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美しい人  作者: 深川アオ
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4.彼女

 廊下に戻り、奥へと進んだ。生臭い匂いはさらに強くなっていく。

 角を曲がると予想通り明かりはついていなかったが、突き当たりにドアがあった。そのドアもまた半開きになっていて、下に降りるための狭い階段があるのが見えた。

 私は暗い階段の前に立って再び耳をすませた。足音や人の声などは相変わらず聞こえなかったが、階下から微かに機械が低く唸るような音が聞こえた。私はできる限り足音を立てないよう注意しながら階段を降りた。狭く急な階段が、通常の建物なら三階分に相当すると思わしき長さで続いていた。おそらくすでに地下深くまで降りてきているはずだ。

 階段を下り切ると、またドアがあった。今度は開いてはいない。木でできた、古く傷んだドアに金属製のノブがついている。ノブを握ると異様な冷たさが手のひらを刺した。ゆっくりとドアを開けると、生臭い匂いに混じって血のような匂いが漂った。ドアの向こう側は広い通路になっているようだった。遠くに明かりが見えるもののほとんど真っ暗で、どこかで水の流れる音がした。足元は濡れた土だった。

 私はゆっくりと明かりの方へ歩いて行った。なぜ自分はこんなところを歩いているのかという考えが頭をよぎったが、私は歩みを止められなかった。まるで街灯に引き寄せられる虫のように私は明かりに向かって真直ぐに進んでいった。途中には鉄でできた棚かコンテナのようなものがいくつも置かれていて、私が目指している明かりも同じような箱に隠れていて光源は見えなかった。

 明かりの近くまで行くと、パチパチと火のはぜる音が聞こえてきた。こちらに届く光は誰かがしている焚き火から漏れてきているようだ。私はコンテナの影に隠れながらそっと焚き火の方を覗き見た。

 私より先に劇場に入った医者の男が地面に伏していた。

 私は息を飲んだ。彼は手足を伸ばして仰向けに寝かせられ、体の上にみたことのない文字のようなものが書かれた布をかけられていた。男の横にはこちらに背を向ける形で髪の長い女が座っていた。その女が着ている服には見覚えがあった。今日のあの講演会でステージに上がろうとした男を始末した、あの女たちが着ていたものと同じだった。

 瞬間、私は彼女の前に飛び出していきたい衝動に駆られた。

 彼女の顔を見てみたい。

 彼女の体を見てみたい。

 彼女の髪の匂いを嗅いでみたい。

 彼女の目を見てみたい。

 彼女の声を聞いてみたい。

 彼女の、いや、違う。あれは彼女ではないのだ。違う、あれは誰だ。

 あの男はどうなった。

 はっと気づいた時、私はコンテナの影から身を乗り出しかけていた。私はほとんど条件反射のようにポケットを手で探り、ハンカチに包んでいた錠剤を飲み込んだ。

 頭を殴られたような強烈な目眩が襲った。何とか声を出すのは堪えることができたが、私は地面に手をついた。二、三度深呼吸をすると目眩はおさまり、あたりに充満する魚臭い匂いや血の匂い、焚き火から漂ってくる焦げた匂いや、火のはぜる音、自分の息遣いまでもが一層はっきりと感じられた。これが手帳に書かれていた覚醒効果なのかもしれない。

 薬の効果か、直前に感じていた強い衝動は嘘のように消えていた。なぜ自分があのような衝動を感じたのかはわからなかったが、それに似た感情をいつもの講演の前にも感じていたようにも思った。

 私は一度大きく深呼吸をして、もう一度焚き火の前に座る女性と眠っている医者の様子を覗き見た。今度はさっきのような衝動は湧いてこなかったので、落ち着いて二人を観察することができた。医者の男は微動だにしていなかったが、わずかな胸の動きで呼吸はしていることが分かった。なぜ彼がこのような状態に陥っているのか、そしていつの間にここまできたのかと私は訝しんだ。彼が劇場に入ってから私が後を追って入っていくまでにかかった時間はたかだか数分程度だったはずだ。

