見れぬ桜
私は鉄之介とふたり梅の前に佇み、その香りに包まれていた。
彼の横顔になぜかいつもと違うものを感じる。
さっき土方さんと向き合い語る姿、その口調は、今まで私が見てきた鉄之介とはあきらかに違っていた。
私が今まで勝手に感じ、勝手に彼を弟扱いしていただけだったのだろうか?
今私の横にいるのは、私より背が高いというだけではない、外見のみならず、全てが大きく感じる。
「もしかしたら、源左衛門さんに聞いて迎えに来てくれたの?」
「えっ・・、あっ、まぁそうです。また迷われたら困りますから。」
やっぱり最近ちょっと大人口調だ、確かに間違いなく大人だけど・・そう、実はあの隊士の皆さんも年下の集まりで、私より年上なのは、近藤さん、土方さん、山南さん・・それからあの山崎さん。他にもおられるとは思うけど、若い方達が多いのだ。
今さらながら自分の歳に気づかされる。そして皆、歳よりもしっかりしている事にも驚く。
不思議そうな顔をしている彼女に本当のことは言えなかった。
父に聞いて来たのではない、何かに引かれるように偶然ここに来ただけだった。
私は今朝、新選組の屯所に土方さんを訪ねた。
あの日、長州の高杉さんが店におられた日、私は見てしまった。
見なければ良かった! 気づかなければもっと良かった! 自分の心に・・・。
私の心に月子さんの存在がどんどん大きくなるように、月子さんの心の中、土方さんの存在が大きくなっている。
そうなることは、ふたりが出逢った時から分かっていたはず、私は揚屋の頼りない二代目、土方さんは今を揺るがす志高き新選組副長、あまりにも違いすぎる。
でも、だからこそ言わずにはいられなかった。いきなり土方さんを訪ね、あんなことを言った自分に正直驚いている。
月子さんを泣かせたくない! それだけだった。
彼女には、いつも笑っていて欲しい。
それなのに、近頃の彼女はひっそり泣いている。私達の前では明るく笑い、ひとりになると声も洩らさず泣いている。
「鉄之介さん、私はもう迷わないわよ、大丈夫。ちゃんと帰る場所は分かっています。」
(帰る場所・・・それは月子さんどこなんですか? 私の所? 土方さんの所? それとも私の知らない所? 聞けるわけなどない。)
「そうですよね、聡明な月子さんなら、もう京の町の中、迷うことはないですね。」
「鉄之介さん、それは言いすぎ、迷うことがないとは言えません。その時はよろしくお願い致します。」
私は大袈裟に頭を下げた。
その時の彼の心の中など分かるはずもない、自分の心すら掴めずにいたのだから。
「承知いたしました。」
(どこに迷おうと私が必ず見つけます。決して月子さんの手を私から離すことはありません。)
「では帰りましょうか。まだ春には遠く、体が冷えきらないうちに。」
そう言うと、鉄之介は私の手を掴み歩き出した、大きくて温かい手だ。
この時代、男女が手をつないでおかしくないの? そんな疑問も消えるほど彼は真っ直ぐ前を見て進む。
山崎と屯所に戻った土方は、京での潜伏活動が激しくなる浪士達の探索や、情報集めに追われることとなる。
鉄之介があんなことを言いに来るとはな・・・あたり前か、四六時中一緒にいるんだ、心が動かないわけがねえ。
『土方さん、どんな時も月子さんの傍にいて下さるんですか? 月子さんを決して泣かさないと約束して下さいますか!』
口先だけの約束が出来るほど、俺は器用じゃねえ。
この命、どこで朽ちるとも分からねえのに、ひとりの女を腕ん中に縛ることなんか出来ねえ。
触れなきゃ良かった、あの柔らかい温もりに・・・。知らなければ、こんなに心が求めることもなかっただろう。
苦しいもんだな、惚れるってのは・・・
梅が散り、桜の蕾が膨らむ季節、春の風が頬に触れても、隊士達の表情が緩むことはなかった。
やはり今年もゆっくり桜を見ることは出来なかった。
梅は見れたというのに、なぜか楽しいお花見というものに縁がなくなっている。
庭の桜を横目で見て忙しくしている間に散ってしまった。
散る桜など、見るなということだろうか。
そう、あの日から一年が過ぎていた。
消えた私をみんなは捜しているのだろうか? それとも、まさかみんなの記憶の中からも消えていたりするのだろうか? 一年が過ぎた今頃になって初めて私は考えていた。
