仕舞う心
笑っていた、私達は互いの顔を見つめ笑っていた。
ほんの少し前、間違いなく土方さんは苦悩の顔をしていたはずだ。
何があったかなど聞かなくても私には悲しいことに分かっていた。もし本当に何も知らなかったら、雨の中濡れることも、こうして黙ったままでいることも、何より、こんなに胸が痛いこともなかったはずだ。
何も知らなければ、いったい私はどうしていただろう。
ただ分かることは、心の中の思いとは裏腹にお互いを見つめ、笑うことはなかっただろう。
この雨が全てを洗い流してくれるのなら、私はいつまでもこの人と一緒に雨に打たれよう。心とは裏腹に顔には笑みを浮かべながら。
この人を、雨粒から守るように・・・包みたい。
土方さんの髪を濡らす雨が、彼の髪から頬に伝い私の頬に落ちる。冷たい雨が温かな雫となり、私達を順に濡らしていく。
雨は少しずつ弱まり、今度は闇の静けさが私達を包み始めていた。
笑えていた、つい今しがた俺は腰に携える刃を血に染めたばかりで、まだその感覚も生々しく、手に、腕に、心に残っているのに、笑っていた。
相手が完全な敵なら、いや、完全な敵などいない。皆ただ己の信じる道を進もうとしているだけなのに、まして俺は仲間を・・・考え方、生きざまは違っても『誠』の旗のもとに共に立ち、歩いて、走ってきたはずなのに。
なんでこんなに心が痛い。
月子は俺の血の匂いに気づきながら、なぜ何も聞こうとしない。全てを知っているとでも言うのか?
もう笑えないかと思った俺が笑っている。おまえの顔を見つめ、笑っている。
濡れているのは俺ひとりじゃなかった。
おまえを、雨粒から守るように・・・包みたい。
雨脚は弱まっていき、闇の静けさが俺達を包み始めた頃、遠くから水溜まりを弾く音がした。
遠くにぼんやり浮かぶ傘の影、でも声は聞こえない。その姿がはっきりと分かった時、やっと小さな声が届いた。
「月子さん、捜しましたよ。そんなに濡れて・・・」
鉄之介だった。彼は土方さんが見えていないかのように、私に自分の傘を差しかけてすぐに、
「土方さんもご一緒だったのですね。どうぞこの傘を。」
そう言って、持っていたもう一本の傘をバサッと片手で広げそのまま渡した。
一本の傘の柄にふたりの男の手、なぜか鉄之介が土方さんを睨んでいるように感じ、私はドキリとした。いったいなぜだろう?
そして鉄之介は、
「月子さんを捜して今、八木邸に参りました。屯所の中は大騒ぎでした。」
「・・・・・・」
「おふたりとも、いえ、土方さん、すぐにうちに・・」
落ち着いた口調ではっきりと言う。私達は驚き彼の顔を見た。
「ほら、早く行きましょう。こんな所で突っ立ってないで、急ぎますよ。」
彼は全て分かって言っているのだろうか? 八木邸に行ったと、ならば騒ぎの原因は知っているはずだ。
私達は店へと急いだ。ふたつの傘の下、みっつの心が揺れる。
私を庇うように引き寄せ、傘を差しかける鉄之介の瞳はまっすぐ前を見ていた。小雨になってきたとはいえ、私にほとんど差しかけられた傘、彼も濡れていく。
何も言えなかった、今私の横にいる鉄之介は昨日の鉄之介と同じ人? 大きく強く感じるのは、私が弱っているからだろうか?
幸菱屋の部屋に灯りが灯る。
源左衛門さんは私達を見て何も言わず、何も聞かない。土方さんを奥の部屋に案内すると、鉄之介に風呂を焚き着替えを用意するようにとだけ言われた。
私には離れの自分の部屋へ行くようにとだけ言われ、手伝う事は命じられず、怒ったような、悲しいような瞳で見つめられた。
全ての用意を鉄之介ひとりが担う。
自分の部屋で濡れた着物を脱いだ、結び目が硬く、雨を含んだ着物が重い。乾いた着物を羽織っても、心の重さは軽くはならない。
どれくらいそうしていたのか、髪から落ちた水滴が畳に跡をつくっていた。
「月子さん、冷えた体を湯で温めなさい。」
源左衛門さんの声がして障子が静かに開いた。私を見下ろす瞳はいつもの温かく優しい色で、小さく頷くのが精一杯だった。
温かな湯に身を沈めると、ほどいた髪が湯を覆う。花の香りも泡もなく、小洒落た飾りもない、ただ温かい湯を湛える質素な湯船が、かすかな木の香りをさせているだけなのに、これ以上のものはないと思えていた。
私はどんどんこの時代の人になっているのだろうか?
