其之二十一、鼬地底へ赴く事
朝は少し苦手だ。
早起きが不得手であるとか、寝起きが悪いと言う訳ではない。むしろ旅の間は何時も、かなり早い時間に起きていた。旅人の朝は早いのである。
寝起きも良い方だ。昔俺がまだまだ弱かった頃、睡眠時と言うのは非常に無防備な時間であり、その為俺は傍で物音等があれば直ぐに目覚める事が出来る様にしていた。まあ、それなりに強くなり、結界やの何やのを扱える様になってからは其処まででは無くなったのだが。
ただ、起きたばかりの俺はどうにも頭が働かない。思考が遅い。鈍る。単純になる。
睡眠時の襲撃者の気配で目覚めたとしても、そんな鈍い頭では如何んともし難い。深く考えて対処する事等出来やしない。
で、結果として。
寝起きの俺は非常に攻撃的であった。起きる原因になった者を誰彼構わず、手加減等考える事も無く取り敢えず切る。勿論今ではそうでもないが、手荒く起こされると思わず昔の癖が出る。
―――以上の事を踏まえて、今朝の風景である。
「起っきろ七一ぃー!」
「うぐぁは」
高く煩い子供の声と、腹部への衝撃。うっすらと目を開けると、映るのは馬乗りになって笑う子鬼の姿―――。
「……萃、香」
「そだよ七一! おはよ……」
「……死ね」
「ぎゃー!?」
―――萃香の角が宙を舞った。
◇◆◇◆◇
「七一の鬼ッ! 悪魔ッ!!」
「鬼は手前だよ」
半刻後。
はっきりと目を覚ました俺は、涙目で怒る萃香を前に朝食を摂っていた。
「なんでまた角切るのさ! 鬼の角何だと思ってんの!?」
「……俺の寝起きの凶暴さ、お前さんは知ってた筈だろうに。もうくっ付けたんだから怒るなよ」
「怒るよッ!」
もそもそと焼き魚を咀嚼する俺に、萃香が両手で卓袱台を叩く。……ばがんと破壊音が響き、俺が素早く上げた朝食の乗った盆の下で卓袱台が薪材になった。ああ、もう。
「……萃香ぁ?」
「うっ……ご、御免」
「そもそもなぁ、お前さん人の家に勝手に入るなよ。親しき仲にも礼儀有り、だ」
「むぅう」
口を尖らしむくれる萃香。幼いその容姿には非常に似合う仕草だが、彼女の実年齢を鑑みるに、似合うと言うのは余り芳しい事ではない。
「七一が寝てるのが悪いんじゃないかぁ」
「朝ァ寝てて何が悪りぃんだっての……」
盆を床に起き朝食再開。新しい卓袱台を見つけなければ。蒐集物の中に一台くらいは有るだろう。多分。
「で、何の理由も無く俺の安眠妨害して卓袱台粉砕した訳じゃねえだろ。用件は何かね」
「あ、そうだよそうだよ」
ぽん、と手を打つ萃香。
「昨日さ、旧地獄の奴等に七一が来たの伝えに行ったじゃん私」
「あー。そう言やそうだったな」
「で、直ぐ来いって。今日中に」
「やだ」
「即答かよ」
だってだってまだあんまり会いたくないし。殴られそうだし。心の準備とかあるし。
「今日はほら、この家をアレコレする予定なんだよ。だからまた今度に」
「来ないなら行くって言ってたよ」
「よォし行こうか萃香!」
「即答かよ」
冗談じゃない。昨日入ったばかりの新居が一瞬にして全壊する様なぞ俺は見たくない。
御飯と味噌汁を掻き込み立ち上がった俺は、足早に玄関へと向かう。
「さて……地獄行くかぁ」
「旧地獄だって」
「地獄で良いよ」
俺の心情的には。
◇◆◇◆◇
「さあ、此処が地底の入口だ」
微妙に嫌々ながらも萃香に連れられやって来たは、地面に空いた大きな洞窟。何やらおどろおどろしい空気を発散している。
「……って、地底?」
「うん、地底。私先行ってるね。旧地獄には道なりに行けば着くから。じゃ」
