5.終幕
銃に装填されていた弾を撃ち尽くしたことに私が気付くのと同時に、あの生物が一際大きく甲高い声を上げた。それに呼応するような声が暗闇の向こうから響き渡った。
仲間を呼ばれたのだと気がつくよりも早く、その声のおぞましさが私を動かした。私は元来た方へと走り出した。甲高い鳴き声と女の悲鳴、そして地鳴りのような低い怒号が私の背中に覆い被さるように響き渡った。普段の自分からは考えられないほどの機敏さで扉までたどり着く。一瞬だけ後ろを振り返ると、暗闇の中から出てきたらしい数人の人影がこちらに向かって来ていた。その奥で、彼女だったあの生き物が同族たちに抱き抱えられているのがちらりと見えた気がした。私が階段を登り始めた瞬間、後方から金属音のようなものが鳴り響き、数瞬前に私が掴んでいたドアノブが弾け飛ぶのが見えた。もうそれ以上は振り返る余裕は無かった。
長い階段を一気に駆け上がった。下から鳴り響く複数の足音が私を追い立てる。心臓が破裂せんばかりに鼓動しているが、疲労は感じない。恐怖のせいか、あるいはこれも薬の効果なのか。
階段を上り切り、あの暗い廊下へと出る。背後からの追手との距離は多少ひらいたようだ。しかし廊下を半分も進まないうちに向こう側から黒いローブを纏った集団が向かってくるのが見えた。私は咄嗟にすぐ横の扉を開け中に入った。そこは銃と手帳を見つけたあの資料室だった。
扉の鍵をかけ、手近な棚を引きずって扉の前に立てかけバリケードにした直後、ガチャガチャと扉のノブが回された。続けざまに扉が拳で叩かれる。部屋を見回すと、奥の方に窓があった。床に落ちたままになっていたあの手帳を拾ってジャケットの内ポケットに入れた。私は窓まで走り、手に握りしめていた銃を思い切りガラスに叩きつけた。ガラスには小さなヒビが入ったが、割るには時間がかかりそうだった。
またしても金属音が鳴り響き、扉のノブのあたりが弾け飛んだ。扉を蹴りつける音が何度かした後、バリケードが扉ごと後ろに吹き飛んだ。とても人間の力によるものとは思えなかった。私は咄嗟に入り口に向かって銃を構えた。
ローブを着た男が一人ゆっくりと部屋の中に入って来た。私は弾の入っていない銃を男に向けながら、威嚇の声を張り上げた。
私のハッタリに気がついているのかいないのか、男は歩みを止め、ローブの向こうから私をまっすぐに見据えた。ぞっとするほど青白い肌と不自然なほど大きな黒目が、私に言い様の無い恐怖を与えた。
「無駄なことはやめろ」
異国の人間のように辿々しく、感情のない声だった。私は無言のまま男を睨めつけた。男はそれも意に介さず言葉を続けた。
「お前にできることは何も無い。それとも、その武器ひとつで我々全員を殺せるとでも思っているのか」
私が黙っていると男はこちらに一歩踏み出して続けた。
「お前は講演会に参加していた者だな。彼女に会いにきたのか」
男はさらに一歩を踏み出した。
「時折お前のような者が出る。与えられたものだけでは満足できず、さらに彼女のことを知りたいと行動に出る者が。その強欲さはあまりにも罪深く哀れだが、同時にそれはお前自身をより高みへと導く福音ともなり得る」
「あれはなんだ。あの醜い生き物は」
私の言葉に、男は小さく笑みを浮かべた。
「美だよ」
私は自分が息を飲む音を聞いた。男は続ける。
「人が忘れた真に美しき存在だ。我らの父母は幸運にも彼らからのメッセージを受け取った。真なる美を体現した一族の存在を知ったのだ。その一族は深き海の底におわすが、今やその威光は地上へも届きつつある。我らはその手助けをしている」
そこまで言うと、男は憎しみとも哀れみともつかない視線を私に向けた。
「お前もその光を知ったはずだ。しかしお前はそれを拒否するか。時折お前のような者が現れる。あの一族の美の片鱗に触れていながら、それを拒むものが。あるいは逆説的だがそれこそがあの一族の偉大さなのかもしれない。彼らは選別しているのだ。彼らの美を受け入れられる者とそうでないものを」
この男もまたあの生き物の暗示を受けているに違いない。つまりは目の前の男はあの醜い生き物の信奉者なのだった。父母と言うからにはいくつかの世代を通してあの生き物を崇め奉ってきたのだろう。男の目には私がここまで追いかけてきたあの医者の様な狂気の光が潜み、それはすなわちあの講演会に来ていた者たちの末路の姿でもあった。
