72 光の中へ
エリュースたちが大聖堂に突入する前から、大聖堂の鐘楼には人影があった。ウィヒトに兎を核として作られた、使い魔スバルだ。いや、最早、主との絆が切れた逸れ者故、使い魔と呼ぶのも似つかわしくないのかもしれない。
そのスバルは、鐘の傍で松明を掲げていた。時報を告げるその鐘は、大人が両手で輪を作って抱えるほどの径がある。高さは大人の掌三つ分ほどで、大人の頭よりやや低いくらいの位置で吊り下げられている。音を鳴らすには、近くに下げられている木槌を使い、叩くのだ。
だがスバルは木槌を手にせず、松明を鐘の傍へと近付けながら待っていた。時折、松明を下げると、鐘の中へと頭を突っ込み、空いている方の手でそれを確認する。しかし、まだ足りないと分かると、外で立ち、また松明を近付ける。スバルは鐘を温めていたのだ。
「しっかりくっついてくれたのは良かったけどさぁ、剥がすのにこんなに手間がかかるなんて思わなかったよ」
スバルは辺りに松明を固定させられるものがないかと探すが、鐘を鳴らすだけの場所である鐘楼に、そんな都合の良い物など存在しない。溜息を吐いて諦めると、スバルは松明を持つ手を替えるだけで我慢した。
「ウィヒト様が気を逸らされている間にやっておきたいんだけどなぁ。早くしないと囮が全滅しちゃうよ。……まあ、それだったらそれで仕方ないんだけど」
そのまま暫く佇み、また頭を鐘の中に入れて状態を確認する。今度はいけそうな気がした。
スバルは松明を柱に設えられている松明受けへと差し込み、両手を自由にした。その片手で鐘の縁を持ち、もう片方の手でそれを剥がしにかかる。細く非力に見えるが、その実は魔物の端くれだ。外道の生き方をして力が弱まったとはいえ、普通の人間よりずっと力がある。問題があるとすれば、年代物のそれが壊れてしまいかねないということだった。
慎重に力を込めると、少しそれが浮いた。一度動き出すと、後は早い。ほどなく、スバルは乾いた音と共に剥がれた物を鐘の外へと持ち出していた。
それは小さな刃物だった。小さいと言っても武器としてだ。刃は一掌分ほどの長さがある。まだ刃物には固まった膠の残骸が付いていた。スバルはそれを、木槌を使って落とし始める。それだけではうまくいかなかったため、また松明を使って膠を柔らかくし、作業を進めた。
この膠の接着剤は焦げやすいため、見ながら火加減を調節する必要があった。下手をして焦がせば、余計に固定されてしまいかねなかった。だから、面倒でも鐘の内側にある間は、直火では温められなかったのだ。
この小剣を鐘の内側に貼り付けたのはスバル自身だった。一番良いのは肌身離さず持ち歩くことだったのだが、それができなかったため、ここに一旦隠しておいたのだ。鐘の裏にそんな物があるとは誰も思わない、という読み通り、それは今まで誰にも見つからなかった。一方で、そこに隠せていることは、時報の鐘の音を聞けば窺い知れた。異物が加わったことで、音がほんの少し変わっていたのだ。これも、いつもの鐘の音が変わっているとは普通は気付かないもので、調べられることもなかった。
「よーし。こいつが評判どおりの逸品かどうか、試す機会がやって来たな」
スバルは小剣を手元で回転させながら投げ上げ、落ちてきたところを掴み取る。他の者が見れば危険な遊びだったし、見る者によれば顔が青くなる行為だろう。しかしスバルにとっては、古くて小汚い小剣だった。
「もし伝説が嘘っぱちだったら……まあ、その時は死ぬ時か。やるだけやったんだから、いいよね」
スバルは刀身を見つめると、にっこりと笑いかけた。それから小剣を腰のベルトに差し込む。
「まずは景気づけに叩いておこうっと」
スバルは木槌を持ち上げると、鐘を鳴らした。そして、すぐに後悔した。当然ながら、鐘の音は近い方が大きくなる。耳の良いスバルにとって、それは苦痛に達したのだ。両手で耳を塞ぎ、振動が過ぎるのをひたすら待つ。
「ううーん、失敗失敗。やっぱり何かする時にはしっかり考えないと駄目だなぁ。まぁ、それがなかなかできないから苦労するんだけどさ。えーと次は、っと。……ああ、次も大仕事だなぁ。これ、成功するのかな?」
スバルは、鐘楼の隅に置いていた物を拾い上げた。長く太めのロープだ。ロープの端には、いつだが港でくすねた大きな三つ足の鉤が付いている。
スバルは輪の束にしたロープを肩に通して担ぎ上げると、鐘楼から身を乗り出し、屋根へと出た。冷たい風に吹きつけられながら辺りを見渡せば、アルシラの町が一望できる。尖塔よりは低いが、大聖堂よりも高い位置にいるのだ。
