71 届かぬ声
突入した大聖堂内は暗かった。未だ日は昇ったばかりだ。大聖堂前の広場が薄暗かったのだから、建物の中が暗いのは当然といえた。高い位置にある窓からは寧ろ大聖堂前広場よりも日が差し込んでいるが、未だ弱い。内陣奥の天井にまで届くステンドグラス越しの彩りのある明かりが、ぼんやりと闇を照らしているに過ぎなかった。
半ば反射的に光の奇跡を示そうかと思ったエリュースだったが、その手を握り締めて一旦止まる。聖堂で光の奇跡を示すのは、主席司祭あるいはその代理の役目なのだ。特権とさえ言って良い。このアスプロス大聖堂では、無論、その役目は大主教になる。その役目を助祭にもなっていない一介の見習いごときが手を出す事実に、さすがのエリュースも引け目を感じたのだ。
勿論、今は大主教としての変装をしているのは分かっている。しかし、町中ではそれらしい格好をしただけで、自分からは大主教とは言わなかった。一方的な言い訳になるが、周りが勝手に勘違いし、それを修正しなかっただけだ。しかし、光の奇跡は明確な嘘となる。
躊躇いは束の間だった。嘘をついたところで傷付くのは自分の心だけだ。もしかするとアスプロ神から不遜な輩だと呪いを落とされるかもしれないが、それも自分だけの責任だ。
エリュースは常に腰に下げて持ち歩いている袋に手を突っ込んで砂を掴むと、祈天の神聖語を唱えた。それから、手の中の砂を高く投げ上げる。光の軌跡を残して飛んだ砂は天井へ至る前に弾けるようにして広がり、周囲を照らす眩いほどの明かりとなった。
前方右にいるタオが息を呑んだのが分かった。おそらく、エリュースが少し考えた越権行為に気付いたのだろう。ただし、タオはそれを「悪い」と思わず、ただ幼馴染のことを「本物の大主教様みたいだ」と思っただけだろうと思う。
前方左にいるデュークラインは、そんな思索より、明るくなった大聖堂の中で大事なものを探しているようだった。彼が顔を向けている先に、それはあった。奥の内陣だ。ステンドグラスの手前には鷺が彫られた台座に乗ったアスプロ――白いローブを羽織った長い髪の麗人――の像があり、その前にカイの姿がある。
ふらりと椅子から立ち上がったばかりのカイの姿をした魔導士ウィヒトが、確かにこちらを見ている。傍目にも衰弱は明らかだった。頬はこけ目は落ち窪んでいる。眠れていない可能性は高い。しかし、瞳は炎が宿っているかのようにギラギラと輝いている。その炎はおそらく復讐の炎だ。身を焦がし、自らを蝕む厄介な炎だ。
「ウィヒト! 来てやったぞ!」
機先を取ろうとエリュースは呼び掛けた。声で直ちにばれては意味はないが、フードは目深に被っている。大主教本人に声を似せるのは難しいため単純に低い声を出して誤魔化したが、町ではなんとかなったという仄かな自信がエリュースにはあった。
「これはこれは……」
カイの姿を借りたウィヒトが、片腕を払うように伸ばすと、膝を軽く折った。まるで恭しくお辞儀をしているようだが、角度は浅い。口調と合わせて、印象は真逆にふざけているようだ。そう受け取ったことが間違いではなかったと、すぐに分かる。
「大主教……エリュース」
タオがハッと息を呑んでこちらを見た。すぐにばれるとは思わなかったのだろう。エリュースはその可能性も想定していたが、さすがに動揺は大きかった。故に、タオに構っている余裕はなかった。
「ちっ、ばれちまったか」
エリュースは潔くフードを後ろへ下ろした。こうなっては、もう開き直るしかない。
「声と背格好は違うからな」
フードを被って顔を隠しても、歩き方や姿勢などに人の特徴は表れる。だが、もしそれで見破ったなら、ウィヒトの中にカイが未だいる可能性があった。ウィヒトはエリュースの名を口にしたのだ。少なくとも、その知識はカイのものを使っていることになる。ウィヒトはエリュースが生まれる前に死んでいるため、生前のウィヒトが直接エリュースを知っている筈がない。
「それもあるが、私にとって彼奴は大主教などではない」
吐き捨てるように言われた内容に、エリュースは衝撃を受けた。今度の動揺は隠しきれず、表情に出ただろう。
