其之十三、鼬白面金毛の九尾と遊ぶ事
玉藻前。
平安時代の末、上皇に仕えた絶世の美女―――否、傾国の美女である。その正体は、白面金毛九尾の狐と呼ばれる最も強大な妖狐であった。
比類なき美貌と知慧から時の上皇―――鳥羽上皇の寵愛を一身に受け、育ちは決して高くない身分の者でありながら、契りを結ぶまでに至ったという。
しかしてその後、鳥羽上皇は病に侵されてしまう。お抱えの医者共にも原因は知れず困り果てた所を、陰陽師安部泰成が玉藻前の仕業である事を明らかに。正体を暴露された玉藻前は、その本性である九尾狐の姿を晒し、宮中より行方を暗ますのである。
更にその後、那須野―――現在の栃木県―――にて婦女子を攫う等の所業が宮中に伝わり、鳥羽上皇は討伐軍を編成、上記陰陽師泰成を軍師に据え、総勢八万の軍勢を派遣する。
討伐軍は九尾を発見し直ぐさま攻撃を仕掛けるも術に惑わされ、戦力を大きく削られる大失敗に終わってしまう。
しかし以降は訓練を重ね対策を練り上げ九尾狐を追い込み、遂に脇腹と喉元を矢が貫き、長刀の一太刀により止めが刺されたのである。
だがしかし九尾狐もただでは息絶えず、直後に巨大な毒石にその姿を変ずる。石に近付く人間や動物は皆命を奪われ、故にこの石は『殺生石』と名付けらた。
鳥羽上皇の死後も石の毒気が消える事はなく周辺の村民を長きに渡り恐れさせ、鎮める為に訪れた多くの高僧達すら耐える事は出来なかったという。
それでも南北朝時代、玄翁和尚なる人物が遂に殺生石を破壊し、その破片は各地へ飛散したと伝えられている。
と、以上が現代に伝わる玉藻前の伝承である。当然ながら話による細かい差異はあるが、それはまあ置いといて。
白面金毛九尾の狐はそもそも大陸の生まれで、古代中国の王朝殷、南天竺、周の三国を渡り歩き為政者に取り入り、暴虐の限りを尽くしたり国の滅ぶ元になったりした大妖狐である。
その後、奈良時代唐を訪れていた公家学者吉備真備を惑わし、その計らいによって日本へ渡った九尾は、更に三百数十年の後赤子の姿で武士に拾われる。藻女の名で育てられた彼女は、十八で宮中に仕え名を玉藻前と改め、そして上記の話へと繋がってゆくのである。
ただ玉藻前の元々の正体は二尾の妖狐であると言われ、白面金毛九尾の狐との繋がりは江戸時代の後付けに過ぎない。
ま、後付けだろうと何だろうと、現在白面金毛であるとされているのなら、玉藻前は白面金毛でもあり二尾でもあるのだ。こういった良くある矛盾や後付けについて、自分はそう考える事にしている。はっきり決めてしまったって面白くあるまい。
―――さて。これより記すのは、幾多の男を惑わし国を傾けた魔性の九尾狐と、うっかり九尾になっていた鼬である俺の、化かし合い、いや馬鹿し合いの話である。
◇◆◇◆◇
時は十二世紀、千百年代半ばの平安京。上皇の住まう屋敷に、小さな侵入者があった。
一尺ばかりの体長に、ふわりとした毛に包まれ太く見える長い尾。すらりと細い身体は茶色い毛皮に覆われている。
その侵入者は、擦れ違う者に何故か見咎められる事無く平然と廊下を歩いてゆく。ふと立ち止まり、辺りを伺いながら何やら思案するように目を細める―――。
「玉藻前は……こっちか」
まあ。案の定俺である。読者諸兄ご存知のしがない普通の鼬、八切七一である。
さて俺が珍しくも鼬の姿で一体何をしているのか、その答は先程の独り言。
玉藻前、である。
白面金毛九尾の狐が化けた美女。兼ねてから噂は聞いていてその内行こうと思っていたのだが、本日遂にその御尊顔を拝見せんとやって来たのである。
とりあえず、自分から姿を現すまで玉藻前に気付かれたくは無いので、目立たぬように鼬の姿。認識遮断も小さい方が楽である。
「あれ……こっちじゃないか」
さて玉藻前の居場所は分からないので、隠しても隠し切れていない漏れ出た妖気を頼りに探しているのだが。隠し切れていないと言っても、凄まじく微かなのである。しかも屋敷がやたらに広い。住人は迷わないのだろうかと余計な心配をしたくなる。
とまあ、ふらふら彷徨って。
「っと……此処か」
ふと、とある襖の前で立ち止まる。中からは、か細くも今までで一番濃い妖気。間違いない、この中だ。認識遮断を念入りにかけ直し、小さく開いた隙間からするりと身体を滑り込ませる。この姿はこういう時便利だ。
ざっと室内を見渡す。火は点いていない灯台、台に掛けてある着物、壁際に立つ屏風―――そして、文机に向かう女性が一人。
玉藻前。
「ほお……」
声を漏らす。成る程、美人である。脇息に肘を掛けて頬杖を突き、物憂げな表情で何やら書き付けるその姿は、非常に絵になっている。