近頃の私は用を言われひとりで出かけることも増えた。
今日も四条まで源左衛門さんに頼まれた届け物をして帰るところを、いきなり後ろから腕を掴まれ路地へ引っぱられた。
「離せ!」
「大きな声を出すな!」
「あなた・・山崎さん。」
「しっ! 声がでかい。」
私はおもいきり腕を振り払い構えていた、その私の姿を見て、山崎さんは声を出さず肩で笑っている。
「噂には聞いていましたが、何か武術をなさっているのですね。」
そう言いながらも、まだ笑い顔だ。
山崎さんもまた長身で美男子だが普段はあまり顔を見ない。監察方という役職のせいかもしれない。
「女が武術をたしなんでいたらおかしいですか?」
「いえ、とんでもない。ただ、四条には何用で?」
「あなたに答える義務はありません。」
「ほぉ、まさか答えられない? いくら副長のお相手でも調べる時は手を抜きません。」
「どうぞ、ご自由に! ただ、私は土方さんとはなんでもありません、前にも申し上げましたよね。調べる相手を間違っていません?」
山崎さんの表情が変わった、私はまた一言多かったようだ。
「まるで何かご存知のようだ、仕方ない屯所まで・・」
「行きません!」
「あなたに選択権はありません。」
「調べたければこの場でお願い致します。時間の無駄だと思いますが。」
山崎さんは諦め顔で大きなため息をついた。
私達は近くの団子屋で団子を間に置き座っていた。
また山崎さんの大きなため息に、私はもう笑いを堪えられなかった。
「何が可笑しいのです?」
「いえ、団子屋さんで取調べって・・」
「月子さんが屯所には行かないと言うからでしょ!」
また大きなため息をついた。
「山崎さん、ため息多いですね。」
「誰のせいです!」
「私のせい?」
「自覚がないようだ。」
またため息をつきかけたので、私は山崎さんの背中に触れ、
「はい、ため息はつかない!」
そう言って笑った。
「もういいです、団子食べたら帰って下さい。確かに時間の無駄でした。」
「でしょ! ではお団子いただきます。」
山崎さんは急に笑いだした。
「あなたは不思議な人だ、屯所で皆がしょっちゅう話題にするのも分かります。」
(えっ? しょっちゅう話題って何言ってるの?)
団子を口に入れて止まったままの私を見て山崎さんは、
「気になりますか?」
口元が笑っている。
「別に!・・ゴホッ・・」
慌てて答えて喉を詰まらせた。
「大丈夫ですか? 慌てるから・・。」
今度は山崎さんが私の背中に触れる、温かくて大きな手だった。
四条にいた山崎さんが、突き止め捕らえた男の自白をもとに、一気に池田屋事件が起こる。
二手に分かれての少ない人手での探索で、はっきりと場所が確認され土方さん率いる隊は後から駆けつけた。そして土方さんは遅れてやって来た会津藩、桑名藩を誰ひとり一歩も近づけさせなかった。
真夜中の戦闘は多くの攘夷志士のみならず、新選組隊士にも犠牲者をだした。
翌日正午、見物人があふれる中、浅葱色を血に染めた新選組隊士達は屯所に帰っていった。その姿は、かつての赤穂浪士の討ち入り後の凱旋にはほど遠く、京の人々は新選組を人斬り集団とさらに恐れることになる。
見物人の幾人が、彼らの心の奥底まで見つめていただろう? その瞳の奥の哀しみに気づいていただろう?
時代が変わるとただそれだけで、それまで信じられていたこと、守り続けていたこと、全てが否定されるというのか・・・。
貫いた者達をいったい誰が否定できるのか、そんな権利や資格は誰にもない!
全てを知る私は、本当は何も知らなかったのかもしれない。
あふれる見物人のはるか後ろの陰で、足取り重く帰る皆を見つめていた。
誰も笑っていない、人と人の間から見えたあの人の姿は、あの雨の夜と同じ顔、あの高杉と向き合い言葉をなくした時と同じ瞳、あの・・・・・・
駆け寄りたい。
あの人の目の前に駆け出し、頬に飛ぶ血を拭い包みたい。
飛び出しそうになった私を後ろから抱きすくめ止めた痛いほどの力に驚く。
(誰・・?)
「行くな!」
その声は鉄之介だった。
離してと叫びたい心が詰まる、私のうなじに冷たい滴・・・泣いている?
