其之二十七、鼬迷いの竹林へ赴く事、上
四月某日、昼前。
人妖行き交い活気溢るる人里の大通りを、一人の青年が歩いて行く。
長めの黒髪に黒縁眼鏡、褪せた着物に真新しい革靴。少々背が高く目付きが悪い事を除けば、何処にでも居る書生っぽ。
―――さて。俺である。
本日は、先だっての白玉楼訪問から更に三日ばかり後。この幻想郷に来てからそろそろ二十日程になろうか。
俺は今とある目的を胸に、此処人里の守護者たる上白沢慧音女史の家に向かう所であった。
「しっかしまあ、賑わってるねぇ……」
人里に来た回数は未だ片手で数えられる程度だが、何時来ても人が多い。この喧騒は丁度少し前の江戸の町の様である。ただ江戸と違うのは、侍がおらず、代わりに妖怪が居ると言う事。人と妖怪が、この里の内でだけとは言え共生していると言うのは中々に大した事である。紫―――と、藍―――も随分と頑張ったのであろう。
実際人の姿に化ける必要も無いのだが、まあ、何と無くである。
そんな事をつらつら考えながら行く内に、寺子屋が見えてきた。慧音女史の家は、この寺子屋に隣接する様に建っている。
小門を抜けて建物に歩み寄ってゆくと、子供達の高い声や慧音女史が声を張り上げているのが聞こえてくる。
「む……授業中か?」
そう言えば先日訪れた際、寺子屋の授業は午前中に行っているとか言っていた。本日の主目的は慧音女史に会う事では無かった為、早めに此処へ来たのだが、それが裏目に出た様だ。
「どうするかな」
呟き、頭を掻く。今日出掛けているのは妹紅に会う為である。迷いの竹林とやらに居る、とは聞いている物の、その迷いの竹林のどの辺りなのかが分からない。名前からして迷いそうな場所でもある。
慧音女史に道を聞く、若しくは妹紅が此処に居れば儲け物―――と言う心積もりだったのだが。
「まあ―――授業中なら妹紅はおらんよな」
休み時間―――有るかどうかは分からないが―――を待っても良いが、ゆっくり道を説明して貰える程の時間は取れないだろう。授業を中断して貰う訳にも行くまい。
「……ま、良いか」
このまま竹林に向かおう。そう結論して身を翻す。竹林の場所自体は初日に聞いている。名前でも呼びながら歩き回れば妹紅の方で見つけてくれるだろう―――と。
「きゃ!」
門を出た直後、胸辺りに軽い衝撃。小さな悲鳴が上がる。
「おっ、と―――」
考え事をしながら歩いていた物だから、人にぶつかってしまったらしい―――人間の少女、である。
咄嗟に手を伸ばして、後ろに倒れ掛ける少女の腕を掴み引っ張る。少女は少しよろめいてから体勢を立て直し、ほう、と小さく息をついた。
「―――ふう。大丈夫かい」
「あ、はい……どうも」
少女がぺこりと頭を下げる。微妙に紫掛かった黒髪、明るい緑の着物に赤い袴。花の髪飾りが可愛らしい。
「すまんね嬢ちゃんよ。少々考え事してたもんだから」
「ああ、いえ……それならお互い様です。私もちょっと上の空でしたから」
年の割に大人びた、礼儀正しい良い子である。少女は俺の顔を見上げ、少し首を傾げた。
「貴方は……見ない顔ですが。慧音さんのお知り合いで?」
「ああ、そうだよ。つっても、つい先月知り合ったばっかなんだが」
「そうですか……」
呟いて、少女は寺子屋の方に目を向ける。そう言えばこの少女、寺子屋の生徒だとしたら、物凄く遅刻である。不良である。
「―――まだ、授業中の様ですね」
「んむ……嬢ちゃんは遅刻かね?」
「え? ……いえ、違いますよ。私は生徒ではありませんから」
「さよか」
別に不良ではないらしい。
「そんじゃ、お前さんも慧音女史に用事なのかな」