美人、と言えばいつかのかぐや姫を思い出すが、彼女はどちらかと言えば未だに幼さを残す『美少女』であった。が、玉藻前はまた種類が違う。こちらは正に妖艶なる美、身体の凹凸もかぐや姫より大きい。幾多の男共が惑わされたのも分かろうというモノである。
……なんて。こうも冷静に分析をしている辺り、俺はどうも男として枯れてきているような……。
「……さてっ、と」
気を取り直して観察再開。
文机にひょいと飛び乗って、玉藻前の手元へ。さあ何をしているのか、上皇への手紙か物語の写本かそれとも日記でも書いているのか、と覗き込んだ俺が見た物は―――
「……は?」
―――紙一面に書き綴られた『落書き』、であった。
そう形容する他ない、それは正に純然たる落書きだったのである。
「飯が少ない」「部屋が広すぎる」「十二単は重い」といった生活の文句、「助平爺」「とっとと病んで死ね」といった恐らくは上皇への悪口雑言、「猫可愛い」「饅頭が食べたい」「猫可愛い」といったどうでもいい独り言、後は意味を成さない適当な線。
ただ頭に浮かんだ物を意味も無く書いているのだろう。それらが、縦書きも文章の作法もなく、他人に見せる事なぞ端から考えていなさそうな汚い字で、ばらばらに書き殴られているのだ。
落書きだ。これを落書きと呼ばずして何を落書きと呼ぶのだ。
少々唖然としていると、上の空といった様子でくるくると筆を回していた玉藻前が、紙をめくってまた何か書き始める。今度は何をと見ていると、どうやら絵であるらしい―――が。
下手である。壊滅的に下手である。
狐を描いているようなのだが、立っているやら座っているやら、それが(恐らくは)狐であるという事しか分からない。書き終えた玉藻前は(多分)猫を書き始めるが、これもまた酷い。
……蚯蚓ののたくったような文字、という表現がある。言うなれば彼女の絵は、そう、のたくったような絵だ。狐がのたくっている。猫がのたくっている。丁度今書き始めた人間(らしきモノ)ものたくっている。
―――と、此処で俺はようやく気付いた。彼女のあの表情は物憂げ等という物ではない。つまらなげ、だ。
そう。彼女は、玉藻前は、今現在暇人なのである。訳の分からない落書きくらいしか暇潰しが無い程に。
……白面金毛という事で少々警戒していたが。こいつは割と面白い奴なのかもしれない。からかえば案外いい反応が見られそうだ。
と、いう訳で。
実に退屈そうな九尾狐の、その暇を潰してやる事にした。
「―――や、九尾狐殿」
「!?」
玉藻前の背後に座り、認識遮断を解いて声を掛ける。途端弾かれたように振り返り、俺の姿を見留めて目を見開く。
「随分退屈そうじゃあないよ。宮廷暮らしはそんなにつまらんかね?」
「……何だ、貴様は」
俺の言葉には答えず、玉藻前はこちらを睨み付ける。
「何処から……いや。何時から、そこに居た」
「さて何時からと聞かれても。ついさっきからとしか」
「……ふざけているのか」
「良く分かったな。俺は人生の大半をふざけている」
「……」
無言の玉藻前。眉は吊り上がり眉間には皺が寄り目は据わっている。有り体に言うと怒っている。苛立ちも多分に含まれているだろう。
「んな怖い顔しなさんなよ。折角の綺麗な顔が台無しだ」
「……余計なお世話だ」
俺の軽口にはそう答えつつも、何気なく眉間に手を遣り少し目元を緩める玉藻前。一応気にしているようだ。
「で、何だ貴様は」
「見ての通りのしがない普通の鼬」
「……私に気付かれずこの部屋に忍び込むような真似が出来る、そんな普通の鼬が何処に居る」
「うむ。世界広しと言えどもそんな普通の鼬は俺くらいだろうな」
「いやそれ普通じゃないだろう……って、ああもう」
話が反れている事に気付いた玉藻前が、くしゃりと頭を掻き回す。
「もう一度聞くぞ。何だ貴様は」
「それぁもう言ったろう。鼬」
「……ええい、名は何だ。何処の者だ、此処に来た目的は」
「八切七一、都住まい、お前さんに会いに来た、趣味はお菓子作りです☆」
「聞いていない」
さいですか。
「しかし……私に会いに来た、か。一体何の用だ」
「用、って程の用は無いな」
「……何だそれは」
呆れた顔をする玉藻前。
「まあ、強いて言うなら……高名なる九尾殿の美貌を拝見しに来た、てとこか」
「……そうか。帰れ」
「うん?」
「帰れと言った。顔見たな? もう用は無いな? 帰れ」
「いや帰れって」
「消えろ」
「いやいや消えろって」
「目障りだ、失せろ」
「いやいやいや……むう」
どうやら俺の事が気に入らないらしい。まだ余りからかってもいないのに……何て事も無いか。まあ何はともあれ。
