コップ一杯の水
目が覚めると、俺は天国にいた。
「ここは・・・・・・?」
花が満開に咲く場所で、俺は呆然と立ち尽くすしかなかった。桃色、黄色、白、大小様々に匂い立っていた。花の種類など俺には分からない。足元を見下ろすと、真ん中が茶色く染まっている花や小粒のような白い花が力強く地面から伸びていた。再び前に視線を向けると、橋がかけられた小さな川があった。小さな川は、花畑を二つに分断していた。橋の向こう側ははっきりと見えるはずなのに、どうなっているのか判別できない。確かに分かるはずなのに、見えない。そのむず痒い感覚が、俺の首筋をぞわぞわと駆け巡る。花は余程良い環境で育っているのか、踏みながら歩いてもすぐにしゃんと立ち上がる。上空を見上げると、太陽はなく、ひたすら白い光が辺り全体を包んでいる。空そのものが太陽であるかのようだ。空は花と同様、明るい色で染められている。海ではなく、花の色を映しているのか。橋がかかっているところまで歩き、渡る一歩手前で立ち止まる。
ざあ、と風に煽られ、花弁が舞った。
俺は何故、ここにいるのだろう。
自分の生白く、柔らかな手に目を向け、手を握ったり開いたりしてみた。
生きている感じは、する。
しかし、俺は確かに死んでいるはずだった。
朝、静かに起き、風呂場に行った。浴槽に水を張る音がこぽこぽと聞こえた。蛇口から水が勢いよく吐き出される光景を、浴槽に溜まった水が波打つのを、ただ無心で見つめた。頭は酷くぼんやりとしていた。風呂場の小さな窓から、朝日が漏れ出す。きらきら、きらきらと、陽光に照らされて喜んだ水は、俺の視界を苛んだ。
「ごめん、ごめん」
そんなことを呟いていた気がする。死ぬ前の記憶は曖昧だ。包丁を持った右手が覚束なかった。
死ぬのが、怖かった。
それでも死ななければならなかった。胸のうちに蟠る絶望感がそうさせたのか。絶望感を持った自分の脳みそは、全く働いてはくれなかった。少なくとも、前向きな方向では。絶望はまた新たに絶望を生み出すだけだ。連鎖して起こるそれは、確実に俺を毒した。圧倒的な無力感に押しつぶされた俺の思考は、死という絶対的な力に屈服した。それしか考えられなくなった。俺の頭の中には「死ぬこと」、それだけが響いていた。
深呼吸をして、息を止めた。
唇を固く引き結び、包丁を握る手に力を込めた。左手首を狙って包丁の刃を振り下ろす。
ごっ
嘔吐してしまいそうな痛みが、肉ごと俺を引き裂いた。
皮膚を切り裂き、肉を切断した。びちっと蛆虫のような血が噴き出す。
ぶわり。虫みたいに湧き出た血。
腕をてらてらと濡らし、伝う赤は、浴槽に張った水溜りに溶けた。
力を失い、膝から崩れる。ざばん、と乱雑に腕が水に浸かった。透き通った水に赤が染み渡る。俺はその光景をぼんやりと見ていた。まるで他人事のようだった。
痛かった。そして悲しかった。こんな結末しか選べない自分が、痛々しかった。
視界も霞み、猛烈な眠気が襲う。水の中で靄のように揺らめく血が眩しい。
自分は死んでしまうんだろうな、と思った。どうにもならない人生だった。最悪な人生だった。こんな自分とさよならできるのであれば、本望だった。
ただ一つ、未練があるとすれば。
――母さん。
真っ暗な視界の中、母さんの悲鳴が遠くで聞こえた気がした。
そうだ。俺は確かに死んだはずだった。
ちろちろと流れる小川を眺め、俺は呆然と立ち尽くす他なかった。何故俺はこんなところにいるんだ。何故俺は生きているんだ。
橋はまだ一歩も渡っていない。この橋を渡るか、渡らざるべきか。
渡れば何かが分かるかもしれない。向こう側に、人がいるのかもしれなかった。橋の向こう側は見えるはずなのに、やはり見えない。見えないもどかしさが、たまらなく嫌だった。
覚悟を決めて橋を渡るべきだろう。一歩足を踏み出そうとした。その時。
「おーい! そこの若人!」
背後から、声がかかった。
「!」
驚いて後ろを振り返ると、そこには皺が幾箇所にも深く刻まれた老人がいた。
頭はうっすらと白髪が生えている程度だった。人懐っこい笑みを浮かべ、老人がこちらへ向かってくる。
「新しい人かえ?」
「え? いや・・・・・・」