「ええ、まあ。……も、と言う事は貴方も?」
「そうだったんだがな。お仕事中みてえだし、どうせ大した用じゃねえからもう帰るとこだ」
「成る程……」
少女は小さく頷く。
「でも、授業はそろそろ終わりですよ。今日は短い日ですから」
「おや、そうなのか。んじゃ待たせて貰うかな」
朗報である。俺はまた踵を返し、門の中に戻る。少女も後ろからついて来た。 取り敢えずその辺に座って待つ事にする。地べたに座るのも何なので適当に辺りを見渡すと、庭の木に丸太のブランコを二ツ発見。少女と共に腰を下ろした。
「―――名乗っていませんでしたね。私は、稗田阿弥と言います」
「俺ぁ八切七一。今はこんな形だが、鼬だよ」
「鼬?」
二ツのブランコは、対向する枝に一ツずつぶら下がっている。木の幹を挟んでいる為少し前屈みになって俺の耳を見詰め、少女―――阿弥嬢が首を傾げる。
「うん。鼬」
適当に答えながら、俺はブランコを漕ぎ始める。子供用なのでかなり低いが、頑張れば漕げなくもない。筈。
「それは、何かの喩えですか?」
「いんや言葉通りだ。鼬の妖獣よ」
少しずつブランコの振り幅が大きくなっていく。しかしブーツの爪先が地面に擦れ、ざりざりと音を立てている。
「はあ。それでは、人に化けて……」
「―――とうッ!」
このまま漕ぎ続けるのはやっぱり無理がありそうなので、ちょっとだけ空を飛びブランコごと一回転。木の枝に巻き付いた分だけブランコが高くなる。これで丁度良い。
「……確かに、ただの人間じゃないみたいですね」
「そうかい」
呆れ顔で言う阿弥嬢。幻想郷と言えども、空を飛べる人間は少ないらしい。霊力の素養が多少なりともあれば、鍛練で身に付くのだが。
「しっかしあれだね、嬢ちゃん年の割に大人びてるね。敬語も出来てる」
「まあ……私は、少々特別ですから」
「特別?」
思い切りブランコを漕いでいると、枝がぎしぎし言い始める。流石に大人が乗るのは無理があったか。むむむ。
そんな俺にやっぱり呆れ顔をしつつも、阿弥嬢は言葉を続ける。
「私は―――この幻想郷で、とある使命を負っています」
童心に返っている―――返るまでもなく普段から餓鬼だなんて事はない、決してない―――俺の事は気にしない事にしたらしく、阿弥嬢は前を向いたまま話を始めた。
「『幻想郷縁起』、と言う書物があります。この地の風土や妖怪について記された物で、千年以上前から書き続けられているんです。私の仕事はその編纂……」
「ふうん。一度読みてえな」
「私の家で保管されています。今度読みに来て頂いても結構ですよ」
頭上で枝が軋む音が中々洒落にならない感じになってきたので、ブランコを漕ぐのを止めた。静止したブランコに座り直し、少女の話の先を促す。
「で、編纂だってか。嬢ちゃんの年で。―――其処が、『特別』か?」
「ええ。……私は、今までに八度、転生を繰り返しています。幻想郷縁起の編纂の為に」
「……転生」
転生―――生まれ変わる事。彼女が言っているのはつまり、輪廻転生の輪から外れて、意図的に人間に生まれ変わり続けている―――と、そう言う事か。
「出来んのかい―――そんな事が」
「はい。閻魔の許可を得、死後百余年を彼岸で働く事を代償に」
「ふむ……そんじゃあ」
目の前の少女の顔を見詰め、俺は首を傾げる。
「嬢ちゃん……実はかなり年か」
「い―――いえ。記憶は引き継がれませんから。人格は、この通り」
確かに彼女、大人びてはいても決して年寄り臭くはない。この少女の落ち着いた様は、長い年月の生からではないのだろう。
老人扱いされて唇を尖らす様は、ちゃんと年相応である。