考えてみれば当たり前のことだった。ウィヒトが処刑された頃、現在の大主教であるメルヴィン・クィーダは未だ大主教になっていなかったのだ。いや、正確には重なる部分もあったのかもしれない。しかし、メルヴィンに嵌められたと考えているウィヒトにとって、メルヴィンの出世は受け入れられないものだっただろうし、死ぬ前に少しだけ見られたかもしれない大主教の格好が、メルヴィンの姿としてウィヒトの中に残っていなくても不思議ではない。確か、調べたところウィヒトとメルヴィンは昔馴染みの間柄だった筈なので、寧ろ質素な服装をしたメルヴィンこそが、ウィヒトの中で一番印象に残っている姿なのかもしれない。
それなのに大主教の姿で出ていけば、まずウィヒトが違和感を抱き、そこから偽者だとばれる可能性が高かったのだ。この過ちは、アルシラの町で大主教の変装が上手く功を奏したせいでもあった。成功したから次もいけるかもしれないと深く考えずに実行してしまったのだ。大主教の姿が適していないという事実は、おそらくダドリーも思い至っていなかっただろうが、彼は今回の作戦の全体について考えていた。気付かなくても仕方がなかっただろう。しかし、この場を担当するエリュースは気付いておくべき問題点だった。迂闊な失敗だった、と思う。
だが、今は自分を引っ叩いている場合ではない。額に手を当て、束の間反省した後、エリュースは頭を切り替えた。
そもそも、大主教の姿を取ったのは相手の隙を突くためだった。そのまま近付ければ良いが、おそらくウィヒトは裏切者のメルヴィンを自らの手で葬ろうとするだろう。そこでエリュースが正体を晒せば、その動揺からウィヒトの中に囚われているカイが表に出てくる機会を作れるかもしれない。そう、エリュースは考えていた。
もし、カイがウィヒトに押さえ込まれているとして、本当にウィヒトを打ち破って体の支配権を取り戻すことなどできるのだろうか――。エリュースにとってはその点が気懸かりだった。この懸念点をエリュースは事前にダドリーに相談していた。
「――勿論、その可能性はある」
暗い部屋でダドリーが答えた。翌朝の決戦の根本が、そもそも可能性が低いと他の者に知られれば、士気に影響するだろう。エリュースは誰にも聞かれない場所と時間を選び、ダドリーに問うていた。
「現時点で最も勝算の高い手だと儂は考えておる」
エリュースとは違い、ダドリーの答えに迷いはなかった。それだけで不安の雲は霧散したが、当然根拠まで聞きたくなる。それを促さなくても、エリュースの性分を知っているダドリーが話を続けてくれた。
「儂は戦場でのウィヒトを知っておるが、その力量を考えるに現在のアルシラには彼奴を倒せる者はおらぬ。戦地であれば、気付かれぬよう忍び寄り背後から刺し殺す暗殺もできたろうが、今や大聖堂に籠り警戒態勢にあるのでは、それも無理であろう。となれば、まず候補として考えられるのは物量」
その対策はエリュースも知っていた。魔導士は単発の破壊力に秀でているが、持続性に劣る。
「しかし、謂わば魔界から復活した彼奴は、寧ろ生前の彼奴より魔力が増大している可能性がある。魔導士たちが門と呼ぶ、異界からの魔力の流入経路がまだ開いている可能性があるからだ。これについては、召喚士のハンにも聞いて、そうであろうという見解を得ておる。そうなると、現戦力を全て投入したところで、彼奴が息切れするかどうかは分からぬ。至らぬ可能性も大きかろう」
「では……」
エリュースは先回りして至った答えを口に出そうとして止めた。「最も勝算が高い」という見かけは、他の方法が低すぎるだけで、そのものの可能性も実は低い、という事実だ。
フフフ、とダドリーが可笑しげに笑った。口に出さぬ言葉を読み取られた上で、未だ短慮だと思われたのだろう。
「いや、勝算はあるぞ、エリュース。随分とな。魔人と化したウィヒトは恐ろしい敵だ。魔導士としては生前より手強いかもしれぬのう。しかし、最強の魔導士がその心まで強いとは限らぬ」
「……心、ですか?」
