74 結ばれた絆
カークモンド公爵クラウスがアルシラに到着したのは、魔女裁判が行われた三日後の午後だった。クラウスの予想に反してアルシラは健在であり、災厄の爪痕は色濃く残っているものの、町は復興に向けて動き出していた。主教門の脇に立つ聖人ルー・ぺエとベルナルド・ヒューズの像も無事だ。
まずクラウスは教団本部を訪ね、状況の説明を求めた。過去、蝕の折に支援をしたこともあり、教団の対応は速やかだった。各機関の首脳たちが出席しての会談が設けられたのだ。クラウスの供する支援の配分を決めるためでもあるだろう。参加しなかったことで配分が回ってこない事態を避けたいのだと思われる。その会談には、教団の会議室が負傷者用に開放されていたこともあり、大聖堂騎士団の円卓の間が使われることとなった。
クラウスは多数の灯りが点された円卓の間に案内され、ぐるりと出席者を見渡した。顔ぶれは、教団側からは主教ギディオン・ブライズと、同じく主教のヴァレイ・ハストン。騎士団からは騎士団長ヘンリー・パーセルと、騎士ダドリー・フラッグ。異端審問院からは審問院長ウォーレス・ペインと審問官ジェイ・リーガンだった。まずは主教ギディオンに事の経緯を説明され、クラウスは一連の表面的な流れを把握した。
「では――我がカークモンド領は、アルシラの復興を支援することを約束しよう。治安維持を助けるため、兵も少し置いていってもいい。騎士団が押さえている娘もこちらが預かろう」
クラウスは、各機関の首脳の顔を眺めやりながら言った。
当然のことながら、円卓の間は響き、困惑と反発の声が上がる。
「お待ちください、公爵閣下」
そんな中、まず声を上げたのは、最高齢と思しき主教ヴァレイだった。彼の嗄れ声が、信じられぬとばかりに言葉を紡ぐ。
「あの娘はウィヒトを降ろした魔女ですぞ。あの魔女によって出た被害は甚大。処刑すべきそのような魔女を預かるとは、一体どういう了見なのです」
「ヴァレイ主教が言われたことは尤もなことですぞ。そもそも、見ず知らずの娘を何故に?」
主教ヴァレイの発言に続き、騎士団長ヘンリーが、その顔を困惑に歪めた。
クラウスは他の者の表情を眺め見る。ヴァレイの隣にいる主教ギディオンを始めとして、おおよその者は困惑しているようだ。騎士団長ヘンリーの隣に座っている豊かな白髭の騎士ダドリーだけは、一歩引いてこの会談自体を静観しているように見える。
そんな彼らに対し、クラウスは片方の口角を上げてみせた。
「おや? 話を聞いたところ、その娘はアルシラにとっての重荷だと思ったのだが、違ったのか? ここに居れば災いの種となろう」
「さればこそ、処刑すべきなのです」
「ほほう。魔女裁判をまたするつもりか?」
ヴァレイの訴えを、クラウスは疑問を呈する形で返した。それを聞いた周囲がたじろぐ。一連の騒動が魔女裁判から始まった事は自明なのだ。また繰り返されない保証はない。特に、こういう時に最も声高に主張する筈の異端審問院の者が躊躇いの表情を見せていることから推察するに、誰も魔女裁判を開きたくはないのだろう。
「或いは、公開せずに殺すのか。それなら、その時にまた災いが起きねば良いのぅ」
「……斯様に危険な娘ゆえ――」
「うむ。だから、私が預かろうかと言っているのだ」
クラウスはヴァレイに対して再度、提案を投げた。しかしすぐさま、別の方向から反論の声が上がる。審問院長ウォーレスだ。円卓について組まれた両手が、忙しなく動いている。
「しかし、それでは公爵閣下の不利益に、」
「ハハハ!」
クラウスはウォーレスが言い切る前に、声を上げて笑い飛ばした。
「既に噂で聞いているかもしれぬが、私は変わったものを集めるのが趣味でな。例えば――我が城にはオーガがいる」
そう言えば、皆が驚いた顔をした。これまで涼しい顔をしていたダドリーの片眉が、僅かに上がる。
「きちんと教え込めば、土木や建築作業に大層頼りになるぞ。それに、ゴブリンにもなかなか料理の上手い奴がいてな」
随分長い間ルクには会っていない。が、ルクならば塔から逃げて何処かで生きているだろう。見つけて連れて帰れば、特に厨房の者たちが喜ぶに違いない。そんなことを考えていると、主教ギディオンが軽く片手を挙げた。
「では、かの魔女はどういった扱い方をするおつもりなのですか? 大人しく暮らせぬのなら……人々に災いを齎すことしかできないのでは?」
「ふむ。それも一つの使い方だな」
