唐突過ぎた始まり
何も無い、と形容するべき場所だった。
見覚えのある風景は一つも無く、見覚えのある物体も何一つ無い。
真っ暗というわけでも明る過ぎるというわけでも無く、色彩も白一色の空間には現実味が無い。
どうしてこんな場所に? と問いを出しても、返してくれる相手がいない以上は自問自答になってしまい、前後の状況の接合性だって定かになっていない状況。
だが、そういった全ての事情を全て認識した上で、何故か生まれたままな状態な姿の焔埜篝は至極真っ当な疑問を無視してこう叫んでいた。
「おおおおおい!! これはアレですか寝落ちって奴ですか!? 待ってよ今俺携帯ゲームそれも戦略シチュエーション的なのをやってたはずなんですけどォォォォ!?」
ゲームに夢中になって睡眠を押し殺そうとした男の末路的な声が響く。
実際の所、前後の状況に関する情報が曖昧になっているのだが、非現実的と思えなくも無い問題だろうが何だろうが、篝からすればまずはプレイ中の(安全措置機能無しな)ゲームの方を重要視しなければならないのだった!!
(というか本当にここは何処なんだ。夢の中にしては本当に何も無さすぎないか? 最低限何かの風景とか、見たくはないけど悪夢系の映像とかが投影されてても不思議じゃねぇのに)
普通に考えても、こんな訳の分からない風景と出来事など言ってしまえば『夢の中』としか思えない。
彼からすれば一刻も早く眠りから覚めて、絶賛徹夜中なゲームの安否を確かめたい所なのだが、試しに頬を抓ってみても状況に変化は訪れない。
もし、本当に眠りに就いているのならばそもそも夢を見る事も無いはずなのだが、それにしたって此処は本当に夢の中なのだろうか。
そもそも、この空間には地面や重力と呼べるような物が無く、篝の体はただ無意味に浮いている状態だったりする。
要するに、ここが『何処か』であろうが、彼が自分の体を動かして現状を脱する事は出来ないのだ。
疑問が疑問を生み、少しずつ不安を呼び込んでいく。
「おい……これはまさかアレか? 実は俺はもう死んでいて、これから魂はあの世に向かって転生を果たします的なアレか? やだやだ~っ!! 俺まだ現世にやり残した事とか山積してんだよ!! それがこんな、こんな、何かリアクションに困る死因なんて嫌だってば~っ!!」
世の理不尽に本気で泣きが入った直後だった。
全てが白色に染まった空間に、薄い黒色の光を放つ何かが現れたのだ。
そのシルエットを篝には視認する事が出来ず、夜中の提灯のような物としか認識が出来ない。
変化があった事は収穫だったのだが、これだけではどうしようも無い。
せめてもの可能性としては、視界に映っている『それ』と意志の疎通が出来るかどうか、なので。
「おい、こんな所に俺を連れ込んだのはお前なのか? それとも同じ境遇の別人か?」
これが自分自身の夢であるのなら『相手』など居ないはずなので、篝は半信半疑どころか全体的に疑った言葉を放っていた。
率直に言って返事に期待もしていなかったのだが、
『……連れ込んだというか、ここはそもそも夢の世界なんかじゃないよ。深層心理ってやつ』
不思議な事に、明らかな返答が返って来た。
それ自体も自分自身の妄想が生み出した幻覚かと思ったが、言葉の内容を鑑みてもそうは思えなかった。
そして、その返答を皮切りに『そいつ』は次々と言葉を解して来る。
『やっぱり、僕の声を認識出来るって事は素質があるんだね。良かった……もう誰も気付いてくれないものかと不安だったよ』
「一人で納得してないで説明してくれよ。深層心理だと? それじゃあお前は何なんだ。まさか霊的なヤツなのか? 俺って憑かれてるのか文字通り?」
『合っているような合ってないような……まぁ、そう認識してもらっても構わないよ。僕としてはこうして声を聞き取ってくれてるだけでも良かったと思ってるし』
「だからそっちだけ納得してても俺は納得出来てないんだっての。小難しい問答は省いて事実だけを説明しろって!! 俺、ただでさえ問題が差し迫っている身の上なんだから!!」
この状況を作り出したのが『そいつ』の仕業なのだとしたら、無駄な問答は省いて必要な事項のみを述べてもらいたいというのが篝の考えだったのだが、どうにも話題が進んでいないような気がしてならない。
新手の中二マインドの持ち主か? と篝は疑心を更に募らせるが、一方で相手の方はふざけている様子でも無いようで。
『う~ん……ある程度事情を説明してからの方がいいと思うんだけど、そう言うんだったら仕方ないか。こっちとしてもあんまり時間取りたくないし』
そこまで言うと共に、黒い光を放つ――というよりは覆っている『そいつ』のシルエットが、イヌや狼を想起させるイヌ科の動物らしきものになっていく。
相手の体が変化しているのではなく、自分自身が『それ』の形や姿をどんどん認識出来るようになっている、と篝は考える。
実際にその考えは間違っていなかった。
だが、考えている間に、目の前のシルエットに明らかなイレギュラーが混じりだした。
それは、翼だった。
外側は黒に染まっている一方で、内側は白い――まるで天使と墜天使の物を混ぜ合わせたかのような、モノクロとも言っていい色彩を伴ったもの。
そして、その翼が浮かび上がった頃には、それが生えている根本的な体の方が見えだして、全体像が明らかになっていた。
篝は、思わずといった調子で言った。
「翼の生えた……犬!?」
『犬って……まぁ犬なんだけど。これでも、君達人間が言う神様みたいな存在なんだよ? 全知全能なんてふざけたスキルを持ってるわけじゃないけどさ』
「なっ」
もう、驚くぐらいしか篝には出来なかった。
神様? あの、信仰の対象にされていたり、死んだ人間の魂を指定した別世界に転生させる役割を担っていたり、時には世界を滅ぼそうぜ的なバイオレンスを生み出す、あの神様!?
