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彼の家では何も起こらない

 沖縄の家は、台風にも耐えうるために白いコンクリート造りのものが多い。古い民家などでは、外回りにぐるっと石垣を組んだ平屋だ。屋根の上にのっているシーサーが滑稽に赤い。


 己が庭に咲くハイビスカスをふと思い出すと、突然、前を歩いていた典雅先輩の足が停止し、僕は彼の背中に顔をぶつける羽目になった。


「……なんで止まるんですか」

「普通に考えろよ。鏡の家だっつの」


 二ミリ低くなったに違いない鼻をさすりながら、訛りの少ない典雅先輩のことばに前を見る。なるほど、少し高台にある住宅地に、いつの間にか辿り着いていた。


「なんで典雅が先に立って案内してるのさ……」


 ぼやきながら、僕の隣の鏡先輩がポケットに手を入れる。ちゃりん、という金属音がして、ズボンの左ポケットから鍵が出てきた。


「へえ、お前ちゃんと鍵閉めるんだ」

「君みたいなのが勝手に部屋に入り込んでほしくないからね」


 憎まれ口をたたく二人とは関係ないように、詩歌ちゃんは頬を紅くしてその家を見ているし、夢路さんは庭のプランターを熱心に観察している。花に興味でもあるんだろうか。僕はというと、花の名前といえばバラとサクラくらいしか分からない。


 扉を開けると、内側に下がっていた貝殻の風鈴が、涼しい音を立てた。それなりに綺麗に掃除された玄関には、あまり靴が並んでいない。フローリングの床は、それこそ鏡のように磨かれて、艶を放っていた。


「ちょっとここで待ってて」

「なんで」


 間髪入れず夢路さんが突っ込む。

 表情のあまり無い顔を、若干顰めたあと、鏡先輩は「部屋を整理する」と答えた。


「あーやっぱり鏡も高校生男子だなー、母親にベッドの下掃除されたことあるんだろ絶対」

「僕は布団なんだけど……」

「何隠してんだよっ、お前のことだから雑誌なんかに縁はないだろうけどさ、この前は居間にしか通してくれなかったさぁお前に反抗期はないのか」

「解ってるんなら言うんじゃない」

「二人とも黙りなさい、カシマサン(うるさい)さっ」


 夢路さん、それは貴女が言っていい台詞ではないと思います。


「部屋掃除するなんて普通の対応じゃない。寧ろ掃除しない方がありえない人間じゃない。普段からきっちり部屋を手入れする学生、特に男子高校生なんていないと言っても過言じゃないのよ分かった典雅?」

「夢路ちゃーん、どこで息継ぎしてるのー」

ファーナー(ガキ)は黙ってなさい」

「ぼく夢路ちゃんと一歳違いじゃん! ていうかまだ夢路ちゃん誕生日じゃないじゃん!」

「え? 私は四月生まれですけど何か?」

ユクシー(うそー)! 夢路ちゃんのユクサァ(うそつき)!」

「だからよー」


 ここで解説しよう(読み飛ばし可)。


 「だからよー」というのは、沖縄特有の言葉である。これと同義を表す日本語は存在しない。いや、世界各国にだって存在しないだろう。しかしそれを敢えて訳すならば「当事者意識の一切ない無責任過ぎる肯定または否定」。責任を一切放棄し、何を言われようとも「だからよー」の一言で済ませる言語感覚は、べたつく湿度と殺人的猛暑のこの島で培われた、独特の文化なのだ。

 尚、肯定の際は「だからよー」だが、否定となると促音便で詰めて表し、「だっからよ」となるのである。

 この、保留も肯定も否定も、全て一言にくるんで押し流すのは、ここ南の島で形成されたルーズな気風をそのまま示す言葉と言っても過言ではないのである。


 さて。

 僕は誰に解説していたんだろうか。


「訊いてもいいですか? 先輩の部屋ってどんなですか」


 鏡先輩の部屋。確かに予想はつかない。いや、一応つくが見事に裏切られそうで。


「普通だよ。机と、椅子と、本棚がある」

「えー、何か飾ったりしてないんですか?」


 詩歌ちゃんの問いかけに、腕を組み何かを思い出そうとする表情になる鏡先輩。まあ大方カレンダーとか家族写真とかその程度だろう。まさかアイドルのポスターなどはあるまい。と、いきなり夢路さんが余計な口を挟んできた。


