京洛御伽草子(きょうらくおとぎそうし) 洛中に八じょうの将監といふものありて
冬至まで、あと数日に迫った夕方のことでありました。
日はもうすっかり落ち切って、風がことことと戸を鳴らして、しんしんと冷たさが忍び寄ってくる夜の入り。小さな囲炉裏の前で、この家のおばあさんと一匹の黒い猫が並んでうとうとしながら、家族が帰ってくるのを待っていたのです。
「なんてこった! 八じょうの将監ってのはだれのことなんだ!」
おばあさんの息子が、大声を上げながら家の中に入ってきました。おばあさんは目をぱちくりさせて、かじかんだ手を囲炉裏の炎であぶる息子を見ました。
「どうしたんだね、そんな大きな声を出して。その八じょうの将監という人に何か用でもあるのかね?」
「いやいや、母さん。今朝は六条の橋近くで荷を運んでいんだがね。」
息子は表に裏に手を返しながら言う。
「何だかカーカーと烏どもがうるさくて、」
「烏はいつもうるさいさね。のお、クラや。」
黒い猫がゴロゴロのどを鳴らします。
「それで烏が言うんだよ、」
「おや、烏が言うのかい?」
「八じょうの将監はとうとう年貢の納め時だそうだよ、と言うんだ!」
温まってきた手を膝の上に引っ込めて、息子は続ける。
「なんだか物騒なうわさ話だねぇ、」
「昼に五条の橋を渡ていたらね、橋のたもとでネズミどもがキーキーうるさくてね、」
「ネズミはいつもうるさいさね。のお、クラや。」
黒い猫はゴロゴロのどを鳴らします。
「それでネズミが言うんだよ、」
「おや、ネズミも言うのかい?」
「八じょうの将監が、今宵いよいよ危ないらしい、と言うんだ!」
息子はそのあたりを見回して、
「母さん、夕餉の支度はまだなのかい?」
「まだだよ。おまえの話が終わっていないじゃないか。」
「そうなのかい。クラもお腹が空いているんじゃないのかい?」
「クラはそんなにがっつく年齢ではないからね。」
黒い猫はくー、と唸りました。
「おれはもう背中と腹がくっつきそうだけれど。」
息子はぼやきながら、話を続けることになりました。
「さっき、七条の柳の下をいつものように帰ってきたんだ。するとね、猫がにゃーにゃーとうるさくてね、」
「うちのクラ以外はいつもうるさいさね。のお、クラや。」
黒い猫は前足を揃えて、上半身を起こしました。
「オレが通りかかると、猫どもはピタリと話をやめてね。」
「おや、猫どもは話をやめてしまったのかい?」
「いっぱいの猫のうちから、一匹、クラみたいな黒いのが出てきてさ、じっとオレを見上げてさ、」
おばあさんと猫の耳が、ぴくぴくと動きます。
「八じょうの将監にお別れを伝えてくれ、と言うんだよ。」
「おや、クラに似た黒い猫がそう言うのかい。」
「そうなんだよ。そう言われても、いったい、八じょうの将監ってだれなんだ!? と思い悩むうちに家に着いてしまったよ。」
「そうだねぇ、誰なんだろうねぇ。」
おばあさんは、むっくり体を起こしました。小さな、萎んだようなおばあさんでしたのに、急に膨らんだように見えて、息子はぱちぱちと目を瞬かせました。
「母さん、何だか体が大きくなったんじやないか?」
「気におしでないよ。」
おばあさんは、くうと首を傾げました。
「それに何だか、目が随分と丸くて、鼻が高くなっていなかい?」
長くて赤い舌がチラ、と揺れました。息子は目が離せないまま、膝でじり、と後ずさっていました。
「それから、いつ歯が生えたんだい?」
「そうだねぇ、」
と、上下二本ずつの尖った歯をむき出して、おばあさんは言いました。
「これから夕餉を食べるためだよ!」
ふ、と囲炉裏の火が消えて、室内は真っ暗になりました。
シャー!と猫が威嚇する声が上がり、何かがもつれ合うような音と、何かが転がり落ちる音が同時にしました。
けたたましい獣の声とぶつかり合う音が暗闇の中で続きました。
外から戸が開いて、青年が一人姿を現しました。物音を聞きつけて駆け付けた、にしては、心配そうな雰囲気はありません。土間に降りていた黒い猫が、足元に飛んでいって体をこすりつけます。
「ご苦労さん、玄。」
と、軽く身を屈めてのど元を掻いてやってから、指を弾きました。ぽ、ぽ、と光の球が室内を照らします。
囲炉裏端には、半ば破れたおばあさんの着物をひっかけた猫が倒れていました。成人男性くらいの体躯ですが、勿論人でもなく、まして虎でもなく、あくまで猫です。
その喉元に、何だか古めかしい形状の太刀を突き付けているのは、とても優雅な雰囲気の青年です。直垂に裾を絞った小袴というどこにでもいる庶民のような身なりでしたが、貴人が身をやつしていると言ったら誰もが信じそうな美しい青年でした。
「謀ったな・・・、」
と、大きな猫が赤い口から呪詛の言葉を吐き出します。
「騙したな! 息子に化けて…よくも、わしを謀ってくれたな!?」
