包まれて
涙に限りがあるのなら、私の涙はなぜ涸れない。
私はここにいないはずの人間、幻のはず、この時代に生きる人々には捉えられぬ存在でなければならない。なのに、私は捉えられている。
私の心は理解しているはずの頭の中に反し、どんどんどんどん捉えられ包まれる。
「つ・・き・・こ・・さぁ・・ん・・・月・・子・・さぁ・・ん・・」
遠くから聞こえる声が、
「月子さん!」
近づきすぐそばの声になるのに気づくと、どちらともなく体が離れ、ほんの一瞬、私達は互いの目を見つめると次の瞬間には、私の瞳の潤みは消え、彼の瞳は浪士組の副長の厳しさをまとった。
「おぉ鉄之介、やっと現れたか。しっかり見てねえと、こいつ迷って江戸まで行っちまうぞ。」
「土方さんが見つけて下さって良かった。京は今、色んな人が集まり何が起こるか分からないですから。だから月子さん、手を離したら駄目だと・・」
「おまえら手つないで宵山見物してたのか! おい、沖田を倒した女だぞ、手はつながなくても・・・」
「あれは沖田さんが油断されてましたから、今日は月子さんが油断されている。危ない危ない。」
(こいつ、しっかり見てんだなぁ・・ってことは、俺が油断につけ入ったってことか・・?)
土方さんは思わず笑い出していた。
「どうされたんです?」
「な、何笑ってるの。」
不思議そうにぽかんとしている鉄之介とは違い、私は急に恥ずかしいような、腹立たしいような複雑な気持ちになり、慌てる自分に更に腹が立つ。
「悪い、悪い。しかし鉄之介、おまえは不思議な奴だ。じゃ俺は巡察に戻るから、気をつけて帰れよ。」
そう言って行きかけたが、私の横で立ち止まるとすっと屈み、何かを片手で拾い上げると私の前に差し出した。さっき滑り落ちた髪飾りだ。
「ほら、ちゃんと髪まとめとけ、そのままじゃ目立ちすぎる。もう迷うなよ。」
ほの暗い中、優しく浮かぶ浅葱色が、灯りの方へ消えていった。
「帰りましょう、月子さん。」
鉄之介の言葉に、帰っていいのね? 私。心の中で呟いていた。
迷子になりかけた心がしっかり今を見つめだし、私の日々はまるでずっと昔からここにいたように、また動き出した。
京の夏は暑い。ビルに囲まれアスファルトが地面を覆うあの時代に比べればまだましなのかもしれないが、それでも暑い。
(私、あの時代って・・・)
まるで昔話みたいに思う自分に苦笑する。
あの時代は、私の時代。この時代は、彼らの時代。しっかり心に刻んでいなければいけない。
そして暑い京の夜を、さらに熱く焦がす事件が起きる。
八月、芹沢さんは壬生浪士組への軍資金を頼んだ生糸問屋大和屋が、要請を断ると怒りを爆発させたのだ。
それは決して理不尽なだけの怒りからの行動ではない。かねてから大和屋は生糸の買い占めをおこない、あげく脅されたとはいえ、不逞浪士にはお金を渡していたらしい。芹沢さんはちゃんとそれを知っていた。
真夜中、近隣の者には伝えて、彼の行動の火はつく。
大和屋焼き討ち事件。
土蔵に火を放ち、屋敷も灰となる。
「いくらなんでもありゃぁやり過ぎだ。」
原田は誰に言うでもなく呟くように言った。
「知ってたのか? 近藤さん。」
眉を寄せたまま答えぬ近藤に、永倉もそれ以上は聞けなかった。
「京の町の多くの人は、大喜びしてるらしいけど。」
沖田は気にせず言ったが、
「そういう問題じゃねえ、沖田。」
土方は、是非ではなくやり方だと考えていた。必ず上からは問題視されるだろう、あの人は周りを見ない、見れていないのではなく、わざと見ていない気がすると思っていた。
土方さんが思っていたように、この焼き討ち事件を知った私は思った。
