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美しい人  作者: 深川アオ
3/5

3.潜入

 私は名刺入れをコートのポケットに入れて、早足であの男の後を追った。歩いて行った方向から考えて、駅に向かったのだろう。喫茶店を出た時の彼の足取りを考えると、少し急げば追いつける可能性はあった。

 わざわざ後を追いかけて名刺入れを返してやるのは親切心からではなく、今日の予期せぬ会合の痕跡を出来る限り残したくなかったからだった。勝手に処分してしまっても良かったが、次の講演会の時などにあの男から声をかけられたりしたら面倒だ。だからといって私が持って帰ってしまえばそれこそ証拠が残る。であるなら、あの男に突き返してしまうのが一番楽だろう。後は今日のことなどすっぱりと忘れてしまえば良い。

 来た時と同じ地下鉄駅への階段付近まで来た時、向こう側からあの男が歩いてきた。男は俯いたまま足早に歩いており、私がそばに行くまで気が付かないようだった。

 私が声をかけると、はっとしたように男は顔を上げた。私はポケットから出した名刺入れを男に差し出した。

 男は一瞬虚を突かれて固まったように見えたが、すぐに疲れたような微笑を顔に貼り付けて名刺入れを受け取った。

「え、ああ。ありがとうございます。わざわざ届けていただいてすみません」

 名刺入れを懐に入れると、男は踵を返して地下鉄駅への階段を降りていった。

 私は歩いて行く男の背中を見つめた。なぜあの男は駅と反対方向に歩いてきたのか。初めは名刺入れを忘れたことに気がついて引き返してきたのだと思った。しかし私が名刺入れを差し出したときの男の様子は、自分がそれを忘れてきたことに気がついてもいなかったように見えた。

 私はしばしの逡巡の後、男の後を追って階段を降りた。男に気取られないよう一定の距離を離して、しかし決して見失わないようについて行く。


 男は改札をくぐらなかった。

 切符売り場を素通りして、地上へ続く別の出口へと歩いて行く。駅の利用客はまばらで通行人に紛れることは難しかったが、男は私の尾行には気がついていないようだった。ついさっき私が名刺入れを返そうと声をかけた時も、近くに行くまで気がつかなかったほどだ。よほど今日のことについて思い詰めているのだろう。それだけ正義感や道徳心が強いということなのだろうが、それが彼自身を苛んでいるのだと考えると、私は男に憐憫にも似た感情を抱いた。

 男は地上に出ると、迷わず真っ直ぐに歩いて行った。その数メートル後方を私はついて行く。俯き加減に歩く男の足は少しずつ速度を増している。まさに一心不乱といった様子で、脇目も降らずに進んでいくのだ。まるで何かに取り憑かれているようだとその背中を見て思う。そして彼についていっている私自身もまた、男と同じように何かに導かれているのではないかという想像が頭をよぎった。

 何度か角を曲がった頃、細かい雨が降り出した。男は歩く速度を一段と上げた。遠くで雷鳴が鳴り響き、私はふと男の背中から目を離した。その瞬間、私は周囲の景色の既視感に気がついた。そしてようやく、私は男の向かっている先がどこであるかを理解したのだった。

 劇場だ。彼女がついさっき公演を行い、一人の観客が殺された、あの劇場だ。

 瞬間、私の心臓は早鐘を打ち始めた。講演会に向かう時にもそうだったように、額や背中に冷や汗が噴き出すのを感じた。

 あの男が講演の終わった劇場に何の用があるのかはわからないが、私はすでに不吉なものを感じ始めていた。もしかしたら男はあの事件の真相を自ら確かめるつもりなのかもしれない。警察に通報されるのとどちらが厄介なのかは判断に困るところだったが、とにかく男の思い通りにいかせるわけにはいかなかった。

 私は意を決して男に声をかけようとした。しかしその瞬間、男は急に立ち止まり、ゆっくりとこちらを振り返った。その目には私と話した時に見たような恐怖だけではない、それ以上の何かが宿っていた。

 狂気。

 私の脳裏にその言葉が浮かぶのと、男が駆け出すのは同時だった。男は脇目も振らず劇場に向かって一目散に走って行く。私は一瞬呆気に取られたが、すぐに気を取り直して男の後を追った。男が何をする気であろうとも、それが良い結果を産むとは思えなかった。