「んむ、すまんね。知り合いに若作りが多いもんだから」
「いえ、別に、気にしていませんけど」
不特定多数の人物に怒られそうな事を言いつつ謝罪すると、阿弥嬢は取り繕う様な事を言いながら小さく咳ばらいをして話を続ける。
「私は、求聞持法と言う法を身につけています。これは―――」
「虚空蔵求聞持法―――だな。記憶力の増大だったか」
「良く知っていますね。ええ、そうです。私は一度見た物聞いた物を忘れる事がありません―――転生で引き継ぐのはこの能力です」
尚、虚空蔵求聞持法とは、虚空の如くに広大なる知慧を持つと言われる虚空蔵菩薩を本尊に修業する法である。記憶力が良くなるとかなんとか。
「……それで、幻想郷縁起を書き始めた最初の私は―――」
「ああ、それも当てようか。―――稗田阿礼。違うか」
「……」
阿弥嬢は言い掛けた体勢のままぽかんと口を開けた。
「……良く、分かりましたね」
「まあ―――記憶力が良くて稗田ならな。知ってりゃ分からァ」
尚、稗田阿礼とは、飛鳥時代天武朝の舎人である。彼―――彼女と言う説も有るが―――は記憶力に優れていた為、天武天皇は、後に『古事記』の元となる『帝紀』『旧辞』を読み習わせ暗誦させたと言う。
記録によればその時阿礼は二十八。極めて聡明な人物であったのだ。
「……何だか、説明する事がありませんね……」
「あっはっは」
「……まあ、ともかく。最初の私は色々あってこの地に辿り着き、色々あって縁起を書き始めたのです。終わり」
台詞をちょくちょく奪われた阿弥嬢は、何だか投げ遣りに説明を終えた。そう拗ねるなよ。
と、同時。寺子屋の方から、わっと子供の声が聞こえた。どうやら彼方も授業を終えたらしい。
「さて、行こうか」
「ええ」
ブランコから降り歩き出す。
と、寺子屋から子供達がわらわらと溢れ出て来る。その内の数人が、あ、と声を上げて走り寄って来た。
「阿弥ちゃん、来てたの」
「教室に入れば良かったのに」
「う、うーん……授業は知ってる事ばっかりだから……」
お友達らしい。ちなみに俺はと言うと、微妙に敬遠されている。知らない人だからであって、目付きが悪いからではない。決して。
「お兄ちゃん、あの人誰だろ……」
「しっ、早く帰るよ」
「私、先生呼んでくる……」
……。
「八切さん……子供の言う事ですから」
「……うふふそうだな。子供って正直だよなうふふふふふ」
「……」
何とも言えない面持ちで沈黙する阿弥嬢。
と其処へ、数人の子供に手を引かれ慧音女史が現れた。女史は何やら厳めしい顔をしていたが、俺を見て何やら納得した様であった。
「私の知人だ、心配ないよ……さあ、気を付けてお帰り」
「はーい」
「先生さよならー」
子供達を散らし、慧音女史が此方に歩いて来る。餓鬼共を睨んで泣かすべきかを真剣に検討していた俺は、取り敢えず保留して女史に向き直った。
「やあ八切。不審者が居ると聞いて驚いたが……貴方だったんだな」
「……どーも不審者です」
「ははは。貴方は目付きが悪いからな」
「…………」
好ましくはある彼女の正直さ。而してその言葉は、ぐさぐさとマイガラスハートに突き刺さる。
……目付きが悪くて何が悪い―――嗚呼、目付きが悪いのだ。無限ループ。
「で―――今日は阿弥殿。本日は何の御用で」
「何時も通りですよ。資料を少し」
俺が煩悶している間に、二人は挨拶を交わしている。冷たい。
「……八切とは、知り合いだったので?」
「ああ、いえ、先程此処の門の前で行き会いまして。彼も貴女に用が有ると言うから、一緒に待っていたんですよ」
「そうでしたか」