「左様。あの娘の体に本来あるべき娘――確かカイという名だったな? そのカイの心が、今、ウィヒトに押さえ付けられているのであれば、カイがウィヒトを打ち破るのが最も勝算の高い手であろう。ウィヒトの魔法も、自身の心の中の支配権を決める戦いにおいては役に立つまい。かような特殊な状況の魔術など開発されておらぬだろうからな。心の戦いならば、カイの心の方がウィヒトのそれより力強い見込みは大きい」
そう言われ、エリュースは考え込んだ。
記憶の中のカイは、涙に濡れた瞳をしている。それに、儚げな笑顔が重なる。
「ですが……、先の戦いの英雄たるウィヒトに比べて、カイは世間知らずの純粋な娘です。俺には、師匠のようには思えません」
「違うぞ、エリュース。お前の見ておるのは、個人につけた他人の評価でしかない。心の内がどうであるかは、簡単に外からは窺えぬものだ。確かに、世間を知らぬ者は心の内が狭く脆くなりがちだ。だが今回の心の戦いは、おそらく心の芯の強さに依るものになるだろう。お前は世間を知らぬ娘と断じたが、聞いた話ではその娘は塔で大主教に虐待を受けていたというではないか」
「はい」
そうだ。カイはあの森の中の塔で、父親である大主教から酷い虐待を受けていた。誰からも庇われることなく。
「それでいて心が歪まずに育っているのなら、心の芯は相当強い。勿論、そうならぬよう他の者が気を遣った結果なのであろうがな。それでも本人の持って生まれた性質は大きいぞ。断罪の広場でも、お前やタオを攻撃しかねなかったウィヒトを心の内でカイが止めさせた。そうであろう?」
「はい。そう見えました」
「うむ。友の存在が、カイをより強くしたのだろう。翻ってウィヒトは、勿論強靭な精神の持ち主だと思われるが、最終的には魔神マヴロスに魂を売り渡した男だ。一度折れてしまった心は脆い。儂はそう思うぞ」
そう言ってダドリーは、優しげな笑みを浮かべたのだった。
今では、エリュースもダドリーと意見を同じにしている。未だウィヒトの中にカイがいる可能性が高いと分かった以上、勝算はまだある。近付くことも、ウィヒトの隙を突いてカイを援護することにも失敗したが、まだ戦いはこれからだ。それに、エリュースが正体を晒す暇さえ与えられずに一瞬で殺される危険も去ったのだ。悪い事ばかりでもない。
「……では、メルヴィンは来ぬ。そういうことか?」
ウィヒトがエリュースの変装をそう解釈し、苛立った声を返した時には、もうエリュースの揺らぎかけた決意は力を取り戻していた。
「なあ、ウィヒトさん。俺たちは大主教が――メルヴィンが世間で思われているほどの聖人でないことは知っている。あんたが『嵌められた』と主張しても、他の皆は『戯言だ』『呪いの言葉だ』と騒ぐだけだろうが、俺たちは信じる。信じられる。メルヴィン・クィーダは最低で酷い奴だ」
言い切りながら、これを司祭たちに聞かれたら一発で破門だろうな、とエリュースは思った。大主教の名を呼び捨てにしただけでなく、最低な奴呼ばわりしたのだ。しかし、これはエリュースの本心だった。
「ならば、貴様らがメルヴィンを連れてきてくれるのか?」
「いや、違う」
答えた瞬間、ウィヒトが片手を振り、何かが吹き飛んだ。音がした方へ目を向けると、何かの残骸が目に入る。
大聖堂内には前方の一角に幾つかの長椅子が置かれている筈だった。所謂、貴賓席というものだ。教団としては、建前上は年寄りや妊婦など保護すべき対象のために用意した席だが、寄付を多くしてくれる金持ちやその家族たちが優先されて座っていることが多い。その席列があるべき場所に無くなっており、破損したそれらは壁際近くへと寄せられている。おそらく、ウィヒトの魔術によるものなのだろう。今の物音も、同じように衝撃波で何か小さめの物を吹き飛ばしたのだ。