スバルはそのまま端へと歩いていき、ロープの大部分を屋根の上に下ろした。そして端の鉤がついた手前辺りを片手に持ち、ぐるぐると回し始める。当然、鐘楼には当たらないようにしているため、スバルの立っている位置は危うかった。姿勢を崩せば真っ逆さまに落ちてしまうだろう。
「えいっ!」
スバルはロープの付いた鉤を投げた。鉤は大聖堂のステンドグラス上部の屋根に当たり、跳ね返って落ちる。慌ててスバルは長く伸びていっていたロープを掴み止めた。
「ま、最初からうまくいくわけないよね。……に、しても、手繰り寄せるのも大変だなぁ。……こりゃ、間に合わないかもな。うん、多分、間に合わないねぇ」
そんなスバルの無責任な独り言を聞いている者は、誰一人、居なかった。
* * *
そして、次の瞬間――、奇跡が起きた。その奇跡は突然に空から降ってきたのだ。
何かがステンドクラスを割って中に飛び込んできた。それは大きすぎた。エリュースはそれが人ではないか、と思ったが、すぐに却下した。こんなふうに人が飛びこんでくる筈などなかったからだ。
「ひょぇええ~~~」
が、人としか思えない叫び声にエリュースの考えは砕かれる。
「スバルさん!?」
声からいち早く答えを口にしたのはタオだった。
予想もしない、天井にまで届くステンドグラスを突き破って登場したスバルは、悲鳴を上げながらも空中で何やら藻掻いている。その軌跡を予測したエリュースは、俄かに期待を上げた。スバルは宙に静止しているウィヒトに向かっていたのだ。
しかし期待したのも束の間、二つの物体は接触することなく交差した。派手な墜落音を立て、スバルが床を転がりながら入口の方へと遠ざかっていく。
「お、おい! 大丈夫か!?」
さすがに心配になり、エリュースはスバルの方へと駆け出した。その途中、ウィヒトから動かないよう警告されていたのを思い出したが、その時にはもう動き出した後だった。対処されなかった、ということは、さすがに今回の異常事態は見逃してくれるのだろう。
「いてててぇー」
そう言いながら、スバルがふらつきながらも立ち上がる。立ち上がってくるだけで、エリュースには驚異だった。あの落下速度を見れば、死んでいてもおかしくないと思ったからだ。
「横にブラーンといけば少しはましかなぁと思ったけど、これじゃ落ちたのと変わらないよぉ。死ぬかと思った」
ぼやいているスバルの左腕は、奇妙に捻じ曲がっている。骨が折れているのだ。痛みから失神していてもおかしくない大怪我なのだが、スバルの調子はいつもと殆ど変わりがない。場違いな奴だという評価は変わらないが、この調子を崩さない精神は尊敬すべきものだとエリュースは思った。
「いてぇ、じゃねえだろう! 癒してやるから腕を貸せ!」
傍に駆け寄って怒鳴ると、スバルが曲がっていない方の手を軽く挙げた。
「ありがとう。でも、ちょっと待って」
スバルが、右手で左腕の捻じ曲がった箇所を握った。そして、力を込めるように目を閉じる。さすがに、スバルの顔にも苦痛と見られる皴が寄った。しかし普通は骨の位置を戻す整復を自力でできやしない。
「――ふぅ。これでいいかな。曲がったまま治されたら、コップから水を飲む時に間違って零しちゃうかもしれないからさ」
軽く言うスバルとは違い、エリュースは真顔にさせられていた。事実、この正しい骨の位置については、治療の技でも重要な点だったからだ。傷を塞ぎ、骨を繋ぎ合わせることができても、その中が正しく戻せていなければ、後遺症が残ってしまう。所詮、アスプロ神の力を少し借りているだけの人間の限界がそこにあった。
「本当に大丈夫か? 真っ直ぐに継げていなかったら――」
「ヘーキヘーキ。僕の場合、腕なんてあってないようなものだから――じゃなくて、あってないようなものだけど、あるようなものだから。とりあえず、動かせるようになったらそれでいいよ」
全く言い分は分からなかったが、大怪我をしている者を放ってはおけず、エリュースは癒しの技を発動した。持ち歩いている小瓶から聖水を振りかけ、体の治癒力に沿う形で、あちこちにできている擦り傷も塞ぐよう働きかける。その途中、エリュースは違和感に気付いた。しかし一度始めた技を中断することは、魔力を浪費するだけでなく、術者と被術者の双方にとって危険だ。エリュースは動揺を表に出さずに続けた。それに、この感覚は初めてではなかった。そして初めてでなかったからこそ、新たな見解が湧いてくる。
「おぉ、力が戻るのが分かるよ、すごいねぇ」
「スバル、お前……」
エリュースがスバルを見つめて語り掛けると、スバルの目がすっと細くなった。その奥には怪しい光が宿る。殺気か、と息を詰めれば、「あれれ、気づいちゃったか――」と、スバルの目がいつものように開かれ、口元には笑みが浮かんだ。
「――でも、その前に」