 しかし私がこの場所に辿り着くまでそれなりに時間がかかっているのも事実だ。それが正確にどれくらいの時間であるのかはわからなかった。資料室であの手記を読んだのはおそらく数十分ほど前のはずだが、あるいは半日前だと言われても私は強く否定できなかっただろう。劇場にたどり着いてからというもの、私の中の時間の感覚はいつの間にか狂ってしまっていた。

 微かに人の足音が聞こえて私は息を飲んだ。おそらく薬の作用によって私の感覚は研ぎ澄まされているのだろう。足音の聞こえてきた方向から、誰かが焚き火を挟んだ向こう側の暗闇から歩いてくることが分かった。足音する方向の暗闇に目を凝らしたが、焚き火の光が邪魔をするせいか、薬が効いた今の状態でも姿は見えなかった。

 近くに座っていた女が立ち上がった。少し大股で眠っている医者の男のところまで歩いて行き、首に手を当てた。脈を測っているようだった。女はまた少々不自然な足取りで元の場所に戻った。私はその時初めて、焚き火の周りに何かの紋様のようなものが描かれているのに気がついた。女はそれを踏まないように歩いていたのだ。

 私はコンテナの影に隠れたまま、医者の男を助けるべきかどうか考えあぐねていた。どういった経緯で彼が今の状況になっているのかはわからないが、この場所にしろそこの女にしろ異常な状況にあることは間違いない。資料室で見つけた手帳には、彼女の取り巻きが失踪事件に関わっていたらしいことが書かれていた。それが具体的にどういうことなのかはわからないが、このまま目の前で起こっていることを見過ごせば、医者の男が不運な目に会うことは想像に難くなかった。

 しかし非情なようだが、私にはこのまま真実を見極めたいという思いも生まれ始めていた。劇場の地下にこんな場所が作られていること自体、なにか大掛かりな計画が裏にあることの証左ではないだろうか。

 足音はすぐ近くまで来ていた。私はポケットの中の拳銃に手を触れた。だが、今出て行っても医者を助けるのは難しい。向こうは少なくとも二人以上で、そのうえ私は昏睡状態の彼を背負って逃げることになるかもしれないのだ。また仮に目の前の女やその一味が医者の男に危害を加えようとしている怪しげな集団だったとしても、突然その前に躍り出て引き金を引くようなまねはできない気がした。

 足音の主が焚き火の近くまで来た。私はその人物の顔を見た時、驚きよりもむしろ奇妙な納得を覚えた。私がここまで来たのも当然そうなるべくして起こったことなのだろう。すべての始まりはそこなのだから。

 彼女だった。

 彼女はマントのような布を纏い、何の感情も浮かべていない顔で、横たわる男を見下ろしていた。

 彼女の顔を見た時、私は世界が回転するような感覚を味わった。美しい。あまりにも美しい。彼女をステージ以外で見るのは初めてだった。彼女は声を発さなかったが、私は記憶の中の彼女の声を反芻していた。またあの声が聞きたい。しかも今は講演用に誂えられた退屈なスピーチなどではなく、彼女の本来の自然な声が聞けるだろう。

 飛び出していきたい衝動を抱えながらも、私の中には同時に疑念と恐怖が湧き上がってきていた。彼女は一体この場所で何をしているのか。失踪事件の黒幕は彼女なのか。そして何より彼女を見たときに湧き上がってくるこの感情はなんなのか。圧倒的なまでの美。本当にそれだけなのか。美しさというものがここまで人間をとらえるものだろうか。彼女ほどの美しさをもってすればそれも可能なのか。そしてなぜその美は私に恐怖すら感じさせるのだろう。

 無意識に握り締めた右手の中に感じる銃の硬い感触が、呑まれかけた私の意識をほんのわずかに引き戻したのかもしれない。それとも先に飲んだ薬が彼女の魅了の力を弱めていたのか。私はごくわずかに覚醒した理性で再びポケットをさぐり、二粒目の錠剤を口の中に放り込んだ。

