ゆれる
慶応三年(1867年)
時代は大きく動き始めた。
そして新選組もその流れの中に、深く深くのみ込まれていく。
三月、伊東甲子太郎率いる一部の隊士が新選組を離隊する。その中には、いつも明るく私に話しかけてくれていた藤堂さんと、あの日何があっても信じていて下さいと言った斎藤さんもいた。
裏切らないと言った斎藤さん、伊東さんと行動をともにした藤堂さんも、皆信念を持ち己の信じる道を進んだ、ただそれだけだ。
誰も悪くはない、間違ってもいない、ましてや裏切りなど存在しない。
だから、それを分かっているから、あの人はまた苦しんでいるはず。
もう、桜が咲く季節を気にすることさえなくなっていた。
心はただあの人を想い追う。あの人に残された月日が増えることは・・ない。
新選組副長 土方歳三。
新選組はその年の六月、正式に幕臣に取り立てられた。
「これで新選組の皆さんが、馬鹿にされたり中傷されることもなくなりますね。」
鉄之介の明るい声に、私は返事が出来なかった。
これから先、彼らを待ち受けるのは、勝利の喜びでも周りからの称賛でもない。
幕臣に取り立てられたところで、次々起こる戦いの中で隊士達は命を落とし、その数を減らしていくばかり、幕府に忠誠を尽くし、誠の武士を目指し守り通した、それが悪というのなら、この世に善はありもしない。
「勝てば官軍・・・」
「えっ? なんて言われたんですか? 月子さん。」
「ごめんなさい、何も・・・」
「月子さん、嬉しくなさそうですね。」
あたり前だ! 嬉しいわけがない、こんな結果が見えているような戦いに、なぜ身を投じる。
(生きると言ったくせに・・・)
「月子さん、大丈夫ですか?」
「ごめんなさい。」
私は俯いていた。
十月、第十五代将軍 徳川慶喜が大政奉還を行う。
脈々と続いた徳川の世は終わりを迎えた、それは紛れもなく武士の世の終わりを意味する。それまでの常識は覆され、新選組の誠は揺れる。
「月子さん・・」
「何?」
「月子さんは分かっていたのですか?」
「な、何を?」
「いえ、なんでもありません。」
鉄之介はまさか私のことを疑っている・・いや、何か感じているのかもしれない。
そしてそれは、歴史の流れの通り起こった。
『油小路事件』
伊東甲子太郎を暗殺し、その亡骸を放置して待ち伏せる新選組。
なぜ殺さねばならなかったのか? いや、殺すつもりはなかったのか?
近藤さんの思いは言葉には出来なかったのだろう、そして永倉さん、原田さんの心は砕ける。
叶わなかった、逃がすことさえ出来なかった。
彼はかつての同志の心をちゃんと分かってはいたはず、心は届いていたはずだ。
しかし・・・己の誠を貫いた、それは若い彼の中にあった熱い誠。
藤堂平助 二十四歳。・・・もう、あの笑い声は聞こえない。
その日、鉄之介の姿が見あたらなかった、陽も傾き辺りが薄墨色になった頃、やっとどこからか帰ってきた。なぜか硬い表情で、怒っているような顔だった。
気になり私が声をかけるよりも前に、戻ってきた彼はいきなり私の手を掴むと奥の自分の部屋へと引っぱっていく。
「痛い! 鉄之介さん、どうしたの?」
部屋に入り障子をピシャリと後ろ手で閉めると、掴んでいた私の手を力強く引いた。彼の胸に飛び込むように引き寄せられ、抱きしめられる強い力に声も出せない。
そのまま鉄之介は怒っているような声で言った。
「土方さんじゃなきゃ駄目なんですか! 俺じゃ、月子さん、駄目ですか!」
(何? 何を言ってるのいきなり、何があったの?)
