さくらへんげ
抱きしめられているはずの体が冷えていく。
風を感じるわけでもなく、鉄之介の熱すら感じなくなっていた。
ただ辛うじて彼の力強い鼓動と、私の体を包む腕の力は、まだ感じられる。それと同時に、今までのここでの月日の中の出来事が、頭と心を駆け巡り、冷える体を冴えさせる。
「寒いんですか? 震えている。俺を見て下さい、目を逸らさないで! この時代の最後の瞬間は、俺だけで埋めて欲しい。」
鉄之介の瞳を見つめ、返事の代わりにゆっくり目を閉じ、開いた。
慶応四年・明治元年(1868年) 四月一日
私はきっと忘れない。
まっすぐ前を向き、最後の瞬間まで武士であり続けようとしたあの人達は、その数を減らしながらも北へと進む。
この四月、近藤さんはその北の大地を踏むことなく処刑される。
それはおそらく、あの人の心に深い悲しみの影を落とすだろう。
もう、私はその心を抱きしめてはあげられない。
鉄之介は少しずつ透けていく私の体を抱いたまま、何を思っていたのだろう。
(俺の腕の中で消えていこうとしている愛する人、その心の中のほんの片隅にでも俺は存在できているのだろうか・・・)
鉄之介の想いが聞こえるわけもないのに、私は声にしていた。
「あなたは私の心の中にずっといる・・・」
「今なんて・・・」
見上げる潤んだ私の瞳を、包み込む力強い彼の瞳。
その時だった、
「ふみぃゃ〜!」
黒猫が走り横切った。
私達は同時にそちらに目を向けた。
「つ、月子さん!」
「鉄之介さ・・・」
その瞬間、彼女の姿は消えていた、スーツケースとともに。
覚悟していたはずなのに、おそらくは今日この時、この場所が最後だと、しかし、熱い想いは消えない。
まだこの腕の中、残る温もりが、間違いなく彼女がここにいた証しだ。
そしてそっと右手を懐に入れ手拭いを出した、両手でその手拭いをゆっくり広げると、キラリと光る小さな輝き。
「月子さん怒るかな・・?」
あの日、月子さんの耳からとり土方さんが持ち帰った物と同じ物、ひとつは先に俺が大門で拾っていた。拾った時はなんなのか分からなかったけど、彼女の片方の耳に同じ物があり、尋ねる前にそれを土方さんが持っていったから、そのまま持っていた。
苦笑しながら手拭いを握りしめた。
「ハハハ・・笑えるな、この輝きが俺の手の中に残ったということは、きっと、土方さんの手の中にも残ってるはず。」
俺と土方さんの心の中に、この輝き以上の光りが残っている、おそらくそれは決して消えない。
同じ頃、遠く馬上の土方も想っていた。
俺の名を呼ぶおまえの声が耳から離れない。目の前にいるはずだったのに、どこか幻を見ているような錯覚をしてしまった。いや、錯覚じゃないのか・・・月子、おまえはどこから来て、どこへ帰る?
そっと懐に手をやった、あの日、取り上げた小さな輝き。
「持ったまま来ちまった、あいつ怒ってるだろうな・・・」
ひとり苦笑していた。
「どうだ? まだ眠ったまんまか?」
小さくノックして、すぐにドアを開け入ってきた俊三は、目の前に座りベッドを見つめる哲哉に聞いた。
「ああ、まだ目覚めない。」
振り返ることなく答えた哲哉の横に、片手で丸椅子を置くと、カタリと腰掛け俊三も同じようにベッドを見つめた。
体の打撲傷と頭もぶつけていたが、幸い骨折や内臓の損傷はなく、検査結果で脳波の異常もなかった。
あの日からもう4週間、打撲傷もかなり癒えてきていた、それなのに意識が戻らない、ずっと眠り続けている。
「月子、早く目ぇ醒ませ! おまえの休みは1週間だぞ!」
「俺達が一緒にいながらこんなことになって・・仕事休んだって構わない! あのキラキラした瞳で見つめて欲しい・・・」
「哲哉・・」
ふたりの声は届いているのだろうか? つながれた点滴が、規則正しく薬滴の雫を落としていた。
トントンと、また小さなノックの音がした。
静かにドアが開くと、上品な着物姿のミユキママが入ってきて、ふたりの後ろ姿にいきなりクスリと笑った。
「おふたりの仕事場はいつからここに・・?」
振り返った俊三と哲哉は互いの顔を見て苦笑した。
「ママもほとんど毎日来てるじゃねえか・・」
俊三が言うと、
「あら? 皆勤ではないですよ。」
微笑みながら答える。
「俺だって来れる時しか・・」
「ごめんなさい。皆勤賞を差し上げなきゃいけないのは、幸田社長にでした。」
「マジか! 哲哉!」
バツが悪そうに視線を逸らした彼を見てから、ママはさらに苦笑し、
「菱田社長も、窓の下から毎日お見舞い下さりありがとうございます。」
「マジで!」
哲哉の声に、今度は目を逸らしたのは俊三だった。
「気づいてたのかよ・・」
「あんな派手なお車、私でも覚えております。」
そう言いながらミユキママは、ベッドの脇に歩み寄った。
「こんな素敵なナイトがふたり、あなたを待っているのよ。早く戻ってらっしゃい。」
(戻る・・・?)
