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きれいな蝶になる話

作者: はじ

久々の更新です。2月に書いていたものをアップしようと思います。



 芽吹いたばかりの若葉の絨毯が延々と広がっている。

 一面に広がる黄緑の中には、時候や環境の束縛から解かれた様々な草花が点在し、その草原は色彩に溢れていた。

 妖艶なラベンダー畑の中には勲章(くんしょう)(きく)が卵色の輝きを放ち、金木犀(きんもくせい)の香りが周囲にたゆたう。真赤に燃え上がる山茶花(さざんか)(さん)丹花(たんか)は、互いに寄り添うよう顔を覗かせている。

 渾然一体とした色模様の地表に対して、天上は単色の蒼空を湛えていた。


 ――そして。

 その画布一面に青色の絵具を塗りたくったような空を、見上げている少年がいた。その少年の周りを取り囲むようにして、蒲公英(たんぽぽ)が群生していた。

 少年は上空から地表へと視線を戻す。

 見える範囲に人工物は一切なく、強いて列挙するならば少年の身に着けている白いシャツと解れたズボンが、唯一人の手が加わったものであった。そのシャツの白さは、この自然の中で一際目立っていた。

 少年は何か警戒するように左右をそれぞれ一瞥し、蒲公英の地帯から抜ける。野芥子や(はる)紫苑(じおん)といった雑草を踏み進む度に、不快な気持ちが少年の胸中に沈滞していった。

 雑草といえども植物であり、植物もまた自身と変わらない生物である。自分はどのような権限があって下方の生き物を踏みしだくのか、先ほどからそのような煩悶を頭の中で抱き、少年は前進する行為に二の足を踏んでいた。


 少年は再び足を止めてしまう。

 足を止め、自身の歩んできた道程を顧みた。

 踏みつけられ横倒しになった草花たちが、一条の道となり少年の後ろに延びている。

 それが少年の歩んできた足跡であった。

 その光景を見て少年は嘆息する。

 この溜め息もやがては突風となって、どこかで誰かの背を押すのだろう。少年はそのような妄想をすることで、鬱屈とした気を紛らわせる。

 ――不意に、少年の近くで藪が僅かに振動した。

 少年はその葉音を聞き、蕾のように肩をすぼめて身を強張らせる。

 息を潜めて音の在りかを捜す少年の瞳は、まるで中空を飛ぶ羽虫を追っているかのように機敏に可動した。

 植物の呼吸音でさえ聞こえてしまうかのような閑寂な緑が広がる。先ほどのような音はしないが、何ものかの気配を少年は感じていた。


 カサカサ――

 

 瞬時に少年は背後の藪へと身を翻す。

 藪はまだ音を発し、そこに何らかの動体がいることを少年へと通知している。

 少年の心臓が早鐘を打つ。脈動は全身に伝播して、肩を大きく上下させる。

 次第に大きくなる振幅ともに鼓動も高まっていく。

 

 ガサガサ――

 

 少年は息を飲み、目を見張りながら事の成り行きを見守る。

 まず揺れる藪の中から、濁った血のような二本の棒が突き出してきた。その棒は前方を探っているかのように、それぞれが独立して上下左右に動いている。

 二本の棒の次には同色の丸い物体が現れ、続いて現れたのは、鈍く輝いた黒い団子であった。その団子の後にも、同じような団子が次々に連なって出現する。その黒光りする団子からは、鉤爪のようなものが幾本も伸び出、それぞれが意識でもあるかのようにがやがやと(うごめ)いていた。