スバルが指差した先は、振り返らずとも分かる。まだ、危険極まりないウィヒトが存在しているのだ。
「……スバル、貴様、何をした……」
意外なことに、ウィヒトがスバルに話しかけた。しかも、その声は苦しげだ。既に魔力を大量に放出し、心身ともに負荷が大きかったのは間違いないが、先程まではそれを上回る執念が燃え盛っていた。しかし今はそれすら感じられなくなるほどウィヒトが急激に弱っているのが、声だけでも分かる。
「おお、効いたんだ。意外」
スバルはウィヒトの問いを無視する形で両手を自分の顎の下で合わせると、独り言のように言った。
「何が、だよ」
ウィヒトを無視していることに若干の怯えを感じながら、エリュースはスバルの脇を突いた。スバルの軽口に巻き込まれて魔法を叩き込まれたくはない。
「ん? あれ」
スバルがエリュースにちらりと顔を向けた後、ウィヒトを指差した。それを追い、ウィヒトを振り返ったエリュースはウィヒトの異変に気付く。ウィヒトの左肩から何かが突き出している――いや、違う。小剣が、ウィヒトの左肩に刺さっているのだ。いつの間にか。
「あれは?」
「ぺエの小剣」
あっさり答えられたが、予想もしていなかった言葉に、その単語はエリュースの思考の表層を一旦滑り過ぎた。頭の中でもう一度反芻してから、ギョッとしてエリュースはスバルに振り返り、半歩身を引いて彼を見つめる。
「ぺエの小剣って、まさか聖人ぺエの聖遺物か?……じゃあ、あの時の騒動は――!」
エリュースは絶句した。衛兵たちは財布を探していたのではない。小剣が偽物にすり替わったことに気付き、本物のぺエの小剣を探していたのだろう。そして結局見つけられず、教団はその事実を隠蔽したのだ。
スバルが、悪戯がばれた子供――しかも反省していない――のように肩を竦め、小さく舌を出した。
「こんな時のために、隠しておいたんだよね」
「隠して、じゃねえだろ! お前は――」
「だって、貸してって言っても貸してもらえないでしょ!」
場違いな問答の最中も、魔を払うと言われているぺエの小剣はウィヒトに効いていたようだ。視界の端で揺れたようなウィヒトを見れば、その姿勢が揺らいでいる。
「ま、魔力が失われる……」
ふらついていたウィヒトが、ふいに落下した。
「カイ!!」
ふらつき始めていた頃から心配して近づいていたのだろう、タオがいち早く駆け、デュークラインもほぼ同時に駆け出していた。
* * *
ウィヒトは闇の中を落ちていた。気を失っているのだという認識があった。
子供の頃、初めてマヴロスへの門を開き、強大な魔力に晒された時にも、ウィヒトは似た経験をしていた。体の感覚がなくなり、意識だけが漂う感覚だ。
あの時は成功したのだろうか。それとも失敗したのだったか。記憶が曖昧だ。全てが溶けていき、残っていた意識さえも薄くなっていく。しかし、ウィヒトはそこで留まった。その瞬間は留まらなくてはならない理由すらも薄れて認識できていなかったが、留まらなくてはならないという使命感だけは残っていたのだ。
足場ができると、漠然としていた認識力が広がっていく。
ウィヒトは、暗闇の中に立っていた。その場所をウィヒトは知っていた。カイの記憶にあった場所だったからだ。
娘の体を乗っ取る際にカイを押し退ける過程で、ウィヒトはカイの記憶を得ていた。それまでには、予言によって繋がった娘にはウィヒトの記憶の一部分が流入していた。そうしながら、ウィヒトは娘が自分を呼ぶ時を、今か今かと待ち侘びていたのだ。ウィヒト自身の記憶の中にある牢へとカイを繋いだのは、外部からの呼び掛けにカイが応じられなくするためだった。しかし意外にもカイは強情だった。その身を捕らえられながらも、彼らを殺さないでくれと訴え続けた。少しでもこの憎悪が揺らげば、カイの持つ感情に引きずられ、体の所有権を失う危険性があったのだ。
ウィヒトは、時折水の滴る音のする牢内を見回した。消えそうな松明が一つ、苔生した壁に掛けられている。狭い牢内の奥には、囚人を繋いでおくための足枷が転がっている。ここはカイが幽閉されていた、塔の地下牢だ。
カイが内なる魔力を暴走させ祖父母を殺した後、カイは異端審問官に連れていかれ処刑される筈だった。しかし、何者かに異端審問官は殺され、カイはその何者かによってメルヴィンの元へ連れていかれた。この事件は、今も殆どの者が真実を知らないだろう。カイ自身は幼く理解力に欠けていたため、それが大主教メルヴィンであることが分からなかった。しかしウィヒトはカイの記憶を通じ、推測によりメルヴィンの悪事を認識していた。