新しい人とは、どういうことなのだろう。俺は動揺した。この場所がどんなところなのか知らない俺は迷うことしかできない。
「俺・・・・・・ここのこと何も知らなくて」
「ほお、そうかい。まあまあ、こっちに来て座りなさい」
老人が指した先には、さっきまで見当たらなかった木製のベンチがあった。花畑の真ん中に、ぽつんと寂しそうにベンチは存在している。何故だ。先程まではなかったのに。驚いている俺を差し置いて、老人はベンチへ向かう。俺は何がなんだか分からず、老人の後についていくしかなかった。
まず老人が座った。満足そうに笑みを浮かべる老人に倣い、自分も座る。ベンチは軋みもせず、どっしりと自分を支えてくれる。
俺はベンチに座りあくびをしている老人に尋ねてみることにした。
「おいじいさん・・・・・・ここは一体なんなんだ?」
「ほっほっほっ。あんたはどこだと思うかねえ?」
答えははぐらかされてしまい、溜め息をつく。ここは一体どこなのだろう。自分なりに考えてみる。
「・・・・・・三途の川?」
「ほっほっほっ。そうかもしれんのお」
老人は相変わらず答えになっていない返答をする。
いつの間に手に持っていたのか、老人はコップ一杯の水を俺の前に差し出す。その水は一体どこから現れたんだ。ここは不可思議な事象が多すぎる。
「飲むかい?」
「いや・・・・・・そういう気分じゃない」
結局ここがどこなのか分からず、もやもやと胸の内で蟠っている。そんな気分で、何かを口に運ぶのは躊躇われた。
「そうかそうか」
老人は俺に差し出した水を自分で飲んだ。ごくっごくっと飲みっぷりのいい、喉が鳴る音が聞こえる。水はほどよく冷たそうだった。透き通った水がガラスのコップに反射してきらめく。
「あんたはなんで死んだのかえ?」
老人に突然そう聞かれた。俺は息を詰めた。それを聞かれるということは、ここは死後の世界なのではないか。
俺は頭を必死に回転させ、答えを探した。
「うーん。よくわかんねえや。ただ死ななきゃいけないと思った」
「何事も理由があるものよ。若人よ」
「理由があるとすれば、俺が病気になったってことかな。多分それがきっかけだ」
俺は昔から人とうまく接することができない人間だった。混沌とした社会情勢に呆れ、うまくいかない人間関係に辟易した。小学生の頃は一人でいることが多かった。中学生になると人に無視されたり露骨に体をぶつけられたりした。俺はあまり気にしなかった。高校ではそれなりに人間関係を築いたが、やはり一人で行動することが多かった。寂しかったが、俺を一人で育ててくれた母に弱音なんて言えなかった。大学ではこれまでの反省を活かし、良好な人間関係を作った、と思っている。しかし、人に気を配りすぎて自分が病んでしまった。頑張っていたのだ。自分なりに。だがうまくいかなかった。人の目が怖かった。苦しかった。親に迷惑をかけるわけにもいかず、誰にも相談できなかった。気がつくと外に出られなくなり、一人暮らしをしていた部屋で泣き喚いた。そんな日がずっと続いた。そんなある日、母が突然来た。母は頬を涙で濡らしながら俺を抱き締めた。
「帰ろう」母は言った。精神を病んだ俺は大学を休学し、家で療養することにした。頭がぼんやりする。何せあの頃の記憶はあまり思い出せないのだ。
家に帰ってからも贖罪の日々は続いた。精神を病み、大学を休学したのは自分にとっては許されがたい罪だった。母がせっかく頑張って俺を大学に行かせてくれたのに、俺は、俺は何をしているんだ。体は重く動かない。ベッドに引きこもってずっと泣いていた。死にたかった。母に迷惑をかけた。俺は完璧な人間でありたかった。そうすれば母を助けられると思った。女手一つで俺を育ててくれた母。俺はいつか大人になり、自立して、母の生活を手助けしたかった。なのになんだこの様は。俺は自分に呆れた。休学すれば就職活動が不利になる。病気を持てば社会的に自立することは難しい。もう最悪だ。何も価値もない自分は死んでしまえと思っていた。気持ちに歯止めがきかなかった。俺は毎日泣いて、毎日自分を責めた。責めて責めて責めて責め続けた。こんなやつ死ねばよかったのに。なんで生きているんだ。なんで。
そうした想いを抱いて、俺は死んだのだった。