「仕方ないな……そこまで言うなら消えようか。じゃ」
「え」
認識遮断発動。全く移動はしていないが、玉藻前から見ればぱっと消えたように見えただろう。小さく声を漏らし、首を巡らせ室内を見渡すが、当然俺は何処にも居ない。いや、居るのだが。
「お……おい。何処に……」
「此・処」
「ッ!?」
認識遮断解除。元の場所に突然現れた俺に声を上げかけ、しかしすんでの所で抑える。
「お、お、お前っ……」
「おお、呼び方が貴様からお前になったな」
「だから何だっ……じゃなくて、何だ今のは!」
「今の……ってのは、これの事かね?」
「っ!」
認識遮断再発動。またも消えた俺に目を見開き、しかし今度はすぐに気を取り直して俺の居た場所に手を伸ばしてくる。
まあ、当然避けるのだが。
「あ……あれ」
虚空を手で探るが俺には触れず、居ると思ったのにと首を傾げる玉藻前。その様子を横目で見つつ、ひょいと文机に登り遮断を解く。
「ところでお前さん絵ぇ下手だねえ」
「うわあっ!?」
今度こそ抑え切れずに大声を上げ、ばっと文机に向き直る玉藻前。紙を覗き込む俺を目にして顔を真っ赤にする。
「ばっ、このっ……見るな!」
「おっと」
叫んだ玉藻前はぶんと腕を振って俺を打ち払い―――打たれては痛いので当然飛び退いて避ける―――紙をくしゃくしゃっと丸めて掌の中で燃やし、灰にしてしまった。
……もうじっくり見た後だからあまり意味は無いのだが。
「い、一体何をしに来たんだお前はっ! 私をおちょくりに来たのか!?」
「あ、そうかもしれんね」
「おっ、お前ッ……」
「怒ると皺が増えるぞ九尾狐」
「うがーッ!?」
「うわわ」
遂にキレたらしい玉藻前が狐火をばらまく。割と本気に命の危機を感じた俺は、さっさと撤退する事にした。『窓』を開いてするりと飛び込む。
「まあ何だ、また来る! さいならっ!」
「二度と来るなあーッ!!」
―――と、まあ。
俺とこの愉快な九尾狐との長い付き合いは、斯様な始まり方をしたのであった。
◇◆◇◆◇
一ヶ月ばかり後の事である。
「や、九尾殿」
「……はあ」
―――と。背後から掛けられた俺の声に、玉藻前は溜息を一つついて振り返った。
「またお前か」
「また俺だよ。……て、俺以外に来る奴居んの? 友達居る?」
「うるさい。ほっとけ」
実に面倒臭げな顔の玉藻前が、『窓』をくぐり現れた俺を睨み付ける。だがその目にはうっすらと、隠し切れない喜びの色。
俺の来訪を喜んでいる―――のでは、当然ない。彼女の目当ては俺の土産。
「で、今日は何だ?」
「はいはい。本日は最中ですよっと」
「もなか?」
「食えば分かる」
「そうかそうか。早く出してくれ」
「……現金な奴よなあ、お前さん」
菓子の話になった途端、にこにこと笑い始める玉藻前。何とも分かり易い奴であるなあ、等と考えながら俺は、器用にも尾に引っ掛けて持って来た包みを前足で解き始めるのである。
あれから……彼女との最初の出会いから、一ヶ月である。あの日からずっと、俺は大体二三日置きに此処を訪ねている。
二度目に来た時等は顔を見た傍から帰れ失せろの大騒ぎであったが土産の菓子であっさり鎮まり、何だかんだでなし崩し的に今も来続けているのである。
最近になっては、別れ際にどれ程からかって追い出されても、次に来た時には特に何も言わなくなった。そういう物なのだと思う事にしたのだろう。単に諦めただけとも言えるが。
ま、元々暇を持て余していた九尾殿である。退屈凌ぎにはなる俺を、歓迎はしていないが拒絶もしないのだ。
「うん……菓子を作る腕だけは良いな、お前は」
その最大の理由は、俺の持って来る菓子だろうけれど。
「だけは余計だよ。金取るぞ」
「別に構わないぞ? どうせ私の金じゃないからな」
「あらまあ良い御身分ですこと」
「ふん。羨ましかろう」
「や、別に」
良い御身分過ぎて暇を持て余している癖によく言う。退屈は毒だ。特に妖怪や神といった長い時を生きる者には。
自分から毒に浸るような真似、する気は毛頭ないのである。自由が一番。
「……ところで」
「んむ?」
「お前のその言葉遣い、何とかならないのか」
「……何かおかしいか?」
俺の喋り方は、基本的に誰に対しても平等だ。格上の怖い妖怪や、神様に対しては若干丁寧になるが。
「私は九尾狐だぞ? で、お前は一尾の鼬だ」
「それがどうかしたのか?」
「あのな。私は偉いんだ」
「おおよしよし。偉い偉い」
「……」
「落ち着け九尾殿」
偉いらしいので褒めてやると、玉藻前は無言になり、額にびきりと青筋を浮かべる。怖い。
「……私はな、偉いんだ。強いんだよ。それこそお前のような一尾の鼬如きじゃ比べ物にもならないくらいにな」