カイをこの塔の地下牢に幽閉するよう息子に指示したのは、メルヴィンだ。自分を非道な方法で陥れたあの男であるから、その意図はカイを護るためではなかっただろう。カイの記憶にある母親らしき女と何らかの関係があったに違いない。このウィヒトが遺した予言を考慮した部分が皆無だったとは思わないが、自らの地位を脅かす証拠を隠すためというのが、一番の理由だったのだと思う。セリュエスを殺し、罪無き同胞たちを葬った後も、あの男は変わらず自らの欲望を通すために他人を犠牲にし、それを何とも思っていないのだ。
カイの記憶にある地下牢での生活は、酷いものだった。定期的に食べ物を投げ入れられるだけの扱い。汚物と孤独に塗れ、生きる希望を持たなかった穴倉暮らしだ。地上に上がってからは僅かながらましな生活になったが、メルヴィンからの虐待から護られることはなかった。
「やはり、現れたか」
ゆらりと揺らめきながら視界に現れた娘に、ウィヒトは声を掛けた。暗闇の中、娘の姿は仄かな光を帯びている。こちらが気を失っている間に戒めを破ったのだろう。
「我がここに落ちたのも一時的なものだ。我に敵うとは考えない方が良いぞ、カイ」
「分かっています」
汚れのない白いローブを纏っているカイの視線が、僅かに自身の後方へと向けられた。
「わたしじゃ、あなたに敵わない。だから……」
そう言ったカイの後ろに、誰かが揺らめきながら現れた。若い女だ。カイの記憶にいた誰かだということは分かるが、カイと分離された今、ウィヒトにとっては良く知らない女だった。
「援軍を呼んだというわけか? 誰だ?」
「この人は、わたしを、止めてくれた人。伯母様の妹です」
カイが伯母様と呼ぶカリスは、ウィヒトもカイの記憶から覚えていた。カイを地下牢から解放したデュークラインを操る魔女だ。カイはカリスに感謝と敬意を向けているようだが、ウィヒトにすれば、カイを利用しようとしている油断ならない相手だった。
「ふん。カリスの妹がどうした。そのような知らぬ女の言葉など我には届かぬぞ」
「だから――」
カイが話している間に、カリスの妹という女の姿が揺らぎ始める。カイにとっても馴染みの薄い女のため、安定していないのだろう。
「――呼んできてもらったの」
気付けば、カリスの妹が別の女の姿に変わっていた。滑らかな長い黒髪。ルーネニラの花弁のような紫色の優しい眼差し。それは、ずっとずっと、ウィヒトが求めていた姿だった。
「まさか、お前は……」
発した声が意図せず震えた。
ウィヒトはその女が誰であるかをすぐに理解した。理解しつつも、驚きから、呑み込むことができない。
「ウィヒト」
囁きかけられるような、懐かしい声が聞こえた。カイがその女に道を譲ると、女が前に出る。そのまま、ゆっくりと近付いてくる。
「まさか、そんな筈は……。いや、そんなことが」
動揺しながらも、ウィヒトは迎えるように前に足を踏み出していた。目の前で女が立ち止まり、見上げられる。見下ろした女の澄んだ眼差しは、記憶にあるそのものだ。両手に温もりが訪れ、それにより、両手が自身の体の前で彷徨っていたのだと知る。その両手が、嫋やかな両掌に柔らかく包み込まれている。
「――ああ、ああ、セリュエス……!」
ウィヒトはその温かさを一旦外すと、その両腕でセリュエスを強く抱き締めた。途端に湧き上がる熱い感情が、頭の芯を揺らがせる。この命のために全てを捨てたのだ。そして復讐のためにこの想いを否定した。それなのに、求めていた温もりが、今、この腕の中にある。再び感じられるとは想像もしていなかった愛おしい温もりだ。会いたかった、という思いが今更ながら胸に湧き上がり、それが叶えられているという現実に、胸の奥が震える。
「ウィヒト、私のためにありがとう。でも、もういいのよ」
「いや、駄目だ……! お前を、我を裏切ったあの男を許すわけにはいかぬ!」
愛しい者を抱き締めながら、ウィヒトは首を左右に振った。この何より大切な温もりを、メルヴィンは奪ったのだ。
「……メルヴィンは悪い人。でも、だからといって、他の人を巻き込んで良いわけではないでしょう?」
「先に巻き込んだのは奴だ! 仕掛けたのは奴なのだ! 蝕を! 蝕を起こさねば、お前の命をと……!」
「その時には、もう私は死んでいたのよ」
セリュエスの言葉に、ウィヒトは彼女を抱き締めたまま項垂れた。メルヴィンにその事実を知らされた処刑前夜、どれほどあの男を殺してやりたかったことだろう。しかしその時には、蝕に膨大な魔力を投じた後だった。たかが壁一枚隔てた場所に立つメルヴィンを殺す術すら、持たなかったのだ。
「……分かっている。そうであろうとは薄々分かっていた。だが、それでも我は、お前が生きているという希望に縋りたかったのだ。だから――」
