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美しい人  作者: 深川アオ
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2.犠牲

 私たちはいつものように彼女に釘付けになっていた。ふと、目の端で人が動く気配がした。私は特に気にも留めずステージの上の彼女を見つめることに集中していたが、やがてその男は座っていた席を離れ彼女のステージに駆け寄ると、ステージの上にあがろうとし始めたのだ。

 瞬間、私の内側で古い傷口が開いたかのようにどす黒い殺意が噴出すのを感じた。

 彼女のステージが、いや彼女という存在が冒涜されようとしている!

 一方で、私の体は未だステージ上の彼女に全感覚を傾けており、指一本動かすことはかなわなかった。自然、私の中で噴出した殺意はその勢いを上げ、まるで意思の力で男を殺そうとするかのようにステージに這い上がりつつある背中に注がれた。

 非難のざわめきすらないままに、それでいてすべての観客が男への殺意と怒りをみなぎらせ、ステージで話し続けている彼女の美貌という呪縛から逃れつつあった。私の手が腰掛けていたシートの肘置きをつかみ、自らの体を持ち上げようとした瞬間、ステージの袖からドレスを着た二人の女性が現れ、私の注意はそちらへ向けられた。


 二人はまるで踊るように優雅に、ステージに上がった男に歩み寄った。一人は男の手をとって、もう一人は男の頬に手を添えた。そしてそのまま、まるで踊りの振り付けのひとつであるかのうようにどこまでも優雅に滑らかに、男の首をへし折ったのだった。


 くず折れた男の体を二人が恭しくステージ横に運び消える中、観客たちの間にはほっと息をつくような安堵の空気が流れた。目の前で人が死んだのだということは理解していたが、そんなことは瑣末なことだった。彼女のステージは守られたのだ。それ以上のことを考える余裕も必要も無く、再び観客たちは彼女の美に没頭した。

 男は蜂だったのだ、と私はぼんやりと考えた。男は劇場に迷い込んだ一匹の害虫であり、彼女が怪我をしないよう、すみやかに処理された、ただそれだけのことなのだ。 彼女自身、男が処理された時にも休みなく話し続けていたのだから。

 やがて彼女の話が終わると、劇場は拍手に包まれ、彼女はゆっくりとお辞儀をしてステージの袖へ消えた。観客たちは夢見る足取りのまま劇場を後にした。


 曇り空はその色をより濃くしているような気がした。まだ雨は降っていなかったが、いつ雷鳴が聞こえてもおかしくはなかった。

 生暖かい空気を掻き分け地下鉄の駅へ向かう私を、一人の男が呼び止めた。振り返ると、眼鏡をかけた初老の男が、どこか困惑した面持ちで立っていた。まるで、自分でもなぜ声をかけたのかわからないとでもいうようだった。

「その、すみません。あなたもさっきあの劇場に、その、彼女のステージを見にいらしていたように思ったものですから」

 男の口調は丁寧で身なりもそれなりに整っていたが、私は彼に嫌悪感を抱かずにはいられなかった。劇場の外で彼女についての話を口にしないというのは、あの劇場に集まる者たち全員の暗黙の了解だった。加えて、お互いについて余計な詮索は行わないということが不文律となっていた。事実、私は他の観客達の人となりはおろか、顔すらほとんど覚えてはいなかった。大まかな人数くらいは把握していたが、それが毎回同じメンバーなのか入れ替わりがあるのかもわからなかった。そしてそれは他の全ての観客もまた同じなのだろうと考えていた。

 私はまるで汚らわしいものでも見るような目つきで男を見たに違いなかった。男は動揺した様子で、しかし先ほどよりもしっかりとした声で言葉を続けた。

「不躾だとは承知しています。しかし、どうか私の話を聞いていただけないでしょうか。お時間は取らせません。どうか」

 男の声には追い詰められた人間のような恐怖の響きが感じられた。その恐怖が私にも伝染したのかもしれない。とにかくこれ以上人目に付く場所で話を続けることへの恐れが私を頷かせ、私たちは密談のできそうな場所を探して歩き出した。

 遠く鈍色の空から雷鳴が聞こえ始めていた。


 喫茶店に入るとできるだけ他の客から離れた席に座り、コーヒーを頼んだ。私がテーブル端の灰皿を引き寄せると、男が微かに眉をひそめた。私が男の目を見ると、彼は苦笑いをして眉根を揉んだ。