クラウスは片手で短く揃えた顎鬚を撫で、考える素振りをしてみせた。
「私に仇なす相手を呪ってくれるのなら、確かに使い出がある」
円卓の間が、僅かに騒めいた。主教たちの顔色が悪くなったように感じるのは気のせいではないだろう。
「……やはり、あの娘は生かし続けるべきではないのでは。悟られずに毒を飲ませたり、眠っているところを仕留めるなり、いくらでも方法はありましょう」
主教ヴァレイが、更に娘の処刑を訴えた。
クラウスは苛立ちを胸に収め切れずに一呼吸する。どうやら多くの者が事態を理解していないようだ。
「今のアルシラを落とすことは容易いぞ」
そう言い放てば、多くの者の表情が強張った。
言葉を詰まらせた主教ヴァレイの隣から、ギディオンが口を開く。
「それは……、貴方がこのアルシラを攻めるという意味でしょうか」
「そうだ。ウィヒトが起こした災厄によってアルシラの護りが弱まっていることは明らか。北の護りに、このアルシラは重要な拠点となる」
これは事実だ。王都エランと和平を結んでいるとはいえ、このアルシラが弱っているとみるや戦争を起こそうとする可能性は高い。おそらくは本物の王都の間者も入り込んでいる筈で、アルシラの現状はエラン王エルドの元へ届くことだろう。その際、王都の攻撃を受ける壁となるのが、このアルシラなのだ。
ギディオンとヴァレイの顔が青褪め、彼らは驚きで二の句を告げられないようだ。そんな彼らとは別方向から、至極冷静な声が発せられた。
「しかし我々が戦争を始めては、それこそ王都エランに我々の隙を見せ、対抗する力を削ぎ合うことにはなりませんか」
その声の主は、狼狽えたような顔をしている審問院長の隣にこれまで黙って控えていた、審問官ジェイのものだった。そこに非難の響きは感じられない。他の者に悟らせようとする誘導にも思われる。それを感じ取ったクラウスは、彼の問いに頷いてみせた。
「その通りだ。だから私もそれは避けたい。であるから、アルシラの復興支援には手を尽くそうと言っている。いつエランが仕掛けてくるか分からぬからな。一刻も早く復興してもらわねば困るのだ」
安堵したような空気が漂う中、クラウスは続けた。
「王都との戦争には力が必要だ。ウィヒトを降ろしたという魔女の力も必要とあらば私は使う。このアルシラをここまで蹂躙した力だ、戦では大いに役に立つだろう。ついでに、脱獄した王都の間者らしき者がいると言ったな? そいつも引き取らせてもらおう。娘のためにウィヒトを剥がすことに協力的であったのなら、そいつは魔女に魅入られているのだろう。ならば、魔女と共に押さえておけば制御は容易い。王都の間者ならば、戦争時に利用できるのでな」
そもそも、この禁忌を定めた大主教の非は、この場では明らかになっている。未だ戻らないためその処遇は決まってはいないが、確実に今の地位は失うだろう。であれば、その元大主教が出した触れによって無闇にこの半島の戦力を削ぐ判断は、愚かでしかない。ここまで言えば、皆も理解できたのだろう。返す言葉もなく黙った主教たちに、他の者たちもそれ以上は反対意見を出さなかった。
斯くして会談は終了し、クラウスは娘とデュークラインの引き取りを承知させたのだった。
翌日の午後、クラウスは従兵を連れて石畳の道を急いでいた。雪でも振りそうな暗い雲が上空を覆っている。手には、先程ダドリー・フラッグから渡された物がある。それを大事に持ちながら、クラウスは昨日の会談後のことを思い起こしていた。
昨日、首脳たちとの会談が終わった後、クラウスは大聖堂騎士ダドリー・フラッグと二人きりで相対したのだ。騎士団の図書室へ誘われ、ここでは盗み聞きされる心配はないと断言されれば、魔女を知っているクラウスとしては興味が湧いた。この騎士も魔術に通じているのかと驚いたが、そういうわけではないらしい。そこでダドリーから、娘とデュークラインを彼の家で保護していることを聞いたのだ。ウィヒトとの戦いの後、動けなくなった二人を纏めて保護してくれたらしい。そうしたのは、娘を救おうとした我が弟子のためでもある、とダドリーは言った。適当な理由を付けて保護したと彼は言ったが、さすがに噂通りのやり手のようだ。
そして今、異端審問院に押収されていたデュークラインの装飾品と剣が、クラウスの手中にあった。あのダドリーが異端審問院にうまく申し入れてくれたお陰だ。どうやら、あの白髭の騎士は、他の者よりもこの事件についての情報を抱えているらしい。