「その辺でやめておきなさい、詩歌。鏡にだってプライバシーというものはあるんだから」

「え?」


 含むところのある笑いを漏らしながら、夢路さんは、


「高校生男子の部屋にあるものなんて、想像つくでしょ」


 そう言いながら、あろうことか僕や典雅先輩まで一瞥して「ふっ」と冷笑した。

 何を想像したのかは知らないが、典雅先輩はともかく僕の部屋にはそんな蔑んだ笑顔を向けられるようなものはおいていない。………いや、本当に。


「……想像できない」


 そう呟いた詩歌ちゃんに、典雅先輩が笑いかける。


「教科書があるさ」

 僕も続ける。

「参考書もありますよねぇ」

「辞書もあるな」


 夢路さんが露骨な呆れ顔になった。大袈裟なため息をついて、処置なしとでもいう風に首を振る。それとは裏腹に、もう僕らの会話に興味を失った詩歌ちゃんが右手を力強く天に突き上げた。


「よっし突入ー!」

「ちょっ、やめっ」

「大丈夫鏡。あんたの部屋に何があろうと私は引かないわ」

「夢路ちゃんの部屋もデ―ジ(いっぱい)変なもので埋まってるしねー」

「余計なこと言わない、死なすぞ」


 普通方言で「死なすぞー」という時は語尾を伸ばすが、この時の夢路さんは語尾をしっかり切った。その分迫力が増したのはまあ当然の結果である。


「突きあたりの右の部屋っ」

「いや待てって」


 鏡先輩の全力の後頭部への拳により、典雅先輩は一時的にスピードが落ちる。それに乗じて、鏡先輩は自分の部屋の扉の前にしっかりと陣取った。


「頼むから入るな!」

「何してんだよお前! 死ぬか思ったわ!」

イーバーヤッサァ(いよっしゃぁ)! 典雅が死ねば私の天下よっ」

「夢路さん、あまり不謹慎なことは」

「とつにゅー!」

「あっ」


 小さな詩歌ちゃんが、混乱の隙に乗じてドアノブに飛び付いた。かちゃん、と何かが外れる音がして、ドアノブが回る。


「待て、開けるときは80度以上―――――」



「ぎゃああああああああああああ」



 本の背表紙やページ、諸々プリント類がぐしゃりと潰れる音擦れる音、本の角が人間の体に当たる音、その他諸々様々な音が傾れ、憐れ詩歌ちゃんは積み重なった書物の下敷きとなって殉職した。


「死んでねぇ!」


 早く助けてー、と、唯一無事な足をぱたぱた動かす。


「………80度以上開けるな、って言いたかったんだけど……」


 成程。


「人の忠告は最後まで聞きましょうね、詩歌ちゃん」


 言いながら、上に乗っかっている本をどけてゆく。焦げ茶や鶯色、渋みのある色彩ばかりのハードカバー群だ。タイトルを読んでいくと「ギルガメシュ叙事詩」「イリアス」「オデュッセイア」「南総里見八犬伝」「若草物語」「スノーグース(矢川澄子訳)」「銀の匙」「高慢と偏見」「昼の少年と夜の少女」「嵐が丘」「シグナルとシグナレス」「塵よりよみがえり」「たんぽぽのお酒」「警視庁草子」etc.


