包みたい
宴の後はいつもどこか寂しい空気に包まれるものなのかもしれない。
ただ、今私の目の前できっちりと座り、じっと畳を見つめる人、
『新選組副長 土方歳三』
この人の周りの空気は寂しさだけではないような気がする。
哀しみ、苦しみ、仲間を思う愛しさ、その愛しさゆえに貫かねばならぬ誠。
どれほどの思いがこの人を包み、いや、縛り、その身をがんじがらめにしているのだろう。
「歳、大丈夫か? あの人は無茶苦茶な人だが、新選組を守ろうとしている事だけは確かだ。」
「そんな事は分かってる!」
土方さんは怖い目で私の方を見た。
「月子、外してくれ。」
(おまえには聞かせたくない。)
「はい、ご用がございましたらお呼び下さい。しばらくは誰も来させません。」
頭を下げその場を後にした。
「頭のいい女性だな、月子さんは。」
近藤の言葉に土方は、
(だから困るんだ。あいつは周りのちょっとした言葉や空気にすぐさま反応する、おまけにまっすぐ心をぶつけてきやがる。押し潰されそうになりながら思いが止められねえ、厄介な女だよ。月子・・・)
考えながらクスリと笑ってしまった。
「歳、思い出し笑いはやめろ。」
「してねえ!」
「いや、してた。」
「近藤さんが頭がいいなんて言うから、あいつは頭が悪い! あそこで箒構えるか?」
「あれは注意を自分に向け、たかがの一言を引き出して・・・」
「分かっている、だから馬鹿なんだ。全部自分ひとりで被ろうとして・・・」
近藤は吹き出した。
「おまえ、惑わされちまったな。」
そう言ってまだ笑っている。
「ば、馬鹿なこと言うな! いくら近藤さんでも・・って、こんな話しするために外させたんじゃねえ。」
「ああ、そうだな。」
ふたりの顔が険しくなった。
きっとふたりは芹沢さんの処分を考えているのだ。
会津藩主松平容保公より処分を命じられているのかもしれない。
手を下すのは、土方さん・・・芹沢さんはすでに何かを感じているのだろうか?
「鬼になれるか?」
確かにそう言われた。
土方さんはいつから、『鬼の副長』と呼ばれるようになったのだろう? 芹沢さんを斬り、鬼となったのか? 私はずっと考えていた。
変わることのない事実。変えてはならない真実。
「帰られますよ、近藤さん達。」
鉄之介の声に引き戻される。
(私も、帰りたい・・・)
見送りに出た私の顔を見て土方さんが、
「おまえ、うたた寝でもしてたんじゃねえか? ぼぉ〜っとした顔して。」
「してません!」
「集中しろ月子。お・れ・に。」
(ハァ・・何、これ?)
前にも言われた。嫌だ私、頭がこんがらがっていく、ポカンとしていた。
からかうように笑っていた土方さんの顔が急に変わり、私をじっと見つめ、
「あの人を許してやってくれ。あの人・・芹沢鴨は不器用な男なんだと思う。すまねえ、月子。」
なぜ、なんでそんな事私に言うの。不器用なのは土方さん・・・あなただ。あなた達みんな不器用で、馬鹿がつくほど正直で、まっすぐで、優しい。
なんでこの時代の人達はみんな、こんなにまっすぐなの? 武士と呼ばれる人達だけではない。みんなが、生まれや育ち、立場が違っても、それぞれの生きる場所で心の中に、『信じる誠』を持っている。そして、明日を信じている。
私がいた時代が、少し恥ずかしい。
浅葱色は、幾度私を揺らすのか・・・。
この夜の土方さんの言葉を聞いていなかったら、私はまた止められず、走っていたかもしれない。
静寂の秋の夜は来ないのだろうか?
九月の雨が冷たく皆を濡らす。
その夜、雨脚はどんどん強まり、大雨となっていた。
狂ったように降る雨の中、男達が襲う。
芹沢はこともあろうか肌を許さぬ芸妓に激怒し、罰として断髪などという女にとっては堪え難い乱暴を行ったのだ。もう、何かが狂っていたのかもしれない。
そしてとうとう朝廷から捕縛命令が出てしまう。同時に密命は下された。
芹沢鴨を、粛清せよ。
「今夜は新選組の皆さん、芸妓総揚げの宴会だそうですよ。土方さん、なんでうちでして下さらなかったのかな・・?」
して頂かなくて良かった。もし彼の采配なら、わざとうちを外されたのかもしれない。
心が痛い・・・今、あの不器用な人の心の中は・・いったい・・・
雨が強まる。私の心の中、雨粒が激しく叩き、雨音が耳を塞ぐ。
したたか酔った、いや、酔わされた芹沢は、土方達と八木邸に戻りさらに飲み、女と床につく。外は雨、女の肌は温かかっただろう。
雨の激しい音が男達の気配を消す。土方、沖田、山南、原田。
泥酔しているとはいえ、相手は神道無念流免許皆伝。あの何にも怯まぬ芹沢鴨。
土方は自ら部屋の様子を何度もうかがい確認する、失敗は許されない。一度きり、今夜だけしか機会はない。
雨は味方してくれているのだろうか?