妻であるカリスは、今はダドリーの家に居る。昨夜、ベッドに寝かされていた娘を見るなり、彼女は歓喜と悲哀が入り混じった表情で涙を流した。そこから、カリスの行動は早かった。何故かダドリーの家に居着いていたルクと、連れて来ていた女中頭のトレリスを使いながら、彼女は娘の治療に取り掛かったのだ。娘に使える調合した塗り薬や丸薬を用意してきていたのだろう。具合を聞けば、おそらく大丈夫だという答えが返ってきた。カリスがそう言うならば、そうなのだろうと思う。
大聖堂の丘から少し下った場所にあるダドリーの家に着けば、傭兵だというピンドルが出迎えてくれた。なかなか腕の立ちそうな男だ。
クラウスは連れていた従兵を玄関に留め、ダドリーの家の階段を上がった。娘のいる部屋の扉をノックすると、カリスが出てくる。その彼女に手にしたペンダントを見せれば、彼女の緑の瞳が輝いた。
* * *
デルバート・スペンスはクラウス、カリスと共に、ダドリーの家の一室に来ていた。客室であるこの部屋はそう広くはなく、壁際に質素なベッドが一つ置かれているだけだ。傍の鎧戸はつっかえ棒で僅かに上げられている。そこから入り込む寒気が、どこか重苦しく感じる部屋の空気を少しばかり浄化してくれている。
ベッドに座っている男の顔が上がり、藍色の目と目が合った。自分と同じ顔をした男だ。数か月前、異端審問院の地下牢で初めて会った時よりも、明らかに具合が悪そうに見える。魔導士ウィヒトとの戦いに参加していたらしく、そのための疲労が未だ残っているのだろうか。それにしても、明らかに昨日よりも疲労が色濃い。
「デュークライン」
クラウスの妻であるカリスが、その男をそう呼んだ。それに呼応するように、男――デュークラインの視線が彼女に向けられる。彼にカリスが示したのは、銀製のペンダントだった。渦のような繊細な細工の飾り模様に抱かれているのは、鮮やかな藍晶石のようだ。どこかで見たような気がしながらデュークラインを見れば、それを見た彼の目が驚いたように見開かれている。
「カリス様」
「……お前はよくやってくれた」
そう言ったカリスに対し、デュークラインが何らかの感情を堪えるように僅かに口元を引き結んだ。そうして頭を垂れた彼の首に、カリスの手によってペンダントが掛けられる。どこか儀式めいたその光景に見入っていたデルバートは、片手でペンダントトップを自身の胸元に押し付けたデュークラインの変化に気付いた。大きく呼吸をした彼の顔が、苦悶するように顰められたのだ。
「えっ」
一体どうしたのだ、とデルバートが声を上げた時には、デュークラインの体に明らかな変化が起きていた。蒼白い光を帯び始めた彼の全身が、自分の目がおかしくなったかのように揺らいで見えている。
「やはり限界であったのだな」
呟くように、カリスが言った。
「大丈夫なのか?」
そう言ったクラウスに対し、カリスの口元が少しばかり笑みを形作る。
「私と繋がったことにより、おそらくあの姿に留めていた錠が外れたのでしょう。もう随分と前から、あの姿を維持することは本来であればできなかった筈です。デュークライン自体は、一晩休ませれば大丈夫でしょう」
「そうか。久し振りにみるが――やはり奇妙なものだな」
二人の会話を耳の端で聞きながら、デルバートは目の前で起きていることに驚愕していた。人だった、自分と同じ顔をした男の輪郭が崩れていくのだ。ベッド脇に膝を落として蹲った男の全身に、灰色がかった毛が生え始める。着ていた衣服は内側からの圧力によって割かれるようにして破れていき、驚いている間にそれは人ではなくなっていく。
息を詰めながら見守るうち、デュークラインは灰と白色が混じり合った大きな獣の姿となった。狼のように尻尾は長く垂れているが、野生の狼とは少し顔付きが違う。鎧戸の隙間から差し込む光を受け、その毛色が銀色に美しく輝いた。外で見る一般的な狼や犬よりも随分と大きい。
「――そんな、君は、あの時の――」
デルバートは一歩、その狼犬に近付いていた。そうだ。昔、まだ幼かったフレイと自分を狼たちから護ってくれた狼犬だ――。そうデルバートは確信していた。紫がかった青の瞳は、人であった時――それは自分と同じであった――よりも明るい。そんな狼犬の首には、あの時と同じく藍晶石のペンダントが掛かっている。
「これは、一体どういう……? 説明していただけませんか?」
そう問えば、カリスが分かっていたかのようにデルバートに向き直って微笑した。その表情からは、申し訳なさも見て取れた。
