紅梅・白梅
あの日、私達の前に現れた高杉晋作は、約一ヶ月の京での潜伏の後、帰郷し脱藩の罪で投獄される。だが、やがては赦免され長州藩の攘夷志士として、病にその若い身を散らすまでこの幕末を走り抜けた。
まさしく走り抜けたのだ、二十九年という年月を・・・。
短い生涯だったかもしれない、それでもその生涯は、私がいたあの時代の年月とは違いすぎる。短くても深く熱い時間の連続だったのだろう。
そして、私はまた考えてはいけない事、思い出してはならない事、心から消えて欲しい歴史の真実に押し潰されそうになる。
私の中で日に日に大きな存在になる人、土方歳三。
その熱き魂が召される時まで、あと、・・・・・五年。
まだ五年あるなのか、たった五年しかないなのか、私には言えない。
ただひとつ言えることは、彼の生き方を止められる者はいない。ただそれだけ・・・
止められぬ者達の集まり新選組は、隊士の数も少しずつ増え、周りからは様々な声が聞こえてはくるが、その名は確実に知れ渡っていた。
「月子さん、お久しぶり、ちょっと痩せた?」
明るく声をかけてきてくれたのは、置屋鉢屋の芸妓、桜香だった。今日は宴席に呼ばれていたのだ。
「痩せるどころかお正月から食べ過ぎで、むしろ太った。」
「まっ大変。でも月子さんは、背が高くて綺麗だから羨ましい。」
いや、この時代では、あまり女性は背が高くない方がいいのでは、幸いなぜか鉄之介は背が高く、隣りにいると私も目立たない。
もちろん彼は芸妓達からはモテモテだ。
「最近新選組さん、あまり宴席はされないの? 私達は昼間あまり表に出ないから、隊士の皆さんとお会いすることもないし・・・」
俯きかげんで話す桜香の姿にまさかと思い、
「誰か会いたい方でも?」
「ち、違います! 私はただ、宴席に呼んでもらうことが仕事だから・・・」
頬を染める彼女は分かり易い。
確かに新選組の皆さんは益々忙しいようだが、息抜きはしているだろう。ここ島原だけではなく、時の人達はあらゆる場所に現れているはずだ。
「うちにだけ来られるわけじゃないから、幸菱屋では多分、鉢屋さんに声がかかると思うよ。少なくとも土方さんならそうされると思う。」
彼は、かつて桜香達に嫌な思いをさせたことを忘れる人じゃない。
「本当に! 土方さん私のこと覚えて下さってるかしら?」
(えっ? まさかの土方さん。)
そうだった、彼は鉄之介の比にならないくらい女性達から慕われていたんだ。忘れていました。・・・一緒にあの日のことまで思い出してしまった。
「月子さん、なんだか耳が紅いよ。」
「冷えのぼせでしょ。」
私が笑ってごまかすと、桜香は宴席へと向かった。
(思い出すな! 私。)
「耳紅いぞ、月子。」
その声、また沖田さんか! 目をつり上げ振り返りながら、
「紅くない!」
叫んだ先には藤堂さんと原田さんがいた。
(あちゃ。)
「怖いよ月子。原田さん注意してよ、せっかく近くまで来たから顔見よっかなって寄ったのに。」
「おおかた沖田とでも勘違いしたんだろ。」
笑っている、さすが原田さんだ。
「最近、鉄之介も月子も屯所に来ないよな、俺らもここになかなか来れないし。」
「新選組の皆様はお忙しいですから仕方ございません。」
「だからたまには鉄之介と顔出して・・」
「無理言うな藤堂、月子達も忙しいんだ。」
原田さんは私の顔を見た、何かを知っているのだろうか? それよりも鉄之介も行っていない事が不思議だった。土方さんをあれほど慕っていたはずなのに。
「鉄之介いるの?」
「はい、奥に・・」
最後まで聞かずに藤堂さんは奥にパタパタと走っていった。
「仕方ねえな、庭でも観てくか・・。」
残された原田さんは言った。