私は男の言葉に耳を傾けているようなそぶりをして銃を少し下ろした。まだ完全には警戒を解かない。男に騙し討ちされないとも限らない。しかしいずれにせよ銃の弾倉は空なのだ。隙を見て逃げ出す以外に道はない。
男がさらに口を開こうとしたとき、同じようなローブを着た男が部屋に飛び込んできた。
「警察がこの場所に向かってきている。退去だ。この場所は廃棄される」
その瞬間、くぐもった爆発音が聞こえた。轟音が響き、建物全体が震えた。私も男たちもふらついて壁や床に手をついた。
私のそばにあった棚のひとつが倒れる。その陰にあった消火器が目に止まった。
私は銃を捨て消火器に飛びついた。安全ピンを抜き取り、男たちに向けて一気に吹きかける。男が何か叫んだのが聞こえたが、構わず消火器が空になるまでハンドルを握り続けた。
私は窓に向かって空になった消火器を叩きつけた。音を立てて窓ガラスが砕け散る。私はガラスのなくなった窓から外へと飛び出した。男たちの怒号は爆発音と振動にかき消された。
門に向かって全速力で走った。左の頬に熱さを感じて振り向くと、劇場の所々で火の手が上がっていた。見ているうちにも離れたところで新たな炎が上がり、窓ガラスが吹き飛ぶのが見えた。人為的な燃え広がり方であるのは明らかだった。それもただの放火などではなく爆発物によるものにちがいない。逃げ出す直前に飛び込んできた男が言っていた廃棄という言葉から想像するに、誰かが意図的にこの劇場自体を燃やし尽くそうとしたのだ。
この場所は地下で見た生き物とそれを崇める一団の根城だったのだろう。伝令の男は警察がここに向かっていると言っていた。医者の男が呼んだのだろうか。そのため奴らはここの存在とここでしてきたことを抹消しようとしているに違いない。
私は正門をそのまま走り抜け、劇場周辺に集まってきている野次馬たちの人混みの中に身を潜めた。私はようやく息をついた。
振り返ると、すでに劇場の半分以上が炎に包まれていた。私を追って正門から出てくる者はいなかった。他の出口があったのか、それともあの生物たちと共に地下の通路を行ったのかもしれない。しかしもはやそれは私が気にすることではなかった。
じわじわと自分が今さっき経験したことの実感が湧いてきていた。地下のあの空間で見た奇妙な生物とそれを崇める集団。私を始め暗示にかけられていた人々。私はコートのポケットに一冊の手帳が入っていることを思い出した。これをどうするか、決めなければならない。
私はそこから立ち去る前にもう一度だけ焼け落ち始めた劇場を振り返った。その瞬間、私の目はそこにいたものに釘付けになった。
私がよく見知った姿のあの彼女がこちらを見ていた。
炎に包まれた劇場を背にしてまっすぐに立っている彼女は今なお美しかった。しかしその顔には何の感情も浮かんでいないように見えた。怒りも嫌悪も悲しみも、何もない。感情のない生き物が静かに対象を観察しているような、冷たく静かな目だけがそこにあった。
私が瞬きすると、彼女の姿があの生き物に変わった。異様に巨大な目には炎が反射し、ぬらぬらとした皮膚が照らされていた。
そして彼女はゆっくりと向きを変え、炎の中に消えて行った。
私はようやくそこから目を離し、大きく深呼吸をした後、道の端まで行って嘔吐した。私は冷や汗をかき、鳥肌を立てていた。彼女に会う時はいつもそうだった、と頭の片隅で思った。
私は手帳を警察や出版社に送ることも考えたが、結局誰にも見せることはしなかった。あれだけ大きな火事だったのだから当然捜査は行われるのだろうが、私が出会ったあの生き物と信奉者たちがそう簡単に見つかるとは思わなかった。警察が手帳に書かれた内容を信じてくれるとも思えなかったし、なにより私はこれ以上あの事件と関わり合いになりたくなかった。
あれから私はすぐに仕事をやめ、街を出た。講演会に参加するため住所も名前も彼らに知られていたから、彼らの追求の手を逃れるためにはそうするしかなかった。
そして、あの日から一年が過ぎた。
