ヴィヴィアン・マイヤーの写真
最近、写真のコラージュをやっている。趣味でやっているので、自分の小説の表紙に使えればいいかなと思っていたのだが、結構溜まってきたので、インスタグラムなんか開設して、順番に出していくかもしれない。ちょっと思案中。
で、表題のヴィヴィアン・マイヤーという写真家に話を持っていくが、この人は、生前撮りためた写真を一切外部に公表しなかったらしい。死後に、フィルムを落札した人がネットにぼつぼつ写真を出していくうちに、「凄い写真家がいる!」となったそうだ。
ヴィヴィアン・マイヤー、ソール・ライターという二人の写真家を先日知って、二人共いたく気に入ったが、どっちも人嫌いの変人だった節がある。僕自身のパーソナリティもそこから、大体計られてしまう。
ヴィヴィアン・マイヤーの写真では、セルフ・ポートレートが気に入っている。彼女が自分をーーというか、写真を撮っている自分を撮りたいという欲求を持っていた事はすぐに分かる。その感覚は僕にも分かる気がするが、これはどう説明すればいいだろうか。
マイヤーは鏡とかガラスに映った自分を撮る場合が多いが、その場合、彼女はカメラを構えている。彼女は撮るものを撮る。撮っている自分を撮る。この時、彼女の中にある種のサディスティックな感情があって、それは「自分を他者として捉えたい」という欲望であるように思える。あるいは、自分を突き放し、ただ一つの形象物として自己を把握したいーー風景の一部として把握したい、そんな欲望を感じる。
もちろん、そう言っても写真の説明にはならない。もっと考える必要がある。マイヤーは自分を撮る時、常に無表情で虚無的な顔をしている。彼女は自分を「他者」として捉えているが、それは生活している人々から疎外された自己であると思う。世界から疎外された自己をもう一度世界の中に埋め直して自分の目で見てみる事ーーそういう本能が感じられる。
マイヤーのセルフ・ポートレートに、(おそらく)バスの中で撮った写真がある。乗客は皆、奥の方を向いて普通に座っているのだが、マイヤーだけがこちらを向いてカメラを構えている。マイヤーだけが反対方向を向き、カメラを撮るという非日常的な事をしている。他の人は普通の生活を送っていて、マイヤーは、一人だけ違う事をしている自分を人々と一緒にフィルムに収めている。
その写真を見て「これが芸術家だ」と僕は感じた。芸術家は生活から疎外される。人々の一般的生活にうまく入って行けず、そこから一歩離れた距離を取る。しかし、『だからこそ』芸術家は人々を映す事ができるのだ。人々そのものに埋没しないからこそ、人々を撮る事ができる。更にこの場合、マイヤーは自分自身を撮っているから、芸術家としての疎外された自己そのものも撮っている。撮っている自分を撮る事ーーそれは自己を一人の他者として確かめ、見てみたいという本能的な欲求だ。ではどうしてそんな欲望が現れるのか。これに関する答えは思いつかないが、あるタイプの人は「自己を認識したい」のだろう。彼はただ生きるというより、生きる事について知りたいのだ。
マイヤーのセルフ・ポートレートにはそういう本能のようなものを感じる。彼女の疎外感と孤独がフィルムに焼き付けられ、それを目の当たりにした時、彼女は何を感じただろう。自己を把握しえたという感覚だろうか。自己を征服した喜びだろうか。世界を撮る自分を撮る事、そうして撮られた自分を再び風景の中の一事物に還してやり、それをまた撮る事。彼女の写真世界はそれだけで充足している。僕らはそれを横からまたぎ見る。そこで、彼女の充足した世界に亀裂を入れる。始めて他者の視線が入り、写真は外部に開かれる。しかし、そうは言っても、僕らは撮る側ではなく、撮られる側だ…と考えた方が至当だろう。優れた写真家は世界を冷凍保存する。冷凍保存された魚レベルの我々が彼女の写真を褒め称えて果たして意味があるのだろうか?
……なんて想像を膨らませられるような所が、ヴィヴィアン・マイヤーの写真の優れた点だと思う。そこには硬質で冷厳としたものがある。それを僕らは僕らの視点で見るが、僕らは写真の側も僕ら自身を覗き込んでいる事を忘れてはならない。僕らは撮る側というより、撮られる側だ。撮られる側が撮る側のカメラを覗き込む。僕らは自分が世界を認識しているつもりで、実は世界の端にいるおかしな女からあるやり方で認識されているーーという風にマイヤーの写真はできている。マイヤーの目を通じて、僕はそこに自分自身を発見する事ができた。