庭に面する廊下に腰をおろし原田さんは前を見ていた、巡察中だからと言われ、お茶を持っていく私に気づくと、こちらを見て、
「ここの庭観てると落ち着くなぁ。」
そう言って視線をまた戻す。
原田さんは長身で顔立ちも整った美男子だ、短気で突っ走るタイプのはずなのに、優しい瞳で皆を包み込む。そのおおらかな性格と時折向けられる笑顔に心は安堵する。
お茶を置くとそのまま隣りに座った。
「月子は変わってるな。世間が俺達新選組を恐れて嫌っても、おまえは初めて会った時とちっとも変わらねえ。」
原田さんの言葉に私はクスッと笑ってしまった。
「何が可笑しい?」
「原田さん、私は変わってるの? それとも変わらないの?」
「ハハハ・・、そらおかしいな。」
今目の前で笑っている原田さんは、土方さんよりも先に・・・、奥へ走っていった、いつも明るく話しかけてくれる藤堂さんは、それよりも前に同じ隊士に・・・、ふたりともまだ二十代、生きていればどれだけの明るい未来を見つけ、愛する人とともに見つめられたことだろう。
「どうした? 月子、泣いてんのか・・?」
「塵が入って・・。」
「でかい目開けてるからだ、見せてみろ。」
潤む目を隠していた手を掴まれよけられると、原田さんは覗き込むように見つめる。その澄んだ瞳には、泣き出しそうな私の顔が映っていた。
「おまえ、ほんとは泣き虫だな。」
重なる言葉に優しい笑顔まで重なる。
「塵が目に入らねえよう隠してやる、今だけ・・この風がやむまでの一瞬だけ・・・。」
大きく脈打つ厚い胸に顔を隠される。触れてはならないものに触れるような、原田さんの大きな手を背中に感じていた。
風がやんだ。
「行くか! 茶、馳走になった。月子、梅でも見に天神さんへ連れてってもらえ。」
「天神さん?」
「知らねえのか? 北野天満宮。・・そっかぁ、京女じゃなかったな。」
笑いながら藤堂さんを呼び、原田さん達は帰っていった。きっと巡察はまだ続くのだろう。
梅・・・
ここに来たのは四月、梅の季節は過ぎていた。桜すらまともに見ていない。
いつまでここにいられるのかは分からない、ならば、せめて季節をしっかり感じていたい。明日でも行ってみよう。
梅、桃、桜、菖蒲、紫陽花、鳳仙花・・・。
いくつの花を見られるだろう。
咲き続ける花などない、分かっていることだ。
短すぎる命でも、精一杯咲く花は誰の目にも美しく、遥か先まで記憶に残り、出逢えた時を鮮やかに彩る。
「行ってまいります。」
「ひとりで大丈夫ですか? 鉄之介はどこへ行ったのか・・・まったく。」
「大丈夫です源左衛門さん、鉄之介さんだってひとりで出かけたい時もあります。」
私が笑顔で言うと、源左衛門さんも笑われた。
翌日さっそく私は着物の上に被布を着て、キリリとした空気の中、教えてもらった天神さんへゆっくり歩いて向かった。
無性に梅の花が見たかった、なぜかは分からない。
飛び梅の伝説を思い出したからかもしれない。
遠い地へ左遷された主人を慕い、一夜にして飛んできたという逸話。
私はあの夜、誰を慕い、一夜にして飛んできたのか?・・・この時代に。
梅の香りが遠く薫る。
まだまだ肌寒いというのに、梅苑に咲く梅は別名の通り、風を待ち春を告げていた。
風待草、春告草。
桜は見上げるように花を見るが、梅は桜より低木で、まるで目の前、同じ目線に花の帯が広がる。
華やかというよりは静かな佇まいで、柔らかな香りを届けてくれていた。
カサッ・・と私の目の前、血の色を思わせるような紅梅の木の向こうで音がした。
鉄之介? 違う、腰に差す剣が見え、梅の花の脇、紅の影をかすかに映し私達は向き合っていた。
「月子。」
「土方さん。」
一夜にして飛んできたのだろうか? 私はこの人のいる場所に・・。
なんでここにいるんだ? おまえはどこから飛んできた?