「すみません。医者をしているもので、つい。お気になさらないでください」

 私は構わないと言って灰皿を元の位置に戻した。コーヒーを待つ間、男は不安そうに他の客の顔を盗み見ていた。私は手持ち無沙汰に外を眺めていた。店内には聞き覚えのあるクラシックが流れていたが、私には曲名も作者もわからなかった。

 しばらくすると男は話始めたが、私は簡単に相槌を打つだけで、ほとんど男が一人で話した。


「彼女のステージにはいつから行かれているんですか?」

「なるほどそうですか、そんなに前から。私はごく最近なのですが、初めての時は同僚に連れられて。今では彼はあまり顔を出しませんが」

「ああ、いえ、仕事が忙しいみたいでね。少し前に職を変えてから、最近はあまり会えていませんがね」

「少し寒いですね。冷房が効きすぎているみたいだ」

「ええ、まあ、そう、素晴らしいステージだと思います。非常に啓蒙的です。若い女性であれだけ堂々と」

「まあ、そうですね」

「ええ」

「……」

「……確かに、言ってしまえば私の目的はその通りです。あまり褒められるものではないのでしょうが、それはあなたも、というより皆がそうなのではないですか。正直に言って、あの場に来ている人間の中で彼女の話の内容を憶えている者がいるとは思えませんね。彼女自身それに気がついていてもいいくらいです。でもまあ、彼女はまだ若いですし、他人が自分の話を聞きに来てくれているというだけでも満足なのでしょう。私たちだって別に彼女を蔑ろにしているわけではない。むしろその逆な訳ですから」


 それまで比較的饒舌に話していた男は、不意にあたりを見回した。ようやく本来の話題にたどり着いたということなのだろうが、不自然そのものと言えるその様子に私は内心腹が立った。かといって私自身落ち着いていたと言えば嘘になる。不安と苛立ちを覚えながらも、私は黙って彼に喋らせ続けた。これから例の問題の話を、その禁忌に触れようとしている彼にその罪を押し着せ、体良く利用しようとしているようなものだった。

「あなたもご覧になりましたよね、あれを」

 ステージ上で男が死んだことを(正確に言えば殺されたことを)言っているのだろうとはわかったが、私は何も言わず黙っていた。答えるまでもない愚問だと思ってそうしたはずだったが、今思えば自分からそのことに関わっていくことへの恐怖が私を沈黙させたに違いなかった。

「あの男性はあの後どうなったんでしょうか」

 彼は小さく呟くような声で言った。私は彼から視線を外しながら、あれはあらかじめ用意された演出で、男は仕掛け人に過ぎないのではないかと言った。自分自身そんなことはまるで信じてはいなかったが、常識に照らせばそれ以外の回答はありえなかった。

 案の定、目の前の男は首を振った。

「あなたも分かっているはずです。あれは決して演出などではなかった。私は比較的近い位置からあれを見ていた。死んだ男性は明らかに私たちのうちの一人でしたし、いや、そもそもそんな演出を行う意図もわからない。突然ステージに現れた二人の女性ですが、今まであなたは彼女たちを見たことがありますか」

 当然、あるはずもない。あのような事態は私が彼女のステージに通い詰めるようになって以来初めてのことだった。

「あの女性たちは、彼女のスタッフかボディガードのようなものなのでしょう。それはいい。あの男性が、彼女に対して例えば・・・その、偏執的な好意を持っていて、それでステージに上がろうとしたのを、スタッフが止めた。ここまではありそうなことです。だが、なぜわざわざ殺す必要があるんでしょうか。なぜ取りおさえるだけではだめだったんでしょうか。いや、なによりも」

 男は顔をひきつらせながら言った。

「なぜあの時我々は何も感じなかったのでしょうか」

 私はあの瞬間ーーあのステージに上がろうとした男が殺された瞬間を反芻していた。大変なことが起こったのだということは理解していたはずだ。だが、頭でそう理解していたとしても、私の感情は全く揺れ動かなかった。

 いや、本当にそうだっただろうか。私はすぐ近くで男が殺されるのを見て本当に何も感じていなかったのか。

 違う。

 私は、安堵していた。

 彼女のステージが守られたことに対して、男がステージを乱す心配が二度となくなったことに対して。

 喜びを感じてすらいたのだ。

「目の前で人が死んだというのに、あの場にいた全員・・・いえ、少なくとも私は、恐怖や憤りはおろか驚きすら感じなかった。まるでそうあることが当然のように、男性がステージから消えていくのを眺めていた。私は医者です。確かに他の人に比べれば人の死というものには慣れているかもしれません。しかしそうだとしても私はあの時、椅子から立ち上がることすらしなかった」