ウィヒトは、自分の頬を伝う涙を自覚していた。枯れ果てたと思っていた、止めどなく流れるそれが、燃えるように熱い。あやすようにセリュエスに背を撫でられ、ウィヒトは彼女の優しさに痛みを感じていた。この手で結果的に同胞たちを死に至らしめた事実に、ずっとこの胸の内で後悔と懺悔を繰り返してきたのだ。
「分かっているわ。でも、それは間違いだったの。間違っていることを続けるのは良くないわ。そうでしょう?」
「セリュエス」
ウィヒトは抱擁を解き、息を整え、セリュエスを見下ろした。
セリュエスの言うことは理解できる。蝕を起こしたことは、間違いだったと思う。それでも、容認できないことはある。
「メルヴィンの悪事は消えぬ。奴は今でも権力の座に座り、のうのうと生きているのだ。それは裁かねばならない」
「ウィヒト。それをするのは私たちの仕事ではないわ」
セリュエスが、カイを振り返った。
視線を受けたカイの目に、僅かな驚きが浮かぶ。ウィヒトもセリュエスの言うことが分からなかった。世間を知らぬ非力なこの娘に、時の大主教を裁くことなどできる筈がない。そうウィヒトは思ったが、意外にも、カイはセリュエスの言葉を否定しなかった。
「お前に、それができると言うのか?」
そう問えば、カイの視線が明確に向けられた。
「……分かりません。でも、頑張ってみます」
カイが発した言葉に、ウィヒトはカイを睨みつけた。世間を知らぬ故、大主教が何たるかも理解していないような娘だ。それが、現時点でのウィヒトのカイへの評価だった。
「友達と一緒に」
「……友達、だと?」
ウィヒトの脳裏に、メルヴィンが思い浮かぶ。すぐにそれを消し去ったものの、真っ先にそれが浮かんだことに、強い苛立ちが生まれた。
「我らはその友だと思った者に裏切られたのだ!」
感情のまま言葉をぶつければ、怯えたようにカイの視線が下がった。友に裏切られた経験などない娘に、自分の無念が分かる筈がないのだ。
セリュエスに、宥めるように手を添えられた。握り締めていた片手が優しい温もりに包まれ、ウィヒトは深い溜息を吐き出す。カイが憎いわけではない。こうしてセリュエスと再び会わせてくれたことには、感謝している。ただ、カイに任せても良いと、自分で納得を得たいのだ。
ややあって、カイの落ちていた視線が上がった。その自分と同じ闇色の双眼は、真っ直ぐにウィヒトに向かってきている。その表情は彼女なりの答えを見つけたもののように思われた。
「わたしは……友達を信じたい。もし、あなたの言うように、裏切られたとしても……ずっと独りでいるよりはいいから」
ウィヒトは、カイの言葉に強い衝撃を覚えた。
生前であれば、「独りでいるよりはいい」という意見を、ウィヒトは見下げていただろう。男に暴力を振るわれても離れられずにいる女、女に財力を奪われても離れられない男、仲間外れになりたくないからと友人に本意とは逆に同調する子供。いずれも、自分の力の無さを棚に上げた行動だ。そうなるよりは、自分が強くあるべきだ、とウィヒトはそう思っていた。
しかしメルヴィンに嵌められたのは、ウィヒトが自分の力を過信した結果でもあった。世の中が否と突きつけてきても、それを撥ね除ける力が自分にあると、ウィヒトは信じて疑わなかったのだ。メルヴィンの存在も、個として尊重するより、自分に付随する存在と過少評価しすぎたために、足元を掬われた。また、他人を頼る力があれば、セリュエスを囮にされ、自身が囚われることもなかっただろう。今から思えば、第三者の目があれば分かる、見え透いた罠だったからだ。
それに、カイの言う「ずっと独り」という状態は過酷だった。恋人がいない寂しさ、仲間外れになる恐怖、を遥かに凌ぐ孤独だ。人としてさえ、扱ってもらえずにいたのだ。カイは絶望の味を知っている。その者が言う、「独りよりいい」という言葉には痛いほどの重みがあった。たとえ裏切られても、裏切られる環境だという喜びすら、この娘は感じるのかもしれない。そしてそんな環境下で生きてきた娘が、形のない友情を信じようとしている。その姿勢は哀しくも眩しくすら感じられた。
確かに、この娘には自分にはない力がある。ウィヒトはそれを認めざるを得なかった。こうして話ができていることも、カイの心が強い証拠だ。それに、愛しい者を胸に抱いた今、メルヴィンへの復讐心は、この喜びに満たされた気持ちには及ばなかった。もしかすると、カイがセリュエスを呼び寄せられたのは、友を信じる強い気持ちがあればこそなのかもしれない。ならば、ウィヒトにはもうカイを押し退ける理由はなかった。
娘を呼ぶ声が、遠くから聞こえた。カイもそれに気付いたようで、顔を上げる。その表情に、滲むような微笑みが生まれた。その頬に、細く涙が伝う。
「呼ばれているのは我ではなく、お前の方だな。……行くがよい」