「この十数年、デルバート様には許可を取らぬまま、御姿を写させていただいておりました。この者は、私の僕です」
カリスの告白は、デルバートにとって驚くべきことではあったが、全く予想外のことではなかった。自分のものではない光景を夢に見続けてきた現象が、何らかの魔術的な原因によって引き起こされているのだと考えていたからだ。自分に瓜二つな男を目の前にすれば、これが原因であるのだろうと想像はついた。更に、クラウスに「魔物かもしれない」と言われていたことで、そうなのかもしれないという予想はあった。その話を聞いた時、あの時の狼犬が脳裏に浮かんだことは確かだ。しかし現実に、あの時の狼犬とこうして再会することになろうとは、デルバートは想像もしていなかった。
「ということは、貴女は……」
先の戦争後に始まった魔導士狩りからの生き残り。その事実を、デルバートは皆まで口にせず、驚きを持って受け止めた。カリスは否定しなかった。彼女の後ろにいるクラウスを見れば、彼の静かな視線が自分に向かってきている。
「すまなかったな、デルバート。許可を出したのは俺だ。事情があって、大主教に近付ける駒が欲しかった。それで、行方不明という形になっているお前を利用したのだ」
クラウスがそう言えば、カリスが困ったように微笑みを浮かべた。
「デルバート様。これは私の私怨によるものなのです。巻き込んでしまい、申し訳ございません」
「いいえ、とんでもありません」
デルバートは否定した。少し驚いたような顔をしたカリスに、デルバートは笑いかける。
「彼は私にとっては命の恩人です。いいえ、私たち家族の恩人なのです。彼がいなければ、私と息子は生きていなかったことでしょう」
彼と共に、彼を頼る形でフレイを護りながら狼たちと戦ったことを思い出す。高揚感すら覚える思い出が、鮮やかに蘇る。この場にフレイがいたならば、どれほど喜ぶことだろう。
「ですから、寧ろ感謝しているのです。奥方。お気になさらないでください。結果的に、父母に会う機会もいただきました」
「デルバート様。……ありがとうございます」
驚いた表情を緩め、カリスが優美な笑みを浮かべる。そんな彼女の肩を、クラウスが片手で抱いた。
その時、背中の向こうで小さな音がした。扉の方だ。
振り返れば、そこに一人の娘の姿があった。短い黒髪の少女のような娘が、生成色のローブ姿で、扉に頼るようにして立っている。
「カイ」
彼女を見て驚いた顔をしたカリスだったが、優しげに、娘の名を呼んだ。
娘――カイの美しい造形の顔が、柔らかな笑みを浮かべる。デルバートは暫しそれに見惚れた。彼女が魔女裁判に掛けられ、ウィヒトをその身に降ろしていたのだと聞いている。そして、彼女自身がウィヒトを冥府に送り返したのだとも。しかしそんなことが信じられないほど娘の姿は弱弱しく、その微笑みは儚げだ。
「寝ていなくてはならぬではないか。まだお前の怪我は――」
カリスがそう言っている間にも、カイが頼りない足取りで近付いてくる。そして傍までやって来た彼女に自身の袖を掴まれたことに、デルバートは驚いた。まるで当然のように、真っ直ぐ自分の元へ来たのだ。
「……デューク?」
見上げられ、そう問われた。不思議そうな顔をしている。澄んだ黒曜石のような瞳に吸い込まれそうな心地になりながら、どうしたものかとデルバートは焦った。
「ええと……私は、その」
言い淀むと、すぐにカイの視線が外れた。室内を彷徨った彼女の視線は、そう時を置かず定まる。掴まれていた袖が離された。彼女の視線はベッド脇に座り込み、彼女の方を見ていない狼犬に向けられたのだ。
「デューク……!」
迷いなく狼犬の方に歩いていくと傍に膝をつき、娘がその両腕で狼犬を抱き締めた。包帯が巻かれた、痛々しい細い腕だ。そのまま、彼女が狼犬の胸元に頬を寄せる。そんなカイを見た狼犬の驚きと戸惑いを、デルバートは感じ取っていた。彼はきっとこの娘に正体を明かしていなかったのだろう。それなのに、彼女は彼だと確信しているようだ。
カリスとクラウスを見れば、こちらも驚いている様子だった。カリスの表情は曇っている。
「カイ、デュークラインはここには……」
「デュークでしょ?」
カリスが何を言っているのか分からないように、カイが狼犬に抱き付いたまま小首を傾げた。そんなカイを宥めるように、カリスが眉を僅かに顰めながら笑む。狼犬はカイを慰めるかのように彼女の頬に鼻先を寄せたが、カリスに対して何かを訴える様子もなく大人しい。