 その全貌が現れるまでには多少の時間を要した。

 藪から這い出てきたそれは、長大な体を持った『ムカデ』でであった。

 どうやら最初に現らわれた二本の棒は、そのムカデの触角であったようだ。

 小豆色の触角を揺らしながら、漫ろと流れ出てきたムカデの姿を少年は茫然と眺めた。

 ようやく全身を顕わにしたムカデは、少年の体躯の倍以上はありそうな巨大な体を大きく反らせて少年を見下ろした。

 その名の通りに体現している百の足が、思い思い方向へとわらわらと蠢動している。

 そして、驚くことにムカデは口とも分からない孔から言葉を発した。


「きみは――?」


 その言葉は生温い空気を介して少年の鼓膜へと届く。

 幾秒かの時間をかけて、ムカデが人語を喋ったことを少年はやっと理解する。

 少年は金魚のように数回口を開閉させた後、何かに耐えるように、重大な決断をしかねているかのように(うつむ)いた。

 冷たい風が少年とムカデの間を通り抜け、彼方へと霧散した。

 ムカデは頭を垂らし、黙りこくって俯いている少年の顔を覗き込んだ。

 この現場を傍から観ると、異形のムカデが無垢な少年を今すぐ食わんとする情景に思えるが、このムカデにそのような思惑はないようで数多の足を不規則にくすぶらせ、まるで涙を堪える幼い弟をあやしている心優しい兄のようであった。

 そのようなムカデの気遣いを、少年は敏感に察した。

 目元を一度擦ってから顔を上げる――が、異形を目前にして臆してしまったのか、少年は半歩後退した。後退りした少年の靴で、名前も分からない黄色い花が呆気なく押し潰される。少年はそのことに気付くことなく、無意識のうちにズボンのポケットへと手を入れていた。

 内部をまさぐる指端に何か柔らかいモノが当たり、少年はそれを強く握り締めた。そうすることで自身を鼓舞しているかのようであった。

 少年は大きく息を吐き、ムカデと対面する。

 出迎えた百の足を前に、少年は眠りにつく前の出来事を思い出していた。



                ○



 夕ご飯を食べたあと。

 ぼくはお母さんの言い付け通り歯をみがくため、洗面所へと向かった。

 くもった鏡を前にして歯をごしごしとみがいていると、口の中に今まで体感したこともない痛みがはしった。

 もしかしたら、このまま死んでしまうのではないか、と妄想をして、ぼくは怖くなって台所のお母さんを涙声で呼んだ。

 お母さんはすぐに駆けつけてくれた。

 口の中の泡と歯ブラシがじゃまで上手く喋れないぼくを見て、お母さんはほっぺたにシワを寄せて薄く笑った。ぼくはそれどころではなかったので、必死の思いで痛みを訴えた。

 そんなぼくにお母さんは優しい声で言った。


「口を開けて、中をみせて」


 ぼくはこれ以上お母さんに弱いところを見せたくなかったので、にじみ出る涙を目元で堪えながらカバのように口を開いた。中を見たお母さんの目が、緩やかなカーブを描いた。お母さんは、ぼくの口の中にそっと二本の指を差し入れて、中から米粒のようなモノを取り出した。自分の口から出てきたそれを見て、ぼくは目をぱちぱちとさせて訊ねた。


「それはなに?」

「これは、あなたの歯よ」

「ぼくの歯?」


 ふしぎそうに首を傾げるぼくに、お母さんは鏡を見るように言った。

 鏡に映るぼくの顔は、いつもと変わらなかった。

 それを告げようと口を開いたとき、口の中にぽっかりと空いた穴を発見した。

 ぼくはびっくりして、鏡に張り付いてその穴をよくよく観察した。

 毎日がんばってみがき続けたぼくの歯は、洗いたてのシーツのように白い。そんな自慢の歯の一番前のところに、まるで虫に食われたかのような穴がぽっつりと空いていた。

 ぼくは、すぐにさっきお母さんが取り出した米粒を思い出した。


「お母さん、ぼくの前歯はどうして抜けてしまったの?」


 日々大切にしてきたものが、唐突に欠けてしまったことに堪え切れなくて、ぼくの目から涙が一つこぼれた。

 その雫をお母さんは指先ですっと拭き取って微笑んだ。


「これはね、大人になるために誰しもが経験することなの。だから悲しいことじゃないのよ」


 ぼくはあふれ出てきた涙をシャツの裾でぐしぐしと拭いた。

 いつものお母さんなら「そんなことしたら、シャツが伸びてかわいそうよ」と言って怒るはずなのに、今日のお母さんは怒らなかった。

 お母さんは、ぼくの頭の上に手を置いて髪をそっとなでた。

 そして、いつも寝る前にしてくれる昔話のときと同じ柔らかい声で話した。


「青虫は蝶々になったとき、今まで守ってくれていたサナギを置いて飛んで行ってしまうでしょ?」


 お母さんの手の温もりを感じながらぼくは頷いた。


「それと同じ。綺麗な蝶々になるためには、今まで大切にしてきたものを捨てなければいけないの――分かる?」


 「分かる」とぼくは声を震わせて答えた。

 