「地底……地底、か」
聞いた名である。地底と言うと確か、何時かの信貴山寺御一行白蓮除くが封印されている場所ではなかったろうか。
……となると、再会する旧友は鬼諸君だけではないかも知れない。
「……まあ、行こうか」
何はともあれ、と。さっさと先に行った萃香に続き、深い地の底へと続く穴に足を踏み入れた。
かなりの傾斜で沈む洞窟。しばらく歩くと、直ぐに日の光が届かなくなった。しかし完全な暗闇と言う訳ではなく、壁の所々に生えた苔がうっすらと光を発している。妖獣の目にはこれで十分。
……光蘚、と言う植物がある。時折誤解されるがこの植物は蛍の様に発光する訳ではない。洞窟の入口等の薄暗い場所に生えており、凸レンズ状の構造を持つ細胞が弱い光を反射しているのである。
しかして此処の苔は、明らかに発光している。自力で光る苔と言うのは、少なくとも俺の知識にはない。きっと外では生息していない珍しい苔か何かなのだろう。
……この幻想郷の事、苔以外の何か怪しげな物であっても俺は驚かないが。
ぽたりぽたりと水の落ちる音が響く。
何時の間にか天井が高くなっており、上を見上げても何も見えない。苔の光も届いていないのだ。大分深くまで降りて来たらしい。
しかし暗闇の中を延々歩いていると、時間の感覚を失いそうになる。多分そろそろ一刻程になると思うのだが。
「……まだ着かねえかなぁ……」
と、一人ぽつんと呟いて―――ぱしん。
ひょいと右手を頭上に挙げ、降って来た何かを受け止めた。
「……あっ」
頭上の何かから慌てた様な声―――少し掠れた様な少女の声―――が上がり、上へ引っ張られる感触。そうは行くかと左手も挙げて、逃げられない様しっかり掴む。固く、少し湿った木の感触。
「……あぁっ」
何かがもっと慌てた声を出した。ぐいぐいと引っ張られるが、妖獣の腕力に等そうそう逆らえるモノではない。
「ふっふっふ……一体何者か知らねぇが、この俺に奇襲掛けようなぞ千年早ぇ」
「……あぅう」
「あぅーじゃねえや。神妙にしやがれ」
「……は、離して」
「ふはははー。離さん」
「……変態。痴漢。人呼びます」
「いや……お前さんが降って来たんだろうに」
随分と勝手な事を宣う何か。上へ逃げようとする気配は途絶える様子がない。諦めの悪い奴である。
「ほらほら、痛い事しないから。諦めて抵抗は止しなさい」
「……本当に?」
「しないしない」
「……むぅ」
ふっと引く力が緩んだ。さて一体こいつは何だ、と何かを両手で持ったまま前に下ろす。
―――それは、どうやら桶であった。
勿論ただの桶が喋る筈はなく、中に緑髪を二ツ括った少女が入っていた。少女は桶の縁から半分顔を出し、上目使いに此方を見上げている。
……良く見ると桶には取っ手が付いており、其処には縄が結び付けられている。
と、なると。これは桶とは呼べまい。釣瓶、である。
「お前さん……釣瓶落とし、とか?」
「……そう」
少女がこくんと頷く。
―――さて釣瓶落とし。
またの名を釣瓶下ろしと言い、夜大木の下を通ると釣瓶や首が落ちて来て、人を引っ張り上げて食ってしまうと言う怪異である。
また釣瓶火と言う怪異があるのだが、これは名の通り火の怪異。大木の枝から降りて来て上下に揺れる火―――と、そんなモノ。
これらは元々同じモノであった様で、そもそもの釣瓶落としが火の妖怪であったらしい。上下する火の玉にキャラクターとしての顔がつき、果てはそれが首になったと、そんな経緯であろうか。