ママの言葉にふたりは同時に思った。
目を醒ませではなく、戻れ? ふたりはミユキママの言葉が不思議だった。
そんなふたりを気にすることもなく、ママは月子の顔を覗き込みそっと髪を撫でる。
その時だった、ミユキママの髪から挿されていた柘植のかんざしが、眠り続ける月子の枕の上にポトリと落ちた。窓から射す陽の光りに、柘植で出来ているはずのかんざしが光ったように見えたのは、気のせいか? 俊三と哲哉は同じことを思う。
「んんっ・・・」
眠り続けていた月子が微かに動いた。
「月子!」
「月子・・・」
大きな瞳がゆっくり静かに開いていく。
眩しさに何度も瞬きし、彼女は自分を覗き込む瞬きもしない6つの瞳を順に見つめた。
「月子! 俺達が分かるか!」
「俺、先生を呼んできます!」
転がるように病室を飛び出す哲哉、ナースコールを何回も押し続ける俊三、そっと目頭を押さえるミユキママ、そんな3人を、生まれたての赤ちゃんのような目で追い、見つめる月子。またたく間に静かだった部屋は人でざわめいた。
目醒めてから1週間、あの日から1ヶ月を過ぎていた。
「明日はやっと退院ね。あのふたり、どちらが車を出すかで揉めてたわよ。」
少ない荷物をまとめながら苦笑し、ミユキママは話す。
私は目を醒ました、いや、戻ったのだ。
すべての記憶を携えて、5年の月日は、たった1ヶ月に変化していた。
それとも、本当は夢物語を見続けていたのだろうか?
確かめたかった、確かめなければならない。
私の存在は、今を変えたりはしていないのだろうか?
何より、今目の前にいるミユキママの存在は、もしかしたら、私につながっていたんじゃないのか?
「ママ・・・」
「何? 気分でも悪い?」
私は小さく首を横に振った。
「私がおかしなことを言っても、最後まで聞いてね。自分でも確信が持てないの・・」
頷くママの落ち着いた表情が温かかった。
「幸菱屋源左衛門さん、私を助けて下さった方。そして・・私を支えてくれた人、鉄之介さん。戻ってこれたのは彼のおかげ・・・」
ミユキママの瞳から一粒の涙が零れた、やはり夢ではなかったのだ。
「ママ・・・」
「優しい子に育てて下さっていたのね、ありがとう、源左衛門さん。」
かんざしをそっと抜き、胸に押しあてるママにすべてを話した。
何も言わず聞いてくれているママにも、きっと誰にも話せなかった出来事があるのだろう。遠くを見つめるママに、今は聞かないでおこう。
話しながら私はあの人のことを想っていた。
あれから北の大地へ向かい、最後の一瞬まで抗い戦い続けた人、
土方歳三。
いつの時代もそうなのかもしれない、強い信念を持つ者は、時として時代の異端児、時の流れに逆らう愚か者と呼ばれたりする。
それが、決して譲れない想い、守りたいものを守り続けるための戦いだとしてもだ。
多くの人々が流れる方向こそ正しいと、いったい誰が決めるのか・・。
そして、私は最後に聞いた。
「私の存在は、今を変化させてはいませんか?」
「それはあなたが自分自身の目で、しっかり見つめ続けなさい。」
ミユキママはまるで自分に言うように、静かに答えてくれた。
「おい、これだけか?」
「はい、これだけです。」
「でかいスーツケース引いてた、おまえの荷物とは思えん!」
「失礼ね!」
「俊三、旅行じゃないんだ、スーツケースはないだろう。」
「そうよ。」
哲哉が強くなっている。俊三と哲哉の会話を聞き、答えながら私は感じていた。
私が前に知っていた哲哉なら、俊三と言ったりはしない。先輩後輩の立場はあるが、ふたりが対等になっていた。
哲哉の車の後部座席で、前に座るふたりを見つめてから、わたしはふと窓の外を見た。
そして通りの木々を見つめながら、呟くように言ってしまった。
「桜・・、今年も見れなかった・・・」
「何言ってんだ、今年もじゃなく、今年はだろ!」
俊三が笑いながら言う、確かにそうだった、でももう何年も見ていない気がする。
実際に見ていない、ただしあの時代の桜・・・
もうとっくに葉桜になっている木々を、じっと見つめていた。
私の様子をバックミラーで見たのか、
「そんなに桜、見たいんですか?」
哲哉はそう言うと、助手席の俊三と顔を合わせ、ふたりして頷くと、
「仕方ねえ、退院祝いに連れてってやる。」
俊三が言うと、哲哉も、
「とびきり最高の桜を見にね。」
と、言った。
「寒くない? ちょっと風が冷たい。」
哲哉の言葉に大丈夫と答え、私は空へと続く、目の前の視界を覆いつくさんばかりの桜を見つめていた。
辺り一面、満開の桜。
北海道 函館。
ここは東京より開花が遅い、ふたりは何も知らないはずなのに、私をこの北の大地に届けてくれた。
五稜郭、二股口、弁天台場、一本木関門、あの人が進んだ道を辿っていく。
短い時を咲く桜は、どこか哀しげで儚く、それでいて凛としている。
「月子、俺はこの国を変えるぞ!」
いきなり俊三が言った。
「ハハハ・・俊三の口癖、でも彼ならやりそうでしょ。」
笑いながらそう言う哲哉に、俊三はまた言った。
「おまえが研究開発してるものは、世界を変えるかもしれねえ。」
「大袈裟だ、でも変えるとしたら、それはものじゃなく、人が変える。」
「人ねえ・・・確かに。ここで戦った奴らがあの時代を変えたのかもな。」
柔らかな風が吹く。
ひらひらと、淡い花びらが舞い散る桜は、変わることなくすべてを見つめていたのだろう。
私も今をしっかりと生きよう! 明日へつながる今を・・・
ありがとうございます。
桜変化、幕末新選組編という感じで書かせて頂きました。
もし可能なら、まだ続くお話色々と思い描いていますので、書きたいです。
ご意見・感想などなども、いただけたら嬉しいです!