「あなたが綺麗な大人になるためには、色々な大切なものを置いていかないといけないの。抜けてしまった歯も、その内の一つよ」

「ぼくは、これからも大切なものを失くし続けるの?」


 ぼくがそう聞くと、お母さんの顔が今にも泣いてしまいそうなものに変わった。その表情を見て、ぼくは自分がした質問の答えを知ってしまって、また泣きそうになった。

 そんなぼくの顔を見て、お母さんは泣きそうな顔で微笑み――

 ぼくの体を抱き寄せた。

 抱きしめるお母さんの力が強くて、ぼくは少し息苦しかったけれど、お母さんの胸からする甘い匂いをクンクンとかいでいたら、そんな気持ちもどこかへ消えてしまった。



                ○



「ここで、一番高いところを教えて下さい」


 少年は声を絞り出すようにして、覗きこんでいたムカデにそう告げた。


「高いところ……ねぇ」


 ムカデの足が街の群衆のようにざわざわとする。

 可愛らしく頭を捻って悩んだ素振りをしているムカデの様子を、少年は可笑しく思った。そして、このムカデに好感を抱き始めていた。

 やがてムカデは口とも分からない孔から柔和な口調で言った。


「この先を進んで行くと、小高い丘に出るんだ。そこの頂上に生えている()(なら)の木が、多分ここらで最も高い場所なはず」


 「ありがとうございます」と慇懃(いんぎん)に礼を述べて、その場から立ち去ろうとする少年をムカデが呼び止める。


「折角、出会ったんだ。その場所まで案内をするよ」


 少年の返事を聞く前に、ムカデは(おびただ)しい足を稼働させ草を掻き分けながら先行する。仕方がないので少年は、ムカデの後に続いて最も高いその木楢を目指すことにした。


 カサカサ、ガサガサ――


 無数の足を忙しく運動させて前進するムカデの姿は身の毛がよだつほど(おぞ)ましかった。しかし、少年はその横を平然と歩いている。

 当初はその異様な姿に驚愕もしたが、ムカデの心使いに少なからず感応を受けたからなのかも知れない、少年の心底からは面妖なムカデに対する一切の(おのの)きが取り払われていた。それは、まだ世故に明るくない少年だからこそ、持つことのできる純粋さであった。

 少年は並行して歩くムカデにそっと手を伸ばし、漆のような光沢を放つ甲殻に触れてみた。堅牢そうに見えたが意外にも軟質な表層に驚いて、少年は眉を上げる。

 実際に触れてみないと分からないことばかりだ。少年はそう思い、このおどろおどろしい容貌をしたムカデのことをもっと知りたいと感じた。


「あなたは、一体何ものなんですか?」


 少年はそう訊ねた。ムカデは頭部を捻って少年へと向ける。


「私はね、この場所を徘徊するモノだよ」


 「ここは――」と少年は辺りを見渡した。


「ここはね、棄てられたモノたちが集積する場所」

「棄てられたもの?」


 少年はポケットに入れた拳を強く握り、続くムカデの話に耳を傾ける。


「モノには人に使われているうちに数々の感情が宿るんだ――愛情、憎悪、迷妄、感銘。数えきれないほどの情を一切引き受けたモノは、放擲(ほうてき)されるとこの『場所』に送られる」