「カイ、戻るのよ」
カイに微笑みかけるセリュエスの肩を、ウィヒトは片手で抱いた。
しかし当の娘は、戸惑ったように立ち尽くしている。
「どうした?」
「でも、わたしはここから……」
「ああ、」
ウィヒトはカイの戸惑いを理解した。カイはこの地下牢から出る方法が分からないのだろう。カイは清く強い心の持ち主ではあるが、奥底には深い闇を抱えている。少し接しただけの者ならば、この娘の闇は見えないだろう。だがウィヒトにはよく分かった。出入口が見当たらないこの空間が、それを物語っている。
「この暗い牢を作っているのは我ではない。お前の心だ。お前が友の元へ踏み出せば、ここから出られるだろう」
「出られる……」
そう言いながら、カイの表情が明るさを帯びた。が、ふと、それに不安が混ざる。そのカイの心境をウィヒトは推量し、さもありなん、と思った。この娘は世間知らず故、友に裏切られるかもしれないという疑念すら、言われるまで抱いたことがなかったのだろう。更には自分の意思ではなく人を傷付けて殺める光景を、この娘は観ていたのだ。戻った娘は友の庇護を受けられるだろうか? そう考え、おそらく大丈夫だろうと判断する。このウィヒトにたった三人で挑んできたあの者たちならば、きっとこの娘を護ることだろう。「信じている」ではなく「信じたい」と言ったカイの気持ちを、ウィヒトは後押ししてやりたい気持ちになった。
「……カイ。友を持てば、裏切られるかもしれぬ。こちらが裏切ってしまうかもしれぬ。それに比べれば、独りでいる方がよいと思う時もあるだろう。だがお前なら、大丈夫だな。究極の孤独を知るお前なら、真に友の価値を理解できる。あとは、踏み出す勇気を持つだけだ」
つい、子供に言い聞かせるように言ってしまったが、カイは素直な様子で聞いている。ふとスバルの言っていたことが思い出され、ウィヒトは改めてカイを見つめた。スバルの言うように、本当にカイは自分とセリュエスの子供の魂を持っているのかもしれない。それはカイの過酷な人生を思えば哀れだったが、その中であっても友を得て前に進もうとしている健気な姿には感嘆を覚える。
「大切な人が待っているんでしょう? カイ」
セリュエスの言葉が、最後の一押しになったようだ。
カイが微笑みと共に頷く。
「はい」
その涙が浮かんだ笑みには、愛おしい者を想う気持ちが窺い知れた。
暗い牢内が徐々に明るくなっていく。その光の中心にいるのはカイだ。目が合い、微笑んでくれた気がする。そのままカイの姿は光に溶け込んでいく。
「――さらばだ、娘よ。これまで済まなかった。……ありがとう」
ウィヒトはセリュエスと共にそれを見守りながら、光満ちた世界に目を閉じた。
* * *
「カイ!」
落ちてきたウィヒト=カイを、タオが受け止めることに成功した。仰向けに倒れ、カイに潰される形になったが、体重が軽かったため衝撃は少なかったようだ。タオがすぐにカイを抱え直し、彼自身の体に上体を預ける形を取った。小剣が左肩に刺さったままの状態だからだ。
「カイ……!」
デュークラインはその傍に立ち、タオが呼びかけるようにカイへと呼びかけた。しかし、カイの目は閉じられたまま、反応がない。
タオがいなければ、デュークラインはカイを刺し殺していたかもしれなかった。ウィヒトに乗っ取られたままだったなら、今こそが倒す絶好の機会だからだ。自分が災厄と化すならば殺して欲しい。他の誰でもなくこの手で――それがカイの望みだった。それを果たせば、もう自分の生きている意味もない。
しかしタオはおそらく、ウィヒトかもしれない娘をカイだと信じ切っているのだろう。思い返せば、ウィヒトに乗っ取られた時もずっとタオは「カイはカイだ」と考えていたようだ。そんなタオをデュークラインは単純すぎると評価したが、一方で、そこまで信じ切れることに敬意を抱いてもいた。
エリュースとスバルも傍にやってきた。エリュースはさすがにデュークラインの懸念に気付いている様子で、カイの様子を注視しているようだ。そしてカイを揺さぶろうとしたタオに注意をし、カイの首元で脈を取り、小さく頷いた。
その時、ぴくりとカイの瞼が動いた。デュークラインは緊張を強め、借り物の剣の柄を握る。もしウィヒトとして目覚めた場合は、魔法を使われる前にその胸を刺さなくてはならない。
「カイ、聞こえる? 目を覚まして!」
激しく揺さぶるのは良くない、とエリュースに注意を受けてから、タオはそれに従っていた。が、反応が出たため、また彼が軽く揺さぶる。すると、カイが急に深く息を吸って体を震わせ――、ゆっくりと目を開けた。
「カイ! 良かった……!」