 男は驚くべき速さで劇場までの道を駆け抜け、すでに閉まっていたフェンスを迷うことなく乗り越えていった。私が何とかフェンスの前まできたときには、男は劇場の扉を開けて中に入っていくところだった。私は周囲を見回して人が見ていないことを確認し、何とかフェンスをよじ登った。

 私も男の後を追って劇場の中に入ったが、すでに男の姿は無かった。今日はもう他の利用予定は無いのか、ロビーは無人だった。本格的に降り始めた雨の音と遠い雷鳴の轟だけが古びた劇場のロビーに鳴り響いていた。

 私はひとまず、数時間前にあの公演が行われたホールの扉に手をかけた。扉は施錠されてはいなかった。ゆっくりと扉を開けると、黴と埃の匂いに混じって微かに腐敗した魚のような生臭い空気が私の鼻腔を刺激した。ホールの中を覗くと、観客席の明かりは消えていたが、無人のステージの中心にスポットライトが当てられていた。講演の時に彼女が使ったままになっているようだった。

 私はステージに近づいて、あの男が殺された場所のあたりまで歩いていった。男が事切れる前に手をかけていた場所を見てみたが、特に何も見つけることはできなかった。銃や刃物が使われた訳では無いので、目立つような痕跡がないのも仕方がないのかもしれない。あの瞬間を目撃していなければ、ここで人が死んだなどとは分かりようも無いだろうと思えた。

 ふと目の端で何かの光が反射したような気がした。光が見えたのは舞台袖の方だった。私はステージに上がり、光が見えた方へと歩いていった。暗い舞台袖の奥には簡素な白い扉があり、僅かに開いた隙間から向こう側の明かりが漏れてきていた。私はしばしの間、息を殺して耳をそば立てた。扉の向こうから微かに人の話し声のようなものが聞こえた気がした。私より先に入ったあの男のものだろうか。私は一度躊躇したが、手を伸ばして静かに扉を開けた。

 扉の向こうは、蛍光灯に照らされた狭い通路が奥へと続いていた。ゆっくりと入っていくと、濡れた靴とリノリウムの床が鋭い音を立てた。通路の両側にはすりガラスのついた扉がいくつかあったが、どれも中の部屋の明かりはついていないようだった。奥に行くにつれて、ホールの扉を開けたときに感じた生臭い匂いが強くなっていくように思われた。

 しばらく通路を歩くと、扉の半開きになっている部屋があった。扉につけられたすりガラスの窓からは蛍光灯の光がぼんやりと染み出している。私は扉の隙間から部屋の中を覗き見た。そこは資料室か何かのようで、大量のファイルや書籍が並んだ棚が置かれていた。私はまたじっと耳をすませたが、衣擦れの音一つ聞こえなかった。

 ふと、最も扉に近い棚のそばに、口の開いた段ボール箱とページの開かれた手帳が置かれているのが目に留まった。私は一度周囲を見回して人のいないことを確かめると、部屋の中に入っていって手帳の開かれたページを覗き込んだ。


「私の抱いてきた疑念はついに確信へと変わりつつある。

 この二ヶ月間、私は恐怖に怯えながら例の奇妙な講演会の正体を探ってきた。行方不明になった彼の行方は未だに掴めていない。いや、行方不明などという言葉で自分を誤魔化すのはもはや無意味だ。彼はすでに奴らの手で始末されたか、それとも奴らの行っている怪しげな儀式の供物として供されてしまったに違いない。今は奴らの正体を暴くことが彼の魂の安らぎとなることを祈るばかりだ。

 講演会の主催者たるあの女はやはり政治家などではなかった。市民活動家ですらない。あらゆるメディアに彼女の名前を探したが、彼女のインタビュー記録も活動報告もコラムも評論もエッセイも何ひとつ見つけることはできなかった。彼女の判明している唯一の経歴である大学の卒業名簿にもその名はなかった。