 ――ここは何かを捨てる場所。


「捨てられて、ここに送られたモノたちはどうなるんですか?」


 少年は辺りに繁茂する自然に視線を廻らし、今まで歩いてきた景色を思い起こす。

 草原には四季から逃れて植生する植物たちが旺然とあるだけで、何か投棄されたようなモノの形跡は見られなかった。

 胸まであった藪の地帯を抜け、辺りには臙脂(えんじ)色の実を付けた草々が広がる。臙脂の実を付けた草は空高く伸び、少年の背のずっと先で揺らめいている。

 その景観は、熟れたイチゴを晴れ空に撒き散らしたかのようであった。

 少年が目を凝らしてその実を観察すると、臙脂色の実だと思っていたそれは、小さい花が密集して出来た花穂であったことに気が付いた。

 その花は(われ)()(こう)という植物で、お月見のお供えには(すすき)と同じくらい重要で欠かせないものであることを、少年はムカデから教わる。

 少年がお礼を述べると、ムカデは、あるはずもない月輪を幻視しているかのように青天を仰いだ。

 それは、魔女によって醜い風貌に変えられた獣が元の姿に戻ることを祈るお(とぎ)(ばなし)の一場面のようでもあった。

 空を見上げたムカデは、先ほどの少年の質問に答えた。


「捨てられてここに送られたモノは、宿っていた感情に呼応した姿に変わるんだよ」


 そう言ってムカデは頭部の触角を使い、吾亦紅に挟まれて孤独に咲いていた向日葵(ひまわり)の花を示して続ける。


「この向日葵の花はかつて、とある歓楽街にそびえ立つ時計台だった。その時計は人々の生活の中心であり街の象徴とも言えるモノだった」


 少年は深紅の花に囲繞(いじょう)された向日葵越しに、雑踏の中心で時を刻む向日葵の大時計を想像する。

 この天頂に背を伸ばす向日葵は、人々の生活の規範となり、時間に拘束される都会の真ん中で時を報せていたのだ。

 時計の下を待ち合わせ場所として利用する人のために。時刻を確認する人のために。

 あらゆる思念をその身に受け止めながら、勤勉に針を動かし続けていたのだ。


「どのようなモノにも、何れは衰微が訪れる」


 始めは一分だった。

 一分の誤差はひと一人の流れを狂わせた。

 一つの不調和は街中に伝播し、やがて人々から一時間という時を奪う。

 街は混乱に塗れた。

 直ぐに時計は修理され、街には今まで通りの平穏が訪れるはずであった。

 次の日、修理の甲斐もなく時計の針はやはり一分進んでいた。幾度の修繕を重ねても時計は一分という誤謬(ごびゅう)を刻み続け、人々に六十秒先の未来を明示した。


「役割を果たせないモノは棄てられる」


 長年の間、人々の行動基準となっていたその時計は、呆気なく廃棄された。

 幾多の思いをその文字盤に刻んで。

 そうして役目を失くした時計は、この場所に送られて向日葵となった。

 時間という概念の根源でもある太陽。

 その陽光を待ち望む向日葵の花になった――


 足下に広がる緑の絨毯は、徐々に勾配を増していく。


「それじゃ、この草原に生えている植物たちは、すべて人に棄てられたモノが姿を変えたんですか?」

「そうだよ」


 少年は歩調を緩めて振り返り、地平の果てまで広がる平原を俯瞰(ふかん)する。

 様々な植物。名前を知っているモノもあれば、見たこともない奇妙なモノもある。

 ――ここは何かを捨てる場所。

 少年の鼓動が小さく脈打つ。

 幽かに脳裏を過ぎった哀切を振り払い、その感傷から逃げるようにして少年は隣のムカデに投げかける。


「ここには植物以外の生物はいるんですか?」


 言い終えてから、少年は横に並んで歩くムカデのことを思い出した。ムカデは頭部をもたげて答える。


「私みたいなモノも、ここには何匹かいるよ」

「あなた――あなたたちは、どうしてここにいるんですか?」


 ムカデの口とも分からない孔からふっ、と小さな吐息が零れた。

 その吐息は憐れみから来たものなのか、嘲りからなのか、それとも別の感情からなのか少年には分からなかった。


「それは、後々分かると思うよ」


 そう残してムカデは丘登りを再開した。少年は(そぞ)ろ歩くムカデの背をせっせと追う。

 傾斜に生えた雑草が行く手を遮るように足に絡まり、少年の体力を少しずつ蝕んでいく。少年の口からは細切れに吐息が漏れ、その度に前歯の抜けた穴から珍妙な笛の音が鳴った。

 丘の稜線の先から木の姿が見え隠れする。

 少年が一歩を踏み出す度に、その全容が徐々に顕わになっていった。

 頂に到着した少年は深い呼吸を繰り返しながら、丘の上に根差した刺々しい木楢を見る。その大木は、蒼穹に穴を穿いて草原中に雨粒を振らせようと画策しているかのように豪壮と丘の上に佇んでいた。