改めて抱え直すようにして、タオがカイを抱き締めた。そのせいでカイの胸元は隠れてしまったが、魔術の行使を妨げる結果を生んでいた。その状況を未だ警戒を解かずに見ていたデュークラインは、ぼんやりとした様子のカイに呼びかける。
「カイ、なのか?」
そう問えば、カイの長い睫毛が震え、視線がこちらを向いた。目が合い、そして、その顔が柔らかな笑みを形作る。もう二度と目にできないだろうと思っていた微笑みだ。
「デューク」
少し掠れた、小さな声だった。だがそれで充分だった。
デュークラインは全身から力が抜けたことを自覚した。剣柄を握る手指が緩んだだけでなく、膝にも力が入らなくなり、そのまま膝をついてしまう。自然と涙が込み上げて溢れ、堪え切れなかった嗚咽が漏れた。
「ごめんなさい、デューク……」
カイの右腕が伸びてきて、濡れた頬にそっと触れられる。その頼りない手を捕らえ、デュークラインは自身の頬に押し付けた。何を謝るのだ、と思う。カイが謝ることなど何もない。
「良かった……、お前が無事で、良かった……っ」
カイの中で一体何が起きたのかは分からない。それでも、こうしてカイが戻ったことは紛うことなき現実だ。カイがカイとして、生きている。その奇跡を噛み締める。
「カイ、おかえり」
エリュースの声で顔を上げれば、タオもエリュースも涙ぐんでいた。そんな彼らに、カイが微笑みと共に視線を向ける。
「あの人は行ったよ。セリュエスと一緒に」
「それは……」
「話したの。あの人と」
カイのたどたどしい話を、エリュースとタオが真剣に聴き入っている。スバルは別の方向を見ながらも、黙って聞いているようだ。タオはウィヒトが恋人と再び出会えたことに、「良かった」と安堵したようだった。つい先ほどまで敵であった相手にすら素直にそう思えるタオにデュークラインは共感できなかったが、カイの穏やかな表情を見れば、ほんの少しはそう思えた。
大主教については、おそらく異端審問院や大聖堂騎士団が動くだろう。そうなっては、教団本部も動かざるを得まい。
話を聞き終えたエリュースが、カイに笑みを向けた。迷いのない、頼もしさを感じる笑みだ。出会った頃よりも、大人びたような気がする。
「そうだな。カイは独りじゃない、俺たちがいる」
「うん」
エリュースに釣られるようにして、カイの笑みが深まった。その潤んだ瞳から、涙が零れる。
「ありがとう、エル。タオも、スバルも……、また、みんなに会えて、嬉しい」
堰を切ったように泣き出したカイに、胸元の衣服を軽く掴まれる。デュークラインはタオを促し、震えるカイの体を慎重に抱き寄せた。カイの重みを感じ、この腕の中に戻ってきた喜びで、胸が張り裂けそうに震える。
「デュークも……、ありがとう」
「……ああ」
デュークラインは、この奇跡に心の底から感謝した。咽び泣くカイの頭を撫で、胸元に凭れ掛けさせながら宥める。再びこうしてカイの温もりを感じることができるなど、自身で信じられてはいなかったのかもしれない。それでも確かに、愛おしい娘の温もりが、この腕の中にある。それは言葉にできないほどの、かけがえのない、自らの心そのものだ。
弱弱しい体を優しく抱き締めながら、デュークラインはカイの怪我の重さに意識を向けた。左肩には小剣が突き刺さり、左腕は大火傷を負っている。胸元も血は止まっているものの、昨日に奇跡の光を当てられたため傷付いており、同じく断罪の広場で異端審問官に乱暴されていたため、打撲などの怪我もあるだろう。食事も取れていない筈だ。カイが痛がる素振りをあまり見せないのは常時のことで、こちらが本人以上に気を付けていなければならない。もうこれ以上の痛みを、カイに与えたくはないと、強く思う。
こんな時は痛烈に、カイに付与された焼印が憎らしい。これさえ無ければ、今すぐエリュースに傷を癒してもらえるのだ。エリュースもそれを分かっているのだろう、歯痒そうに、カイの怪我の具合を診てくれている。
「小剣を抜くにはそれなりに準備した方がいい。止血のための薬草は教団に常備されている筈だし、清潔な布も要る」
「――頼む。エリュース」
デュークラインはエリュースに頭を下げた。まだ、カイの生命が保証されたわけではない。この場を乗り切るにはエリュースの力が必要だということを、デュークラインは理解していた。そしてこの場を乗り切ったとしても、カイの処刑は免れない可能性が高い。会議でダドリーは処刑回避の可能性も示唆してくれたが、他の機関が許す筈もない。そうであるならば、これ以上、それに抗うことはできないだろう。だがもう二度と、カイを離しはしない。
「とりあえず、俺はちょっと表の様子を見てくるよ」
「ああ」
エリュースが腰を上げ、デュークラインは彼を見上げて頷いた。
* * *
エリュースは立ち上がり、タオの肩を叩いた。