よく見ると、近くには出入り口の扉の残骸も落ちている。他の荒れた部分は昨日行われた衛兵団の突撃を撃退した跡なのだろう。そこかしこに、血の跡と思われる染みも残っている。そこで、エリュースは気付いた。そういえば、大聖堂内には死体がないのだ。翼廊は魔術で破壊し、そこからは踏み込まれなかったとしても、正面入口からは突入された筈なのだ。全員がここから逃げ出せたわけでも、仲間が死体を回収できたわけでもないだろう。しかし現実に、死体はない。少なくとも、外に漂っていた腐臭はましになっている。
エリュースはそこから導き出した答えに、胸元を押さえて吐き気を堪えた。ここに入ってくる際、扉の吹き飛ばされていた辺りに血溜まりができていたのだ。おそらく、中で殺された衛兵たちの死体は腐臭が気になるからか、ウィヒトが入り口まで追いやったのだろう。それを、あの四枚羽のガーゴイルが回収して……食べた。その食べ残しを小魔物たちに与えていたのだ。
「ならば何をしに来た。まさかメルヴィンの身代わりにでもなるつもりか?」
「まさか、あんな奴の身代わりなんか御免だね」
「……無駄話をしに来たのであれば立ち去れ。命があるうちにな」
招かれざる客だと思われているのは態度で分かったが、すぐに実力行使されないあたり、やはりカイの意向が残っている。そうエリュースは確信した。
「それも断る。俺たちは、カイを取り戻しに来たんだ」
「無駄だ。復讐が果たされぬなら、猶更」
「そっちは俺たちが引き継いでやる。権力の階段なんか上るつもりはなかったが、メルヴィンを引きずり下ろすためなら仕方ない。必ず、あいつに報いを受けさせてやる。あんたの汚名も雪いでやる。それで――」
「生ぬるい!」
また、激しい音を立てて何かが壁に叩き付けられた。
「我は彼奴の命を今すぐにでも奪い取る。それを邪魔するのであれば、貴様らも敵と見做す」
ウィヒトの眼差しに敵意が宿った。交渉は決裂だ。
「負けちゃ駄目だ! カイ!」
エリュースの攻めが効いていないと見限ったのか、それとも待てなくなったのか、これまで黙っていたタオが声を発した。ウィヒトに近付こうとすることは我慢しているようだ。剣を持った手も、持っていない手も、強く握り締められている。
そんなタオの呼び掛けに連携するように、デュークラインが一歩、ウィヒトに近付いた。
「カイ! 私が見えているか!? 私の声が聞こえているか!? 私はこうして生きている!」
デュークラインの剣を持っていない方の手が、ウィヒトを宿したカイに伸べられた。
「そこに居るなら、戻ってくるんだ! 返事をしてくれ、カイ……!」
カイに呼び掛けるデュークラインの言葉は、必死の懇願だった。その奥に窺える彼の決意に、エリュースは固唾を呑んでウィヒトの様子を見守る。しかし、ウィヒトは眉一つ動かさなかった。
「無駄だと言っておる……!」
ウィヒトが両腕をこちらへ向けた。途端、烈風に襲われる。タオとデュークラインはぐっと構えるだけで堪えたようだが、衣が重くそれに引っ張られたエリュースは後ろへよろめいた。それでヒヤリとしたエリュースは、思わず挑発的な言葉を吐いてしまう。
「カイ! そんなウジウジした男は張り倒して、とっとと出て来い!」
「黙れ!!」
今度は烈風では済まなかった。衝撃波をまともに受け、エリュースは今度こそ吹き飛ばされた。床に背中から体を打ち付ける。
「エル!」
心配してそう叫んだタオより、デュークラインが駆け寄ってくれる方が早かった。体を起こそうとするエリュースに、片手を伸ばしてくれる。エリュースはそれに掴まりながら、ウィヒトに向けてニヤリと笑った。腕っぷしを使った喧嘩には全く自信がないが、口喧嘩ならかなり自信がある。ダドリーが示したように、魔人ウィヒトであっても万能ではない。口喧嘩なら、寧ろ勝てそうな手応えがあった。
「ははーん。図星だったな。だから慌てているんだろ?」
言った直後にデュークラインに強く腕を引かれた。引っ張り上げられるどころか、結果的にそちらへ転ぶ形になる。その時、今まで居たところへ銀の燭台が飛んできた。デュークラインに引っ張られていず直撃を受けていれば、失神しかねない重さと速度だった。もう手を出さない状態は超えている、ということだ。
「貴様らに何が分かる! 大切な者を奪われ、同胞たちを奈落へと落とす片棒を担がされた我の恨みと苦しみを! 分かる筈があるまい!」