詰まる所釣瓶落としとは元来、釣瓶の様に落ちて来る火の事を言う訳で、実際の釣瓶とは名前以外に関係無い訳なのだが―――。
「何で釣瓶に入ってるんだ?」
「……狭い所、好きだから」
「ふうん……よっ、と」
まあどうでも良いか。少女入りの釣瓶を取っ手でぶら下げる様に持ち替え、腕を挙げて顔の高さを合わせる。
「鼠みてぇだなぁ、それ」
「……せめて猫と言って欲しい」
「何で?」
「……猫は可愛い」
「鼠もまあ、割と可愛いモンだが」
「……見解の相違」
さいで。
「俺は八切七一っつー鼬だ。お前さんは?」
「……キスメ。姓は無い」
「そっか。でな、キスメ。俺ぁ今地獄に向かう所なんだが、道は―――」
「……取り敢えず死ねば良いと思うけど」
「……、いや、まあ、そうじゃなくてな」
唐突にとんでもない事を言う。いや、合ってるけど。合ってるんだけど。
「旧地獄、っつー所らしいんだが。道はこっちで良いんだよな?」
「……ん。真っ直ぐ歩けば着く」
「そか。有難うよ」
取り敢えず道は合っているらしい……と言っても、此処まで分岐も無かったが。ともあれ再び歩き出す。
「……あの」
「ん、何かね」
「……離して」
「やだ。独り歩きは寂しいだろ」
「……変態。誘拐犯。人呼びます」
「死人に口無しと言う。呼べない様にしてくれる」
「……それ、結局独り歩き」
「いや、死体は語ると言うし」
「……ぞんび?」
「いやいや、むしろ司法解剖とか名探偵とか……な?」
そう言えば死んだ妖怪も死人と呼んで良いのだろうか。死妖怪?
「まあそう言う訳だから、旧地獄まで付き合ってくれたら嬉しいぞ?」
「……地獄まで一緒について来てだなんて。熱烈」
「…………いや、まあ、何でも良いけどよ」
この娘のキャラが今一掴めない。
「……貴方は」
「ん?」
ふと、キスメから口を開く。
「……貴方は此処に何しに来たの?」
「んー。悪事を働いて放り込まれたのさ」
「……成る程」
「いや納得するな。冗談だ」
深く納得したと言う表情のキスメ。そんな悪そうに見えるのか。……目付きか。目付きなのか。
「旧友が此処に居んだよ。即刻会いに来いっつーから仕方なくな」
「……えー」
「何で残念そうなのよ……」
俺に友達が居ちゃ悪いのだろうか。
「……で、旧友って?」
「鬼」
「……鬼? どう言う縁?」
「だから旧友だって。千年弱振りになるが」
「……嘘。そんなに長寿?」
目を丸くし俺を見上げるキスメ。
「まあな。俺ぁもう大体千八百になる……大妖怪、と言っても良かろ」
「……信じられない。こんなのが……世も末」
「其処まで言うか……」
一々言う事がキツいこの娘。
「……大妖怪かっこわらい……」
「お前さん、俺の事舐めてるだろ……」
つか(笑)とか言うな時代を無視するな。
「……知ってるかキスメ。手桶に水入れて振り回しても、水は零れねえんだ―――せいっ」
「……ちょ、まっ」
「ふははははっ。遠心力ッ遠心力ッ」
「……きゃー!?」
腕を大きく回し、キスメの入った釣瓶をぶんぶん振り回す。どうでも良い事だが、水とバケツで遊んだ事のある人には分かるだろうが、回すのは簡単でも零さずに止めるのはこれが結構難しい。
「ぃよっ……と」
「……むぎゅぅ」
まあ、中に入っているのは水ではない。固体である。零れる様な事はなく簡単に止まる。急制動を掛けられた中身は堪ったモノではなかろうが。
「……あうあうあー」
「どーだ。大妖怪舐めたらこう言う目に会うのだ」
「……だ。大妖怪とか、言ってる、割に。報復が、小っちゃい」
