仕舞えない心
噂というのは広まるのが早い、それが意図的ならばなおのこと、誰がどんな風にそう言ったのかなど分かるはずもない。
芹沢鴨の死は長州藩士達の仕業とされたのだ。
疑う者も、まして疑問を投げかける者もいない、少なくとも隊士の中にはいるはずもない。
あの夜から二日後には、近藤達は葬儀を盛大に執り行い事件の一連の経緯を記している。
嘘の真も今は彼らの『誠』となる。
「酷いありさまだったそうですよ。長州藩の中にも慎重な方々と攘夷だと外国船に戦争を始めた方々と色々おられるらしく、いったい京の町はどうなるのでしょうね。」
揚屋の主人達は源左衛門さんの所に来ては口々に語り、目の端では源左衛門さんの様子を伺っている。
多分幸菱屋が新選組に近い存在だと思い、何かしら聞き出そうとしているのだろう。
結局は自己保身だ。
「ここは新選組の支店じゃない! まったく。」
「月子さん、してんとは?」
(あっ・・しまった。)
「そういえば鉄之介さん、今夜お見えになられる方はどちらのお部屋へご案内するのかしら?」
慌てて話しを変えた、素直な彼は、もう私の問いかけに答えようと考えてくれている。しかし彼が答えるよりも早く源左衛門さんが、
「今夜のお客様は一番奥のお部屋へ、私がご案内致します。」
(源左衛門さんが・・・)
きっと、大切なお客様なんだろう。私は何も疑わなかったし、鉄之介もいつも通りだった。
そう言ってからすぐに源左衛門さんは鉄之介に、
「鉄之介、土方様のお着物は、もうお届けしましたか?」
「いえまだです、近い内にでもお見えになるかと思い・・」
「まったく・・、何であれお客様の手を煩わせてどうするのです。まして土方様はお忙しい身、すぐにお持ちしなさい。」
確かにそうだけど、あれは隊の着物でもないし急いでないのではと思い、私は源左衛門さんの言葉に少し違和感があったけど、鉄之介は慌てて風呂敷に包み出ていった。
「失礼致します。土方さん、お着物をお持ちしました、遅くなり申し訳ございません。」
剣術稽古を終えたばかりなのか、秋空の下、汗を拭う土方が振り返り、
「おっ、悪かったなわざわざ、手間かけさせた。・・・ひとりか?」
その問いに鉄之介よりも先に沖田が答えた。
「見りゃぁ分かるでしょ土方さん、鉄之介の後ろに、すっぽり隠れるほど小さい女ですか?」
「総司、小さい女とは?」
近藤が沖田に聞くと、今度は永倉が、
「鈍いね、近藤さん。鉄之介の隣りにいつもいるのは・・」
「俺はただ単純にひとりかと聞いただけだ!」
「でもあの日、一緒だったんでしょ。」
今度は藤堂が意味深にわざと言う、するとすぐに土方と鉄之介が、
「違う!」
「違います!」
と、同時に答えていた。
「違うって・・?」
「いや・・」
「いえ、違うというのは、確かに土方さんは幸菱屋におられました。でも私と飲んでお話しをしており月子さんとは・・」
「へぇ〜飲んでね・・・鉄之介飲めるのか?」
原田の問いに山南までも、
「では一度、ご一緒に是非。」
と、言いながら笑っていた。
山南も原田も沖田も、いや多分、組長達なら皆、真実を知っているはず。それでもあえて茶化すのは、それが真実だとするためなのか? 周りだけではなく自分達の記憶もすり替え、真実と信じ前へ進むための哀しい芝居なのかもしれない。
沖田がさらに、
「大変だ土方さん。鉄之介と月捕り合戦。皆さんどちらに軍配をあげます?」
「ふざけんな!」
土方の側から飛び退く沖田に皆が笑っていた。
そっと近藤は鉄之介の横に来ると、皆には聞こえない小さな声で、
「ありがとう鉄之介、源左衛門さんにも礼を。」
そう言って、頭を下げるかのようにゆっくり瞼を閉じ開ける、鉄之介はゆっくり頭を下げた。
まだ、賑やかな笑い声は澄んだ空気の中、響いていた。
近藤、土方を中心に試衛館派が新選組を掌握しつつあり、それは同時に彼らが新選組を背負い、全てが動き出した事に他ならない。
「いつも無理を言う。」
「いえ、奥のお部屋へどうぞ。」
奥の部屋には数名、何やら普通ではない感じの男達が先に来ていた。
今、源左衛門さんに案内された男の顔に、私は気づいてしまった。
桂小五郎。
私は桂というより、彼を守り通した幾松さんに惹かれていた。
あの、いや、この波乱の時代にひとりの男を愛し、命懸けで守った女性。
だから記憶の中にあった、また鍵が開いてしまう。
鉄之介は、今夜の奥の部屋の人達が誰なのか分かっているのだろうか? 何せ長州藩士と新選組を鉢合わせさせかけたことがあるし、かなり心配だった。
(まぁ、今夜は新選組さんは来ないし大丈夫だよね。)
私の心配をよそに飄々としている彼は、ある意味大物かもしれない。
桂さんを奥へ案内された後、源左衛門さんが私の傍に来られて、
「そのお顔、ご存知なのですね。」
「はい、有名な方ですから。鉄之介さんは?」
「知っています。」
と、言われた。
