陽だまり ~The Final Destination~
「……あえて簡潔に言いましょう。末期の癌です。そう長くは持たないでしょう」
そんな通告をされたのは、つい先日の話。特に体調が悪かったわけでもなく、普段通りに縁側で緑茶を啜っていた途端、私の視界は暗闇と化した。
私もいい年だし、そろそろ天から迎えが来たのだろう。真っ先に過ぎったのは、そんな諦めにも似た感想。
しばらく会っていない娘も、私が倒れたと聞いた際にはすぐに駆けつけてきた。別に疎遠になっていただけで、嫌われていたわけではなかったのだろうけれど、それでも久しく見る娘の顔、そして孫の顔はほんの少しの安寧を私に与えてくれた。
そして、娘も先の通告をほぼ同じ口調で医者から聞かされる。目を見開いて涙を滲ませていたことに驚いていると、子供のように私に抱きついてくる。その様子を見ていた孫も、一気に幼くなった母親を見て不安になったのだろうか、共に涙を滲ませる。
少し、悪い気がした。同時に、愛されているのだなぁとも思った。こんな想いを抱くのは、先に逝ってしまった大河の最期の言葉以来だ。あれから十余年の時が過ぎたが、あの愛情が色褪せる日は私が死ぬまで訪れないだろう。
しかし、それも冗談で済む話ではない。私を蝕む病魔は刻一刻と侵攻し、命の火を消そうと躍起になっている。
今のうちに、悔いを残さぬよう出来ることはしなければ。私は八十後半となって止めかけた絵描きを再会し、ありとあらゆる風景を描いた。実家の母屋、近隣の山々、青い空……。
絵を描くことを心から楽しめなくなってしまったのは、いつ頃からだろうか。老衰でボケが生じたこともあるのだろうけれど、それよりもやはり私の絵をいつまでも好いてくれていた存在――大河が居なくなったことが大きかった。
彼は最期の最期まで私を愛し、そして私の絵を愛してくれていた。
そして彼が逝き、独り身となった私は次第に絵を描くことから離れていった。結婚したての頃は蓄財もなく、日々の生活費を稼ぐために二人して懸命に働いたものだ。
籍を入れる際にも実家とのトラブルは絶えず、勘当という形で決着をつけたことすら、まるで昨日の様に鮮明に思い出せる。あれだけ耄碌しておきながら、よく膨大な量の記憶の引き出しを制御できるものである。少し吃驚。
……少し話が逸れてしまった。私は余命の全てを燃やし尽くすかのように、ひたすら絵を描き続けた。一時の栄華を思い出すかのように、この世界に私『越智真由良』が存在した証を少しでも多く残すため、とにかく描き続ける。
しばらく描き続けたが――心に残るものはなく、何故か空っぽだった。
「違う……私は、何をしている……」
呟きながら、私は幾枚もの絵を眺めた。昔より腕は衰えたとはいえ、それでも我ながら絵心はまだ残っていると思う。
けれど、決定的に何かが違う。私の求めている『証』とは、こんなものじゃない。では、何が違うのだろうか……随分と回転の遅くなった頭で、ひたすら考える。考え続ける。
それでも、私一人では答えを導き出せなかった。もやもやとした気持ちは晴れず、結局スケッチブックに風景を描き殴る日々に戻る。
それから数日後、私は死期を悟った。医者の通告は確かで、自身でも分かるほどに身体が蝕まれている。もう、三日と持たないだろう。
今更のように、死というものが怖くなった。昔は時期が来たらぽっくり逝くものだと思っていたけれど、いざ体験してみるとそんなことは決してない。どれだけ年を取ろうと、幾つ大切なものを失おうと、死ぬことが怖いのに変わりはない。
私は、次第に焦りを覚え始める。遂には描き殴っていた腕も止まり、ペンを持つことすらままならなくなっていた。恐怖と肉体の衰えが震えとなって体を侵蝕し、描きたいものを描かせてくれない。
このままで、いいのか。こんな情けない姿で、大河に会いたくない。
零れ落ちる涙がスケッチブックを濡らし、描きたての絵に新たな模様を作る。けれど、そんな模様も涙目の私には歪みにしか見えない。