「何だよぅ。腕と足切り落として釣瓶に付け直して釣瓶ごと歩ける様にしてあげるとかの方が良かったか?」
「…………えぐい」
若干顔色が悪くなるキスメであった。振り回されて酔ったからか、俺の言葉の所為かは知らないが。
……と、その時。
「―――や、キスメ。何か楽しそうだね」
頭上からのそんな言葉。見上げると、誰かが糸らしきモノにぶら下がってするすると降りて来る。……少女、であった。また。
「……あ。ヤマメ」
キスメも顔を上向け、少女に声を掛けた。はてさて魚には見えないが、ともあれ少女が目の前に降り立つ。金髪に茶と黒の服、大きく膨らんだスカート。
「よっ、と……。やあやあ、上からお客さんとは珍しいね。陰気なとこだけど、まあ歓迎するよ」
「はぁ。どうも」
陰気と言いつつも、自身は陽気に言う少女。……はて。この顔、何処かで見た様な。
「で、キスメ。この人は―――」
「……ヤマメ、こいつ誘拐犯。犯される助けて」
「また洒落んならん嘘をつきやがるなお前さん……」
「あっはっは」
俺も中々にいい加減な言動が多いが―――自覚があるなら止めれと方々から言われそうである―――、この娘も大概である。幸い金髪茶黒の少女は、真に受けるでもなくからから笑った。
「さて、私は黒谷ヤマメ。誘拐犯さんのお名前は?」
「八切七一。……誘拐犯じゃぁない、ただのしがない鼬だよ」
「……ん? 鼬で、八切七一?」
「何だ。どっかで聞いた事でも?」
「ん……んんん。聞いた様な聞いてない様な」
少女ヤマメは腕を組みかくんと首を傾け、記憶を探る様に眉根を寄せる。俺は俺で、やっぱこの顔何処かで見たかなと首を傾ける。
「……えー、と。確か此処に来る前、風の噂に――あ」
「……あー、うん。ずっと前……平安くらいに見た顔だ多分―――あ」
「思い出したっ。都で中小妖怪の総元締やってたとかってぇ奴じゃんか」
「そーだそーだ。お前さん土蜘蛛じゃねえのよ」
「え?」
「お?」
お互い思い出し、そしてお互いの言葉を聞いて、またお互い首を傾げる。
「あれ? 会った事ないよね? 何であたしの事知ってるの?」
「いや、俺ぁそのちょっと顔見た事あるだけなんだが……何だよ総元締って」
「だから、風の噂でさ。矢鱈すばしっこい鼠を部下に、都中の妖怪を裏から纏めてる鼬が居るって」
「何だそりゃぁ」
思わず零す俺である。平安時代の俺はそんな風に見られていたのか。いや確かに、かなり広く深く根強くネットワークを張り巡らせてはいたが。親分面した事等一度も無ければ、表に顔を出した事すら殆ど無いのに。
「……そんな凄い奴には見えないけど」
「え? ……うぅん。そう、だねぇ……」
キスメの言葉に、俺の顔をじろじろと見るヤマメ。
「確かに……そんな大物っぽい顔じゃないなぁ……」
「……でしょ」
「普通に失礼だな手前等」
「単なる同姓同名? てか騙り?」
「……偽物め」
「ホント失礼だな手前等!」
そんなに小物か俺の顔は。畜生め。
「でもまぁ目付きの悪さは中々だね」
「……三白眼」
「目ッ茶苦茶失礼だな手前等!?」
心の底から放っとけと言いたい。
「まぁ、都でそこそこの勢力持ってた鼬っつーなら俺で間違いねえ。総元締云々は初耳だがよ」
「あれ。そうなの?」
「……噂って奴ぁ尾鰭の上に手足生やして独り歩きしやがるからな」
「ふうん。ま、良いけどさ」
俺はむしろ目立たぬ様にを信条にしていた訳で、そんな都の裏ボスみたいな悪評、真っ平御免であった筈なのだ。いやはや全く。
「それより―――顔見た、って。一体何時何処でさ」