 先にたどり着いていたムカデは、その木と比肩して青空を眺めていた。


「これが、一番高いところですか?」


 少年は木陰に入り、大樹を見上げて樹冠から零れる陽光に目を細めた。


「そうだよ。この木がここで一番高い場所」


 苔の剥げた地面から伸びる幹には血管のような木筋が幾本も立ち上り、錯綜(さくそう)して表面を凸凹とさせている。木幹は上端に接近するにつれて子細に分化し、枝葉には鋸の刃のように鋭い葉が茂っている。

 少年は目線を上部へと移していき――やがて眉間を寄せて唇を固く結ぶ。瞳には薄い水膜が張りつめ、行き場を失くした雫が目尻に停留する。

 その表情は、今にも決壊しそうなダムを思わせた。

 少年の憂慮な面持ちを見たムカデが、少年の視線を追って木の上端を目視して言った。


「もしかして……木に、登れない?」


 少年が小さく頷くと、その反動で瞳から落涙して地面に丸いシミを作った。少年は頬を赤らめながら足でそのシミに砂をかけて涙の痕跡を隠す。

 「仕方ないね」と言うや否や――

 ムカデはその長々とした体を、まるで獲物を捕らえる大蛇のように木楢へとゆっくりと巻き付けていく。

 瞬く間に、木楢を支柱とし、その周りを廻るムカデの螺旋階段が完成した。

 それは、奇態な害虫が大樹から養分を摂取して、大妖怪に変化しようとしているかのようにも見える。

 少年の靴が黒光りするムカデの側面に恐る恐る乗る。両足が乗り、少年の全体重がムカデにかかると、ムカデの体は僅かに身震いをした。


「痛くない?」

「平気だよ。それより、早く木に上がりな」


 「でも……」と逡巡する少年に、ムカデは厳かな語調で告げる。


「君はここにたどり着くまでに、多くの植物を足蹴にしてきたんだよ。それを今更迷ってどうするんだい? ムカデ一匹踏み越えられないようじゃ、今まで踏みにじってきた植物たちに申し訳が立たないよ」


 少年は首肯してムカデの横腹を慎重に上がってゆく。

 少年の視点が少しずつ高くなる。

 様々な植物の犠牲を伴って、ここまでやって来た。何かを叶えるためには、他の何かを手放さなければならない。きっと、それが大人になるということなのだろう。

 少年は幹が太く分かれた個所に降り立つ。

 これより上は樹身が細くなっていて登れそうにない。

 青色の空の下、どこまでも膨張を続ける草原を少年は望む。

 そして、少年の脳髄に追憶の波涛(はとう)が奔る――



                ○



 突然、お母さんは胸からぼくを突き放した。


「今夜、あなたは、この前歯を捨てにいかないといけないの」


 わけも分からず頷いたぼくに、お母さんはこう続けた。


「これはね、昔からあるオマジナイなの」


 「オマジナイ?」とガイコクの言葉を聞いたかのように、ぼくは繰り返した。

 

「抜けた歯はね、下から生えていた歯なら低いところから上に、上の歯なら高いところから下に投げるのよ。そうすることで、大きく健康に育つように自分にオマジナイをかけるのよ」

「それも、きれいなチョウチョになるために必要なの?」


 ぼくの言葉を聞いたお母さんの肩が、小波のように小さく揺れた。そして、お母さんはぼくから瞳を逸らした。


「……あなたは、上の前歯が抜けたから、高いところへ行って歯を捨てないといけないの」


 ぼくは知っている。

 ――夜遅くに飛び交う父の罵声を。

 ぼくは知っている。

 ――その度に、寝たふりをしているぼくの枕元で謝り続けるお母さんのことを。

 ぼくは知っている。

 ――もう、お母さんは限界であることを。


「それは――」


 ぼくの唇がゆっくりと紡ぐ。


「ぼく一人で、だよね?」


 ぼくは、今できる一番の笑顔をしてそう言った。

 ぼくがもうぜんぶ理解していることを知って、お母さんは膝から崩れ落ちて床にうずくまった。足元で石ころのように丸くなったお母さんのすすり泣く声だけが、静かな家に響いた。