俺の恨みがましげな視線を受けてか知らないが、話題に俺の事が登る。慧音女史が俺に顔を向けた。
「それで、用とは?」
「いや、大した事じゃないんだが」
「うん」
「さっきの餓鬼共泣かして来て良いか」
「……」
慧音女史は無言で、しかしあくまでにこやかに俺の側頭を掴み頭を振りかぶる。―――脳裏に過ぎるは、初対面時、妹紅への『教育的指導』。
「ま―――待て待て待て冗談だ!」
「それは良かった」
頭を止め手を離す慧音女史。この人結構怖い。
「うん、まあ、妹紅に会いに行こうと思ってな。道を教えて欲しいんだ」
「道、か……」
慧音女史が難しい顔をする。
「……迷いの竹林はな、似た様な地形が多い上に、竹の成長が速くて景色がすぐに変わってしまうんだ」
「むむ。それは―――道の説明は出来んか」
「ああ。ついて行って道案内なら出来なくもないんだが、生憎私は忙しいから」
「そうかあ」
どうも慧音女史を待った意味は余り無かったらしい。残念。
「……それにしても、やっと会いに来たんだな」
「え?」
「妹紅は待ち草臥れているぞ。この間、来いと言ったのに来ない、と愚痴を零しに来た」
「……うーん」
それは怖い。しかしまだ、高々二十日程しか経っていないのに。
「此処んトコ家の方が忙しかったからなぁ……。つか会いたかったらアイツから来りゃ良いのによ」
「私もそう言ったんだけどね。来いと言ったから来るのを待つ、とか自分から行くのは恥ずかしいだろ、とか……良く分からない事を言われたよ」
「……酔ってたのか」
「酔っていたな」
酔っ払い妹紅は言動が大体目茶苦茶である。
「あのー」
「ん?」
と、阿弥嬢が会話に入って来る。
「先程から聞いていましたが……八切さん、竹林の藤原さんとはお知り合いで?」
「ん、んむ……そうだが」
妙に綺羅々々と目を光らせる阿弥嬢。……これはアレか。アレなのか。
「話を聞く限りではもしかして―――そう言う関係、なので」
「じゃあな慧音女史! 嬢ちゃんもまた会おう!」
「ああっ」
阿弥嬢の言葉は最後まで聞かず、素早く『窓』を開いて滑り込む。
―――どうしてこう女と言う奴は、人の色恋沙汰に興味津々なのか。否、まだ色恋沙汰ではない―――否々、この先色恋沙汰になる予定もない―――のだが。
さておき、居心地が悪くなる前に取り敢えず逃げる俺なのであった。
◇◆◇◆◇
さて『窓』にて人里の外へ出た俺は、迷いの竹林へと歩き出す。
竹林と人里はそう離れていない。徒歩で十数分と言った所だと、先日慧音女史は言っていた。実際、しばらく歩くと直ぐに竹が見え始める。
「……でけえ竹林だな」
迷う位だから当たり前だが、実に広い林である。竹と言う植物は、皆々地下茎で繋がっていると聞く。ならばこの馬鹿広い竹林の竹も、一ツの大きな個体なのだろうか。
そんな事を考えながら、俺は迷いの竹林に足を踏み入れた。
薄らとだが、道の様な物が出来ている。人が通った後らしい。
非常に迷い易く妖怪も出て危険だとは言え、未だ極々里に近く浅い部分だからだろう。竹や筍を採りに来る人間も居るのだ。
あちこち突き出ている筍―――既に旬は過ぎているが―――に目を向けつつ、竹林の奥へ奥へと歩を進める。迷う事なぞは端から心配していない。その気になれば直ぐにでも『窓』で帰れるのだ。
「もこーやーい―――」
闇雲にただ歩き探すだけと言うのも何なので、呼び歩く事にする。
「もこーもこー―――」
妹紅は一体どの辺りに住んでいるのだろうか。人里から近くはないと言っていた気がするが。
「もこー出て来ーい―――」