デルバートはそんな彼らの様子を眺めながら、今、何か問題が起きている最中なのかもしれないことに気付いた。デュークラインに関することならば、自分にも関わりがある可能性が高い。
「あの……、彼はまた人に戻れるのですよね?」
少し小声で、デルバートは湧いた疑問をカリスに問い掛けた。カイの様子を見るに、随分とデュークラインに懐いているようだ。姿形が変わっても分かるほどに。いや、彼がそうだと分かるのは、彼女のウィヒトを降ろすほどの何らかの――通常から逸脱した――特性に因るものなのだろう。
夢に見ていた時の娘の顔を思い出し、デルバートは二人の関係に思いを馳せた。夢でこちらを見つめていた思慕を宿した瞳は、彼女がデュークラインに向けていたものだったのだ。
「……いいえ。姿写しの術は既に切れておりますので」
「ふぅむ。あの時に同時に切れたのか。それでは、あいつはあのままなのか? 他の姿に化けられたりは?」
カリスの答えに先に反応したのは、クラウスだった。
それに対し、カリスが少し困ったように首を左右に振った。
「元々、人に変化できる能力はないのです。彼の役目は終わりましたし、何よりあれをもう一度施すにはデルバート様のご協力がなければ……」
二人の会話を前にして、デルバートは片手を挙手していた。自分でも驚くほどに、迷わなかった。驚きを露わにしたカリスの視線を、受け止める。
「私は構いませんよ」
また夢を見ることになるのだろうが、この娘を寂しがらせるのは忍びない。そうデルバートは思った。初めて直接顔を合わせたが、夢で見ていた分、初対面には感じない。全くの赤の他人でもない。叔父の娘ならば、カイは従妹なのだ。叔父に虐げられてきた従妹のためならば、多少の不都合は構わない。寧ろ、今まで夢で見ていたにも関わらず叔父からの虐待から助けてやれず、今回も彼女の大切な、そして自分にとっても恩のあるデュークラインを命の危機に晒したことへの償いになるのなら、望むところだ。
「本当によろしいのですか?」
確認するように言ったカリスに、デルバートは明確に頷いてみせた。狼犬の方に視線をやれば、カイも狼犬もこちらを見上げている。不安げなカイの眼差しに、デルバートは優しく笑んでみせた。
* * *
「カイは遠くに行っちゃうのかぁー」
残念そうに声を上げ、タオが青い空を見上げた。それに釣られ、エリュースも空を仰ぐ。今日は風が強く、流れる雲も早く見える。傍を流れる細い滝の音が、耳に心地良く響いている。大聖堂の丘から少し下った位置にあるこの場所は、人の行き来が少なく休憩するには丁度良い。ガーゴイルや暴徒からの被害が少なかった場所でもある。
「仕方ないさ」
エリュースはタオの言ったことに対して、納得していた。
ウィヒトは消え去ったが、アルシラの民にとってはカイは危険な魔女のままだ。断罪の広場にいた者たちはカイの姿を覚えているだろうし、噂も広まっている。あの後速やかにダドリーが保護してくれたお陰で、カイは被害を受けた者たちからの憎悪をぶつけられずに済んだ。自然と、魔女は死んだという噂も流れている。いや、もしかしたらダドリーが噂を流させたのかもしれない。
大主教について「わたしにできることがあるなら、言って」そうカイは言っていたが、カイを一刻も早く安全な自領に連れていきたいカリスの考えは当然のことだろう。
「二度と会えないってわけじゃない。確かに前より遠いけど、あの公爵閣下がカイを保護してくれるんなら安心だ。デュークラインも元気になってたしな」
先程、ダドリーの家でカイたちに会ってきた。先ほど家に送り届けたサイルーシュも一緒にだ。顔色の良くなったデュークラインの傍にいるカイの落ち着いた笑顔が、何よりも嬉しかった。衣服で隠された左腕の大火傷や、断罪の広場で傷付けられた体は未だ痛みがある筈だ。それでも、カイがカイのままで、生きていてくれることに感謝する。デュークラインも、カリスとの魔力の絆が戻った様子だった。彼も無事で良かったと思う。彼の存在がカイの笑顔に繋がるのなら、彼には生きてカイの傍にいる義務すらあると、エリュースは独り頷いた。彼はカリスの使い魔だが、少なくとも自分より、カイのことを第一に考えてきた男だ。
「うん」
タオも分かってはいるのか、素直に頷いた。
「そうだ、ハンさんたちも無事だったみたいだね。良かったよ」
「ああ、そうだな」