「知ってるよ」
これである。この九尾殿は非常にプライドが高く、他を見下す傾向が強い。俺の事が気に入らないようである理由もそこなのだろう。尾も分かれていない雑魚妖獣如きにからかわれるのが至極気に食わないのだ。
……尾に関しては、同数である事を明かせば如何様な反応を見せてくれるのかが、楽しみではある。今の所そのつもりはないが。
「ならもう少し敬えと言ってるんだ、私は。ぶっちゃけお前私の事舐めてるだろう」
「舐めてない舐めてない」
「嘘つけ」
嘘ではない。日本三大悪妖怪に数えられる白面金毛九尾の狐、舐めてかかれる筈があろうか。ただ必要以上に畏れていないだけだ。
「ならせめて敬語でも遣えばどうなんだ」
「さて斯様な事をおっしゃられましても。自分は浅学非才な単なる化け鼬につき、貴女サマに御満足頂けるような言葉遣いはとてもとても」
「……馬鹿にしているのか?」
「うおい。何でだよ」
何処が馬鹿にしていると言うのか。非の打ち所のない完璧な敬語だったではないか。
「……いや、もういい。お前の敬語は何だかふざけているように聞こえる」
「いやいやそんな事は御座いませんでありましょう」
「止せったら。気色悪い」
「……非道いなあ」
そちらから言い始めた事だろうに。
自分の敬語は下手なのだろうかと若干気落ちする俺を気にする様子もなく、玉藻前は最中をかじっている。既に敬語云々はどうでも良くなったらしい。
「……ところで、お前」
「何かな」
「いつもいつも、何で此処に来てるんだ」
「……ふむ」
何故、と言われると。
「お前さんに興味が有るから……かね」
「……ふうん?」
一瞬おかしな顔をして、玉藻前はにやりと笑う。
「何だ。私に惚れたか?」
「まっさかぁ。有り得ねえだろぉあっはっは」
「……」
「……いや、怒るなよ」
またも無言になり、じっとりとした目で睨み付けて来る玉藻前。
「……そこまできっぱり否定されるとな。腹が立つ」
「や、そうは言ってもな? 俺なぞに惚れられたとして嬉しいかよお前さん」
「それはまあ嬉しくも何とも無いが……これでも顔で三国ばかり傾けてきたんだよ私は。お前如きにああ言われると、逆に腹が立つ」
「……あれか、女心という奴か。だったらそれぁ理解の外だ」
「ふん。ただの矜持の問題だ」
どちらにしろ理解の外である。
「……まあ何だ。興味があるってのは、白面金毛としての、大妖狐としてのお前さんにだよ」
「ふうん。そう面白い事でもないと思うがな」
「そうでもねえさ……っと」
ちらりと外を見る。何時の間にやら日は大分傾いて来ている。
「……そろそろ帰るかな」
「そうか」
「素っ気ねえなあ。ま、何時もの事だがよ」
菓子の入っていた箱を包み直し尾に下げ、家に繋げた『窓』を開く。
「んじゃ、また来るぜい」
「勝手にしろ」
とまあ、こちらも既に何時もの事になった随分な御挨拶を背に、俺は帰宅するのであった。
―――近頃。上皇の病に困り果てた側近が、陰陽師に看せる事にしたという話を聞いた。その陰陽師がもし安倍泰成なら、玉藻前の化けの皮が剥がれる時が来たという事だ。
此処に来る回数も、最早そう多くは無いだろう。
◇◆◇◆◇
更に三月の後。
俺は都より遠く東、那須野の地に来ていた。
眼下に広がるのは、三浦介義明・千葉介常胤・上総介広常三人の将軍と、軍師安部泰成が率いる玉藻前討伐の軍。相対するは、本性である白面金毛九尾の狐の姿を曝した玉藻前。仔牛程はあろうかという大狐。
そして中空に浮かべた『窓』に腰掛けた俺は、斯様な光景を見下ろし眺めていた。
―――さて。
あれから二三の訪問の後、玉藻前は遂に陰陽師安部泰成によりその正体を看破され、宮中より飛び去る事と相成った。上皇の病も癒え宮中には平穏が戻ったのである……が。
それからいくらもしない内に、東国下野の那須野に玉藻前が居るとの報が入る。それを聞いた上皇は、三人の武将を将軍に、泰成を軍師に任命し討伐軍を編成、派遣したのである。
当然俺も後を追う。丁度那須野周辺は一度訪れた事があった。『窓』を通って近くへ飛び、そして今、玉藻前を狩る大軍を空から眺めているのである。
「ふむ……」
尚、これは二度目の戦いだ。一度目は俺の記憶通り、討伐軍の敗北に終わっている。大敗を喫した討伐軍はしかし、戦略を練り訓練を経て再度の合戦に挑むのである。
―――そして今俺の目の前では、大狐が見る見る内に追い詰められてゆく。
「……結、局」
結局―――友人であると言える仲にまでなる事は無かった。短い期間だったのは勿論だが、あちらがこちらを明らかに下に見ていたのだ。仕方のない事では、あるのだが。