かなり投げ遣りに声を張りながら行く内に、人の道も失せ、幾分か奥まで来た事が分かる。真昼間とは言え、そろそろ妖怪も出るだろうか。
正に望む所であるが。
「もこー……ん?」
ふと、視線を感じて立ち止まる。振り返ると竹の間や薮の中から、小さな人影が一、二、三……五ツ程此方を覗いていた。そしてその頭には―――真っ白な兎耳。
「……何だいお前さん等―――あ、おい」
歩み寄ると、ぴいぴい騒ぎながら飛び出し走って逃げて行く。かと思うと、少し離れた所で立ち止まっては此方を見ている。……ついて来い、と言う事だろうか。
どうでも良いが幼女である。兎耳幼女。非常に特殊な趣味の人間が喜びそうな。
「ま、いっか」
どうも妹紅は見付からないし、俺は兎を追う事にした。
◇◆◇◆◇
兎達は、近付き過ぎず離れ過ぎずの距離を保って俺を先導していく。どうやら竹林の奥へと連れて行かれている様だ。
……もしかすると俺を喰う積もりなのだろうか。人喰い兎である。斯様な外見でも、妖獣である以上別段おかしな事ではないが。
「なー、お前さん等喋れるー?」
「……」
何とは無しに聞いてみるが、兎達はちらりと振り返るだけで何も答えない。まあ、期待はしていなかったが……無視されると、何だか是が非にも喋らせたくなる。
「隣の家に囲いが出来たってさ。カッコイー」
「……ッ」
びくんと肩を震わせ、しかし無言の兎達。しかし俺のばとるふぇいずはまた終了していないぜ。
「猫が寝込んだ」
「……ッ」
「紅葉を見に行こうよう」
「……ッ」
「下手な洒落は止めなしゃれ」
「……ッ」
下らない。非ッ常に下らない。決して俺自身は面白がって言っている訳ではないと理解して欲しい。
ただ小妖怪と言う物は、得てして余り知能が高くない―――有り体に言うと馬鹿である為、こう言った駄洒落は大いに効果的な訳で。
「布団が吹っ飛んだ」
「ぷひゃ」
実に定番な止めで、あっさり決壊。一人が吹き出すともう止まらず、全員で笑い転げ出した。やはり馬鹿だ。
「……ふっ。勝った」
そして何と無く満足感。……まあ。俺も大概馬鹿である。
兎達はひいひいと笑い転げながらも、俺の先導は止めずに転げる様に駆けて行く。
しかしまあ、自分でやった事とは言え。何故其処まで爆笑出来るのかと首を傾げつつ、俺は後を追うのであった。
◇◆◇◆◇
十数分程歩いて、何やら少し開けた場所に辿り着いた。兎達はその小さな空き地の、向こう側に集まって立っている。
「ふむ……」
何故此処に連れて来られたのだろうか、と辺りを見渡す。―――と、目の前の地面に違和感。本当に微かながら、何か引っ掛かる。
「……うん」
すっと目を細め、兎達に向かって歩を進め―――。
「うおわ!」
ざはー、と。足元が一気に崩れた。突然地面に空いた穴―――落とし穴に、俺の身体が吸い込まれる。
「あっはははははは!」
と、その時。幼い少女の声で、哄笑が響き渡った。
「引っ掛かったね人間ッ」
傍の薮から、兎耳幼女がもう一匹飛び出した。きゃらきゃら笑う他の兎達と共に穴を覗き込む―――が。
「……へ? 何で居な―――」
「はいどーん」
「うきゃああっ!?」
背後から俺に蹴っ飛ばされ、兎耳幼女はインザ落とし穴。ばしゃん、と水音が鳴り響く。中には水が張られていたらしい。
―――まあ、何の事はない。落とし穴に気付いていた俺は、落ちる振りをして『窓』で上に逃避していたのである。
「わははは……ほれお前さん等も」
「ひゃああ」
「ぴー!?」
俺も哄笑しつつ、呆気に取られていた他の兎達の首根っこを引っ掴み穴に放り込む。思い思いの悲鳴を上げつつ落下して行く兎耳幼女群。実に愉快。