 集団心理という言葉を私は口にした。心理学について私は特段明るいわけでは無いが、あの場における独特な空気を説明するのには適しているように思われた。あの場で誰も動かなかったのは、まさに、誰も動かなかったからであるということだ。他の皆が動かないということは、きっとあれは何かの演出なのだろうと、皆がそう判断したのだ。私は彼にそう言ったが、あるいは私自身そうした言葉であの時の自分に説明をつけたかったのかも知れなかった。

 だが、男は首を振った。

「私もそういったことは考えました。確かに、あの場の雰囲気というか、あの集まり自体には独特な空気感があります。加えて大勢が見ているステージ上で人が殺されるということの非現実性を考えれば、あれをただの演出だと思い、なんの行動も起こそうとしなかった人間もいたことでしょう。しかし」

 男は再び言葉を切った。私は唐突に、ここから先がこの男が本当に話したかったことなのだと直感した。それは同時に鋭い痛みのように唐突に、私の胸に得体の知れない恐怖を湧き上がらせた。

 男は苦しそうに切り出した。

「今は、違うでしょう。彼女のステージから、物理的にも時間的にも離れている。今この時、私たちはあんな異常な心理状態からは解き放たれているはずなんです。それなのに、なぜ誰も行動しないんです。人が殺されたと言うのに、誰かが警察に通報したとも思えない。いや。誰も通報なんてしていないと私には確信できる。この確信とは一体何です。どこから来たのだ。違う。確信は自らの中にあるのです。私はさっき、あなたに声をかける前に、確かに警察に電話をかけようとした。いや、そうしようと思った。でもできなかった。恐怖のせいです。手が震えるほどの恐怖が私を思いとどまらせたのです。これは一体何に対する恐怖なんです。人が死んだことに対してか。それとも彼女のステージが失われることに対してか。わかりません。ただ恐怖だけがある。得体の知れない恐怖だけが」

 憑かれたように話し続ける男は、怯えた表情のまま唐突に私をまっすぐに見た。

「これから私は警察に電話をかけ、今日起こったことを話します。そうしなければならない」

 だめだ!

 私は自分がそう言うのを聞いた。ウェイターがこちらを振り返った。

 私は声を低くし、あなたは不安で一時的に我を失っている、彼女のステージが失われてもいいのかと男に告げた。他の人間が聞いていれば、まるで私が男を恫喝しているように聞こえただろう。警察の捜査が入れば彼女のステージが失われるであろうことは容易に予想できた。それだけはあってはならないことだった。

「彼女のステージについてはそうですが、しかし……。我を失っているのはあなたです。人が死んでいるのですよ」

 そう反論する男の手は震えていたものの、声は今までで最もしっかりとした響きを持っていた。しかし男の目に宿る鈍い光は使命感や正義感というよりも、むしろ追い詰められた生き物の狂気を連想させた。

 まだ演出という可能性が消えていない。

 私はきっぱりと断言したつもりだったが、男は私を哀れむように苦笑した。

「まだそんなことをおっしゃるんですか。あなたも見たはずです。あの男は確かに死んでいた」

 いや、死んだと思っただけだ。はっきりと確かめたわけではない。客席からはあの暗いステージ脇で男が死んだのか、それとも気を失っただけなのかは判別がつかなかった。あの場にいた誰も、確実に男が死んだとは断言できないはずだ。

「詭弁です」

 男の反論を私は無視した。

 それに、あの場で殺人など起こりうるはずがないとあなた自身がすでに言っている。彼女の女性スタッフ二人はあくまで男を気絶させただけかも知れない。

「それこそあなたがそう信じたいだけでしょう。そんなことで自分が見たものをごまかせるのですか」

 確かに、自分はごまかせないかも知れないが、警察はそう考えてもおかしくないだろう。

 私は一呼吸置き、男がその意味を理解するのを待った。男は目を瞬いた。

 警察はきっとあなたの通報を信じない。単純なことだ。30人前後の観客が見つめる中で殺人など起こるはずがない。仮に起こったとして、それならばもっと大きな騒ぎになっているはずだ。それなのに通報をするのはおそらくはあなた一人だろう。この時点でまずあなたの話の信憑性は非常に薄くなる。その上我々はお互いに面識もなく、死んだ男の顔も名前もわからないときている。こんな状況で警察が動くはずがない。