眼下では、犬追物―――犬を的にし馬上より弓を射て技能を競う武芸―――による騎射訓練を重ねた騎兵達が、白面金毛を狩り立てる。狐も狐火や幻術を撒くが陰陽師泰成の式がそれを弾く。既に小さな矢傷は多数、最早そう長くは持つまい……が。
友人と呼べる程親しい訳でもない相手を、あの大軍の中に突っ込んでまで助ける義理は無いのである。
「案外面白い奴では、あったんだがなあ……」
そんな事を零す俺の前で、遂に三浦介の二本の矢が大狐の首筋と脇腹を貫く。ぐらりと体勢を崩す白面金毛に、上総介の大太刀が襲い掛かる。
そして。
「ぐおおぉぉん……!」
一声、断末魔の叫びを上げ。玉藻前―――白面金毛九尾の狐は、どうとその場に倒れ伏した。
しかし最後の妖力を振り絞ってか、その身を石へと変じさせてゆく。殺生石―――近付くだけで命を奪う毒石。重く濃い妖気が溢れ、周囲にいた兵達が馬ごと倒れ始める。記憶通り、伝説通りの最期。
「……ま。冥福くらいは、祈っててやるよ」
と。ぼそりと呟いた、その時であった。
「……ん?」
ひゅん、と。殺生石から何かが抜けるように飛び出し、空を駆け去ってゆく。
「あ……あいつ」
玉藻前―――である。自らを幻術で覆い隠し、討伐軍の頭上を走り抜ける。俺に瞬時に見破られる程度の弱々しい幻術、しかし殺生石に気を取られている人間達をごまかすには十分だ。
「変わり身……か。良くやるよ。……だ、が」
九尾狐の逃げる方向を確認してから、殺生石に視線を戻す。どうやらアレは只の石に妖気を染み込ませた物であるらしい。あの一瞬で周りに幻術を掛け更にあの石を作った、というのは大した物だ。
だが所詮弱り切った彼女が限界で篭めた妖気、そう長くは持つまい。妖気が晴れれば近付けるようになる。それなりに腕の良い陰陽師が見れば、只の石でしかない事は容易に知れる。玉藻前が生き延びた事は周知となるだろう。
「……まあ。別に助ける義理も利益も…………ん?」
ふと。とある考えが頭に浮かぶ。
……ある。利益は、ある。
「んー……あー。よし。助けよう」
決定。
すうと殺生石の方へ手を伸べて、能力発動。対象は石の遥か下―――地下に溜まる火山ガス。少しずつ大地を断ち裂け目を入れて、地上まで繋げる。すると殺生石の下から湧き出す致死性の猛毒ガス―――硫化水素や亜硫酸ガスだ。
俺の知る未来では、殺生石の毒気の正体はこの火山ガスだという事になっていた。別にこちらでも、そういう事にして構うまい。
何はともあれ、これで玉藻前の妖気が抜けても人間は近寄れない。こちらはもう放っておいて良いだろう。
「さて、あいつを追っ掛けるとするか」
一言。座っていた『窓』からふわりと飛び降りた俺は、九尾狐の去った方へと飛んで行くのであった。
◇◆◇◆◇
「……お。居た居た」
濃い血の臭いを辿って行くと、玉藻前はすぐに見付かった。殺生石からそう遠く離れてはいない場所に、人の型を取って倒れている。
「おいおい……くたばってねえだろな」
内心多少の焦りと共に、俯せになっている玉藻前の傍らにすとんと降り立つ。
人型とは言っても、見慣れた玉藻前の姿ではない。髪は白面金毛の名の通りの金髪になっており、その間からはやはり金色の狐耳。更に俯せに倒れたその腰辺りからは、金毛の九尾がぞろりと生えている。
首筋と脇腹の矢は、二本とも抜け落ちて傍に転がっている。これを引き抜いた所で力尽き倒れたと言った所か。
「……ふむ。死んじゃいねえか」
とりあえず、血の流れる首筋に手を当て脈を取り生きている事を確認する。
とは言え首と脇腹の矢傷も背中の刀傷も、明らかな致命傷だ。普通ならばとうに死んでいる―――が。
「ま。治せば治るかね」
決して普通とは言えない、妖怪の身である。放って置けば死ぬが治療すれば何とかなるだろう。
「さてさて、包帯と薬くらいはあった筈だよな……」
何処に仕舞ったかと記憶を探りつつ、玉藻前を抱き上げる。と、此処である事に気付いた。
「おお。人生初のお姫様抱っこ」
……お姫様だなんて、可愛いモノではないけれど。
◇◆◇◆◇
所変わって時は過ぎ、真夜中の我が家。
「……う」
「お」
破れて穴が空いた玉藻前の着物を能力で修復していた俺の隣、布団に寝かせていた彼女が唸るような声を上げた。
手を止めて目を遣ると、傷ついた大妖狐はゆっくりと上体を起こし始めていた。物置のような雑多な部屋を朦朧と眺めていたが、自分が服を着ていない事に気付くと顔をしかめて掛け布団を持ち上げる。
「御目覚めかい九尾狐殿。あれ程見下していた人間共に、ボロカスにやられた気分はどうだ」
「!」