「……だああっ! い、一体何がどうなってッ」
兎耳幼女の一匹が水滴を散らしながら穴から飛び出して来た。先程大笑いしていた奴である。他の兎達と殆ど変わらない格好だが、この兎だけ人参の首飾りらしき物を付けている。
先程の挙動を見るに、どうやら彼女が黒幕であろう。
「よォ兎耳幼女君。水も滴る良い女だね」
「あ、あんた……」
にやにや笑っている俺に、目を瞬かせる兎リーダー(仮)。
「竹林に迷い込んだ人間を、痛烈に引っ掛ける積もりだったみてえだが……いや、悪りィな」
ぽん、と軽い音と共に変化を解く。ふわりと揺れる大きな尻尾。
「―――俺は同族だよ」
「……ああ、もう」
俺の姿を見て唖然としてから、がく、と兎は肩を落とした。
「ま、紛らわしい……何で人間に化けてるのさ」
「いやー、何と無く?」
わはは、ともう一度笑い尻尾を丸めて上に座る。簡易椅子である。
「……ってかさあ。さっさと正体明かせば良いじゃんか。何で突き落とすかなあ」
「悪戯を仕掛ける不届き者を、ちょいと懲らしめただけだろ」
「懲らしめようとしたのはこっちだって」
突き落としたのではなく蹴り落としたのだが、まあ其処は言うまい。兎耳幼女は服の裾を絞りつつ口を尖らせている。その後ろでは、兎達がのそのそと穴から這い上がっていた。
「この危険な竹林を大声出して歩いてる人間が居るから、危ない目に会う前に教訓与えてやろうと思ったのに。善意だよ善意」
「成る程。そりゃすまんかったな」
水を張った落とし穴、なんて凶悪な物を用意しておいて良く言った物だ。教訓は二の次の悪乗りだったろうに。
「さて―――俺は八切七一と言う。見ての通りの鼬だよ」
「……やれやれ。私は因幡てゐ。こいつ等は子分ね」
おざなりな扱いの兎達、特に文句を言うでもなく服の水を散らしている。躊躇無く服を脱いで幼児性愛者歓喜な光景を繰り広げているが、当然ながら俺の琴線に触れる物ではない。
それはさておき―――因幡。
「因幡と言やァ―――素兎だな」
「ああ、うん。それ私ね」
「……何ですとォ!?」
―――因幡の素兎。
古事記の伝える出雲神話の一ツである。
淤岐島に住んでいたとある兎が主人公で、彼は因幡の国に渡りたがっていた。
一計を案じたこの兎、海の鰐達に『私と貴君等、何方が仲間が多いか比べようではないか。どれ、私が数えるから因幡の国まで並んでくれ給え』―――と持ち掛ける。乗せられてしまった鰐達、兎の言うままにずらりと並び、兎は数えつつ鰐達の上を飛び移りまんまと因幡まで渡るのである。
だが最後の一匹に乗った所で、所詮獣の浅知恵とでも言うべきか。有ろう事かこの兎、『騙されたなおめーらヘッヘッヘ』―――と暴露しちまうのである。当然鰐達大激怒、何と兎は全身の生皮を引っぺがされてしまう。えぐい。
さて念願の因幡に辿り着いた兎であるが、全身の皮を剥がれて念願も糞も無い。海岸でひいひい泣いていた所、其処にとある神様御一行が通り掛かる。彼等は八十神と言い、八上比売と言う神に求婚しに行く所であった。
兎はこの神達に助けを求める。しかしこいつ等、実に性格が悪い。塩水に浸かってから乾いた風に身を晒せ、と兎に教え去って行くのだ。兎はその言葉に従うが、そんな事をしては当然、痛みは酷くなるばかりである。
と此処へまた通り掛かったのは、八十神達の兄弟である大国主神であった。彼も八上比売に求婚しに行く所であったが、少し遅れていたのである。
彼は兄弟達と違い出来た奴で、淡水で身体を洗い蒲の穂を付ける様にと兎に言う。さっきの今でちょっとは疑えよ、と思わなくもないが兎はこの言葉にも従い、目出度くも彼の傷は癒えるのだ。