女のおまえは紅さす紅梅のはず、だが、月子、おまえは白梅。
白い花は暗闇の中、道しるべのように浮かぶ。
俺は迷わない、その道しるべが俺の道を照らす。
なぜここにいるの? あなたはどこへ向かっているの?
男のあなたは白き剣を持つ白梅のはず、でも、土方さん、あなたは紅梅。
紅い花は心の中、炎のように燃えている。
私は振り返らない、その炎が私の心を照らす。
あの日以来だった、まさかこんな場所で出くわすとは・・と思っていると、土方さんが先に、
「原田が昨日巡察から戻って、天神さんの梅が綺麗に咲いていたと言うから・・・」
「えっ。」
(なんで月子は驚いてんだ?)
「おまえひとりか?」
「はい。」
「本当にひとりで来たのか?」
「ひとりで来ちゃいけないんですか!」
「いや、やっぱり変わってるなおまえは。」
(変わってるって、土方さんまで・・・)
「土方さんも原田さんも、私を変わり者扱いして!」
(原田も? どういうことだ、なんであいつが出てくる?)
土方さんの様子に私はなぜか少し慌て、
「昨日巡察の途中、うちの店にも巡察に来られて・・」
(あれっ、私、なんか変な言い方になってる。)
「巡察ねぇ。」
「そっ、巡察です!」
私がムキになって答えると、呆れたように土方さんは、
「分かった分かった。」
と、答えた。
「疑ってますよね?」
私が半目で言うと、
「疑わねえよ! なんだその目は。」
「普通の目。」
「普通の目は、もっと無意味にでかいだろ!」
「無意味にって・・」
その時、近くから声がした。
「おふたりとも、梅苑で大きな声を。」
「鉄之介!」
私達は現れた彼に驚いて、同時に名を呼んでいた。
「月子さん、せっかくこんなに美しい梅を見ているんですから、土方さんのように歌のひとつも・・」
おもわずぷっと吹き出してしまった。
「おまえ! 今笑っただろ!」
「とんでもございません、笑うだなんて。」
にんまりした顔が普通に戻せない。
「おまえ!・・・鉄之介、なんとかしろこの女。」
「私がなんとかしてもよろしいんですか? 土方さんがどうしようもないと言われるなら、いつでも私がお引き受けいたします。」
そう答えた鉄之介の顔が笑っていない、どうしてだろう、怒っているのだろうか?
「ごめんなさい、私・・」
「月子さんが謝られることではありません。私と土方さんとのお話しです。」
ふたりの顔がさっきまでと違う、その時だった、
「土方さん、動きがあったようです。すぐに屯所に戻って下さい。」
またどこから現れたのか、あの日の男。
彼の名は山崎烝、諸士調役兼監察方として、異例の兼任をするほど有能な隊士のひとりだ。
「せっかくのおふたりのお時間を引き裂き、申し訳ございません。土方副長とはまた別の日に・・・」
(別の日にって。)
「山崎さん、動向調査不足ですよ、そんなんじゃありません。だいいち土方さんに失礼じゃないですか。どうぞ皆様、お仕事にお戻り下さい。」
私の言葉にまた皆が驚いていた。
「月子、なんで山崎が動向調査をしていると知っている? 時々おまえは驚く事を言うな、こないだも高杉が銃を持っていることを知っていた。まさかおまえ長州の間者・・?」
(だとしたら、俺は月子をどうする気だ。)
土方さんはなぜか複雑な顔をしていたが、すぐに鉄之介が、
「そんな訳がないことは、土方さんが一番よくご存知なのでは?」
と、笑って言うと、ふたりはもういつものふたりに戻っていた。
そしていつもの生活、変えてはならない歴史が動き出す。
山崎さん達の地道な探索により長州藩の動きを突き止め、あの新選組の名を不動のものにした池田屋事件が起こる。
それは、これから起こる動乱の、幕開けにすぎなかったのかもしれない。