俺に気付いていない様子の玉藻前にそう声を掛けると、彼女は目を見開きこちらを見た。俺の姿を見留めると、すうと目を細めて睨み付ける。
「……誰だ、お前は」
「声で分かるだろ」
「…………」
「……いや、分かれよ」
「………………鼬か」
「間が長えよ」
思い出して貰えた様で何よりである。
「お前、人の姿を取れたのか」
「まあねえ」
「……此処は何処だ?」
「俺の家だよ。都の隅っこ」
「……家、なのか? 物置じゃなく?」
「家っつったら家なの。……ほれ、着ろ。目に毒だから」
「っと……何が毒だ」
凄まじく散らかっている室内を見回して訝しげな顔をする玉藻前に、丁度修復の終わった着物を投げ付ける。着物を受け止めてから、お前が脱がしたんだろうにとジト目でこちらを見る玉藻前。
「……この包帯もお前が?」
「そおだよ。感謝しな」
「……ふん。余計な真似を」
「……随分な口聞くね。恩を売るつもりはねえが、命の恩人だぞ俺ぁ」
「それが余計な真似だと言うんだ。……お前の様な雑魚妖怪に助けられる等、恥以外の何物でもない」
言って、着物を纏った玉藻前は体を起こし立ち上がった。傷の痛みにか一瞬顔をしかめ、しかしふらりと戸口へ歩き出す。
「おいおい、何処行く気だよ。傷は癒えてねえだろう」
「知るか。お前の世話になぞならん」
「それは困るな。傷が完全に塞がるまでは、此処で療養して貰わねえと」
「お前の都合等知った事か」
「―――やれやれ」
実に強情な玉藻前に、俺は一つ溜息をつき立ち上がる。全く以て、生意気な。
「悪いがそれは俺の台詞だ」
「うわ!?」
言いつつ、戸に手を掛ける彼女の首根っこを掴み布団へと放り投げた。弱ってはいても妖狐、玉藻前は身を捻って布団の上に四つ足で着地する。
「貴様何を……ッう」
「黙んな駄狐。お前さんの都合なんざ知った事かよ」
牙を剥く玉藻前にゆらりと歩み寄り長い尾をするりと巻き付け、包帯に覆われたその首筋にぴたりと爪を当てる。俺の目に本気を感じたか、彼女は一瞬気圧されて言葉に詰まる。
「―――大人しくしてなと言うんだよ。折角拾ったその命、無駄に亡くしたかないだろう?」
「い……一尾の鼬如きが何を」
「おや」
怯んだのは一瞬、すぐに噛み付いてくる九尾狐に俺はにいと笑みを浮かべる。
「一尾で無きゃあ……良いのかい?」
「……ッ!?」
ざらり、と。
隠していた八本の尾が全てその目に晒される。
抑えていた妖力がぶわりと膨れ上がり、家全体をずんと揺るがした。
一足す八は、九。
「きゅう……び」
「その通り―――」
呆然と、掠れた声で呟く玉藻前に、俺は改めて彼女に名を名乗る。
「八切七一。しがない普通の九尾鼬―――、だよ」
言うと、玉藻前の肩をとんと押す。ただただ呆然としている彼女は、それだけで布団の上にぺたりと座り込んだ。
「しばらくは横になって大人しくしてな。お前さんなら一ヶ月もしねえ内に治るだろ」
「…………」
まだ放心している様子の玉藻前は、しかし俺の言う通りに布団に潜り込んだ。やれやれ、とまた一つ息をつき、俺は机に向かい今度は紙束を取り出す。
「……」
「……」
しばしの無言。
硯にて墨を磨り筆を回し、俺は紀行文の続きを書き始める。玉藻前は俺の方に顔を向けて寝転び、ふさふさと揺れる俺の尾を見詰めている。
「……何故」
「うん?」
ぽつり、と。玉藻前が俺に問う。
「何故私に九尾である事を言わなかった?」
「別にお前さんだけに黙っていた訳じゃねえさ。普段から隠してるんだよ」
「だから、何故」
「目立つな嫌いなの。面倒臭えだろうよ」
「……そうか」
「そうだよ」
「……」
「……」
また、しばしの無言。
さらさらと筆の走る音だけが、散らかった部屋を満たしている。
「……何故」
「うん?」
また、ぽつり。
「何故、私を助けた? 無理矢理に助けようとする?」
「んー……。妖獣のよしみとか。尾の数も同じだし」
「理由になっていない」
「なら理由なんざ無いんじゃねえの」
「……そうか」
「そうだよ」
「……」
「……」
三度目の無言。
が、今度はそう長くは続かなかった。
「……ふぅ―――」
と。玉藻前は、何だか複雑な感情が篭った様な息をつき。
「……傷が癒えたらすぐにでも出て行くからな。それまでは、此処に居てやる」
「そうかい。それは重畳」
「……寝る」
そう宣言するともぞりと寝返りを打って俺に背を向け、頭からばさりと布団を被りそれきり黙り込んだ。
「……お休み」
俺も一言それだけ言うと、紙や筆を片付け行灯の火を吹き消し、
「ところで家には布団が一組しかねえのだが。俺は何処で寝りゃ良いんだろうな?」
「外で寝ろ」
◇◆◇◆◇