 ほんの一瞬、深い穴に落ちるような感覚が私を襲った。だがすぐに体の感覚は戻り、私は自分が焚き火の炎をじっと見つめていることに気がついた。はぜる火の粉の行方を目で追い、それが燃え尽きる様子を子細に観察することができた。そうしていたのはほんの数秒のことだっただろうが、私には数分にも数時間にも感じられた。

 感覚が先鋭化されるのに反比例するように、精神は水を打ったように静かになっていくのがわかった。もう先程のような衝動は消え失せている。私はその効果を確かめるため、意を決して彼女の姿をもう一度覗いた。


 違う。

 彼女はそこにはいなかった。代わりに他のモノがそこに立っていた。

 違う。

 彼女は確かにそこにいたはずだ。彼女はどこに行ったのか。

 違う。

 あれを彼女と見間違えるはずはない。いや、それ以前にあれは。

 ヒトですらない。


 彼女がつけていたマントをつけて、彼女が立っていた場所に立っているそれは、およそこの世の生物とは思えない醜悪な生き物だった。それはマントの他には衣服を付けておらず、ぬらぬらと光る灰褐色の体をしていた。体の側面は鱗のようなものが不揃いに覆っていて、手の指は長く、指の隙間に水かきのような膜が見えた。顔面は目が異様に大きく、それに押し込められたように鼻は小さく平らだった。まるで魚と人間のあいの子のようなその顔からは何の感情も読み取れなかった。

 私の中に何らかの感情が湧くよりも早く、敏感になった感覚が目の前の光景を次々と脳に送り込んできていた。その情報の奔流を止める術は私自身にも無く、見たもの全ての情報が無遠慮に私の脳裏に刻み込まれていった。

 醜い。

 憎悪にも似た強烈な嫌悪感が私を襲った。私はすんでのところで叫び出しそうになるのを堪えた。あれの正体が何であろうと、いま見つかるわけにはいかない。胸の鼓動が激しくなり、手に汗が滲んだ。

 しかし、ほんの数秒ではあるがその醜い生物を見るうちに、奇妙な既視感があることに気がついた。私はあの生物をどこかで見たことがあるのだ。それも本の挿絵や映画のワンシーンで見かけたというようなものではない。私はその世にも醜悪な顔をよく見知っている気がした。

 ありえない。

 私は首を振った。あんなものを過去に見ていれば、もっと強烈な記憶として焼きついているはずだ。

 しかし既視感は消えない。そしてあの生き物が甲高く耳障りな鳴き声のようなものを発した瞬間、私は理解した。

 この声もまた私は聞いたことがある。

 それも、何度も聞いていた。

 それを心待ちにしていた。

 記憶の中のあの声とは似ても似つかないはずなのに、しかしそれが今では全く同一のものであったことが分かる。

 暗示。あの手記の中の言葉が浮かんだ。私が飲んだ薬は、彼女が仕掛けた強力な暗示を解くためのものだった。

 あれは、あそこに立っている醜い生き物は、彼女なのだ。

 私は、私たちはずっと見ていたし聞いていたのだ。彼女の、いや、あの生き物の姿を、あの声を。私たちはずっとそのために集まっていたのだ。あの醜悪な顔を見るために、あの耳障りな奇声を聞くために。私たちは凝視した。私たちは聞き入った。それをこの上なく美しいものだと思わされながら。


 私は自分が叫び声をあげるのを聞いた。

 彼女だったあの生き物が、こちらを向いた。

 私は隠し持っていた銃をそちらに向け、引き金を引いた。

 銃声。

 女の悲鳴。

 ものが落ちる音。

 甲高い鳴き声。

 私の叫び。

 全ての音が暗く狭い空間に反響し、それをかき消すように私は立て続けに引き金を引いた。


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