 ぼくは、そんなお母さんの頭に手の平を添えて聞いた。


「お母さんが、決めたことなんだよね?」


 そんなこと聞かなくても、もう分かっていた。

 日ごとにアザが増えていくお母さんの姿を、一番近くで見ていたのは、ぼくだから。

 ただ、お母さんの気持ちをお母さんの口から聞きたかった。

 それに、もしかしたら、もしかするかもしれないし……

 ちょっとだけ期待して、ぼくはお母さんの答えを待った。

 でも、お母さんは沈み込むように泣いているだけで、答えてくれなかった。

 それが、お母さんの答えだった。

 ぼくの下のまぶたが、ぴくぴくと動いた。

 ぼくは泣き出すとき、いつもこうなる。

 だから、ぼくは泣いてしまう前にまぶたを閉じた。

 そうしなきゃ、ぼくのダムが壊れてしまいそうだったから。

 ――蝶々は、綺麗な成体になるために過去の自分を捨てる。

 ぼくは鼻をすすった。


「お母さんは、きれいなチョウチョになるために、ぼくを――」



                ○



 最も高いこの場所で、少年は世界を遠望した。

 右手で近くにある枝を掴んで重心を支え、左手をポケットに忍ばせる。

 そして、事あるごとに握りしめていたティッシュの塊を取り出す。塊は強く握り締められていた所為か、指の形に合わせて波模様を描き細長く変形していて蝶の蛹にも似ていた。

 少年の指が丁寧にティッシュを(めく)っていく。

 一枚一枚を取り払う度に、少年の中で何かが固まっていった。

 その何かを自身の中枢に固着させながら、少年は最後の一枚を取り去る。

 何重にもティッシュに包まれていたのは、小さくて白い少年の乳歯であった。

 少年は枝から右手を離して、その歯を摘み上げ、名残惜しむように親指と人差し指の狭間でしばらく転がした。

 青と緑の接する地平線は、蜃気楼のように朦朧(もうろう)と揺れている。

 きっと、草原の末端では棄てられたモノたちが次々に姿を変化させ、草原の規模を拡張させているのだと少年は推察した。


 少年は瞳を閉じて大きく息を吸い――止める。

 体中に酸素が行き渡る。

 このまま息を止めていれば、きっと絶命できるのだろう。

 そのような考えが頭の隅を掠める。

 けれど、少年は前に進まなければならない。

 ――ここへ到達するのに多くのモノを越えてきた。

 そのモノたちのためにも、少年は前を見続けなければならない。

 少年は息を深く吐き出す。

 そして、膨大する草原目がけて歯を投げる。


 壮健に育つ自分を願い――

 ――母からの決別を誓い。


 二つの想いを宿した小さな乳歯は、放物線を描いて茂みへと姿を消していった。


 やがて少年は目を覚ます。

 カーテンの隙間から差し込んだ朝日に目をすぼめ、新しい一日を全身で感じる。

 そして、眠る直前まで隣にいた人のことを思い出す。

 

 思い出した少年は、何を思うのだろうか。

 父親と二人残された少年は、何を思うのだろうか。






 しばらくして、茂みから一匹の蝶が飛び立った。

 その蝶の()(よく)には色鮮やかな幾何学模様が煌めいていた。

蝶は、ふと何かを思い出したかのように後ろへと振り返る。

 背後には天を衝く大樹が生えていて、その木には大きなムカデが絡みついていた。

 ムカデは飛んでいく蝶々に別れを告げるかのように、二本の触角を振っていた。

 蝶は(はね)をより強く瞬かせることでムカデに合図を返し、透き通った青空を昇っていく。

 その軌道をたどるようにして、炯々とした鱗粉が宙に舞った。

 翅から溢れた鱗粉は、きらきらと草原に零れ、地表の草花に降り注いだ。


 蝶の小さな体には、より高い場所を目指さなければならない、という底知れぬ使命感が充満していた。

 その思いが蝶を大空へと駆り立てた。



 青が万遍なく広がる空を、綺麗な蝶が飛んでいく。


 その身に二つの想いを乗せて――



 元々は「前歯」「毒虫」「脚立」で書いていた三題話だったりします。書いている内にどんどんと構想が広がり、今の形に納まりました。

 この後の話(長編)を書いたのですが、アップするかどうかは未定です。

 自分が納得できるものに仕上がったら上げるかもです。


 感想、意見、アドバイス等ありましたら是非お願いします。

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