とある朝の事。
「……どうだ?」
「ふむ……」
俺に背を向け座った玉藻前の包帯を、するすると巻き取りながら一つ頷く。
「大分、塞がったな」
さて、なんやかんやであれから十日程。妖怪の治癒力と言うのは実に大した物で、あの大きな刀傷はあらかた塞がっていた。
「もう包帯は要らんかな。……あまり無茶な動きをしたらまた傷口が裂けるかも知らんが」
「……ふん。治るまでは大人しくしてるさ」
玉藻前はそう言うと肌蹴ていた着物を着直し、ぱたりと布団に倒れ込んだ。そして一つ溜息をつき、
「……とは、言ってもな。一体何時までこの狭い物置でじっとしてれば良いんだ」
「物置言うな。つか上皇の屋敷と比べりゃ大抵の家は狭えっての」
俯せで体を伸ばしそんな文句を言う玉藻前。その頭を尾でぺしんと叩く。
「……ま、思ってたよか治癒が速いかんな。一ヶ月と言わず後また十日もすりゃ、完全に癒えるだろうよ」
「……後十日、かあ」
うんざりだ、と言った声と共にぽすんと頭を布団に埋める。
「暇なんだよ、この物置は。何か暇潰しは無いのか」
「暇だっつうなら宮中も変わりゃしなかったろうがよ。玩具も話し相手もあるんだから文句垂れなさんな」
「玩具? はん。変なガラクタしかないだろう」
「……あー、うん。それぁ否定しない」
まあ。大方変なガラクタである。
「それに話し相手と言うが、お前と話していたってちっとも楽しくない」
「へいへい左様で御座いますか―――」
……この九尾狐は、非常に文句が多い。
飯が不味い寝床が狭いから始まり、部屋が汚いの天井が低いの、包帯を変えるから服を脱げと言えば大騒ぎして変態呼ばわり、特に何事も無く変えた後には男色家の不能のと、手ェ出して欲しいのかと言いたくなる。
昼飯を出せば腹が減ってないから要らんと言い、しばらくしたら腹が減ったから菓子を食わせろと言う。出したら出したで塩気が薄いの餡が少ないの、やっぱり文句を言う。
何だかもう実際に不満がある訳でなく、只俺の手を煩わせたいだけに我が儘を言っているのではないかとも思いたくなる―――と言うか間違いなくそうなのだが。余程俺の事が気に入らないらしい。
御蔭でこちらは毎度毎度、九尾をちらつかせては脅したりすかしたり、全く以て面倒臭いったらない。八本の尾を出したり引っ込めたり、割に神経を使うのである。
出したままにすれば良いと言う人があるかも知れない。だが考えてもみて欲しい。長く太い尾が九本なのだ。
どう考えても―――邪魔である。
一本ならともかくも、九本なぞ同時に制御しきれる訳が無い。歩けば引き擦る、振り向けば物に当たる。我が家の散らかり様なら尚更だ。
玉藻前はまだ良い、割と短いのだから。だが俺の尾は六尺は―――二メートル弱はあるのだ。どうした訳か重さは感じないのだが、邪魔な事には変わりない。
これは能力を高めた妖獣の悲しき性である、と言えるやも知れない―――と、此処までつらつらと三秒ばかり。
「―――お前さんはどう思う?」
「は?」
唐突に問い掛けられ、首を傾げる玉藻前。
「や、増えた尻尾が邪魔だなあって話」
「……何でいきなりそんな話になるんだ?」
「あー、うん。良いから良いから」
長々しい思考の末の発言は、彼女の目には突然言い出した様に映ったらしい。
「まあ……邪魔だと言えば邪魔だが。お前は普段から引っ込めてるだろう」
「まあそうだがよ。……って、邪魔だと思ってんなら、お前さんも引っ込めりゃ良いじゃねえの」
「馬鹿言うな」
そう言うと玉藻前は顔をしかめる。
「妖獣の尾は妖力の塊みたいな物だ。そう易々と出したり消したり出来る物か。お前がおかしいんだ」
「む……」
「人に化けて尾を隠すならともかくも、人の形を取ってから尾の数を減らすなんて、そんな奴私は聞いた事がない」
と、此処で少し解説をば。
妖獣が人に化けると言うと、二通りの場合がある。
一つは、ある程度の力を付けた妖獣が可能とする『人の形を取る』という物。
一目見て妖と知れる、耳と尾を生やし髪や爪に細かい差異のある、獣人とでも言った姿になるのだ。要するに、普段の俺の姿。
これはどんな妖獣でも、元々の妖力量や生きた長さ次第で大抵は出来るようになる。
一つは、よく人間の言う『化かされた』と言う奴だ。
玉藻前が人に化けていたアレ。こちらは前者とは違い、基本的には狐や狸に鼬貉猫と言った限られた種族にしか使えない。
中でも狸が非常に得意とし、人間ばかりでなく他の動物にも、どころか地蔵や茶釜、家と言った無機物にすら易々と化けてみせる。……ま、少々間が抜けているのは御愛敬と言った所か。