その声に奢っているような印象も浮かばず、何より当たり前の事実を告げるかのように言ってきているため、むしろそれを否定しようとする事が出来ない。
「ちょっと待ってくれ。待って!! 本当にお前が神様なら、やっぱりアレなのか。俺はもう死んでいて、これから俗に言う転生を果たすってのか!? 何故か全裸になってたりする所とかもう危険な空気しか感じないし!!」
『だから天国地獄のどっちでも無いって言ってんでしょ。まぁ、そんな風に考えてしまう理由が分からないわけでも無いんだけどさ? そもそも転生する時って、自我とかそういう「一からやり直すのに余計な物」は全部デリートされるのが普通だし、こうして明確な自我を持った状態って時点でも怪しむべきだと僕は思うんだけどなぁ』
「え、そういうもんなの? 二次創作で言う神様転生とか、大体8割以上が『前世の記憶』とかを維持したままだし、それどころか反則的な能力を持って赤ん坊生活からリスタートしてる場合だってあるんだけど……」
『それも含めて「あの世」の存在とか、全部人間が勝手に妄想して作り上げた概念でしかないでしょ。実際はどうなのかとかは分かってない上、学術的な価値は無いはずなのにそれを真実として幾年も伝えられ続けた結果として生まれただけのもの。人間って凄いよね、ちょっと頭が良いだけで現世の概念さえも無意識に生み出しているんだから』
自分どころか人類全体でも理解は出来ず、あくまでも『そう信じているだけ』の物の事をあっさりと口に出来るこの犬は、少なくとも現実に存在しているような者では無いと篝は思った。
少なくとも、このような『物語でしか出てこなさそうな』知的生命体が現存しているのであれば、あっと言う間に世界へ何らかの影響を与える事だって出来得るはずだろう。
何となく、根拠も無いが、それでもそう思えた。
『さっきも言ったはずだけど、ここは君自身の深層心理。まぁ、さっき言った「あの世」の事も視野に入れたら、魂と魂が直接対話を行える空間……って所かな』
「……どうして、そんな奴が俺なんかの所に?」
『その理由は話してる暇も無い。個神的な事情があるとだけは言っておくけど、目的としては……』
そして、その黒い犬は言葉をもってその存在の大きさを指し示すかのように、こう言ったのだ。
『……ちょっと、これから君達で言う「異世界」に行ってくれるかな? 答えも聞かずに飛ばすつもりなんだけど、一応聞いておきたいんだ』
「………………は?」
もう、思考はオーバーロード寸前だった。
唐突に現れたこの黒い犬は、焔埜篝に対して『異世界』に飛べ、と言った。
その言葉が指し示す意味と、これから起こり得る出来事は?
考えるに、
「お、おい!? まさか冗談だよな、いくら何でも唐突過ぎる!! 駄目に決まってんだろ!!」
『……まぁ、そう言うと思ってたんだけど』
「神様だからって横暴すぎんだろ、何より『こっちの世界』に居る家族とかにはどう説明するんだ!?」
『そこは安心して。無事にいけば、元通りの生活に戻れるから』
「安心出来るか!! そもそもお前の言う『異世界』ってどういう世界!? あ、ちょ、何か体が透け初めてきたんだけど!? 何か俺に言う事は無いの神様!?」
『グッドラック!!』
「これ以上も無いぐらいにうぜぇ!?」
その言葉を最後に篝の体は空間上から本当に消え去った。
この分だと、現実世界でも物理法則を無視して彼の肉体は目的の世界へと『転移』している事だろう、と黒い犬は判断していた。
そして、浅く溜め息を吐くと、自分以外に誰もいない空間の中でこう呟いた。
『……ごめんね』
それだけだった。
神様を自称する黒い犬は、やがてその雄雄しき翼を広げると虚空に向けて飛び立ち、そして見えなくなった。
そして、見渡す限りの緑が覆い尽くす環境に放り込まれた焔埜篝は、世の理不尽さに軽く神々を滅ぼしてやりたくなりながら叫んでいた。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおい!? マジでモノホンの異世界トリップかよ!? まずいよ~家族とか自室とか受験とか色々ほったらかしになっちゃうよ~!! もう今更ゲームの事はどうこう言わんから早く帰してくれ~っ!!」
そうは言っても、都合よく世界線を越えさせてくれるほど世界の理さんも優しくは無い。
まずは現状から危険を脱するために地理の情報を手に入れるべきだが、そもそも身支度も何も無い――それこそ携帯電話も地図も食料も無い、そんな状況では優先するべき事項が多すぎる。
こうして、ただの高校生には荷が重い状況から、異世界での一日が始った。