土方は真っ暗な空を仰いだ、顔に打ちつけられるまっすぐな雨の矢。
(闇討ちにはおあつらえ向きの雨か・・・これじゃぁ血も涙も全部流れちまうな・・。)
苦笑する顔が苦しく歪む。
仰いでいた顔をおろしまっすぐ前を見つめた、他の三人に合図を送ると四人は同時に斬り込んだ。
芹沢に斬りつけたのは沖田だ、一太刀では仕留められない。芹沢は刀を取ることも叶わず隣室へ流れ込む、追いかけるのは鬼と化した男達。
芹沢はもう気づいていた、顔を覆っていても、今目の前にいる刺客達が誰なのか。
(不覚をとったか・・、これも我が道。)
幾太刀も斬りつけられ喋ることなど叶わないはずなのに、土方には聞こえた。
「誠を貫け! 鬼になれ! 土方・・・」
全ては闇の中、雨に流される。
長居は出来ない、騒ぎを聞きつけた他の隊士達に捕まるわけにはいかない。もちろん、邸の者にも刺客に襲われたと思わせる。
四人は散った。少し落ち着いた時に、何食わぬ顔で現れなければならない。
血の匂いを消し、刃のこぼれを隠し、鬼の顔も覆い隠して。
土方は他の三人と分かれ、まだ強く降る雨の中、ただ歩いていた。返り血も、その血の匂いも簡単には消せないだろう。
(これから先、幾度となくつくこの匂いが、俺の匂いとなるんだろう。慣れるものだ、鬼になるならなおのこと。)
薄ら笑う自分に吐き気さえ覚える。だがもう立ち止まれない、どんな暗闇の中でも前に進まなければならない。
朝が恋しく、その輝きは疎ましい。それなのに・・・
雨が視界を遮るはずなのに、その光はしっかり前方に見えた。自分と同じくらい濡れている、なのにその雨粒がひとつひとつ輝いている。
(・・・馬鹿な・・・・・)
私はどうしてこんな雨の中、歩いているんだろう。
眠れなかった、そして、じっとしていられなかった。
鬼にしたくなかった。
変えられぬ事実なら、変えてはならないなら、せめて傍にいたい。
邸には行けない。ことの後、どこにいるのかも分からない、なのに、ただ行かなければと、その想いだけが私を動かした。だから目の前遠くかすかに浮かぶ姿が、夢か現かも分からなかった。その聞き覚えのある低く響く声が雨音を裂き耳に届いた時、体は動きを止めていた。
「月子!」
俺は、叫んではいけない、声などあげては駄目なのに、動かなくなった光に向かい名を呼び、水溜まりを蹴っていた。
目の前の光を掴むように引き寄せた。
俺の腕の中、濡れた女が震えている。血の匂いなんかで包んだら駄目だ、分かっていても離したくない。
「また迷ったのか?」
「迷っているのは、土方さん。」
「俺は迷っちゃいねえ、もう迷えない。鬼になったからな。」
「鬼はこんなに震えない、・・・心が震えている。」
俺が何をしてきたのか、おまえは知っているのか? 知っていて今、ここにいるのか?
「よく見ろ! 暗くて見えねえのか! 随分雨が洗い流したが、着物の返り血、それにこの血の匂い、俺は今・・」
月子の手が俺の口を覆い、静かに顔を横に振る。
「そこに誠があるのなら、あなたはどんなことも越えていくのでしょう。」
そう言って、泣いているのか微笑んでいるのかおまえの瞳が少し動く。
抱きしめる腕に力が入り、俺の口を覆った手を掴みそのまま唇をつけた。小さく柔らかい手、なのに俺の心を包み込む。おまえの体の冷えがその手に押しあてた唇から伝わる。
「体が冷えてる、いったいどれくらい雨に打たれた? 大丈夫か?」
コクリと頷くおまえが愛おしい。
「土方さんもずぶ濡れ、水も滴るいい・・」
「いい女だ!」
「お褒め頂きありがとうございます。」
「馬鹿野郎・・」
「馬鹿って・・クシュン・・・」
「風邪ひく・・ヘックション!・・」
「くしゃみも豪快なこと。」
「うるせい!」
月子の体に回した腕をほどくことなく、俺達は笑っていた。鉄之介が心配して捜していたことは知らなかった。
ただ俺は、この女を、月子を離したくない。
俺の中に、守りたい大きな存在が生まれた。
時代は駆け足で進む、先に待つものなどその時の俺には分からなかった。