両方出来ない雑魚妖獣も勿論居る。日本各地で見られる、真夜中に手ぬぐいを持って踊る猫何てのは、猫又にはなったものの未だ人の形を取れないような連中だ。
我が友人の鼠灰墨もだが、彼女はまだまだ若い。その内化けるようにもなろう。
……とまあ、こんな感じなのだが。
普通妖獣が尾を隠すと言えば、後者の場合、つまり人間に化けるのである。これは人を化かす為であったり、紛れ込む為であったりする。
俺の場合はその限りではない。なんせ人の形で、耳や髪はそのままに尾を減らすのだ。偏に目立たぬ為だけに―――いや、邪魔であると言う理由も多分にあるのだが。
とにもかくにも若かりし頃の俺は、創意工夫を重ねてようやく、妖の姿のまま尾を隠す事に成功したのである。
「まあ……コツがあんのよ。こう、畳み込むと言うか、妖力をばらして織り込むと言うか」
「分からん」
「……そうかい」
余り興味無さげな玉藻前。出来る様になれば便利なのだが。まあ無理にとは言わんさ、と俺は机に向かう。玉藻前は布団の上に寝転がったまま周りの物を手に取っては眺め、時折俺に質問する。
これがこの所の、毎日続いている我が家の風景である。
「……なあ」
「……んー?」
「何故妖獣の家に妖怪封じの札が?」
「何でだろうなー」
「……あのな」
「あーはいはい。拾った」
「……そうか」
「そうだよ」
「……」
「……」
「……なあ」
「……むー?」
「何故鼬の家に鼬の毛皮が?」
「何でだろうなー」
「……あのな」
「あーうんうん。母親だ」
「……そうか……いや待て!?」
「冗談だ」
「……」
「……冗談だ」
「…………そうか」
「そうだよ」
……基本的にいつも続いている、風景である。
◇◆◇◆◇
なんだかんだでまた十日後の事。
「……遂に俺達の同棲生活も終わりか」
「気色の悪い言い方をするな」
玉藻前の傷が、完治した。
「やっとお前の苛つく顔を見なくてすむ様になるな」
「お前さんの雪崩みてえな不平不満も聞かなくて済む様になるぜ」
「ふん」
「はん」
家の前の通りに立って、そんな減らず口を叩き合う。天気は晴天、旅立ちには悪くない空模様だ。
「……そう言や結局お前さん、俺を名前で呼んだ事ねえな。お前、としか」
「それはお前もだろう。私もお前さんだの九尾狐だのとしか呼ばれてないぞ」
「それぁほら、俺はお前さんの名前知らねえしな。……玉藻前ってな本名じゃねえだろ? 何か名前ねえのか?」
「……私を指す言葉は白面金毛のみだ。名前と呼べる物は無い。あったとしてもとうに忘れた」
「む……それは困るな」
名前が無いのでは、呼べないではないか。
「……まあ。私はもう行くぞ」
「うん? そう急がずとも良かろうに」
「ふん。今までがゆっくりし過ぎたんだ」
そう言うと、玉藻前はくるりと踵を返し俺に背を向ける。金の九尾がふわりと揺れた。
「……まあ、何だ。これだけは一応言っておく」
ふと、彼女は顔だけを振り返る。その頬は、ほんの少し赤に染まっていた。
「案外楽しかったぞ。世話に、なったな」
ぼそぼそと早口にそれだけ言うと玉藻前はさっさと歩き出す。その背中に、俺はくすりと笑いながら声を掛ける。
「ああいや、気にするな。……お前さんには、身代わりになって貰うんだから」
「……は?」
何の事か、と立ち止まる九尾狐に俺はすっと手を向けて。
「んじゃ、達者でな!」
「な―――」
ぱっくりと。
彼女の足元に『窓』が開き、言葉を発する間も与えず飲み込みその口を閉じた。
「……ふう。やれやれ」
『窓』の行き先は、幻想郷。
まあ、そう言う事である。彼女を助けたのは、八雲の式神になって貰う為。未だに俺を探していると聞くあの怖い大妖怪に、いい加減諦めをつけて貰う為なのだ。
九尾狐なら流石に不満も無かろう。割と真面目な奴だから俺より余程役に立つ筈だ。
「……ま」
八雲も大概意地になっている様なので、諦めてくれるとも限らないのだが―――その時は、その時。
「次に会う時には……名で呼べる様になる事を、祈ってるぞ」
そんな事を呟きながら、俺は我が家へと入ってゆくのであった。
このお話は、八雲藍=玉藻前って説が大前提になっております。この関係は原作において言われている訳ではない為、二次創作の産物と言う事になりましょう。
しかして全く仄めかされていない訳ではなく、東方妖々夢Ex及びPhステージタイトル後ろは『三國に渡り妖異をなすが』と玉藻前を思い起こさせるようなモノになっております。
これだけを根拠に藍様=玉藻前を主張する事は当然出来ませんが、ま、書くだけなら別にいいんじゃねみたいな。
あと、妖獣の化ける云々尾云々については完ッ全な自分の妄想になります。真に受けちゃいけません。