「おい、ちょっと話がある」
そう言うと、タオは素直に立ち上がった。涙を拭き、カイたちから離れるように歩き出したエリュースに付いて来る。
「本当に良かったね。カイが戻ってきて」
「ああ、そうだな」
未だ涙声のタオが背中から話しかけてきたため、本心でそう思うエリュースも頷いた。
「で、話って何?」
しかし、次に発せられた無邪気な台詞に、エリュースは呆れて振り返る。
「話って、お前なあ!」
皆まで言わず、エリュースは横目でカイたちに目を向けた。割れたステンドグラスからの穏やかな光に包み込まれている二人の姿は、まるで神に祝福されているかのようだ。デュークラインはカイの怪我を気遣いながらも、しっかりと彼女を抱き締めている。カイは少し落ち着いたのか微笑みが見られ、デュークラインを見る横顔には確かな思慕が感じられた。それを、良かった、と満足そうに見つめているタオを隣に見て、エリュースは説明する気を失くす。そもそも、気を利かせてやる、という発想がある者ならば、「話って何?」などとは聞いてこないだろう。
「うん。本当に良かったよね……。で、何なの?」
「はいはい、話ね!」
少しエリュースが自棄になっていると、傍にやってきたスバルが軽く笑った。
「僕の正体について、なんかどう? 自分から話す気はないけど、君の推理を聞いてあげるよ?」
「え? 正体って?」
そう言われ、タオが驚いた声を上げた。
「……もしかして、スバルさん。どこかの国の騎士とかなんですか?」
そんなわけないだろう、とエリュースが呆れていると、スバルが意味深な顔をして考えるふりをする。
「うーん……外れ! まあ、僕から気品が溢れているっていうのはなかなか鋭いと思うけれど――」
スバルの軽い口調に、エリュースの緊張はどんどん解けて――というよりも、崩れていった。ある種、スバルはウィヒトより危険な存在かもしれない、と思う。
その時、入り口の方が騒がしくなった。
「おい、大丈夫か!」
振り返れば、サイラスを筆頭に騎士団と衛兵団の面々が入ってくるところだった。隊列を見る限り中を警戒していたようだが、「終わった」と一目で分かったらしい。
「師匠! ご無事で何よりです!」
タオが顔を輝かせて言い、サイラスの元へと駆けていく。そんなタオを足を止めて見送りながら、エリュースは後ろの二人をどう護ろうかと思考し始めていた。異端審問院に引き渡されることだけは絶対に回避しなければならない。できれば、安全な場所に隔離しながら治療をしたい。となれば、やはりダドリーの力が必要だ。
「ねえねえ、天才くん」
二人になると、スバルの軽薄そうな雰囲気が消し飛んだ。正体を掴みかけているエリュースには、素に近い対応をしてくれるようだ。
「頼みがあるんだけど」
「何だ?」
エリュースはスバルの顔を見ずに答えた。少し前、垣間見た殺気は怖ろしかった。またあんな目をされていたら嫌だ、という思いから、エリュースはそちらを見るつもりはなかった。大仕事を終えた後で、あんなものに直面したい気分ではない。
「騎士たちの注意を引いてくれないかなー。なんか、捕まって色々聞かれたら面倒臭いからさぁ」
しかし、スバルの頼みは納得できるものだった。
そういうことかと分かると、エリュースは小さく笑い、スバルへと顔を向けた。ぺエの小剣のことが知られると、確かに厳しい尋問が待っているだろう。たとえ結果的に今回の功労者の一人だとしてもだ。
「ああ、いいぜ。なんだかんだ言っても助けてくれたからな。恩返しだ」
「あー、それについては、多少の誤解があるかもね。だって……」
何か言いかけたスバルが言葉を呑み込んだように口を閉じ、そっぽを向いた。そんなあからさまな態度に騙されるエリュースではない。
「だって?」
聞き返せば、スバルが視線を逸らしたまま、へらりと笑う。
「えーと、口にするのが憚れる事情というか、寧ろ恨みを買って殺されかねない事情とか、色々あって。結果的に、うまくいったかなーって感じだからぁ」
色々隠し事があるのは分かっていたが、その隠し事はかなり悪そうな事らしい。
エリュースは眉を顰めた。が、問い質す前に、サイラスから声を掛けられる。
「エリュース! 一体どういう事なんだ。ウィヒトはどうなった? 説明してくれ!」
「はい! 今行きます!」
タオは決して愚鈍ではないが、他人に物事を説明するのは下手だ。そこを理解しようと努力するよりエリュースに聞いた方が早い、という判断は、サイラスならではだと身内のエリュースは思う。
「ま、今のところは水に流してやる。注意も引いてやるから、後は勝手にしろ」
「はいはーい」
スバルが片手を自分の上に立てる妙な敬礼のような仕草で、陽気に答えた。