涙なんて枯れていたと思い込んでいた。けれど、私はこんなにも泣ける。死にたくないと魂が叫んでいる。反面、大河に早く会いたいとも願っている。
その様子を、偶然娘が見ていた。私が体調を崩してからというものの、私の家に看病しに来てくれるようになっていた。
「母さん……気分悪いの?」
「気分……悪くはないよ」
控えめに掛かる声に、私は思わず笑みをこぼしながら答える。もうすぐ死ぬ身だと言うのに、これ以上迷惑をかけられない。
そんな私の強がりを、娘は見逃してはくれなかった。困ったような表情になりながら、優しく私の肩を抱きしめる。
「……嘘ばっかり。私、ずっと心配してたんだから。父さんが亡くなってから、母さんすっかり元気なくしたもの。
こんな時じゃないと言えなくて、本当にゴメンね。けど――」
囁きかけながら、娘は肩を抱きしめる力を強める。そして、続ける。
「もう、遠慮しないで。もっと我が侭になって」
「……いつの間に、こんなに成長していたんだろうね。彩菜」
娘の名前をそっと呟きながら、私は幸せな気分に満たされた。
そうか、迷惑をかけるとかかけないとか、私にはもう関係ないのか。けれど、こんなに立派に育った娘が私を看取ってくれる。これ以上の幸せを求めるのは贅沢じゃないだろうか。
そんな考えすらも見透かされたのか、娘は慈しむような表情になると私の真っ白な髪を撫でる。
「大丈夫、私は母さんが思ってるよりずっと大人だから。今したいこと、何でも言って?」
枯れた心に染み渡る言葉が、涙腺を更に弱める。滝のようにあふれ出す涙はとめどなく流れ、娘の肩とスケッチブックを濡らしていく。
ここで、本当に望みを言えるのなら、私は――。
「――彩菜、私は……大河に逢いたい。連れて行っては、くれないか?」
「母さん、それって……」
「いや、まだ私は死ねないよ。連れて行って欲しいところがあるんだ――」
実家から車で揺られること数時間。昔思っていたより技術が進歩しなかった日本は、土地開発こそされど革命的な技術を生み出すこともなく、今も昔もこの場所に来る所要時間はさして変わらなかった。
ただ、決定的に一つだけ変わったことがあるとすれば……明らかに木の数が減り、樹海は最早名ばかりの草原と化していた。
私と大河が死のうとした場所。運命に導かれて出会った場所。生きる意味を得た場所。
今にして思えば、あの時はよくあれだけの理由で命を投げ出そうとしたものだ。お互いに心が折れるのが早すぎるだろう……そんなことを考え、ふと笑みがこぼれた。
「着いたよ……ここに、父さんがいるの?」
「えぇ……大河が来る場所なんて、ここしかない」
車を降りた私は、杖を突きながらゆっくりと歩き出す。私と大河が出逢った場所は、もう少し先にあるはず。
心配そうについてくる娘と共に進むこと三十分位だろうか、まだ人間があまり手を着けていない区域に差し掛かった。ここはまだ樹海独特の薄暗さを保っていて、やっと雰囲気が六十年前と似たものになる。
舗装されていない凸凹の道は老いた私には厳しいものがあった。杖を突いた先に細かい石ころが当たり、躓きかけることもしばしば。
時々休憩を挟みながら、娘の手を借りながら、着実と前に進み続ける。
あの場所に着くまで、まだ私は死ねない……意地でも死んでたまるものか。
「はぁ、はぁ……」
私の娘とはいえ若くない彩菜は、長距離の移動で疲れたのか息を切らしていた。私も疲労は溜まっていたものの、目的意識が疲れを忘れさせひたすら体を突き動かす。
そして――遂に、見つけた。
「……久しぶりだな、私の死に場所」
木々が無造作に並ぶ樹海で特定の場所を見つけるのは困難だが、私は確信していた。この場所こそ、私が大河に出逢う直前まで絵を描いていた場所である、と。
十干十二支が一周するほどの時を経て尚、変わらない樹海独特の静けさ、そして薄暗さ。何より、私が座っていたであろう倒木がまだ手付かずで残っていた。