やっぱり彼は大物だ、ちょっと笑えてきた。そんな私を彼はまた不思議そうな顔で見ている。
「どうしました? 何か可笑しなことでも?」
「いいえ、何もありません。」
そう、今は何もない。なのに・・なんで・・・
私は神様に試練を与えられているのだろうか? 罰とは思わない、戸惑い迷う事ばかりだが、出会えた人達の優しさは私の宝物。そう信じられる。しかし・・・
夜も更けた頃、奥の人達も順に帰っていった。桂さんだけがまだ残っていた。
部屋の障子が開き帰られるようだ、私は胸を撫で下ろす。でも撫で下ろすのはまだ早かった。
奥に続く廊下にいた私の耳に、あの聞き慣れた声が、
「鉄之介、帯が無かったぞ。近くまで来たからもらって・・」
私はその声のもとまで飛んで来ていた。
「明日お持ちしますので、今夜は忙しくて・・・申し訳ございませんがお帰りに、いえ、お仕事にお戻り下さい。お忙しいのに・・」
「どうした? 変な奴だな。」
(だから帰れ!)
叫べるわけもない。
私を挟み、前には土方さん、後ろには桂さん。こんな歴史あるはずがない。
土方さんは桂さんの顔を知っているのだろうか? その疑問はすぐにふたりが剣に手をかけた姿で答えが出た。
「駄目ぇ! ここで剣を抜くことは許しません!」
「どけ、月子。俺は必要とあればどこでも剣を抜く!」
その言葉が終わるより前に、私は土方さんの前に背を向け立ち桂さんと向き合った。
「桂さんも剣を抜かないで。ここは遊興の場、あなた達が戦う場所じゃない!」
このふたりが剣を交えれば、おそらくどちらもボロボロになる。
土方さんも桂さんも剣豪だ、互いに一歩も引かないだろう。そんな姿は見たくない、もし万が一どちらかでも命を落としたら、完璧に歴史は変わる。それは紛れもなく私の存在のせいだ。
「月子さんとやら、新選組の鬼の副長を守られているのか?」
「違う! 土方さんは鬼なんかじゃない。」
ふたりともが驚いていた。桂さんは笑いながら、
「鬼でないなら私も斬れない、土方さん、どうされます?」
「見逃せとでも?」
「私は逃げ足が速いですから。月子さん、あなたはいい女だ。」
そう言うと、踵を返し裏手へ走った。
「待て!」
すぐさま振り返ると、私は土方さんの大きな体にしがみつくようにして必死に止めていた。
「離せ!」
「離さない!」
「・・・だから離せ。」
「離さない!」
「本当に一生離さねえのか?」
(えっ?)
顔をあげた私を見て土方さんが笑っている。
「とっくに逃げられた、おまえって奴は・・・」
飛び退いて私はその場に正座し頭を下げた。
「やめろ! おまえが頭下げることじゃねえ。」
膝をつき私の肩を掴みじっと見つめ土方さんは、
「剣を抜かなかったんじゃねえ、抜けなかった。だがどんなにおまえが止めても、この先俺は剣を抜かなきゃならねえ時が必ずある。その時は・・・目ぇ瞑れ。」
哀しい顔で言った。
「瞑らない! その時は、ちゃんと見つめている。だから・・・」
だから生きて欲しい。死に急ぐような生き方をしないで! 声には出せない。開いた記憶の扉が閉められない。
源左衛門さんと鉄之介が、私の後ろでやはり正座し頭を下げていた。
「やめてくれ。俺は・・帯をもらいに来ただけだ。借りてる着物は別の日に返しにくる、来てもかまわねえよな。」
「勿論でございます、土方様。」
「お待ち申し上げております。」
幸菱屋の親子の温かい声が、張りつめていた空気をとかしてくれる。
「で、鉄之介、帯。」
土方さんの声に慌てて取りに奥へと走った。
そうだ、昼間彼が届けた時に忘れなければ、鉢合わせすることもなかった。なぜかまた笑えてきた。
すぐに京の底冷えする冬が巡ってくる。
十二月、とうとう水戸派は一掃され、近藤を頂にして試衛館派が組織する新選組が出来上がっていく。
そして翌年、あの有名な池田屋事件で、新選組はその名をさらに天下に知らしめすこととなる。
鉄之介と私は酒を手に八木邸屯所に向かっていた。
年末のご挨拶というやつらしい。
「月子さん、足元気をつけて下さい、雪で滑りますよ。」
「分かってます。」
鉄之介に心配されるとなぜかちょっと腹が立つ。・・・で、また庭の方から入るのだ。ご挨拶に来たのならちゃんと・・と言っても聞くわけないだろう。
「失礼致します。あれっ、皆さんお揃いで、寒稽古か何かですか?」
なぜか皆さんが雪の積もった庭に揃っている。縁側には近藤さんと山南さんまで火鉢を挟み座っていた。
「いいとこ来た! 鉄之介は俺らの組ね。」
藤堂さんのいきなりの言葉に原田さんが、
「阿呆、こっちの方が年齢高いんだ、鉄之介はこちら! で、月子は沖田組だ。」
「いいですよ。俺んとこに月子がいたら、土方さんは攻撃かけにくいでしょうし。」
「甘いな沖田、勝負に手は抜かねえ、俺は鬼になる!」
(なんなのあなた達。)
全く理解していない私達を、土方さんと沖田さんが引っ張っていく。
(だからなんなの!)