温まった体を寝間の着物に包み、濡れた髪の水滴を手拭いにうつす、そして離れの自分の部屋へ戻ろうと廊下を進むと縁側に人影があった。
その人影は私に気づくと軽く右手をあげた。
「一杯だけ付き合わねえか?」
土方さん・・・目の前の盆には銚子と盃が置かれている、私は何も答えず黙って彼の隣りに座った。
髪を洗ったのだろう、束ねられていない長く綺麗な黒髪の土方さんが、ほらっ、と言わんばかりに盃を差し出す。受け取ろうとしたら指先が触れた、今までドキリとさせていた私が、今は逆にドキリとする。
静かに注がれたお酒を一気に飲み干し、紅もつけていないのに手拭いの端で拭い返したら、なぜか土方さんが苦笑していた。
私は不思議で見つめていた。まだ降る小雨は庭を濡らしている。
「いい飲みっぷりだ、おまえかなりいけるだろ?」
(えっ?)
「おまえが飲む姿、初めて見るからな。」
そうだった、私は宴席には顔を出さないようにしていたから、当然この人達の前ではお酒も飲んでいない。
思っていると急に彼の手が伸び私の髪に触れた。体を引きそうになる私に、
「やっぱりまっすぐじゃないんだな。色も前と違ってねえか?」
細かいことによく気がつく、パーマが少しずつとれても元々少々天然ですし、染めていたカラーも薄まり微妙な色合いになっている。
(説明しにくいからそこには触れないで。)
話しを逸らそうと私は、
「土方さんも女性みたいに長い黒髪。」
言ってから発言ミスに気づく、長いのはあたり前だった。彼は、何言ってんだというような顔をしている。
「わ、私、部屋に戻ります。ご馳走様でした。」
立ち上がろうとした私の手を掴み、見つめるその顔は、今さっきとは違っていた。そして私に言った。
「屯所に戻る。髪、束ねてくれねえか。」
(屯所に戻る・・・鬼に・・戻る・・・)
その手伝いを私に・・・
(嫌だ!)
と、言いたかった。でも、私の目を見て言った彼は、そんな言葉を待ってはいない。
「櫛と束ねるものを持って参ります。」
「ああ、待っている。」
部屋に戻り手鏡と櫛、必要なものを手にすると、もう一度しっかり自分の心に言い聞かせた。
(考えるな! 何も考えるな! 知っている記憶など思い出さず、心の引き出しに仕舞い込み鍵をかけてしまえ!)
私は今この時代に生きる、ただのひとりの女。
小走りに戻ると土方さんはもう部屋の中に座っていた。
部屋に入る手前で、大きく息を吸い静かに吐いた。
「お待たせしました。」
彼の前に手鏡を立て蓋を開けると、そこに映し出された顔は穏やかに見えた。
後ろに回り土方さんの髪に触れると、まだ乾ききっていない黒髪は少し冷んやりしていた。丁寧にゆっくりと櫛で梳かしていく、長く美しい黒髪、やがてこの黒髪を切る時がくる。
男達は、過去を切り捨てるように長かった髪を切り、着慣れた着物を脱ぎ捨て新しい洋装にその身を包む。
でも、新選組の男達は、今目の前にいて私にその髪を委ねる男、土方歳三は、過去を、自分達の誠を、切り捨てることなど出来なかった。
髪や装いを変えても、心の中までは変えられない。
心の『誠』は貫いた。
「どうした? 月子、手止まってんぞ。」
「あっ、ごめんなさい。苦手なんです、髪まとめるの。」
「適当に束ねてりゃいい。」
「適当になんか出来ない!」
「どうした?」
手が震えて持っていた櫛が土方さんの膝の上に落ちた。慌てて拾おうと後ろから手を伸ばすと、その手を彼に掴まれた。
「なんで泣いてる? 月子。おまえの心ん中には何があるんだ?」
私は知らぬ間に涙を溢してしまっていた。さっきまで泣いてなどいなかったのに、雨にごまかすことも出来ない部屋の中で泣くなんて、もう、流れ出した涙を止める術がない。
「おまえ、ホントに泣き虫だな。」
手鏡の中の土方さんが笑う。
「仕方ねえ、今日は背中貸してやる、着物は借りもんだが、泣きたいだけ泣け、月子・・」
私の両手を優しく握りしめながら彼は言った。
本当に私、ここに来てから泣き虫になったのかもしれない。
どれくらいそうしていたのか、顔をあげた私に、
「じゃ泣き虫さん、そろそろ髪、頼めるか。」
土方さんが優しい声で意地悪く言った。
髪を束ねた土方さんは刀を腰に差すと静かに戸口に向かう、最後まで源左衛門さんも鉄之介も何も聞かなかった。
やはりこの親子は凄い人物だ、私を受け入れ、この状況をも静かに受け入れられる。
私は手にしていた傘を土方さんに手渡そうとした。
「これくらいの雨、傘はいらねえ。」
「いえ、差さなくてもお持ち下さい。」
私は押し付けた、源左衛門さんが、
「土方様、その傘には幸菱屋の屋号が入っております。昨夜は私どもの店に一晩中土方様はおられました。」
そう言うと、土方さんは驚いていた。
(おそらく鉄之介から聞き、全てを察しているはずなのに、ここにいたことにすると言ってるのか・・・)
傘を受け取る彼の手が、ほんの少し震えていたように感じたのは、秋の深まりのせいなのだろうか。
私はもう目を逸らさない。どんな未来も、いや、私には過去だが、彼らの未来をともに見つめる。