タオの言うように、ウィヒトによって翼廊の天井を落とされ生き埋めにされたと思っていたジェイとハンは生きていた。ハンの創った石巨人が二人を護ったのだ。彼ら――ジェイがすぐにカイたちに接触できない状況だったからこそ、ダドリーの独断でカイとデュークラインを保護してしまえたのだ。
未だ大主教は戻ってきていないようだが、戻ってきたとしても審問にかけられ大主教の座は確実に追われるだろう。となれば、次の大主教は今の枢機卿たちの中から選ばれることになる。教団の上層部は暫く慌ただしく動くのだろう。まだ今回の騒動の後処理も終わっていないのだ。
「……母さんには、黙っていようかなと思うんだ」
ぽつり、とタオが言った。
「母さんはカイのことを覚えていないしね。会えば思い出すのかもしれないけど、思い出させるのも、ちょっと怖いんだ。情けないことに」
少し自嘲気味に笑ったタオに、エリュースは頷きを返してやった。
身内であるタオが自身で考えて出した答えだ。
「いいんじゃねぇか? ロイさんはロイさんの新しい人生を生きているんだ。あのカリス様がカイの母親代わりになるって言ってたし」
カイも新しい道を歩み始めたのだ。カイがカリスを「お母さま」と呼んだ時に見たカリスの表情には、何ともいえぬ嬉しさが滲み出ていたように思う。そんなカリスを見たカイも幸せそうに微笑っていた。あの二人が母娘としてうまくいくなら、きっと、その方が良い。
「うん。カイにも、落ち着くまでは待とうかなって」
安堵したように、タオが笑った。
「カイが落ち着いた頃に会いにいきたいなぁ。遊びに来ていいってクラウス様が言ってくれてたしさ。カークモンド公爵領まで半月あれば行けるかな?」
「片道な。それに、ルゥがまた連れてけって言うぞ」
カイに再会したサイルーシュは、感極まったようにカイに抱き付き、暫く泣き止まなかった。手紙を書く約束をしていたようだが、行くとなったらどうあっても行くと言うだろう。
「ハハ、そうだね。そもそも、師匠の許可が下りないだろうけど。あー、それは俺もかな」
「そうだなぁ……。まぁ、そのうちに行けるさ」
今回のことで、タオは大聖堂騎士になれる未来を断たれた。サイラスの後を継ぐのは、先任従士のトバイアになるだろう。その時、タオがトバイアの従士になることはない。サイラスとの師弟関係も、そこで終わる。そうなれば、タオは従士の身分を失う。それはそう遠くない未来かもしれない。その時、自分はどうしているだろう? そう考え、エリュースは「なるようになるか」と今は深く考えることを止めた。
「そういえば、スバルさんあれから見た?」
「いいや。でもあいつなら、その内ふらっと現れるだろ」
サイラスたちの注意を引いている間に、スバルはいつの間にか消えていた。だが近い内に、また会うような気はしている。
「さて、と。ちょっと付き合えよ、タオ。カイの新しい門出に乾杯だ」
ずっと閉じ込められてきたカイの、そして予言に脅かされてきたアルシラの再生の始まりだ。ウィスプの森で初めて出逢った時のカイを思い出しながら、あれから随分と無茶をしたと感慨深く思う。反省点もあれど、結果には概ね満足している。
「勿論! さてはエルも寂しいんだね?」
「そりゃそうさ」
大切な娘の笑顔を、大事に胸に仕舞う。
再び広い空を見上げ、エリュースはカイの新しい人生に幸多からんことを祈った。
* * *
――それから二月後のある夜。
カークモンド公爵領の城の裏手にある森に、デュークラインはカリスに呼び出されて向かっていた。ナキサ領での仕事を与えられ、暫くの間、この城から離れていたのだ。中庭に出てきていたルクに聞けば、森の中に離れが建てられているらしい。警備の強化に伴い建てられたのだろう――そう思いながら、フードを深く被り、人目を避けながらデュークラインは森へと入った。
城の裏手から森の中へと小道が造られているが、一見、中に建物があるとは分からない。開けた場所に出れば、そこが目当ての場所だと分かった。中庭のような開けた空間の奥に、小さな建物が見える。その前に、ランタンを手にしたシアンが立っている。
デュークラインは、あのノイエン公爵領の森の中を思い出していた。あの場所と異なり広い湖は傍にはないが、小川が近くを流れているのか、微かなせせらぎが聞こえている。どこか懐かしさを感じる空間だ。
