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透視            :約3500文字 :電車

作者: 雉白書屋
掲載日:2026/07/15

「えっ……」


 男は思わず小さく声を漏らした。だがすぐに唇を引き結び、息を殺した。周囲の乗客がこちらへ意識を向けた気配があったものの、それもすぐに電車の揺れと規則的な走行音に掻き消されるようにして、朝の通勤電車特有の無関心な空気の中に溶けていった。


 今、透けたか……?


 朝の満員電車。男は車両の中央で吊革に掴まりながら、ぼんやりとを眺めていた。週刊誌の下卑た見出しや転職サイトの宣伝文句が視界に入っては、頭には何一つ残らずにそのまま抜けていく。

 電源は入っているものの何も起動していない機械のようで、退屈と感じることすらない虚無の時間だった。

 そんな中、ふと視線を下げたその瞬間だった。

 目の前に立つ女のジャケットが透けて見えたのだ。まるで薄いビニールの雨合羽を羽織っているかのように、生地が半透明になって、その下の白いワイシャツがぼんやりと浮かび上がっていた。

 疲れているのだろうか。

 男はそう考え、指先で目頭を軽く揉んだ。さらにまばたきを何度か繰り返し、改めて女の背中に視線を戻した。

 今度は何もおかしくはなかった。ごく普通のジャケットがそこにあるだけで、透けて見えるはずもない。

 やはり見間違いだったのだ――。

 そう思った直後、男はひゅっと喉を鳴らした。

 目を細め、女の背中をじっと見据えた途端、またしてもジャケットが透け始めたのだ。しかも今度は先ほどよりはるかに鮮明だった。ワイシャツの皺や縫い目、さらにその下にある下着のホックまではっきりと見えた。

 それだけではない。さらに目を凝らすと、今度は下着までもが薄れて消え、皮膚の下を走る筋繊維が赤黒い束となって現れた。その次は肋骨の白い曲線、ゆっくりと膨らみ縮む肺、胸の脂肪――まるで精巧な人体模型を覗き込んでいるかのようだった。


「うおっ……」


 そのあまりの生々しさに男は思わず声を漏らした。

 慌てて顔を背け、何度もまばたきを繰り返す。しばらくして、おそるおそる視線を戻した。すると、ジャケットがまたじわじわと透け始めた。


 ……やはり間違いない。透けている。しかも幻覚ではなさそうだ。だが、どういうことだ。おれは透視能力というやつに目覚めたのだろうか。でも、そんなことはこれまで一度も起きたことがない。今朝だって起きてからここまで何一つ変わったことはなかったし、体調だっていつもどおりだ。前兆らしいものもなければ、そんな力が欲しいと最近願った覚えすらない――人生に一度くらいは願ったことがあっただろうが――。

 男は小さく首を傾げた。


 ……まあ、いいか。そういうものなのだろう。世の中には説明のつかないことなどいくらでもある。そうだ、超能力こそその最たる例ではないか。おれにはたまたまそういう才能が眠っていたのだ。

 男は半ば強引にそう結論づけると、再び女に目を向けた。今度は背中から腰へとゆっくり視線を落としていく。焦点を合わせるにつれ、スカートの生地がじわじわと薄れていき、やがて下着が露わになった。

 男は頬を緩めた。

 いいぞ。コツを掴んだみたいだ。どうやら意識を集中させれば好きなところを透かせられるようだ。さらに透かせてみたりして……おほお、いいお尻。いただいちゃいたいわ……なんておどけてみたものの、後ろ姿だけというのはどうも物足りないな……。

 男はそう思い、周囲を見回した。しかし、ちょうどこちらを向いている女はいない。いや、正確には一人いたが好みではなかった。


 ……まあいい。これからいくらでも機会はある。

 通行人や会社の同僚、もしかするとテレビ越しでも透かせられるかもしれない――いや、それはさすがに無理かな。なんとなくだが実物を見ていなければ駄目な気がする。だが、そう難しいことでもないだろう。テレビ局の前で出待ちするとか、番組観覧に応募するとか、トークイベントに行くなど方法はいくらでも考えられる。

 男の口元が緩み、唇が湿った音を立てた。


 ……とはいえ、正面からじっと見つめ続ければ不審がられるのは間違いない。会社でそんな真似をしてみろ。セクハラだの何だのと騒がれ、最悪クビになりかねない。

 それに、ただ見るだけというのもつまらない。まさかその場でモノをしごくわけにもいかないしな。写真でも撮れればいいのだが。いや、どうせならもっと――えっ。


 男は思わず目を見開いた。無意識のうちに右手が女の背中に伸びていた。そして指先がジャケットに触れた、その瞬間だった。

 ない――。

 確かにそこにあるはずの布に触れたのに、指には何の感触も伝わってこなかったのだ。

 男は息を呑み、女の背中をなぞるようにゆっくりと指先を上から下へと滑らせた。

 やはりそうだ。指は布地に押し返されることなく、すり抜けていた。女のほうも触れられている感覚がないらしく、身じろぎ一つしなかった。

 どうやら透かして見るだけでなく、すり抜けることもできるらしい。それなら……。

 男はごくりと唾を飲み込んだ。胸の鼓動が耳の奥で大きく響き始めた。

 指先を擦り合わせながら慎重に狙いを定めると、少しずつ指を下着のホックへと近づけていった。


 ……触れた!