 彼女は一体何者なのか。それを近いうちに私は暴いてやるつもりだ。そのために必要なものも苦労して手に入れた。この錠剤を使えば、私の意識は強力に先鋭化され、彼女の美という魔力にも対抗できるはずだ。そう、何よりの謎は彼女のあの美しさなのだ。もはやそれは一般的に考えられる美というものを超越しているようにも思える。いくら彼女が常人離れした美貌の持ち主とは言え、彼女を前にした時の我々の精神状態は異常という他ない。我々は彼女に何か強力な暗示のようなものをかけられているに違いない。あるいは彼女の講演が始まると同時に何らかの化学薬品が散布されているという可能性も考えられる。いずれにせよ私はその対抗策を手に入れた。まずは彼女のステージが行われている時にその効果を確かめてみることにする。

 正直に告白すれば、私は彼女に疑念を抱くと同時に、彼女のステージを失いたくないという思いもまた感じている。あれほどまでに美しいものを、私は自らの手で汚してしまおうとしているのかもしれない。それは今までの人生で感じたことのないような恐怖と罪悪感となってこの二ヶ月間私を苛んできた。だが、だからこそ私は真実を暴かなければならないと感じるのだ。この恐怖の源から目を逸らし、心地よい夢に浸り切っていることもできただろう。しかしそれは明らかに堕落であり、自らの人間性への冒涜だ。恐怖を克服するには恐怖と対峙する以外にない。ならば私は今こそ夢から醒めなくてはならないのだ」


 私はしばし目を閉じ、手帳に書かれた内容を反芻した。もしかしたらこれは、今日殺されたあの男の手記ではないだろうか。そうであるという確証はどこにもない。だが私はこの文章を書いたのがあの男なのだと自然に信じる気になっていた。

 殺された彼もまた彼女という存在に疑念を持っていたのだ。手記には彼女の魔力に対抗する薬を手に入れたとある。彼はそれを使って覚醒し、彼女の正体を暴こうとあの行動を起こしたのだろうか。それとも薬が予想外の作用をして彼を狂わせたのか。

 気になることはまだある。読んだページの冒頭には行方不明になった者がいるらしいことが書かれている。そしてそれはどうやら彼女と関係する人間たちの手によるものであるようだ。私の脳裏には彼を殺した女たちの姿が浮かんでいた。私たち参加者は互いの素性は知らないし、互いに詮索をしないことが暗黙の了解になっている。行方不明になった者がいたとしても誰も気が付かないだろう。だが、彼はそれに気付いてしまったのだ。そのことが彼の殺される遠因となってしまったのだろうか。

 私は手帳から目を離し、今度は隣の箱を覗いた。入っていたのは皮の財布、腕時計、白い錠剤の入った小瓶、そして拳銃だった。殺された彼の持ち物かもしれない。私は少し迷ったが小瓶から錠剤を何粒か取り出し、ハンカチで巻いてポケットに入れた。そのほかの荷物は元あった形に戻し、物を立てないよう気をつけながら部屋を出た。

 再び薄暗い廊下に立って、私は自分がもと来た方向を見やった。人影はない。振り返って廊下の先を見る。十メートルほど先で廊下は折れ曲がっていて、その先は薄暗くなっていた。明かりがついていないようだった。私は急に胸の動悸を感じた。それと同時に今までさほど気にならなかった魚臭さが鼻をついた。暗く狭い見知らぬ場所に一人で立っているという単純な恐怖と不安が、胸の中にじっとりと湧き上がってくるのを感じた。

 額に滲んだ汗を拭うと、私は思い切ってさっきの部屋に戻り、拳銃を手に取った。弾が装填されていることを確かめる。銃など撃ったことはないが、武器を持っているというだけで安心感があった。実際に発砲することはなくとも、もしもの時には脅しくらいには使えるかもしれない。

 銃を手にしたことで多少なりとも心に余裕ができたのかもしれない。私は自分が大袈裟に恐怖に囚われていることを自覚して苦笑した。雰囲気にのまれて怯えすぎている。まさかこの先にギャングが待ち構えているということもないだろう。劇場のスタッフが普通に詰めているだけかもしれない。銃など手にして、客観的に見れば危険人物は私の方だ。

 私は拳銃を数秒見つめて考えたが、結局それをジャケットの内ポケットに入れた。この先に危険があるかどうかはわからない。しかし、数時間前にすぐそこで人が殺されたのは事実なのだ。


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