私は沖田さん、永倉さん、藤堂さんと円陣を組んでいた。
「いいですか、月子は例の俺に使った手、存分に使って相手を撹乱する。」
(使った手って何・・まさか?)
「あの沖田さん、何が始まるんですか?」
「決まってるだろ、雪だよ、雪合戦!」
藤堂さんの弾んだ声に、
(嘘っ!)
同時に近藤さんの合図が、
「はじめ!」
(ますます嘘っ!)
躊躇は許されなかった。永倉さんと藤堂さんに抱えられるように小さい雪山の陰に連れていかれると、横にはすでに雪玉がいくつも作られていた。
「これいつ作ったの?」
「先手必勝! 今頃作ってるなんて遅い。」
(沖田さん、それずるくない?)
「顔出すな月子! 当てられるだろ!」
永倉さんに頭を押さえられた。
(顔を出すと当てられる・・ね、よしっ!)
「痛ぁ〜い! 足捻った。」
「大丈夫ですか? 月子さ・・」
ぼふっ! 鉄之介の顔に命中した。
「やったぁ! 当たりぃ!」
ごめん鉄之介。私の声に彼は必ず顔を出すと信じた作戦、成功!
「その調子で月子。」
沖田組長の声も弾む。
土方組では、
「いいか、月子の声や言葉に惑わされるな。」
「土方さん、それはご自身に言われているのですか?」
「斎藤、雪に埋めるぞ。鉄之介がいとも簡単にやられてこっちは戦力減ってんだ、細心の注意をはらえ。」
「突くのと投げるのは違うな。」
「頼む原田、しっかり投げてくれ。狙いはまず、ちょろちょろする藤堂だ。」
「できれば沖田に一太刀・・」
「だから斎藤、雪で頼む。」
鬼の副長も普段とは勝手が違いまとめにくいようだ。
「土方さ〜ん、月子と誰か交換します?」
(沖田め、調子にのりやがって!)
「挑発しますね沖田君、若さですね。」
お茶を飲みながら山南さんが語り近藤さんは目を細めている、隣りには戦線離脱の鉄之介が座っていた。
私はすぐ横の木を見上げた。
(これなら登れる。藤堂さんに目がいってる間に登り、上から攻撃で一気に。)
もうすっかり雪合戦にハマっていた、だから気づかなかった。気づかなかったのは私だけではなかったけれど、不覚だった。
藤堂さんがやられた、土方さん達が喜んでいる隙に私は一気に登った。枝に積もる雪で十分雪玉は作れる。
雪を丸め投げようとした時だった。
「どこから入った!」
いきなり腕を掴まれた、いつの間に後ろにいたのか初めて見る顔の人。
「痛い! 離して!」
「月子、同じ手は通用しない・・」
言いかけた原田さんの声をさえぎり土方さんが、
「違う!」
枝が揺れ足元が滑った時、腕は離されていた。
「月子!」
ばさっという音と枝の雪と一緒に私は下に落ち、
「大丈夫か!」
土方さんの腕に受け止められていた。
「降りて来い!」
すとんと降りてきた男の顔を見て土方さんは、
「山崎! 何してんだ。」
「今戻ったら庭が騒がしく、様子を見ると、木の上に女がいて、屯所内で女はおかしいと・・・」
誰も山崎さんを責められない、近藤さんも頭を掻いている。
「説明は後だ、近藤さん勝敗は?」
「歳、引き分けだ。」
「と、いうことだ。」
土方さんは腕に乗っかっている私に笑いながら言った。