間違いない、此処こそ私と大河の出逢った場所なんだ。
「母さん、ここは?」
「……ここはな――」
それからというものの、私は娘に過去の出来事をたくさん話した。生まれから両親の事故、大河との出会い、結婚に至るまでの苦難、等々。
何故、娘に今まで一度も話したことがなかったのだろうか。話す機会が無かったし作らなかったのは確かなのだが……もしかしたら、無意識にこの思い出を私だけに留めようと思ったのかもしれない。
けれど、そんな気持ちはもう意味を成さない。死ぬ間際に、せめて肉親――私の一人娘位には、真実を知ってもらわないと。
私の境遇を聞いた娘は、それはもう驚いていた。親が双方身寄りが無いため、子供の頃は娘にも苦労させたものだ。今となっては、慌しかった子育ても笑い話として語れるが。
全てを打ち明けたとき、まだほの明るかったはずの太陽は天辺に近づいていた。かれこれ三時間近く語っていたかと思うと、時の流れの速さを嘆かざるを得ない。
こうしている間にも、病魔は私を喰らっている。喰らい続けた先に待つものは宿主の『死』であるとも知らずに。
「……彩菜、鞄は持って来たかい?」
「えぇ……」
この命尽きる前に、為すべきことは為さねば。私は娘の手から鞄を受け取ると、中から一冊のスケッチブックを取り出す。
『あの時』から一頁も進まない――否、あえて進めなかった私の人生の集大成。最後の頁を埋めるときが私の死、そう決めていた。
そして、今こそこの頁を埋めるときだ。私の思ったより長かった、本来なら存在し得なかった六十余年分の人生に今、終止符を打つ。
改めて頁を捲ると、スケッチブックは思いの外埋まっていた。その数たったの三頁……埋めようと思えば一時間以内に埋まってしまう量だ。
つまり、大河に出逢うのがあと一時間遅かったら、私はこの世に存在していなかったことになる。やはり、この人生は大河と運命の女神が与えてくれた奇跡としか思えない。
クスリと苦笑しつつ、私は鉛筆を手に取るとゆっくり描き始める。やはり衰えた体は言うことを聞かず、思ったように線が描けない。
それでも、あらゆる筋力と視力をありったけ使い、時間を惜しまず描き続けた。
「……母さん、これは?」
一時間ほどかけて描いた絵は、線は歪み黒鉛は滲み、我ながら過去最悪の出来であった。それでも、現時点ではこれが精一杯。
絵の内容は、真っ黒な夜空を背景に光り輝く三角の何か。そしてその正面で口付けを交わす二人の人間。
「これはね、彩菜が生まれるきっかけになった出来事なんだ。随分と昔のことだけど」
「…………」
これ以上の説明は必要ない。理解し得ぬ芸術を、無理に理解する必要はないのだ。
儚く輝くクリスマスツリーの絵を数秒見つめた後、見開きで対になっている頁を開く。私の人生も、残り二頁。
先ほどの一枚でかなり消耗したものの、私はそれでも描き続ける。感覚を徐々に取り戻しているのか、今度はシンプルながらもすぐに描けた。
内容は、至極ありふれた光景。二人の大人の間に、一人の子供。手を繋いで仲良く歩く様を容易に想像出来る、単純明快な絵。
「これは……誰?」
「さぁね、想像に任せるよ」
私は、何を思って描いたのか少し迷っている。私と大河、そして娘なのか……もしくは、私と私の両親なのか。
どちらも、かけがえの無い大切な家族。かけがえが無いからこそ、その二つの片方を選ぶことは出来ない。だったら、答えを曖昧にしてもいいじゃないか。
答えが簡単に導き出せる問題なんて、面白くない。それはきっと娘にとって、死ぬまで分からない謎となるだろう。
――もし私に追いついたら、そのときに答えは教えてあげる。それまでに私も、答えを探さないと。
言葉にはしなかったものの、娘も直感的に悟ったのかそれ以上の言葉を発することは無かった。ただただ、毅然とした態度で私の行動を見守っている。