他の街へ越してからしばらくは劇場の火事を報じるニュースに注意し、彼らのことを仄めかすような情報が混じっていないかと探していた。あくまで劇場の火事はガス爆発による事故とされ、死傷者も発見されないまま数日で新聞の誌面からも消えていった。一度、あの医者と思しき男性の失踪についてごく小さな記事を見つけたが、それ以降は何の続報も無いまま時が過ぎて行った。私の周辺にも特に異常はなく、最近では私自身、あの日のことが本当にあったことなのかすら分からなくなることがあった。
私が劇場から持ち出してきた手帳だけが、あの日の出来事が事実であったことの証明だった。初めのうちは、あの日見た物や感じた恐怖を思い起こさせることから、手帳を見ることすら避けていた。しかしあの事件から日にちが経ち、尚且つ現在の私の周囲が平和であったためだろう。最近になって私はこの手帳を手に取り、ページを眺めていることが増えた。ほんの一年前のことであるというのに、なぜか私は手帳を眺めることで不思議な懐かしさを感じていた。彼女に会いに行く時に感じたあの気持ちがまざまざと思い起こされるようだった。
彼女を初めて見た時の衝撃。次の講演会を心待ちにしながら過ごす日々。彼女を前にして彼女の声を聞く時の恍惚感。真に美しいものを見つけ出したのだという優越感すら当時の私は感じていた。それらがすべてまやかしだったということを知ってもなお、私にはあの日々が懐かしく思われるのだった。
手元の手帳をめくる。
幾度となく読み返してきたページの一つを開く。
「あの講演会は、彼らが信仰しているらしい何らかの存在のために開かれているのは確かだ。その何らかの存在とは、表社会には知られていない忌避されるべき邪悪な生き物であるようだ。奴らの目的は一体何か。
ここからはあくまで私の憶測でしかない。しかし私はその予想が大きくは外れていないだろうと思っている。
奴らの目的は、私たちの社会に溶け込むことではないだろうか。あの講演会はそのための練習場なのだ。参加者と、そしておそらくは信徒達をも暗示にかけ、奴らは我々の姿に擬態している。私たちは奴らがその暗示の力でどこまで人間に化けられるのかを試すための実験台だ。公演の最中に時折起こるハプニングは、そうしたショックで暗示が解けないかどうかテストをしているのだろう。そうして実験を重ねて彼らは我々の社会に侵入しようとしているのではあるまいか。最終目標が信仰の拡大にあるのか人間の社会の掌握にあるのかは分からないが、その足掛かりとするつもりなのだ」
事情を知らない者が読めば、パラノイアの妄想と取られてもおかしくないようなこの文章を、私は最近になって何度も繰り返し眺めている。ここに書かれていることはあくまで手帳の持ち主の仮説に過ぎないことは、持ち主自身が書いている通りだ。しかし、私はそれを信じようとしている自分に気がついていた。
カーテンを引き、窓の外を見る。
ビルの立ち並ぶ街の空はあの日のような鉛色に覆われている。私は彼女に会いに行く日の焦燥感を思い出す。私があの日見たあの生き物達はきっと今もどこかで私達の社会に侵入する日を眈々と狙っているのだ。いや、それはもうすでに始まっているのかもしれない。
彼らが人間の社会に溶け込もうと、その実験をしようとしているのなら。
この街でもあの講演会のように、人々を秘密裏に集め実験が行われていないとも限らない。
私はコートを羽織り、部屋を出る。
彼女と彼女のあの美へと続くおぞましき道を、私はきっと探し出すだろう。
たとえそれが私自身の破滅を意味しようとも。
あてもなく街を歩く私の目は、今日も自然と彼女の影を探している。
お読みいただきありがとうございました。
ホラーを書くというのは初めての試みで、作者自身そちらの分野に造詣が深いわけではないのですが、お楽しみいただけていれば嬉しいです。
作中に神話的存在の名称などは出していませんが、作者としてはクトゥルフ的なホラーを意識して書いたつもりです。
自分がよく見知っていると考えているもの、あるいは自分自身の記憶や感覚の中に得体の知れない恐怖が潜んでいるというのは怖いだろうな、と思って書いてみました。
ホラーな創作物を見たり読んだりするのは怖いですが、自分が書く側になると結構すいすいと筆が進むのは妙なものですね(笑)
今後またホラーを書くことがあるかはわかりませんが、他の作品も読んでいただけると嬉しいです。
ありがとうございました。