「……しかし」

 なおも反論しようとする男を手で制し、私はまた、彼女のステージが失われてもいいのかと繰り返した。

 もしも彼が冷静であれば、私の言など感情任せの詭弁でしかないと容易く看破していただろう。あれが演出などであるわけもなく、私自身あのステージで男が死んだことは確実だと思っていたのだ。だが、私たちには共通した一つの思いがあることもまた確かだった。

 それはすなわち彼女のステージを失うことへの恐怖だった。

 それはまるで一つの本能のように私を突き動かした。目の前の男を説得し、脅し、なだめすかし、なんとしてでも彼女のステージを守る義務が私にはあった。

 加えて、私の中にそれまで忘れていた恐怖と不安が迫ってきていた。目の前で人間が死んだ。それも明らかに人の手で殺されたのだ。私たちが足繁く通うあの講演会とその中でエスカレートしていくハプニング。それが示すものはなんだ。私が今まで目を伏せて見ないふりをしてきたものが、いつの間にかすぐ背後にまで忍び寄ってきていた。


「しかし、ではどうすれば良いのです」

 男は目に涙さえ浮かべていた。この男はきっと人一倍善良な人間なのだろう。彼自身、自分が目撃したものを忘れることができればどんなに楽だろうかと思っているに違いない。自分の中の正義感や道徳心と彼女のステージとを天秤にかけ、どちらを取るべきか決められずにいるのだ。

 私はひとまず次回のステージまで様子を見ることを勧めた。

「しかし……」

 今日は何人の客が来ていたか知っているのか。

「いや……」

 私は知っている。もし次回ステージを訪れる人々の数が違っていれば分かる。それにあの男性の顔は? あなたははっきり見たのか?

「いや……。ステージ端は暗かったので」

 私は見た。次回彼が来なければ気付くだろう。でももし次回のステージに彼が現れたら? 彼は演出に協力しただけかもしれない。いや仮に彼が現れなかったとしても、それで彼が死んでいると断定することはできない。あれが演出ではなく男が衝動的に行ったことだとして、彼女のステージに無理に上がろうとしたのだから、今後の参加を禁止されたとしても当然ではないか。

 つまるところ、私たちは何もする必要はないのだ。冷静に考えれば、あのような状況で人が殺されるはずがない。あれはただの演出だ。今までもそうだったのではないだろうか。あの講演会で起こるハプニングは全て運営側の演出だったのかもしれない。その意図はわからないが、私は不服を申し立てるつもりなどない。私たちは彼女のステージさえ続けばそれで十分なはずだ。それ以上に重要なことなどあるだろうか?


 男は不安そうな顔で、それでも大人しく帰っていった。

 私は一人喫茶店に残り、煙草に火をつけた。目を閉じてゆっくりと紫煙を吐くと、ようやく気分が落ち着いてきた。

 ついさっき自分が彼に吹き込んだ言葉を反芻しながら、我ながらずいぶん無理やりに言いくるめたものだと苦笑した。私は当然ながら参加者の人数など数えてはいないし、殺された男の顔も見てはいなかった。結局は彼女のステージを失いたくなければ見て見ぬふりをしろということだ。最も重要なことは彼女のステージが存続することなのだ。

 それに、と、私は煙草を深く吸って考え込んだ。あのステージに上がろうとした男は確かに殺されたのだろう。ではそれに対して真実を詮索しようとするのは正しいことだろうか。倫理的には正しいことかもしれないが、あるいは次にステージに上がろうとするのはあの医者になるということはないだろうか。私の脳裏にはステージに登ろうとした男の夢遊病者のような足取りがちらついていた。まるで彼は何かに誘われるように自ら命を差し出しに行ったのだ。もしあの医者が今日の男と同じ道を辿るのなら、彼から相談を受けた私も……。

 頭を振って下らない想像を打ち消す。彼があまりに怯えていたので、その弱気が私にもうつったのかもしれない。

 思考がまとまらなかった。私は深く息をつき、もうこの件に関しては考えるのをやめようと思った。

 ふと、机の隅に革製の名刺入れが置き忘れられているのに気がついた。あの男が初めに名乗った時にそこに置いて、忘れて帰ったのだろう。そのままにして帰ってしまおうかとも考えたが、この場所に我々がいたという痕跡を残していくことにためらいがあった。ただでさえ我々は周りから見れば奇妙な客だっただろう。店員が顔を覚えている可能性もある。

 ひとまず私は名刺入れを掴んで喫茶店を出た。


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