その事実に妙な安心感を覚えつつ、私は最後の頁を捲る。
これが、私の人生の最後の一頁。これが埋まったとき、私の人生も終わる――。
「げほっ、げほっ!」
「お母さんっ!」
急に吐き気に襲われたかと思うと、鉄のような味が口内に広がる。視線を足元に落とすと、地面にはどす黒い血溜まりが出来ていた。
スケッチブックを汚さなかった自分を少しだけ賞賛しながら、薄れ行く意識の中で必死にペンを動かす。殆どその体を残していない蝋燭のように消えていく命を感じながら、消える前に天命を全うする。そのためだけに私は描く。
しかし、次第に目が霞んできた。スケッチブックにピントが合わず、揺らめく陽炎のような視界に戸惑いつつも、感覚だけで描き続けた。
これを描き終えたところで、もう使い物にならない目では確認することもままならない。せめて、娘と大河にだけは見て欲しい……。
『きちんと見てるぜ。俺の大好きな絵なんだからな』
「た、大河……!」
幻聴、だろうか。けれど確かに、私の頭の中には大河の声が聞こえた。慌てて娘に振り向くものの、心配そうな目で私を見ているだけ。
どうやら、最期の最期に私に声をかけてくれたらしい。もう、迎えの準備は万端なのだろうか。
そんなことを考えていた矢先、私の腕の力が抜ける。その拍子に、スケッチブックが地面に落ちた。
もう、力が入らない。目の前も見えない。何より、意識が朦朧としている。
「お母さんっ! お母さぁぁぁん!」
「あ、やな……ごめ、んね」
「もう喋らないで! ……謝ら、ないで」
私が倒れたことで涙を流しながら私にすがりつく娘。とっても嬉しいのだけれど……何もして上げられない。もう、言葉を発する元気もない。
遂に、時が来たか。まだ、描きかけだったのにな。あと、少しで描き終えたのにな。
昔から画竜点睛を欠いていて、大河との出逢いで克服したと思いきや、最後の最後に画竜点睛を欠くとは。もはや笑うしかない。
大河、今からそっちに行くから……待ってて――。
『まだ、完成してないじゃないか。そんな終わり方、真由良らしくないぞ』
「……ま、だだ」
「お、かあ、さん……?」
強気な大河の声が頭に響いたかと思うと、身体がすうっと軽くなる。先ほどまでのガタが嘘のようだ。
ゆっくりと体を起こすと、私はスケッチブックを拾い、そして再び描き始める。不思議なことに、真っ暗な樹海であるにもかかわらず私の周囲だけ木漏れ日が強く差していた。
あぁ……この暗闇に広がる陽だまりは、きっと大河が私にくれた最後のプレゼントなのだろう。何の悔いもなく、そちらに行かせてくれるように。
すっかり軽くなった体、そして良好な視界でスケッチブックを見つめ、遂に最後の一筆を――入れた。
感覚だけで描いていた割に、その絵は今までで一番の出来と言っても過言ではない出来映えだった。
最期の絵は、あの時と同じく樹海。けれど、そこには二人の人間が抱きしめあっている。
あの奇跡の日……私は忘れない。ここまで私を生かしてくれて、本当に――。
「――ありがとう」
その言葉を最後に、軽かった体は一気にずしりと重くなる。意識も一気に消失し、体とぷっつり切り離された。
永遠に二人でいようと誓ってくれた最愛の人は、本当に最期の最期まで一緒にいてくれた。私の絵を見ていたくれた。
もう、思い残すことなど――ない。
ここは人の寄り付かぬ静かな樹海。時に木材を切り倒しに来る土木業者くらいしか訪れることはない。
時は流れ、静寂を失いつつある樹海で、一人の女が命を失う。
最期まで己の運命と戦い、その天命を全うし昇天した、元自殺志願者。彼女は今頃天国で最愛の人と再会し、幸せに過ごしているだろう。
『Memories』と銘打たれたスケッチブックを抱きしめた死体が見つかるのは、もう少し先のお話――。
最後に……ぐぅぱーさん、お疲れ様でした。あまり参加できませんでしたが、とっても楽しかったです。ありがとうございました!