聞きたいのに声が出ない、とにかく両腕で押し、必死に体を引いてなんとか少し隙間ができ声を出した。
「苦しい! 鉄之介!」
私の声に彼の腕の力が少し緩んだ。
「何があったの? どこへ行ってたの?」
彼の顔を見上げてできるだけ冷静に尋ねたが、彼は決して腕をほどかず、そのまま私を見つめていた。
こんなに鉄之介は大きかったのか? まっすぐ私を見つめる瞳にのまれそうになる。
「どうしたの? 鉄・・」
「土方さんに会ってきました、俺は藤堂さんのことが信じられなくて。」
そうだった、彼は藤堂さんと仲が良かった。離隊した時は落ち込んでいたが、油小路の一件には無反応だった。
違ったんだ、彼の心は押し潰されていたんだ。だから言葉も出ず反応することさえ出来なかったのだ。でも、
「土方さんのせいじゃないでしょ。」
「止めなかったら同じことだ!」
止められるわけがない、新選組の副長は鬼にならねばならない。
誰よりも止めたかったのは、きっとあの人。
「でも、あの人は・・」
「土方さんの生き方は、月子さんをきっと悲しませる。悲しむ月子さんを見たくない!」
「鉄之介・・」
「俺が守る! ずっとあなたの傍にいる!」
そう、もうすぐそこ、あの人は戦いの中に身をおく。その傍に私はいられない、分かっている。それが歴史の流れで真実なのだ。
「ありがとう、鉄之介さん。」
まったく正反対に見えるふたり、土方さんと鉄之介。
取り巻く環境も立場も何ひとつ同じものはないはずなのに、なぜこのふたりは同じ瞳でまっすぐ私を見つめるのだろう。
私の心が求めているのは土方さんのはずなのに、鉄之介を愛しく想う心が動く。
急に鉄之介が腕をほどいた。
「俺はまだガキですね、結局月子さんを困らせている、笑顔を消してしまっている。」
(鉄之介・・・)
思わず彼の両頬を手の平で包んでいた。彼が土方さんになんと言い、土方さんが彼にどう答えたのか、そんなことは分からない、知らなくていい。
鉄之介の顔がゆっくり近づく、優しい風のような口づけ、触れたのは、ほんの一瞬だった。
私は彼の頬から両手を離した。
(えっ?)
私の両の手が透けている、鉄之介の着物の柄が手を通して見える。
「ええっ!」
「どうしたんです? 月子さん。」
気づいていない彼が私の手を掴むと、透けていた手はもとに戻っていた。
(なんだったの、今のは・・?)
その夜、私は源左衛門さんに自分の両手が透けたことを話した。もちろんその前のことは伏せてだが、源左衛門さんは真剣に、
「きっかけは何だったのでしょう?」
と、考えてくれた。
「さあ・・?」
少し冷や汗が・・・やはり鉄之介に触れたこと? 手はそれまでも何度かつないでいたから、やっぱり・・あれ・・・?
絶対に源左衛門さんには話せない。
でも、なんでだろう? 透けたということは、もとの時代に戻りかけているのだろうか? 分からない。
分からないが、無性に逢いたかった。もしかしたら、明日私はこの時代から消えているかもしれない。望んでいたはずなのに、せめてもう一度あの人に逢いたい。
土方さん・・・
でもあの人のこれからは目まぐるしく動き、私なんかと会う時間もないだろう。
近藤さんが狙撃され重傷を負うと、土方さんが実質新選組を率いることとなる。
年が明けてすぐ、戊辰戦争の緒戦となる、鳥羽・伏見の戦いが始まる。それは北へと向かいながらの戦いの始まりだった。
慶応四年・明治元年(1868年)
一月、私には最も冷たく寒い年の始まりだった。しかしその寒さなど比にならない北の果てに、あの人は向かう。
ついて行きたい。どうせ消えるのなら、あの人の傍に・・・いたい。
許されるはずもない想いだった。
この島原にさえ戦いの様子は伝わる。
追いやられる旧幕府軍、きっとあの人はその先頭に立ち、心も体も傷ついている。
次々と命を落とし消えていく隊士達、その姿を目を逸らすことなく見つめ、越えていく人。
包みたい・・・震える肩を、握られた拳を、涙を流す心を・・・
伏見で新政府軍に敗れ、淀千両松で敗退し、橋本へ撤退する戦闘の中で三分の一の隊士を失う。橋本での戦いは地の利は旧幕府軍にあった、しかし思いもよらない裏切りの砲撃を受ける。戦いではなく逃れるための道を進んでいるようだ。
北の大地へ行き着くまで、あの人は傷ついても命は無事のはず、分かっていても不安が心を支配する。いてはならない私の存在が不安にさせる。
雪が降る、粉雪が強い風に舞う。
私は、もう随分前の出来事のはずなのに、鮮明にあの日を思い出していた。
島原の大門の前にひとり佇みながら、すべてはここから始まった、おそらく一番心配していた歴史は何も変えてはいないはず。
そう、この瞬間までは間違いなく変化させてはいないはず・・・
身動きも出来ず佇んでいると、遠く蹄の音がした。
凍るような風の中、舞い落ちる粉雪さえ蹴散らすように温もりが私へと近づく。
私はその温もりに届くよう両腕をまっすぐ伸ばしていた、温もりをまとう逞しい片腕が私の体をふわりと掬い上げる。
温かい腕の中、白い吐息が耳を覆う。
「片手でも一滴も溢さねえ、掬ったお月さんは俺のもんだ。」
「土方さん・・・」