悲劇的な幕開け
赤い部屋。
笑う赤い男。ただ、顔が見えないので、雰囲気と髪型などからの想像だが。
壁も、天井も、床も、全てが赤い部屋に、俺は立っていた。
台所の床に倒れる四肢のない母。リビングのソファに座っていたが、蹴落とされ床に無様に倒れる下半身しかない父。廊下に倒れている顔や爪を剥がれた妹。多種多様な場所に倒れていて、そのどれもが何処か恨めしそうな顔をしていた。何故、俺だけが生き延びてしまったんだろう。
「あ、まだいたみたぁーい。」
男の顔が、こちらに向いた。愉しげに笑うが、こちらにとっては心臓に悪いことこの上ない。
逃げ出したいのに、足が鋤くんで動かない。
動け、動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動けよッ!!!
ただ、警戒した体勢のまま、冷や汗を流すことしか出来ない。何故か、分からないが、ひやっとした空気がしつこく俺にまとわりつく。冷たい手に、首を絞められているような錯覚を引き起こしそうなほどに。
「逃がさないでよ。」
突然背後に現れた女に驚いて、女の方を向いて尻餅をついてしまう。女の顔を隠すように張られていた白紙に書かれていたのは、
『嘘』の、一文字だった。
「分かってるってばぁ。長ったらしい説教は俺も嫌だもん。」
すぐ上から声が聞こえ、見上げてみるとあの男が立っていた。先ほどは見えなかった男の文字が、今、見えてしまった。『快楽』。こちらとしては、嫌な予感しかしない文字だ。さらに、紙の下に見えた口元には、綺麗な弧が描かれていた。僅かに見えた歯はどれも鋭く、肉食獣の肉を噛みきることに特化した犬歯を彷彿とさせる。
「巻き添えになっているボクの身にもなってほしいんだけどね。」
女は、呆れ混じりにそう告げるが、男の顔に反省の色はない。逃げたい俺としては、このまま喧嘩か何かしてほしいんだが。ただ、何処かで察していた。この二人はその程度のことで、喧嘩などしない。そんな雰囲気がある。永年連れ添ってきた夫婦のような、そんな雰囲気。
唐突に、俺の家の電話が鳴った。助かったと思ったのに、それに対し戸惑った様子もない女が平然と受話器を取ると、二つ三つ何かを話し、受話器を置くと此方を見た。
「あと、十五分後に警察が来る。」
まるで、面倒くさいとでも言うような言い草だ。そして、真っ赤な壁に凭れる。汚れるのではと思ったが、女の服は細身の体に似合う黒いスーツなので、血液が目立たないのだろう。
不意に、男に腕を掴まれた。そして、無理矢理立たせられる。目の前には、男がいる。何となく、その紙の下で男が笑っているのだろうと思った。
「右と、左。どっちがいい?」
「は…?」
男に掴まれていた右腕を、肘で叩き折られた。鈍い音が聞こえ、すぐに激痛が走る。悶えながら、その場に膝をつくと、クスクスと男が笑った。まるで、俺がつまらないジョークでも言ったかのように。
「いたァい?しょーねんっ。」
目の前が、涙で滲む。何も言えずに、ただただ口を開けて無様に「あ」という言葉を繰り返す。痛みに悶えていると、不意に、ぽんぽん、と男に頭を撫でられた。先ほどの行動とは全く正反対で、場違いな行動に、俺は一瞬痛みを忘れて戸惑ってしまった。すぐに痛みはぶり返したが。だが、男はそんな俺に構うことなく、笑いながら人の頭を撫で回す。
「どうやって死にたぁい?俺、やっさしいから希望通りに死なせてあげるよぉ?」
恐怖に、口がガタガタと震え出す。絶対的な捕食者を前にした弱者には、もう食われる運命しか残されていない。もう、痛いのは嫌だ。家族のようには、なりたくない。苦しみたくは、ない。でも、生きていたい。あぁ、俺は、どうしたら、
そんな疑問の答えを出す前に、俺の口は勝手に答えを出した。
「一思いにっ、殺してくれ…っ!!」
にんまりと、男が笑ったのが分かった。
「うんっ。いいよぉ。」
そんな軽い声が聞こえたかと思えば、俺は黒に飲み込まれた。