年末の大掃除で、彼女の部屋のクローゼットから奇妙な箱が出てきた件
年の瀬、12月30日。
彼女の住むアパートに呼び出された俺は、年末の大掃除を手伝わされていた。
大学4年で付き合い始めた俺たちは、お互いに就職先も決まり、残り僅かなモラトリアムを楽しんでいた。
難航していた卒業研究も納得のいくデータが得られて、あとは卒論にまとめるだけ。
明日は大晦日。メディアは年末特番で盛り上がり、冬休みの小学生は近所の公園ではしゃぎ回り、小売店は年末の大売り出しで活気付いている。
そんな中にあって、俺の心は暗く澱んでいた。
彼女は浮気をしている。
彼女から指示された夏服を衣装ケースに仕舞うと、俺はポケットの中に忍ばせた証拠写真に指先で触れた。
友人から、知らない男と彼女が歩いているとの情報を得たのが10月。彼女のスマホから男との卑猥なやり取りを発見したのが11月。そしてスケジュールアプリにハートマークを入れていた日に、男とホテルに入っていく姿を撮影したのが先日。その日はクリスマス・イブだった。
こうなる事はある程度予感していた。
彼女には、交際関係をきっぱり切れない優柔不断なところがある。
彼女が俺と付き合い始める時、彼女にはまだ別の男との交際があった。ただその男はモラハラ気質で、彼女の事を物のように扱っていたらしい。
そんな元彼から彼女を奪い取るようなカタチで、俺は彼女と付き合う事になった。
彼女に裏切られた事で逆上した元彼は、彼女に対して何度も謝罪を求めていたが、いつの日からかパタリと姿を現さなくなった。
あの、取り乱して半狂乱になっていた元彼の気持ちも、今ならばわかる。
煮えたぎる愛情と憎悪を、平常心の仮面で覆い隠しながら、俺は彼女の指示に従って床に掃除機をかけた。
「ごめんねー、ありがと」
化粧ケースの整理と言いながら、さっきからずっとよくわからない化粧品をいじくり回していた彼女は、わざとらしいほどに申し訳なさそうな表情で言う。
「別にいいよー」
「そっか、亮輔は優しいね。愛してるよ!」
愛してると言えば、全てが許されると思っているのだろうか。俺は奥歯を噛み締めながら、鏡に向かって作り物の笑顔を見せる彼女に、心の中で悪態を吐いた。
そろそろ昼飯だ。
どうせウーバーイーツで何かを頼もうと彼女は言い出すだろう。新しい男が出来てから、彼女は俺と二人で出歩くのを避ける様になっていた。
くそったれめ。
昼飯を食べ終えたら、テーブルにこの写真を叩きつけてやろう。
彼女がどんな顔をするか楽しみだ。
無様な言い訳を漏らし始めたら、大声で問い詰めて、言い負かして、責め立てて、泣き喚く彼女を大声で嘲笑ってやる。
俺は心の中でほくそ笑んだ。
尊大な態度も今のうちだ。そう心の中で舌を出しつつ、彼女に指示されて不要なケースをクローゼットに仕舞う。
その時だった。
クローゼットの底板の端に積み上げていた衣服が崩れ、その下から小さな箱が現れた。
それはお土産のお菓子なんかが入っているような、蓋付きの金属製の箱だった。表面には赤錆が浮かび、ところどころ凹んでいる。
俺は首を傾げた。
彼女は面倒臭いほど物にこだわるタイプだ。どうせ誰にも見せないような小物入れでさえ、よくわからないオシャレなブランド品を使っている。
そんな彼女がこんな薄汚れた錆だらけの箱を保管している事が、なんだかすごく違和感だった。
「りょうすけー!」
「ん? なに?」
俺は咄嗟に落ちていた服で箱を隠す。
「私、トイレ掃除してくるから、照明とエアコンフィルターの掃除お願い。そしたら、ご飯にしよ」
「ああ、わかった」
彼女はドアを開けーー
「あ、私の物、勝手に見ないでね。恥ずかしいから」
急に立ち止まり、こちらを見ないまま言う。。
「あ、うん」
「お願いね」
彼女は出て行った。そしてトイレのドアの閉まる音がする。
俺は深呼吸をすると、箱にかけていた服を取り除き、指先でその箱に触れてみた。箱は不可解なほどに冷たく、俺は一度手を引っ込めるが、再び両手を伸ばしてその箱を持ち上げてみた。
箱の赤錆はかなり酷く、ざらざらとした触感がして、指先には錆が付着した。重さはそれ程でもない。ティッシュ箱くらいの重さだ。優しく揺すってみると、中でカサカサと乾いた音がした。
箱の中に何が入っているのか見当もつかない。
一度は元の場所に戻そうと思ったものの、好奇心が俺の両手に潜り込み、その自由を奪う。
操られるような感覚で、俺は箱の蓋を掴んだ。
軋みとともに蓋が持ち上がる。
サビの粉がフローリングに落ちる。
箱の中には赤黒く汚れた写真と、男の名前が書かれた何枚もの紙、虫の死骸、何かの動物の骨。そして、カビの混じった枯れ草の臭いが漂っていた。
* * *
「ご飯美味しかったねー」
「そうだね」
「全然減ってないじゃん」
「ちょっと、食欲がなくて」
「ふーん」
彼女は俺の食べかけのハンバーグ弁当をキッチンに持って行って、生ごみが入ったゴミ箱の中に落とした。
俺はそんな彼女の後ろ姿を眺めながら、喉元まで迫り上がってきたハンバーグと白米の混合物を、無理やり飲み込んだ。
先ほど見た箱の中身が、俺の胃をきつく締め上げていた。
ポケットの中に忍ばせた写真が、苦し紛れに姿勢を変える度に、カサカサと動いて存在を主張してくる。それがうざったくてしょうがなかった。
俺は口を開こうとして、止めて、を繰り返した。しかしついに意を決して、紅茶を飲み始めた彼女の顔を伏し目がちに見る。
「なあ、あのさ、ちょっと気になったんだけど」動揺を気取られないよう、俺は深く息を吸った「あの、俺と付き合う前に付き合ってた元彼、いたじゃん。あいつあんなに執着してたのに、急に来なくなっちゃったよな‥‥」
「そだねー」
「なんで、なんだろうな‥‥」
彼女は目を見開いた。
そして、口の端に僅かばかりの笑みを残しながら、ガラス玉のような目を俺の目に合わせた。
その冷たい視線に、背筋が凍りつく。
俺は目を逸らせなかった。
逸らしたら最後、その瞬間に心の中へと忍び込まれ、氷の刃で致命的に傷つけられそうな気がしたからだ。
彼女は俺を見続ける。
瞬きもせず、表情も変えず、じっと。
堪らなくなって、俺は視線を落として俯く。
「えー、そんなの知らないよー」
長い沈黙の後、戯けたような彼女の声が、つむじのあたりから聞こえた「なんで、そんな事気になるの?」
「何でもない」
「なんで?」
「何でも、ない‥‥」
俺は顔を上げることが出来なかった。
彼女がどんな顔で俺を見ているのか、それを想像するだけで、怖くて怖くて堪らなかった。
今ここで、浮気現場を撮ったあの写真を突き付けてはいけない。ましてや、彼女を責め立てて問い詰めるような事など、絶対にしてはいけない。
俺の臆病な本能が、そう告げる。
この世には、関わってはいけない世界がある。
俺はそれを、あの箱の中で見た。
見ない方が良かったって物、ありますよね