雪月花
沖田さんの腕の中に私はいた、その私達を見下ろし固まる土方さん。
私はすぐさま体を離そうとしたが、沖田さんの腕は緩むどころか力がさらに強まったように感じた。
なぜ? 離して! 声を出せない。
「話しは後にする。」
土方さんは背中を向けた、その背に沖田さんは、
「土方さん、俺、法度破りで切腹ですか?」
(何言ってるの!)
沖田さんの言葉はあきらかに挑発しているとしか思えない、しかも笑っている。
「知るか! 俺は何も見ていない。」
「見て見ぬふりですか? 副長は懐が深い。」
「何が言いてえ、沖田。まさか、わざと・・・」
土方さんがふたたびこちらを振り返った、私は力いっぱい体を退き沖田さんの体を押しやると、今度は容易に腕がほどけた。
どうしたというの? 私はどうしたらいいの? 身動きが出来ない。
土方さんと沖田さんの視線の先には私はいない、ふたりが見つめているのは、多分お互いの心の中。
冷たい雪が降る。
その沈黙を破ったのは、あの優しい声だった。
「月子さん、おられて良かった。これを源左衛門さんにお返しして欲しい・・・どうされました? 土方さん、沖田さん。」
「山南さん、私・・・」
「月子さんが困った顔をなさっている。難しいお話しなら暖かい場所で穏やかになさっては?」
微笑みながら静かに語ってくれる声に、心がやっと緩む。
「難しい話しなどしてねえ。ふたりに用があったなら、さっさと済ませて帰れ!」
(なんで・・・)
私の顔も見ず土方さんはそう言うと、くるりと背中を向けた。
「誰かを案じ、ただ顔を見にくる、それも立派な用では? 土方さんならお分かりかと。」
山南さんの声は背を向け遠ざかる彼に届いただろうか?
私が見たかったのは・・逢いたかったのは・・・
届かない、届いちゃいけない。
元治二年(1865年)二月
その優しい声はひとり、遠くへ去ろうとした。
江戸へ行くと置き手紙だけをして、山南さんの姿は消えた。
屯所内はざわめく、たとえかつて副長であっても許されない、脱走は・・・死罪。
胸の内がどうであれ、心の中が痛んでも、特別はない。
土方さんは沖田さんを追っ手として向かわせた、沖田さんひとりを向かわせたのだ。
隊士達からだけではなく、界隈の人達からも親しまれ慕われていた山南さんを追いつめる沖田さん。その沖田さん自身も可愛がられ、兄のように慕っていた、なのに・・・
命じた土方さんの心中は、きっと誰にも分からないだろう。
止められない時の流れ、変えられない真実、ならばせめて、傍にいたい。
あの人の傍に・・・心が狂いだす。
沖田に追いつかれた山南は捕縛された。
「山南さん、なんで・・・」
「なんででしょう? 君が追っ手で良かった。他の人なら無駄に抗い傷つけてしまっていたかもしれません。そして無様に討たれて死んで・・」
「そんなわけない!」
沖田は叫んだ。
「山南さんが簡単にやられるわけが・・」
「ありがとう、しかしこの腕ではそれもどうか・・、せめて最後まで武士でいさせてくれるのでしょう。副長、土方さんが君を追っ手にしたのは、きっと・・・では屯所に戻りましょうか。」
「山南さん・・・。」
屯所に戻った山南は落ち着いていた。
もともと物静かで落ち着いていたが、さらに何か悟ったような落ち着き、覚悟していたとはいえ死を目の前に、人はこうなれるものなのだろうか?