「あー。いや……まあ、な。色々あってな、うん」
「?」
俺が彼女を見たのは―――退治される所、なのだ。面と向かって言い易い様な話ではない。
「……つかお前さん、雰囲気変わり過ぎだろ。ぱっと見ぃ全く分からんかった」
「え。ま、まあ……昔のあたしは、かなりアレだったから、ねえ」
若干照れ臭そうに苦笑いする少女ヤマメ。まあ。アレだった、と。
ともあれ―――土蜘蛛である。
『平家物語』や謡曲、絵物語の類で、その魔力により源頼光を病にするが、頼光と四天王に退治される蜘蛛の妖怪である。
ただ土蜘蛛がこうした怪しい術を使う妖怪として描かれるのは、中世になってからだ。中世以前、古代において、土蜘蛛とは朝廷に従わない、服わぬ民の別称であった。
さておき。俺が彼女を見たのは、正に源頼光と戦い退治される所であった。
あの時の彼女は何と言うか―――この上なく、妖怪らしかった。しばし思い出せなんだも当たり前、顔付きからして随分違う。笑みなぞ見せぬ怖い顔、振り翳すは八ツの剛脚、纏い溢れる病の瘴気。
それが―――。
「随分と―――丸くなったなァおい」
「あ、あはは……」
昔の話は止しておくれと、ひらひら手を振るヤマメであった。
まあ。黒歴史、と言うモノであろうか。
「で―――元都の総元締が、地底に何しに来たのかな?」
「いやそう言うんじゃねぇからな……ま、何だ。友人に―――鬼に会いに来たのよ」
「ほぉ、鬼が友人……流石都の」
「しつけぇよ」
んな大層なモンじゃねえやい、と憮然とする俺。正直止めて欲しい。
「……そう言えば鬼達、昨日は何と無く騒がしくしてたなぁ。貴方と関係あるのかもね」
「あぁ。だろーな」
「ぶん殴るとか叩き潰すとか言ってたけど」
「………………」
帰りたい。
◇◆◇◆◇
「時に―――地底ってな、どう言う所なのよ?」
手にはキスメ入り釣瓶をぶら下げ、ヤマメと並んで洞窟を歩く。旧地獄までついて来てくれるとの事である。暇なのだろうか。
「んー……人間だけでなく妖怪にすら忌み嫌われる妖怪を集めた場所―――って感じかな」
「……掃き溜め」
「いや暗ぇな……」
「あぁいやいや、そう悪いとこでもないんだよ? 日光無いし湿気てるし殺伐気味だけど」
「ふむ。住めば都―――かい」
住み慣れてしまえばどうって事も無い、のだろう。人間には些か辛かろうが、まあ妖怪であるのだし。
「しっかし……畏れられはすれど、鬼が忌まれるか?」
「連中は自分から降りて来たからねー。最近の人間共はつまらんって」
「あァ。そう言やそうだっけか」
「……鬼が来て。地底は多少明るくなった」
まあ、陰気さを好む様な連中ではない。暗くて欝陶しいから酒呑んで騒いで空気を変えた―――と、そんな感じであろうか。
「で、旧地獄ってのは?」
「名の通り、昔地獄だった所だよ」
「……是非曲直庁の行政引き締めで、使われなくなった場所」
「是非曲直庁?」
「あの世を司ってるお役所だよ」
……役所なのか、あの世。と言う事は、九時五時だったり盥回しされたりするのだろうか―――と言う独断と偏見の役所像。
尚、『是非曲直』とは物事の正不正・善悪の事である。
「其処に鬼やら妖怪やらが住み着いて家建てて、今は旧地獄街道なんて呼ばれてるんだよね」
「へえ……と、ん?」
「おっ」
等と話しつつ歩いていると、前方に川が見えてきた。そこそこ大きなその川には、そこそこ大きな橋が掛かっている。ふと気付けば、下へ下へと向かっていた地面の傾斜が平らになっていた。