ああ、分からねえよ。という言葉が浮かんだが、エリュースは呑み込んだ。口喧嘩の難しい所は、勝ったら次の段階――実力行使へ進んでしまうことだ。そして今回の喧嘩相手は、簡単に相手を殺せる大魔導士なのだ。余計なことを言い過ぎると、文字通り命取りとなる。
「――やるしかない」
声を低くして言ったデュークラインの視線が、カイの姿をしたウィヒトに向かった。エリュースが声を発する前に、タオの声が飛ぶ。
「駄目です! そんな、まだ駄目だ……!」
近くに駆け寄って来たタオが、デュークラインを強く諫めた。剣柄を握るデュークラインの手に、タオの手が留めるように重ねられる。タオを見たデュークラインに対し、タオは大きく首を左右に振った。
きっとデュークラインとて進んでやりたい筈がない。逆に、先延ばしにするほど決意が鈍ることを恐れ、敢えて踏み込もうとしているのだろう。その覚悟には敬意を払うが、エリュースも未だ最後の手段を選ぶべきではないと思っていた。
「ああ、まだ望みはある。俺もそう思うぜ」
「だがこのままでは……」
デュークラインの視線が向けられ、次いでタオの視線も向かってくる。
「では、どうすればいいのだ?」
そうデュークラインに問い返されても、エリュースに妙案は浮かんでいなかった。まだ望みはある、そうは思うものの、具体的な案が出てこない。
ダドリーなら何か思い浮かぶのかもしれない――そう思い、自分はそこまで至っていないのだから仕方ない、とも思う。ふと、「こういう時にも答えが出てくる師匠は、ある意味魔法使いみたいなものだな」という考えが浮かんだ。そんな余計なことが浮かんでしまうほど、エリュースには良い考えが思い浮かばなかった。しかしデュークラインもタオも、エリュースがまるで答えを知っているかのようにこちらを見てくる。特にタオの目には、未だこちらから何も言っていないのにも関わらず、もう希望の光が灯っていた。「自分たちでも考えろよ」と言いたくなったが、追い詰められて周囲に当たるのはみっともない。そう考えられるほどの余裕は残っていた。仕方なく、エリュースは半ば自棄になって、思い浮かんだいい加減なことを口にする。
「あー、だったら、童話みたいに抱き締めて、キスでもして目を覚まさせればいいだろ?」
「な、……な!」
意外なことに、デュークラインが目に見えて動揺した。まともな言葉が出ていないほどだ。「まるで年頃の子供みたいだ」と思い、「そういえば、こいつは見かけほど年を取っていないのか」と思い出す。断罪の広場から大聖堂の丘に至るまでにダドリーが彼から話を聞き出しており、それをエリュースも聞いていたのだ。確か人として十数年、だったと思う。それでは慣れていない世界のことに動揺するのは仕方ないのかもしれない。そう納得しかけたが、そもそも人ではないという認識も後からやってきた。それならば、キスなど意味のない行為に捉えているかもしれない。いや、それならこの動揺は何だ? そう考えてみて、まるで隠し事を暴かれたような動揺にも思えてきた。もしかしたら人として意味を理解していながら既にカイと――。
エリュースの思考はここで中断させられた。もう一人、意外な者もまた動揺したような態度を示したからだ。
「ば、馬鹿な! そのようなことを許す筈がなかろう!」
動揺していたのはウィヒトだった。いや、その中のカイの影響が表に出たのかもしれない。その効果について深く考える前に、ウィヒトが行動を起こす。呪文を唱え始めたのだ。
「やばい、散開しろ!」
エリュースは指示を出すと、片手でそれぞれタオとデュークラインを押し出す。纏まっていると魔術で一網打尽にされかねないからだ。
しかし、ウィヒトの呪文は攻撃魔法ではなかった。
「飛んだ!」
タオが驚いて口にしたように、ウィヒトの体が宙に舞った。
エリュースは舌打ちをした。口からでまかせに言った案だったが、ウィヒト=カイに動揺が見えたのなら、実効力があるかもしれないと考えたところだったからだ。だが、抱きつけないなら、この案も実行できない。