芹沢鴨、この人はなぜこんなに急いでいるのか? この人の今という時間は限られているとでもいうのだろうか。
庶民の声に反して、彼ら壬生浪士組を預かる会津藩主松平容保は憤る。芹沢さんは、大和屋に火を点けると同時に、自分の足元にも火を点けてしまった。
この大和屋の一件からほどなく、壬生浪士組は非正規部隊でありながら、その働きを大きく評価される事が起こる。それが、八月十八日の政変、文久の政変とも呼ばれ、朝廷内急進派の攘夷派を一掃する計画が実行され、浪士組は御所の警備に出動した。
この時、芹沢さんは門を通そうとしなかった会津藩士の槍にもまったく怯まず、悠然としていたらしい。
そして、壬生浪士組は新たな隊名『新選組』を拝命する。
「月子さん、今夜はあの方もお見えになられますから、あまり顔は・・」
「分かってます! 私だって顔を合わせたくはないです。」
鉄之介が心配して言ってくれているのは分かる。でもなんか最近、彼、年上目線で言っているみたいに聞こえてつい・・・とりあえず宴席の障子より中に顔は出さない。ちゃんと心得ていたつもりだ。
(ホントにちゃんと心得ていたんです。)
なぜならもう、ひと月とない。色んな意味で顔を合わせたくなかった、芹沢鴨。
それにあの日以降、私は隊士の皆さんの誰とも会ってはいなかった。
奥にずっとおられますかと源左衛門さんにも言われたが、それは嫌だった。ここで生きている以上やるべき事はやりたい。それで会ったら会った時のことだ。逃げたり隠れたりはしたくない。
また、それが良くなかった・・・いや、元々の原因は私ではなかったが、それでも私のミスだ。
宴席の部屋を掃除した子が箒をしまい忘れていた。しかも悪い事に逆さまにして、廊下の端に立て掛けていたのだ。
全国共通かは知らないが、お客様がお見えになり、そのお客様に早く帰って欲しい時、こっそり箒を逆さまに立てておく、古くからのおまじないのようなもの。
そんな物をまさか見つけて怒り出すとは・・・立て掛けた子は当然そんなおまじない全く知らなかった。
まだ陽が暮れ始める前、隊士の皆様は次々お見えになられた。もちろん隊士といっても幹部クラスの面々だ。
皆様が部屋に完全に入られるまでは台所で運ぶものの采配をしていた。すると、
「・・・帰れ・・いう意味・・・!」
途切れ途切れだが大きな怒鳴り声が聞こえてきた。その声にもちろん聞き覚えがある。
私は勝手に走り出していた。庭の奥からまわり込み、いつもの部屋の前の庭先から廊下に上がると目の前にはやはりあの男、芹沢鴨が立っていた。
芹沢さんの前には鉄之介、そして間には土方さんと近藤さん、開け放たれた障子のむこうには皆さんがいて、
「飛んで来たという事はおまえが置いたのか!」
(何、なんのこと?)
「違います、彼女ではありません。」
鉄之介が答えていた。
「では誰だ! すぐさまここに連れてこい!」
「使用人のした事は全て私の責任でございます。どうぞお許し下さい。」
彼はその場に座り頭を下げた。やっと原因が逆さ箒だという事が私にも分かった。
「鉄之介、責任をとるのだな、覚悟は出来ているな!」
(何が覚悟だ!)
また私は止められなかった。
「覚悟とは? どうぞ斬るなり焼くなりご自由に!」
そう言うと、私は立て掛けられていた箒を持ち、まっすぐ芹沢さんの前に突き出した。すぐに芹沢さんは手にしていた鉄扇で払いのけた。
「月子!」
「月子さん!」
土方さんや皆さんの声は聞こえたが、払いのけられた箒を私はまた構えていた。
「ハハハ、月子、いつの間に隊士達をたぶらかした! 土方まで惑わしたか・・・女の体は恐ろしい。」
(こいつ!)
