は幼稚園以降、あまり異性と関わったことがないのだ。
小学校から高校までは仕方がないとして大学。ここには女子も多少なりと進学していたが学業を優先、研究していた甲虫を中心に生活していた光弘は全くと言って良いほど異性と関わりがなかったのだ。これにより光弘は異性とのつきあい方が分からず、気がつけば運命の二十九歳になっていた。
この世界に生まれた男性に「二十九歳」というのは運命を分ける年齢なのである。―――なぜならこの世界は三十路まで童貞の男達は皆死んでしまうのだ。
いかにしてそのような法則が誕生したのか誰もわからない。人口低下による種の繁栄に協力できない人物を排除するために政府が意図的に遺伝子を操作しただとか、清い体が好きな神様が連れて行ってしまうだとか、オカルト的な説があるがどれもただの噂であり真実ではないだろう。
明日、光弘は三十歳になる。これまで恋人が居たことはないし、風俗の経験もない。そう、彼はこのままだと消えゆく定めにあるのだ。
まるで蝉のようだと光弘は自嘲した。長い間必死に生きてきたのに羽化をすると残りの寿命のカウントダウンが始まる。まさに蝉だ。彼が助かる方法はただ一つ。セックスをするだけである。
光弘はそれを理解している。助かる方法はセックスしかないことを知っている。恋人がいない光弘は風俗に行くしかないときちんと承知している。
しかし彼は風俗に行く気がなかった。お金がないから風俗に行かないのでは、と思う方がいらっしゃるかもしれないが、残念な事に給料は貯金ができるくらいしっかり貰っているし「二十九歳給付金」なる政府からの童貞卒業特別給付金だってある。
では何故行かないのか。理由は単純。セックスというものが未知の存在過ぎて恐ろしかったのだ。
本来であれば三十で死に行く男達がセックスをするだけで寿命が延びてしまう。身体のつくりを変えられてしまう。そんな科学的に解明されていない行動をするのが恐ろしくて恐ろしくて仕方がなかったのだ。
だからといって死ぬのも怖い。恐ろしいといえどこれからの未来の可能性が増える行為と、それをせず散っていく定めならば誰もが前者を選ぶだろう。
気がつけば我が子たちの絡み合いはいつの間にか終わり、お互いがもう知らない同士になっていた。雌には栄養をたっぷり取らせ、元気な次世代を産んで貰わなくてはならない。少し大きめにカットしたバナナをケースに入れ、物思いにふける。
「死にたくないけどセックスしたくない、怖い、でも死にたくない……」
どうすれば良いのだろうか。矛盾した恐怖の板挟みに光弘はなんて自分は情けないのだろうと涙を流した。
「なあに、大丈夫ですよ。セックスというやつは貴方が思うほど怖いものではありません」
突然背後に聞こえてきた声に光弘は振り返った。そこにはパンツスーツを格好良く着こなした美しい女性が一人、ビジネスバッグ片手にこちらを眺めている姿があった。
どこから入ってきたのだろうか。玄関にはきっちり鍵がしてあったし、チェーンまでしてあったはずだ。
「失礼、申し遅れました。私、政府から派遣された土御門、と申します。こちら名刺です。お受け取りください。
チャイムを鳴らしても開けてもらえませんでしたので大家さんご協力のもと開けてさせていただきました。……チェーンは壊れてしまいましたが、こちらで弁償いたしますので、どうかご安心くださいませ」
差し出された名刺を流れで受け取りながら彼女の思考を読んだかのような発言に光弘は目を見開いた。何故自分の考えている事が分かったのだろうか。何なんだ、誰なんだ、この女! 政府から派遣って何なんだ!
もしかして彼女は童貞を殺すために政府から派遣された存在なのではないか、自分は殺されてしまうのではないかと底知れぬマイナスの渦に頭が埋もれ押しつぶされそうになる。
「おやおや、光弘さん、秋川光弘さん、大丈夫ですか?」
がくがくと身体を震わせ、かみ合わせが合わない光弘に土御門は心配そうに言葉をかける。
「名刺、よくご覧いただけませんか? どうやらなにか勘違いをしているようです。
手元をよくご覧ください。そうすればきっと、貴方は安心してくださるはずです」
きょどきょどと彷徨う目をなんとか手元へやるとそこには―――
「有望人物救命課……?」
「ええ、そうです。貴方は政府に有望人物だと認められました。おめでとうございます。私は貴方を救うために参ったのです」
土御門はすっと鞄から一枚、コピー用紙を取り出すと光弘に手渡した。
「こちら、資料となります」
唖然と受け取ると資料に目を通す。有望人物救命課―――。平たく言うとこれから世界に影響を与えるであろう人間が三十路前に童貞を捨てていなかった場合、政府から派遣されるエージェント達の事であるとの内容が書き記されていた。二十九歳給付金の管理もこの課が担当であるそうだ。
「貴方は現在、絶滅危惧種であるカブトムシの生育に携わる重要人物です。貴方の書いた甲虫に関する論文も、世界的に話題になっていましたよね。それが評価されたのです」
ご理解、いただけましたでしょうか、と首を傾げる土御門に光弘は喉をきゅっと鳴らした。
「え、でも、なんで俺が童貞だって……」
一個人の、それも貞操なんてどうして政府が把握しているのか。そんなこと、不可能なはずだ。
「なあに、簡単ですよ。この国の人間は生まれたと同時に体内にマイクロチップを埋め込みデータを取っているのです。
毎年二十九歳になる人間の童貞かどうかのデータをコンピュータで自動的に検出し、二十九歳給付金の給付等行っています。
その中でも有望人物が二十九歳最後の日までに童貞を捨てていなかった場合、こうして私のような人間が派遣されるのです」
「マイクロチップだなんて……! そんな話聞いたことない!」
「当たり前ではありませんか。なぜなら国家機密でございますから。まあ、貴方の童貞卒業後、記憶の改ざんを行いますからご安心ください」
さて、と彼女は微笑むと服を脱ぎだしこう言ったのだった。
「さあ、童貞卒業の時間ですよ」