中庭に足を踏み出した時、ふいに薄暗闇にいくつもの明かりが灯った。ランタンのそれとは違う眩い光の粉を纏ったそれらは、小妖精たちだ。確か、十数年前はこの森に小妖精はいなかった筈だ。しかし現実に彼らは我が物顔で浮遊している。何かを高い声で囁き合っているが、いつもながら何を言っているのかは分からない。
そんな中を小さな建物へと近付けば、シアンが笑みと共に穏やかな声で「お待ちですよ」と告げた。
木製の扉をノックし、許可を得たデュークラインは中へと足を踏み入れた。意外にも広い室内は奥に暖炉の炎が見え、良い塩梅に暖かい。右側に更に部屋があり、そこにはベッドや家具も置かれているようだ。
「来たか」
暖炉の傍の長椅子に腰掛けているカリスに、デュークラインは軽く頭を下げた。彼女の隣にいるのは、城の主であるクラウスだ。暖炉を挟んだ向かいには、カイもいる。久し振りに見る姿だ。背凭れのある椅子に腰掛けており、嬉しげな笑顔を向けてくれる。体の具合は悪くなさそうに見え、デュークラインは安堵した。
どこか見慣れない気がするのは、カイの衣服が聖職者のローブではなく、貴族の娘らしいものだからなのだろう。コット(縦長のチュニック)よりも裾が長く広がりのある白いコタルディドレスの襟元はカイの傷付いた肌が隠れるよう調整されているようで、上半身のタイトなベストの緑が鮮やかにカイを彩っている。その姿に暫し見蕩れてしまっていたデュークラインは、この場にいる者を確認してから、深く被っていたフードを後ろへ下ろした。
「なかなかの出来だろう? デュークライン。お前にこの森の監視を任せたいと思ってな。それにここなら、おおっぴらに歩けぬお前でも過ごせるだろう。カイが行き来しても安全だしな」
そうクラウスに言われ、デュークラインは答えに詰まった。ここでカイに会っても良いと、そう言われたのだと理解するまでに少しの時を要した。カリスの顔を見れば、いつもの涼しげな表情ながら頷きを得る。デュークラインは驚きをもって主人の意向を受け止めた。
デュークラインの役目は、大主教の甥であるデルバートのふりをしながら、幽閉されたカイを監視し、生かすことだった。それはウィヒトが復活し、消滅したことで終わっている。カイとあの塔での日々のように過ごすことはもう二度とないのだと、そう思っていたのだ。
奇跡的にペンダントが戻り、再びカリスと繋がった時、デルバートの姿を保てずに手放す他なかった。姿写しの魔術が切れていたことはその前から実感しており、ペンダントを受け取ればそうなることは予測していた。そしてそうなれば、再度人の姿になるのは無理だろうと思っていた。だから、デュークラインはあのまま衰弱して死んだのだと、カイに納得させるしかないと思っていたのだ。カリスもそのつもりだったのだと思う。たとえ自分だと認識されずとも、カイの今後を少し離れて見守ることができればいい――そう思っていたのだ。
あの翌日、再びデルバートの姿をこの身に写し、この両腕でカイを抱き締めたことを思い出す。この胸の中で微笑むカイがどうしようもなく愛おしかった。カリスやクラウスたちがその場にいることも忘れてしまっていたことは、今更ながらの失態だ。クラウスには揶揄われ、カリスには呆れたような溜息を吐かれた。それがまさか、こんな形で許されるとは、思いも寄らないことだった。
「カイのためだ、仕方あるまい。お前もこの十年、よく働いてくれた」
カリスからの労いの言葉に、デュークラインは二人に深く頭を下げた。
これ以上の褒美はない。そう思う。
「感謝、いたします」
カイは既に話を聞いていたのだろう。驚いた様子は見られない。
カリスの後ろに控えているシアンも、嬉しそうに笑みを浮かべている。
「さて。もう一つだ」
そう言ったカリスが、改まるようにしてカイの方を見た。そんなカリスを、カイが不思議そうに見返す。
「代わりと言ってはなんだが、お前に一つ頼みたいことがあるのだ」
「はい」
「デュークラインのことなのだがな……」
素直に頷いたカイに、カリスが続けた。
名前を出されたことに戸惑うが、デュークラインは黙ってカリスの言葉を待った。
「私の魔導士としての力は戻ったが、未だに私の中の魔力は完全には戻っていない」
「それは……お母さまの持つ魔力が、少なくなっているということ?」
「その通りだ。この数か月で実感を得ておる」
言葉にした内容に反して穏やかに笑みを浮かべたカリスが、続ける。
「これは今後戻るかどうかは分からぬ。戻らぬやもしれぬ。だから今の私では、デュークラインを使役し続けておけぬのだ。姿写しを重ねているために、通常よりも重くてな。使役するだけなら問題ないが、他の魔術を使うにあたり、デュークラインに割かねばならぬ魔力が重荷となる」