「芹沢さ・・」
「芹沢様、いくら芹沢様でも失礼です。月子さんはそんな女性ではない!」
土方さんの声をさえぎり鉄之介が顔をあげきっぱりと言った。一瞬だが芹沢さんの意識が退いた気がした。私は彼の言葉に驚いたが相手は芹沢鴨、こんな事で終わる訳がない。
「鉄之介、おまえももう虜か? よほど良いらしいな。情けない二代目だ、まさか初めての女・・・ハハハ・・笑えるぞ。」
「ふざけるな! 鉄之介さんは情けない二代目なんかじゃない! 土方さんだって私なんかに惑わされたりしない、隊士の皆さんだって・・、あなたはご自分の仲間を信じられない可哀想な方です! そうやって周りに突っかかってしか生きられない。見栄張って、強がって・・仲間の前では素直でいても・・」
「やめろ! 月子、話し逸れてんぞ。」
土方さんが困ったような顔で言った。私は芹沢さんに言いながら、いつの間にか自分自身に言っていたような気がする。
「どけ! 私は今この女と話している。月子、その構えは薙刀だな、私と立ち合うつもりか?」
「芹沢様に勝てる訳がございません。それでも芹沢様が仰られるなら。」
周りの皆が驚き、止めようとするより先に、
「面白い女だ。だが箒相手に立ち合う気はない。」
呆れたような声で芹沢さんが言った、私はその言葉を待っていた。
「そう、たかが箒でございます。逆さであろうが何であろうが、芹沢様の進まれる道に影響を与えるはずなどございません。」
(逆さ箒で誰かが傷つくなんておかしい。)
「ハハハハハ・・・誠だな。」
そのまま高笑いながら部屋へ入られた。呆気にとられるみんなの姿に、全員から力が抜ける音が聞こえそうだった。
何事もなかったかのように宴席は始まる。
じっと固まっている私の手から、指を一本一本ほどくようにして鉄之介は箒を取った。冷たい私の指先に鉄之介の手が熱い。
「ごめんなさい。」
「私は何回そのごめんなさいを聞かなければならないのでしょう? 慣れてくる自分が怖いです、月子さん。」
笑いながら言うと熱い両手で私の手を包んでくれた。
鉄之介が私の名を呼ぶ声、『月子さん』が、なぜか懐かしく私の心を柔らかくする。
少し危惧していた宴席も無事終わり、私は玄関の奥から目立たぬように頭を下げ皆様をお送りする。でもおかしい、芹沢さんに近藤さん、土方さんの姿もまだない、まさか・・私のした事で何かあったら・・慌てた。立ち上がり小走りに部屋へ向かう、早く、急がないと、心がまた・・・痛い。
部屋の前まできた時だった。
「甘い! 土方、おまえが成したい事はなんだ。信じる誠は。守りたいものは!」
酔っているはずの芹沢さんの声に全く酔いは感じられない。その証拠に、あの鉄扇がピタリと土方さんの額の前で止まっている。きっと私はその瞬間、ビクリとしたのだろう。気づかれたようだ。
「心配するな。私はこの扇で人を殴ったりはしない。ましてや仲間を・・・ハハハ、かなり酔ったか?」
そう言って部屋を出る芹沢さんが振り返らず、庭の緑の桜の木を見つめながら、
「バラバラのものをまとめる時、それらをひとつに貫く針が必要、尖らねば貫けぬ。貫かれる痛みより貫く痛みが大きかろう。まさしく針より鋭い角を持つ鬼にならねば出来ぬ。鬼になれるか? 土方。」
静かに言うと、答えを待つでもなくそのまま行かれた。
私には最後の言葉、『鬼になれ!』そう言っているように聞こえた。
芹沢さん、あなたが言ったその言葉を守ったのだろうか? 鬼はあなたを、粛清という名のもと暗殺する。
それは九月に暦が替わり半分が過ぎた頃。
浅葱色が血の色にどんどん染まっていく真実を、私は見つめていくのだろうか。