そういえば。気づいた。この場所に来てから、自分の精神は今までにないほど穏やかだった。静かな水面のようだった。
「そうか・・・・・・苦しい想いをしてきたんじゃなあ」
「苦しい想いをしてきたのは俺じゃない・・・・・・母さんだ」
それでも母のことを考えると胸がざわついた。父が亡くなってから女手一つで俺を育ててきた母。しかし俺は自立する一歩手前で病気になり、母に頼らざるを得なくなってしまった。病気持ちの大きな子どもを抱えてしまった母。自分なんかより母のほうがかわいそうだった。
「給料も低いのにでかい子どもは病気になって、結局ずっと働きづめさ。俺なんかより母さんのほうがずっと辛い」
「ほっほっほっ。お母さん思いなんじゃなあ」
「やめてくれ。・・・・・・俺は母さんに何もしてやれなかったんだから」
最後は尻すぼみになった。自分の足元をぼんやりと眺める。ああ、本当に自分は駄目なやつだ。
そんな俺に老人は笑いかける。何がそんなに楽しいのか。
「ところで若人よ、あんたは少し変わっとるなあ」
「・・・・・・何がだ?」
「口調が男のようだ」
俺ははっとして顔を上げた。しまった。老人相手に、いつもの口調で話してしまっていた。大人は性別と合致していない口調を嫌う。この老人も訝しんだだろう。俺は慌てて謝罪した。
「す、すまない。つい癖で」
「いやいやいいんじゃよ。それも一興。個性があって何よりじゃ」
ほっほっほっと笑う老人を見て、俺は胸を撫で下ろした。どうやら彼は俺の口調と性別が一致していなくても気にしないらしい。俺の姿は女としては着飾らず、黒いシャツにジーンズという簡素な格好をしている。髪の毛も短く、見目を気にしない性の俺は、「女」とは程遠い位置にいるのだろうが、体躯の細さは女のものだった。
男になりたい、と思ったこともあった。強靭な体格に高い背丈は憧れだった。
俺は息をほう、と吐いた。ありし日の自分に想いを馳せる。
「・・・・・・俺は、父親の代わりになりたかったんだろうな」
「ほお」
「逞しい男になって母さんを助けてやりたかった」
母を守れないことが悔しかった。そんな自分に嫌気が差した。そんな毎日を、ずっと繰り返していた。
生きていた頃の自分を見るように、橋の向こう側を見つめた。橋の向こうは見えているはずなのだが、薄く霞みがかかっているようで、やはり把握できなかった。
「なあ、じいさん」
「なんだ?」
「橋の向こう側には何があるんだ?」
老人は「そうじゃなあ・・・・・・」と呟き、自分の顎を撫で擦る。
「向こうにはな、「苦しみ」がないのじゃ」
「苦しみ?」
「そう。全ての人間は向こう側に行くと苦しみから解き放たれる。辛かった思い出や自分の抱えていた悩みなんかが、ぱっ、となくなるんじゃ。なかなかいいぞ」
「そうか・・・・・・」
そんなことが本当にありうるのだろうか。そうだとしたら、どれだけ気分がいいのだろう。忘れたい思い出も、捨てたい想いも、俺にはたくさんあった。
「さて、行くかのう」
ふと、老人がベンチから腰をあげた。俺もつられて立ち上がる。
「どこに行くんだ?」
「どこって、勿論、橋の向こう側じゃよ。あんたも行くじゃろ?」
「あ、ああ・・・・・・」
俺はどこに行けばいいのか分からなかった。橋の向こう側に行けば何かが分かるかもしれない。その思いでそう答えた。
草花を足でかき分け、再び橋の前に立った。これでいいのだ。多分。橋の向こう側に行くことが、正しい道なのだ。それでも胸の内に燻る不安は解けなかった。
母さん。俺は駄目な子だったよ。
橋を渡ろうとした瞬間、後ろから声が聞こえた。
・・・・・・・・・・・・!
「?」
誰かに呼ばれたような気がして、後ろを振り返った。どこかで聞いたことのある声だった。その声は確かに俺を呼んでいた。
耳を澄まし、声を聞く。どうやら女性のようだった。声の持ち主は姿を見せず、花が咲き乱れているだけだった。しかし声は花畑の向こうから聞こえてくるのだ。
・・・・・・私を・・・・・・で・・・・・・!
俺はその声を知っていた。毎日のように聞いている声だった。その声を聞くと、とても安心するのだ。
・・・・・・私をおいていかないで!