 指先にブラジャーのホックの小さく硬い金具の感触が確かに伝わった。その瞬間、女の肩がぴくりと揺れた。

 だが、それだけだった。かすかに違和感を覚えただけなのだろう。まさか服をすり抜けて直接下着に触られているなど想像するはずもない。女はすぐに再びうつむいた。

 男は息を殺し、震えを抑え込みながら慎重にブラジャーのホックへ指を掛けた。

 よし、こうして……くそ……あともう少し……これも少し透かせたらどうだ……おっ……。


 ――パチッ。


 小さく音が鳴ったその瞬間、男の胸に小さな灯がともった。


「おい、あんた」


 そのときだった。不意に背後から声がして、男はびくりと肩を跳ね上げた。反射的に振り向くと、会社員らしき若い男が眉をひそめていた。


「何してんだよ」


「いや、何って、その、あ、あは……」


 言葉がうまく出てこなかった。喉が引きつり、乾いた笑いだけが漏れた。

 その声に気づいたのか、女が顔を上げて振り返った。男と目が合うと、その表情はみるみるうちに歪んだ。それから自分の背中に手を回し、大きく目を見開いた。


 痴漢かよ――。


 ぼそりと、どこからか低く呟く声がした。その一言を合図に、静まり返っていた車内の空気が一変した。周囲の乗客たちの視線が一斉に男に向かった。風が草原を渡り一面の草をなびかせるように、ざわめきが車両全体に瞬く間に広がった。


「いや、その、違うんですよ。ただブラを見ていただけで――あ、いや、そういう意味じゃなくてですね」


 男は慌てて弁解した。しかし、自分でも何を言っているのか分からないほどに、しどろもどろ。乗客たちの冷たい視線が状況が悪化したことを静かに告げていた。


「次の駅で降りましょうか」


 先ほどの若い男が男の腕を掴んだ。

 周囲の乗客たちも女から引き離すように肩や肘で押し始め、男の身体はドアの方向へと追いやられていった。


「いや、ちが、違うんですよ!」


 電車がゆっくりと速度を落とし、ホームへ滑り込んだ。やがて停車してドアが開いた。

 その瞬間、若い男が男の腕を強く引いた。


「だから違うんです!」


「いいから」


 若い男は面倒くさそうに言った。気づけば周囲の乗客たちも男の服や腕を掴み、ぐっと車外へ押し出そうとしていた。


「違う!」


 男は必死に腕を振り払い、若い男の胸を押し返した。しかし、すぐさま周囲から手が伸びてきて、肩を押さえつけられた。


「さっさと降りろよ」

「迷惑なんだよ」

「降りろ!」

「変態野郎!」


 皆が男を睨んだ。軽蔑と嫌悪の隠そうともしない目で、男の心の奥底まで見透かすように。

 男は身をよじり、必死に逃げ道を探した。


 あそこだ――。


 そして見つけた。我関せずとホームに降りていく乗客たちの流れで一瞬だけ生まれた人垣の綻びを。次の瞬間、男は迷わず踏み込んだ。


「あ、待て!」

「きゃあ!」

「うお!」

「あああ!」


 制止の声を振り切り、男は人と人との隙間に強引に身体をねじ込み、そのまま突き抜けた。肩をぶつけ、誰かの腕を払いのけ、隣の車両に飛び込む。さらに突き進み、まるで追われる獣のように人混みを掻き分けて走り続けた。

 手で押しのけ、腕に誰かの鞄の紐か何かが引っかかっても無理やり押し進み、もう一つ先の車両へ、さらにもう一つ先へ。さらにもう一つ――。


 やがて先頭車両までたどり着くと、男は壁に手をついて大きく息を吐いた。

 ……夢中で逃げているうちに、いつの間にか先頭まで来てしまった。だがここまで来ればもう大丈夫だろう。少なくともあの騒ぎを直接見ていた者はいないはずだ。

 男は肩で荒く息をしながら、ゆっくりと振り返った。

 そのときだった。

 べちゃり、と。

 男の腕に絡みついていたものが床へ滑り落ち、湿った音を立てた。

 男は反射的に視線を落とした。


 それは誰かの小腸だった。


 赤黒く濡れたそれは床にだらりと横たわり、車両の蛍光灯の光を受けて艶めいていた。

 男はゆっくりと顔を上げた。

 視線の先には、血と臓物でできた真っ赤な道が車両の奥まで途切れることなく続いていた。

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