「鉄之介・・さん・・。」
「離さない。俺の腕の中で泣き崩れても、心の中に誰がいても、決して離さない。」
俺の・・・初めて聞く鉄之介の言葉、私としか言わなかった彼の、これが本当の言葉だったのだ。
新選組の隊士達はとっくに通りすぎ、見物人も帰っていた。
抱きすくめられたままの私は、涙も声も出なかった、驚きの方が大きかったからかもしれない。どれくらいそうしていたのだろう。
「鉄之介さん、もう・・」
「すみません。俺・・私は・・・」
思わずクスッと笑ってしまった。
「俺・・でいいですよ、本当はそちらが言いやすいんでしょ。」
彼はやっと腕をほどいてくれた、私を体ごと振り返らせるといきなり頭を下げ、
「月子さんごめんなさい。月子さんの気持ちを分かっていながら、俺・・」
「鉄之介さんありがとう、私を止めてくれて。これで良かったの、時代の流れは変えられない。」
いえ、変えちゃいけない。
あの人の生きる道に私は存在しない。もちろん鉄之介、あなたの生きる道にも・・。
そう心で呟いた、そして、もう一度だけ呟く。
土方さん・・・
池田屋事件の後、その残党や強硬派が前にも増して京の町に潜伏し不穏な動きをしていたようだ。
源左衛門さんはそれでなくても少々目立ち気味の私に、外出の際は注意するようにと言われた、本当は出歩くなと言いたかったと思うが、どうせ私が聞かないことを分かっておられたので、そこまでは言われなかった。
だから心配はかけないように私は注意していたつもりだったが、その日は出向いた先のご主人につかまり帰りが少し遅くなってしまった。
薄墨色に暮れる京の町の小路は暗さを増していく、私はもう道には迷わなくてもさすがに帰りを急いだ。
暮れる小路の先にぽっかり浅葱色が灯る。
(誰だろう? 巡察ならふたりなのに。)
私の疑問の答えはその声で分かった。
「月子。」
土方さんだ、彼ならひとりでも不思議ではない、会わないようにと思えば思うほど、こんな場所で出逢ってしまう。
「ひとりなのか? 何考えてんだ! いくらおまえでも・・」
その時だった、土方さんの声を遮り叫びながら男達が飛び出してきた。
「新選組の土方だな! 覚悟!」
斬り込んできたひとりの剣を、素早く抜いた剣で彼ははらい切っ先をかわす、次の男の剣もはらうと同時そのまま振り下ろし相手を斬った。
斬られた男は倒れるがまだ相手はいる、私の目の前で闇の中光る剣は作り物でもなければ、飛ぶ血飛沫も紅い液体ではない、それは紛れもなく人の血だ。
たったひとりの土方さんに襲いかかる男達、多分長州の攘夷志士、いや、そんなことはどうでもいい、今ここで土方さんが死ぬなんてことはあってはならないことだ。
「月子! 逃げろ! おまえには関係ない!」
(関係なくない!)
周りを見た、何か長い物は・・必死に辺りを探すとあった! 天秤棒か何かだろう、掴むとすぐ構えながら土方さんの背を狙う男の腕に振り下ろした。
男は剣を落とした、そのまま土方さんの背にぴたりと自分の背をつけ相手を睨んだ。
「馬鹿かおまえ! そんなもんで剣に・・」
「黙って! 私は逃げない!」
(土方さんをおいて逃げたくない!)
「なんだ、新選組はいつから女まで使ってんだ。やはり武士としての恥もないか!」
「黙れ! ひとりに大勢で襲いかかる方が武士じゃない! 新選組は・・土方さんは・・誠の武士だ!」
「月子・・・」
横から剣を振り上げ私に襲いかかる男を土方さんは振り向きざまに斬る、その彼に別の男が同じように剣を振りかぶった。
(喉元も胴もスキだらけ!)
当然私は突き上げた。
「やるな月子、だが沖田に使った手は使うなよ。」
土方さんが笑っているのが背中越しに分かる。
「もったいなくて使えません!」
私も笑った。
土方さんは次々と男達を斬っていく、私はせめて彼の背中を守りたい、剣と直に対峙は出来ないからスキあらば腕や胴に打ち込んでいた。
土方さんの背中が離れた瞬間、ひとりの男が、打ち込んだ私の天秤棒をまっすぐに斬った。切り落とされた半分を持つ私の頭上にその男の剣が・・・思わず目を瞑ったその時、すぐ目の前、耳に聞こえたのは剣が重なる高い音と、
「月子さん! さがって!」
鉄之介の声だった。
私に振り下ろされた剣を止めたのは、土方さんと鉄之介の二本の剣だった。
鉄之介はいつ現れたのか、倒れていた男の剣をとり、私に斬りかかった男の剣を止め振り上げはらうとそのまま相手の胴を斬った。
声が出なかった、彼は剣が使えるのだ。
「鉄之介、無理するな。あとふたりだ、俺ひとりで・・」
「ふたりなら、ひとりずつということで。」
私は半分の棒を持ったまま、目の前のふたりの鮮やかな剣さばきを見つめていた。
いつの間にか全ては終わり、駆けつけた隊士達が動けない男達を連れて行く。
「大丈夫ですか月子さん、迎えに来て良かった。」
まだ声が出ない。
「月子、大丈夫か? 巻き込んじまって悪かった。だがこれからは同じことはするな。俺が斬られてもおまえは逃げろ! おまえが死ぬことは許さねえ、いいな。」
血が飛ぶ浅葱色をまとうこの人は、怒ったような顔で優しい言葉を私に言う。
(土方さんが死ぬことも許さない、許したくない・・・)
「鉄之介、あとは頼む。源左衛門さんに詫びててくれ、月子を危険な目に遭わせちまって悪かったと・・」
「違う! 土方さんのせいじゃない。ここで会ったのも偶然だし、逃げろと言われたのを勝手に飛び出したのも私・・」
やっと声が出た、でも心が苦しい。
「承知しております。月子さんが言うことを聞かないことは、父も十分理解しておりますので。」
そう言って、鉄之介は笑い、土方さんまで笑っている。私も心の痛みが少しずつ和らいでいた。
でも、私の心から消えることはない、もう二度と・・・土方歳三・・・。