「到着―――だね。あの橋を渡ったら旧地獄だよ」
「へぇ。三途の川だな」
まあ三途の川は、地獄へではなくあの世へ行く途中の川だが。渡るのも橋ではなく舟であるし。
「あ、そうだ。先に注意しとくけど……あの橋、橋姫が居るよ」
「ほう。橋姫」
―――橋姫。
名の通り、橋の袂にいるとされる女神の事である。
古くは水神信仰の一ツで、橋の袂に男女二神を祀ったのが始まりであろうと考えられる。また、橋や堤の基を強くする為に人間を贄として埋める、所謂人柱とも関連があるとされる。
また酷く嫉妬深い神で、橋上で他の橋を褒めたりすると恐ろしい目に合うと言う。
さてこの橋姫で特に有名なのが、『平家物語』や謡曲『金輪』に残る宇治の橋姫の説話である。
男に裏切られ嫉妬に狂ったある女が、宇治川に七日七晩身を浸し生きながらにして鬼と化し、男やその一族までを呪い殺したと言う話だ。その怨霊を鎮める為人々は宇治橋に橋姫として祀ったそうだ。嫉妬深いこの神の怒りを買わぬ様、婚礼の際には宇治橋を渡る事を忌んだと言う。
「例に漏れずと言うか、凄く嫉妬深いよ。まあ、悪い奴じゃないから怒らないでやってね」
「んー。まぁ、そりゃ良いが」
自慢ではないが、俺は滅多に怒ったりしない男である。
「橋姫にゃあんまり良い思い出がねぇのよなぁ」
「……そうなの?」
「うむ。宇治の橋姫、見物してたら追っ掛けられた」
「……馬鹿」
「知ってらぃ」
うだうだ言ってる内に、どんどん橋が近付いて来る。―――橋の上、誰か女性が欄干に凭れて立っている。あれが橋姫だろうか。
橋の袂に辿り着く。どうやら此方に気付いたらしい女性がゆっくりと気怠げに此方を向き、口を開いた。
「……明るい太陽。緑の草花。爽やかな風―――」
じっとりとした緑眼で俺を見据え、明るさ爽やかさの欠片も無い声で言う。
「―――地上の者ね。妬ましいわ」
「……あ、はい。すんません」
いきなり妬まれた。いきなり過ぎて思わず謝る俺。
「……女二人に挟まれて良い御身分ね。妬ましいわ」
「……はぁ。そうすか」
両手に花を妬まれた。何故か敬語な俺。
「地上の者がこの地底に何の用?」
「はぁ。旧い友人に会いに来たんだが」
「……友人が居るのね。妬ましいわ」
「……えぇー」
何だか凄く寂しく妬まれた。後ろからヤマメが囁いてくる。
「言ったでしょ、嫉妬深いって」
「嫉妬深いって程度じゃねえだろオイ」
「余計なお世話よ……妬ましい」
「……、まあ、何でも良いや。この橋、渡っても良いかね」
「嫌よ」
湿った緑眼が鈍く暗く光る。
「そりゃまた何故に」
「地上の者を通してやるなんて癪じゃない。とっとと帰れば良い……ああ妬ましい」
「うわぁ面倒臭ぇ……」
まぁ上飛んで渡っても良いのだが……取り敢えず交渉してみる事にする。
「……さて此処に美味しいお菓子がある」
言いつつ、懐から紙に包んだ饅頭を取り出す。
「通してくれたらあげるんだが」
「うわぁ……」
「煩ぇ其処の土蜘蛛。で、どうよ」
「……私は甘い物は嫌いよ。そんな賄賂程度で動く程、私は安くないわ」
「ですよねー」
やはり無理があったか、と肩を落とす俺。しかし橋姫続けて曰く。
「ところで、私は今煎餅が食べたいわ」
「やっす!」
実にあからさまな要求に脱力しつつ、俺は『窓』を開いて煎餅の袋を取り出した。
「……海苔煎餅じゃないのね」
「注文多いな!」
袋の中を覗いて残念そうな顔をする橋姫に、海苔煎の袋を投げ付ける。橋姫は微妙に満足げな顔をし、再び袂の欄干に凭れて煎餅を齧り始めた。