動かぬ空気をまとっていた。
二月二十三日
山南は介錯を沖田に頼む。
沖田は静かに哀しみの刃を下ろした。
動かぬ空気を斬る。
山南敬助 享年三十三歳
会えなかった私に鉄之介が語ってくれた。
土方さんの心に雨が降る、皆の心にもきっと哀しみの雨が降る。
私は全てを分かっていながらどうすることも出来なかった。仕方がない、あたり前のことなのに、心が痛い。
その夜、眠れなかった。
もうとっくに梅は散ったというのに、私はまたあの場所に来ていた。
真夜中に何をしているのか? そう、私はかつて真夜中に動いていた。
こんな真っ暗な闇夜ではなかったが、間違いなく夜の女だった。なのに今は昼間わけも分からず働いている、動いている。
もとの時代のみんなが見たら笑うだろう。
ライトアップされているわけでもない、しかも散っている梅の木を見つめた。
あの日の紅梅。
何してるの私・・・こんなところに立ち止まっても何も変わらない、変えられない。戻ることも進むことも出来ないなんて私じゃない!
銀座の女は立ち止まらない! クラブムーンライトのルナは、目映い光に照らされて登場し、周りの皆を魅了しなければならないんだ!
こんなところで、こんなところで・・・泣いてちゃ駄目・・・
何人殺せばいいんだ。
俺の誠はいったい何人の屍の上に立つ、誠の旗のもと、皆ひとつだったはず。
もうとっくに梅は散ったというのに、俺はまたあの場所に来ていた。
こんな真夜中、月明かりも届かない、なのに・・・
ぽっかり白く浮かんでいた、そこへ向かえといわんばかりに、それが俺の道しるべ。
(月子・・・)
すぐに分かった。どんなに離れていても、どんなに大勢の人の中でも、おまえは分かる。すぐさま見つけだしてやる。
静かに、だが足早におまえのもとへ急ぐ、もう止まらない、止めない。
俺に気づけ、いや、まだ気づくな、俺がおまえを抱きしめるまで、俺がおまえの名を呼ぶまで。
かすかに震えているおまえの肩、おまえの心はきっと苦しんでいる。
俺に、誠があるならどんなことも越えていくと言い、信じる道を進めと言った。
おまえの誠の中に、俺はいるのか?
震える肩を後ろから抱きしめた。
紅梅の木に、白梅が宿る。
いきなり後ろから抱きしめられた、でも叫ばない。この温もり、この匂い、
「土方さん・・・」
「月子。」
吐息が耳を撫でる、強まる腕の力。
「泣いてたのか? おまえは泣き虫だな。」
私は振り向けずそのまま手を肩の後ろへ伸ばし土方さんの頬に触れた、ほんの少しピクリとした彼に、
「土方さんも泣いていた、頬が濡れて冷たい。」
「馬鹿野郎、これは夜風が・・」
そのまま頬を滑り指先でそっと彼の唇に触れる。その手を掴むと土方さんは、私の指先を甘く噛んだ。
勢いよく振り返らされ木の肌に背があたる、それ以上は後ろへはいけない。
絡められた指を強く握りしめると痛いほどの口づけ、このまま息が止まってもかまわない。この人の腕の中でこの温もりに包まれながら息絶えられるなら・・・それはしあわせ。
しょせんいつ消えてもいい存在、消えるべき存在なのだから。
重ねられた唇を離すことなく彼は言う。
「月子、ずっと俺の傍にいろ。」
驚いて顔を退く私を離すことなく、土方さんはまるで唇に伝えるように言う。
「俺は多分ろくな死に方はしねえ、傍にいろと言いながら本当にずっといられるかも分からない、おまえを泣かさないと約束すらできねえ。それでも・・・おまえが欲しい。」
土方さんの口から死という言葉を聞いたとたん、私の心は切り裂かれる。
その日まで、片手の指を全て折り、数える数の年もない。
「傍にいろと言うのなら、なぜ死に方なんて・・傍にいて一緒に生きろと言ってくれないの! 約束なんていらない! あなたの瞳が私を見つめ、あなたの声が私を包み、あなたの温もりが・・・傍にあればいい。」
「月子・・・」
折れるほどの抱擁、重ねられた唇は首筋へ流れ、引かれた衿から覗く鎖骨に熱い烙印を印す。
白梅の花が、紅梅の木に咲く。