「化けたというか、目くらましだよな? なー、玄? 」
すりすりと体を擦りながら、足の周りを回る黒い猫に、気のよさそうな青年は言いました。
雅な青年が、おばあさんの息子に見えていたのはどうやら、こちらの青年と猫による術のようです。
「お前に責められる筋合いは全くないぞ、八じょうの将監。都のあちこちの家で、まず家人の一人を取って食い、そのまま皮を被ってなりすまし、家族全部食い尽くす悪業を重ねた猫又・・・、いや」
硬質な声とともに、太刀がぐいとその喉元に迫ります。
「ただの卑しい化け物だ。おまえにもはや眷属はない。」
「結構だとも。」
きししし、と歯を鳴らして笑います。
「お別れを伝えてくれ!? それはわしの台詞よ。にんげんの術師に頼るしかないとは不甲斐ない者ども、この夜が明けぬ前に、皆殺しにしてくれるわ。」
「随分と見くびってくれる。」
太刀が静かに、蒼く光り始めました。刀身を、清らかな水滴が滴っていきます。清浄な気に晒されて苦しそうに顔を歪めますが、まだどこか余裕なところが気になります。
「どのような術者か知らないが、一人でわしを相手どろうなど、いのちが幾つあっても足りぬぞ?」
青年は軽く首を傾げました。
「なかなか気の利いたことを言うものだ。」
猫又には九つ命があると言われています。猫又や化け猫を「退治」するのは難しいのです。力の強いあやかしと対峙して何とか一つ命を獲っても、生き返ってしまうからです。
たった二人で何ができる、とにんまり歯をむき出します。
「うちももうすぐ夕餉の時間だからな。」
と、太刀の青年はまったく脈絡のない言葉を吐きました。微笑ましいというように、戸口の青年がこっそり目を細めます。
「早く帰りたいんだよ。」
一閃。
ただし、太刀は水と氷と風と光と雷と、複数の力を重ねて宿しているのを入り口の青年は見取り、その稀有さに目を瞠ります。
何が起きたのか分からないまま、残された命のうち同時に五つの命を一瞬で狩られて、さらに太刀そのものの切れ味が最後の命を絶ち切っていきます。
固まった泥人形のように崩れるように、ぼと、ぼと、と猫又のからだは崩れて、崩れた先から砂に変じ、やがて何もなくなってしまいました。
青年の手から、いつの間にか太刀も消えています。黒い猫を肩に乗せた青年が、解、と唱えて、閉じていた空間を開けば、冷たい山おろしの風の中、家路を急ぐ人々が行きかう当たり前の都の一隅が戻ってきました。
のーん、と黒い猫が高く鳴きました。波紋が広がる様に、のーん、のーんと次々に鳴き声が継がれて、京の夜空を渡っていきます。
二人の青年は特に挨拶をするわけでもなく、互いにひら、と手を振り、右と左に分かれて、人々の中のひとりになりました。
(散逸した書物より残されしこと)
「奥山に、猫またといふものありて、人を食ふなる」と、人の言ひけるに、「山ならねども、これらに
も、猫の経あがりて、猫またに成りて、人とる事はあなるものを」と言ふ者ありけり。
されば今は昔、「八じょうの将監」とかいふものあり。猫またのうちで高名なると聞きしなり。
いつしか我こそはと思ひ上がりて、いかにとかや、京のうちに棲みて人を食ひたり。俄にいへびと総じてきえうせぬことうち続けば、人びといかなるもののけの為業かと怖づ。
風吹き惑ひし夜、老いたる女に変化した猫また、帰り参る息子を食おうとしたるを、みあらはされて、討たれにけりとか聞こゆ。
空恐ろしきことかぎりなしと覚えしが、やうやうと忘るること、人の世には、かく尤もなり。
(私訳)
「山奥には猫またというものがいて、人を食べるというよ」と聞くことがあるが、「山でなくとも、この辺りでさえ老齢の猫が猫またになって人を食うことは珍しくない」という者がいる。
それゆえ今は昔の話だ。「八じょうの将監」という猫またがいた。猫またの中でも名が知れていた。
そうであるから、いつのころからか我こそが特別なものだと思い込んで、どうしてなのか都に棲みついて人を食うようになっていた。都人は突然、一家の住人がすべて消えてしまうことが続いて、どんな物の怪のしわざかと恐ろしがっていた。
風が強く吹いていた夜に、年老いた女に化けて帰宅した息子を食おうとした猫またが正体が露見して、討伐されたと伝えられた。
なんと恐ろしいことは皆は思ったが、だんだんと忘れてしまうことは世の中ではごく当たり前のことだ。
猫の日に何か、と思って、アイルランドの「猫の王」の話がずっと印象に残っていて、そのあたりから書き始めたのですが、三度の怪と微妙な赤ずきん問答が入り、舞台が日本だと「猫又?」「化け猫?」となり、かっこいい猫の話がこうなりました。昔は素敵な猫又だったと思う「八じょうの将監」です。
古文の一部は「徒然草」から。
蛇足ですが、戸口の青年(麻生)の式神、は今回のが「玄」で、前回のは「白」です。