「……じゃあ、また、デュークは――」
驚いた顔をしたカイの眉が顰められ、瞳が悲しげに揺らいだ。デュークラインも驚きはしたが、最期の時をカイと過ごせるよう取り計らってくれたことは破格の待遇だと思った。指輪を外されることに異存などある筈もない。ただ、この森の監視は、そう長くはできないだろう。
カリスが立ち上がり、悲しむカイの傍に腰を落とした。ドレスの裾が床に広がり、その優美な動きの片手が、カイの少し伸びた髪を優しげに撫でる。
「だから、お前にデュークラインを任せたい」
「――え?」
俯き気味に泣きそうになっていたカイが、顔を上げた。潤んだ目が大きく見開かれている。
「今の私よりも、お前の方が内なる魔力は大きい。デュークライン一人使役したところで、何ら影響はあるまい」
カリスの言葉に、デュークラインはまたも驚かされていた。確かに、カイの中の魔力は強大だ。主人ではない状態で与えられたカイの魔力のお陰で生き存え、更にカイはその身にウィヒトを降ろして無事でいる。強大な魔法を使うには、個人の持つ魔力に加え、マヴロスから引き出す魔力が必須とされる。魔導士の身にそれだけ多くの魔力を受け入れるだけの器が必要とされるのだ。ウィヒトに乗り移られ魔法を使っていたカイは、魔力も、受け入れる器も大きいのだろう。使い魔の移譲ができるのは、そこに主であるカリスの意志があるからだと思われる。
カイは暫く逡巡する様子をみせた。それをカリスは急かさずに待っている。
ややあって上がったカイの真っ直ぐな視線を、デュークラインは受け止めた。
「デューク。デュークは、わたしで、いい?」
その震える声には、カイの懸念が込められていた。デュークラインには、それが分かった。あの時――塔で「誰かと結婚なんかしないで」と言われた時、カイは「そんなに長くないと思うの」と言ったのだ。
「カイ」
デュークラインは前へと踏み出していた。カイの前に片膝をつき、カリスから藍晶石の指輪を受け取る。そうして、デュークラインはカイに左掌を差し出した。
「手を」
いつもカイにしていたように促せば、条件反射のように、掌にカイの左手が重ねられる。それを、デュークラインはやんわりと捕らえた。
「デューク?」
濡れた黒曜石のような瞳を視線で捉まえ、デュークラインは宣言する。
「私はお前を主とし、この命尽きるまで、お前と共にあろう」
微かに震える細い左手薬指に、デュークラインは指輪を嵌めた。途端、まるで指輪が生き物のように、カイの指に絡み付く。藍晶石が淡い光を帯びたことに呼応して、衣服の下の肌に触れているペンダントが仄かに温かさを帯びた。魔力の糸が、繋がったのだ。
「意外に強引な奴だ」
愉快そうに、クラウスが笑っている。そんなクラウスに、カリスが半ば呆れ、半ば安堵したように同意した。
「さて、用事は済んだ。私たちはそろそろ戻るが……、カイ。今夜はここで過ごすとよい。朝の食事はルクに運ばせる故、明日の昼頃、私の部屋においで」
「は、はい! お母さま」
慌てたように返事をしたカイが、カリスとクラウス、そしてシアンが出ていくのを硬直したまま見送っている。二人きりになれば、暖炉の薪が時折爆ぜる音だけが響く静かな空間となった。
「カイ」
名を呼べば、カイの視線が戻ってくる。掴んだままだった左手の甲に唇を押し付ければ、カイの手がびくりと震えた。そのまま見上げれば、カイの頬が鮮やかに染まる。
「私を感じるか?」
「うん。デューク……、わたし、頑張って長生きするから」
「ああ、……そうしてくれ」
思いも寄らぬ宣言に、デュークラインは込み上げた思いを噛み締めながら、笑みと共に答えた。常に死を見つめていたようなこの娘からこんな言葉が聞けるとは、なんと喜ばしいことだろう。
この心は既に決まっている。もう二度と、この指輪を主人に抜き取らせるつもりなどないし、抜き取るつもりもない。この娘の所有物となったことに、この胸は歓喜に震えているのだ。
温かい頬に触れ、その形良い唇に口付ける。
「おいで、カイ。――私の女主人」
立ち上がってそう促せば、熱を帯びた声で「デューク」と名を呼ばれた。この娘に自分の名を口にされるだけで、体中が幸福感で満たされる。
潤んだ瞳のまま手を伸ばし、素直に身を寄せてきたカイを、デュークラインはその両腕で大切に抱き上げた。