 ……「華氏451℃」の文庫をどけたあたりで、詩歌ちゃん本体が見え始めた。


「………し、死ぬかと思った……」

「ええ、それは僕も思いました」


 確かしばらく前に、静岡県で震度4の地震があったとき、本に埋もれて死んだ女性が県内ただ一人の死者だった、という情報がきたことがあった気がする。


 レオ・レオーニの「平行植物」を手に取り、典雅先輩はため息をついた。随分古い本だ。


「なんでこんなん持ってんだよ……」

「知ってる君だって大概じゃないか」


 レオ・レオーニ……確か、「スイミー」を小学校の時教科書で見た様な。

 「ミミズクと夜の王」という本を夢路さんが熱心に読んでいる。おい、手伝えよ。


「……ノクターン」

 床に散らばっていたのは、本だけじゃなかった。白紙に、細い五本の線。あたかも血飛沫のように飛び散る音符。とりどりの楽譜。


 あるのはノクターンやアイネ・クライネ・ナハトムジークなどの有名どころばかりではない。題名から察するに、古典文学をモチーフに作曲された楽曲も含まれているようだ。タイトル「誰も寝てはならぬ」「桜桃」「嵐が丘」「未来のイヴ」……一体誰が作曲したんだ。


 典雅先輩は鏡先輩の部屋をぐるりと見渡して、一言、


「…………色気もクソもねー部屋さ。おい鏡、お前に思春期はないのか」

「どうもなさそうなんだよね」

「なんで他人事」


 のほーんと首を傾げる鏡先輩の側頭部を、典雅先輩がぱこんと叩く。あれ、結構いい音したな。


「高二男子の自室としてこれは認めねぇ! 認められねぇ!」

「……君に言われたくないな、自分の部屋を顧てみなよ」

「なんなのよなんであんたらお互いの部屋行き来してんのよ―――っ」

「うにーうにーずるいよ典雅先輩うににーっ」


 詩歌ちゃんの抗議が意味不明なのはこの際おく。若干日本語に聴こえなくもない。


 僕は足元に散らばっている本の内、国木田独歩の短編集を手にとる。この中に収録されている「武蔵野」はなんとなく好きだから、パクっていこうかと思っている。


 さりげなくその本を鞄に入れようとして、気がつく。


 僕、鞄とか持ってない。


 仕方がない、諦めよう。


 足元に文庫を戻したところで、


「やられたらやり返す。これ社会の常識っ」「それ社会の非常識」「無理よ通れ! 道理よ引っ込め!」「無理を通せ! 道理を引っ込ませろ!」「ちょっ、やめっ」「カシマサン(うるさい)カイワレ大根!」「カイワレダイコン!?」「むしろモヤシ!」「何言ってるの、モヤシは栄養があるんだよ夢路ちゃんっ」


 煩い。

 鏡先輩の部屋が物凄いことになっていた。


 もとから雑然とした部屋ではあったが、詩歌ちゃんの襲撃で崩れた分を差し引いても尚、壊滅状態に陥っている。元の状態に戻すのは相当骨だろう。その部屋の中央で口喧嘩を繰り広げる四人を無視して、僕は本の塔に歩み寄る。壁一面の本棚を壁三面分使用しても尚余りある書物が、床に積み上がって大小の塔を作っているのだ。


 詩歌ちゃんのリュックが、大きく振り被られる。肩ひも部分をしっかと握られたそれは、非常に大きな弧を描き、ついでに遠心力を伴って典雅先輩の頭部に衝突した。


「だっ、ちょっと待てなんで俺」

「ごめんなさーい手元が滑っちゃいましたー☆」

「確信犯だ」

「突撃となりの愉快犯っ」「突撃かなりの確信はーん!」

「この魔人探偵がぁぁっ!!」


 細かいネタをいちいち拾う典雅先輩もどうかと思う。


 ともあれ。


 僕は腰をかがめて、床に散らばる本らを一つずつ拾い始めた。このままじゃあ足の踏み場もない。物を大事にしない行為は、まあ物の種類にもよるが好きではない。できることなら他の四人(特に原因を作った内二名)にも手伝ってほしいというものだが、それは贅沢というものだろう。

 この話のタイトルの元ネタが分かる人はそうそういないような気がします……。分かった人は雲居桔梗まで御一報を。

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