「・・・・・・母さん」
それは母の声だった。
母さん、俺が母さんをおいていくわけないじゃないか。
「わりい、じいさん、先に行っててくれ」
「何故じゃ?」
「母さんを連れてくる。母さんを一人にするわけにはいかない」
老人は柔らかく笑み、諭すように言う。
「ほっほっほっ。母さんは多分ここにはこれまいよ」
「なら俺が向こうに行くだけだ」
自分でも驚くほど意志の満ちた声が喉から零れた。少しだけ気恥ずかしくなり、老人から視線をそらす。それでも老人は俺を真っ直ぐ見ていた。
「そうか。じゃあここでお別れじゃな」
老人はしわがれた声で俺に告げた。
俺は一度だけお辞儀をする。
「世話になった」
そうして俺は橋の反対側へ踵を返した。自分が歩いてきた花道へ足を向ける。
思わず足早になり、花は俺が進むたびにからからと音を立てて揺れる。花の香りが、ざあ、と風になって俺の体を横切っていった。風は橋の向こう側へ流れていたが、俺はそれに逆らって歩いた。どんどん橋と自分の距離は開いていく。母の声に導かれるまま、俺は一心不乱に歩き続けた。
「精一杯親孝行しなさい」
後ろから老人の声が聞こえたが、俺はもう振り返らなかった。
目を開くと、白が視界に広がった。
目の前が白い。ぼんやりと霞む視界の中、母の声が耳に届いた。
「・・・・・・! ・・・・・・!」
俺の名前を繰り返す母の手を、どうにか握り返す。すると急激に視界が冴え渡り、はっきりと認識できるようになった。
俺の目に飛び込んできたのは、白い天井だった。病院の中なのだろうか。独特な薬の匂いがした。
「母・・・・・・さん?」
視界を右にずらすと、よく見知っている顔が見えた。白い目元に隈がくっきりと出ている、中年の女性。ところどころ薄い皺が見え始めていて、苦労をしてきたことを覗わせた。その人は涙をぼろぼろと流し、俺の首にしがみついてくる。
ああ、この人も歳をとったな。
俺の首元で嗚咽を漏らす母の声を聞いて、俺はそう思った。
病院を退院した夏、俺は母と一緒に祖母の家に向かった。伝統的な日本家屋が、祖母の性格を感じさせる。優しく穏やかな木の匂い。それでいて几帳面に掃除されている。祖母はきっとこの家が好きなのだ。
住宅街の隅にあるこの家は、周囲の家と比べても一世代、二世代ほど前のものだ。庭先には小さな縁側があり、風通しが良い。
「いらっしゃい。二人とも」
皺が深く刻まれた顔をくしゃりと丸めて、祖母は俺と母を歓迎した。
通された部屋は、畳の匂いが薫る場所だった。部屋の隅に仏壇がある。祖母は穏やかな声色で俺たちに言った。
「ああ、ひいおじいちゃんたちに挨拶してちょうだい」
母と俺は線香をたて、仏壇の前で手を合わせた。目を開けると、写真立てに入った人物の顔が目に入る。皺の濃い老人が、優しげに笑っていた。
俺は目を見開く。この人は。
「この人・・・・・・」
「その人かい? その人はあなたのひいおじいちゃんだよ」
写真の中にいる人物は、俺があの花畑で出会った老人だった。
俺は驚いて声を失った。その様子に祖母が気づいたのか、俺に話しかけてくる。
「どうしたの? 何かあったのかい?」
祖母に尋ねられ、俺はあの花畑での出来事を話そうかどうか悩んだ。しかし秘密にしておく理由もない。俺は潔く母と祖母に話すことにした。祖母が麦茶を持ってきた。薄茶色に輝く液体は、老人が俺に差し出してきた水とよく似ていた。光がコップと麦茶に反射して、きらめきが彩られる。麦茶の中で揺れる光が、しとりとコップの底に落ちていった。
話し終えると、母は口を噤み、祖母はほお、と感嘆の息を吐いた。そして祖母は口を開いた。
「ひいおじいちゃん、あなたのことが心配だったのねえ」
祖母が麦茶の入ったコップに口をつけ、続ける。
「それにしてもまだ水を飲んでいたのねえ」
「? どういうことだ?」
祖母は一言一言思い出すように、ゆっくりとした口調で言った。
「ひいおじいちゃんはね、生前、朝にコップ一杯分の水を飲むのを習慣にしていたのよ」
祖母は柔らかく笑う。
「体がね、綺麗になるような気がするんですって。きっとあなたにもそれを知ってもらいたかったのね」
俺は納得した。一口くらいあの老人が差し出した水を飲んでもよかったのかもしれない。自殺まで追い込まれた俺の心を、清めようとしてくれたのだろうか。しかしあの水を飲めば、俺はあの橋を渡っていたのかもしれなかった。きっとあの橋はあの世とこの世を繋ぐものだったのだろう。と勝手に推測している。
「三途の川って本当にあるんだなあ」
俺はそう呟きながら麦茶を口に運んだ。冷えた液体が身に染み渡った。
本格的な夏の暑さが、そろそろやってくる。
なんだか水が飲みたい気分だなあ。透き通った麦茶を眺め、あの花畑で出会った老人を思い出していた。