兎は大いに喜んで、『きっと貴方様が八上比売を射止めるでしょう』―――と予言する。ついさっき鰐に嘘八百散らした口で何を、と言いたい所だが、その言葉通りに大国主神は八上比売を娶るのである。
―――と、少し長くなったが因幡の素兎はそう言う話。
因みに淤岐島とは今の隠岐島で、因幡と言うのは今の鳥取県東部である。
また、鰐とは鮫の古名だ。昔は日本海に鰐が居たとかそう言う訳ではない。
で―――目の前に居るてゐとやらが、その素兎だと。
上に書いた様に、因幡の素兎は神話である。神代の昔である。
つまり、この幼女。
「も―――物凄く年上!」
「ああ、うん……まあね」
年上も年上―――数千数万の単位で年上だ。諏訪サマや映姫嬢の様な神のレベル。俺の母君ロリババアとか八雲の若作りとかそんなチャチなモンじゃ断じてねえ。もっと恐ろしい物の片鱗を味わったぜ。
「そ、その形でお前さん、神でも無いのにかよ」
「いや、健康に気ぃ使ってたら何か長生きしちゃって」
「マジか」
健康すげぇ。
「さっきは本当に悪かったな……老人突き落としたりして」
「誰が老人だ」
「大丈夫ですかお婆ちゃん」
「だから誰がお婆ちゃんだ」
ひくりと顔を歪めるてゐ。まあ例によって、婆扱いは御不満らしい。
……それにしても、諏訪サマと言い映姫嬢と言い、何で果てしなく長生きなのに幼女なのだろう。神奈サマは違うけども。
「えー、妖力は然程感じないけども、実は凄く強い大妖怪だったりするのかなお前さん」
「や、私は長生きなだけだし。喧嘩はからきしだよ」
「さいで……」
面倒な相手に喧嘩を売ったとか、そう言う方向にはならない様だ。セーフセーフ。
「で―――あんた、一体この迷いの竹林に何の用なのかな?」
「あ、そうだそうだ。人を探しに来たんだよ俺ァ」
言われて思い出す。長生きらしい彼女なら、この竹林の事は良く知っているだろう。妹紅の居場所くらいなら分かるかも知れない。
お婆ちゃんの知恵袋(笑)。
「言ってみ。竹林の中なら多分分かるよ」
「ええとな、こんくらいの背丈で」
「うん」
「目と耳が二ツずつ」
「……うん」
「で、鼻と口が一ツずつだ」
「分かるか」
がすん。殴られた。
「冗談だよ冗談。……髪が長くて白い、赤いもんぺ履いてる女の子だ」
「うん? ああ……何だあの蓬莱人か」
得心した風に頷くてゐ。知っている様だ。尚、蓬莱人と言うのは恐らく蓬莱の薬を呑んだ不死人の事であろう。
「あー成る程、もこもこ言ってたのはあいつの事だったんだ」
「うむ。で、何処に居るかは分かるのかな」
「ついさっき見たよ」
「お。本当か」
「見たけど……ね」
てゐは何やら含みの有る言い方をして、薄らと苦笑いを浮かべた。
「ウチに向かってたからねぇ……そろそろ始まるんじゃないかな」
「……一体何が始まるんだ?」
と―――問い掛けた直後。そう遠くはない場所で、凄まじい爆音が鳴り響いた。竹が大きく揺れて、がさがさと葉を擦らせ騒ぐ。
何だどうした第三次大戦か。
「ほら、見てみ―――」
下らない事を考えている俺を余所に、てゐが前方の空を指差す。
「あんたの探し人は、あそこだよ」
言われるままに見上げると、二ツの影が目に入る。
一方は燃え盛る火炎の翼を広げた不死鳥の様な姿―――妹紅だ。
そしてもう一方は無数の光玉を纏う人影―――見覚えが有ると思ったら、何時かのかぐや姫である。
それはどうやら―――実に派手な、二人の喧嘩であるらしかった。
中々書きあがらないので上下分割。
途中まで「阿求」で書いてて慌てて書き直したって言うどうでも良い話。