「……水橋パルスィよ」
「ん?」
「名前に決まってるでしょう。その耳は飾りなのかしら妬ましい」
「……あー。八切七一だ」
「覚えやすい名前。妬ましいわ」
一々妬まないと喋れないのだろうか。……喋れないのかも知れない。
「お前さん、そんなに妬んでて疲れねぇ?」
「愚問ね。貴方、呼吸に疲れる?」
「……わぁお」
凄まじい返答である。何と言うか筋金入りだ。
「もはや敬意すら払いたくなるな、お前さん」
「その敬謹さが妬ましいわ」
「此処で発想の転換……妬ましいってなつまり羨ましいって事だ。羨ましがられまくってる俺超勝ち組」
「……その余りに楽観的な思考が妬ましい」
「照れるぜ」
「褒めてないわ妬ましい」
もしかすると、彼女の言う妬ましいは単なる口癖の様な物なのではなかろうか等と考える俺。いやまぁ、全部本気で言ってるんだろうけれど。
「……貴方、もう用無いでしょう。早く行ってくれない?」
「そう言われると居座りたくなる―――それが人間心理」
「死ねば良いのに」
「ちょっ」
唐突かつ辛辣な一言に深く傷付けられる俺。人間じゃないよねとか片手の釣瓶落としが言ってるけど気にしない。
「まぁ居座ってもやる事が無い訳で」
「ならさっさと消えなさいよ」
「だが断るッ」
「……何なの、暇なの貴方」
「いやァ。さっき言った旧友がさぁ、鬼なんだがよ」
ぶっちゃけあいつ等と会いたくないなーみたいな。もうちょっと引き延ばしたいなーみたいな。
「会いたくないの? 何でさ?」
「別れる時色々あってな……会ったら多分殴られる」
「……何したの?」
「んむむ。敵前逃亡を強いたとか、無断で遠い土地にすっ飛ばしたとか……」
「良く分からないけど、私には関係無いでしょう。とっとと行って頂戴」
「そー言うなよぉ。いーだろちっとくらい」
「嫌よ」
にべもなく余所を向くパルスィに、俺は仕方なく最終手段に出る事にする。
「ところでおかき食うか?」
「……しばらく居ると良いわ」
「それで良いのか二人共……」
呆れた様子のヤマメとキスメ。知ったこっちゃねぇや、と俺は欄干に腰を下ろす。飲む物が無いのは寂しいので、急須やの茶葉やのを取り出し、妖術の火で茶を沸かし始める。
「……便利ね、貴方」
何処からともなくぽんぽんと物を取り出す俺に、パルスィが未来の世界の猫型ロボットを見る様な目を向ける。ぶっちゃけ大差ないかも知れない。
……と。無駄に時間を稼ぐ事に成功したかの様に見えた、その時。
「―――あ、居た居た」
聞き覚えのある、しかし今は聞きたくなかったその声にびくんと肩を震わせる。恐る恐る振り返ると、旧地獄の方から歩いて来る鬼が一人。
「遅いと思ってたら、こんな所で油売ってたんだね―――」
長い金髪、起伏豊かな体型、額から伸びる赤い角―――鬼の四天王が一人、姐御の呼び方が似合う怪力乱神。
「―――ひっさし振りだねぇ、七一ィ」
言って、にか、と笑う。
それは懐かしき我が友人―――星熊勇儀その人であった。
続く
そんな感じで地底編、鼬紀行文最新話でした。
鬼とか地霊殿とか星蓮船とか、この地底編、随分長くなりそうなので、幾つかに分割致します。中途半端な切り方と言うか、なんかこう引きっぽい。
しかし今回はそう書く事無いですね。ぶっちゃけ普段書いてるのも書く必要無い事ばっかですけども。
まあ、キスメがアレな事になったとか土蜘蛛平安の内に書いときゃ良かったなとかぱるぱるぱるぱるとかくらい?
ぱるぱるぱるぱるぱるぱるぱるぱる。
……お読み頂き有難う御座いました。