「いや、よく見ろ。浮いているだけだ」
エリュースは、ウィヒトを見て気付いた事を付け加えた。
「いや、だが、あのままでは……」
デュークラインも、こちらを困ったように振り返ったタオと同じく、エリュースの指摘に解決策が繋がっていないようだ。浮いているだけ、といっても跳び上がっても届かない高さだ。エリュースはそんな二人の考えを理解しながらも、更に自分が気付いた別の点に納得する。
「ガーゴイルの背中に乗ってここまで飛んできたってことは、ウィヒトは浮遊はできても、飛行はできないのかもしれないな。だったら、まだ手があるだろ!」
まだはっきりしない二人にエリュースは手を叩いて行動するように促す。
「足場を作るんだよ。長椅子や、そこらの残骸を積み上げて。浮いているだけだったら、高くなった足場から捕まえられる」
はっとした顔になって、デュークラインが行動を始めた。タオも剣を収め、それに続く。エリュースも勿論手伝うつもりだったが、力も動く速さも二人の方がずっと上だ。
だが、この策はウィヒトにも聞こえていたようだった。
「そうはさせぬぞ」
ウィヒトの両腕が、目の前で交差させるように組まれた。そして呪文を唱え始める。対応できるようにエリュースたちは動きを止め、様子を見守らざるを得なかった。間もなく呪文が完成したのか、声が途切れる。
突如、ウィヒトを宿したカイの体から蒼白い光が放たれた。鋭く空気を震わせる音と共に、光が宙を不規則な動きで走る。まるで、雷のようだ。実際、雷光の当たった壁からは衝撃音と火花が散った。息を詰めて見ていると、次の雷光が生まれ、また別の場所へと延びる。一瞬の動きだ。見て躱せるものではない。
「まずい。柱の陰に隠れろ!」
エリュースは二人に指示を出した。自身も手近な翼廊寄りの柱の陰へと隠れる。その間もウィヒト=カイの体から、でたらめな方向へ雷が放たれる。
「我々を狙っているわけではないのか?」
「だったら、動きを見極めて、近寄れるかも」
別々の柱の陰に隠れているデュークラインとタオが呼びかけあったが、エリュースは現状を暗く見通していた。
「駄目だ。……確かにあれはでたらめに撃っているに違いない。だけど、近付けば近付くほど逃げる場所は少なくなる。その下に足場を積み上げる余裕なんかない」
でたらめに撃っているのが問題だった。あれがウィヒトの解法なのだ。
狙ってエリュースたちを殺してしまうと、押さえているカイの反発を招く。しかし狙わずでたらめに放った雷に当たったなら、それは事故のようなものだと言い訳できるのだろう。勿論、外の者から見れば、それでもウィヒトの魔法攻撃に違いないのだが、ウィヒトとカイの関係ではその言い訳が成り立つに違いない。現に、近寄らなければ被害を受ける可能性は低いのだ。
だからといって、このまま見守り続けるわけにはいかない。
エリュースは柱の陰で考えていた。ダドリーは、ウィヒトの魔力は生前より増していると読んでいたが、それでも限界があるだろう。その時、破滅を迎えるのはカイの肉体なのだ。……それが狙いなのかもしれない。そうエリュースは思い至った。そう狙っているのはカイだ。罪の意識を大きくせずにエリュースたちを排除するためのウィヒトの策は、同時に、これ以上人を傷付けずに自滅する、というカイの狙いの妥協点なのかもしれない。
カイもウィヒトの中で戦ってくれている。その考えは、エリュースを鼓舞するどころか、苛立たせた。手も足も出せない状況だからだ。
いや、まだ、やりきってはいない。エリュースは自身の掌を見下ろした。近付くことができなくとも、エリュースには手が出せる一手がある。「神の拳」の奇跡の技だ。
「俺が今から衝撃波をぶつけてみる。運良くカイが落ちたら、そこを押さえてくれ」
指示を出して二人の頷きを確認してから、エリュースは半身を乗り出し、慣れた「神の拳」の奇跡を放った。手加減はしなかった。本来であれば、人間相手に全力でぶつけると危険だ。墜落時の被害を考えると更に危険だろう。しかし、機会は一度きりだ。攻撃されたとわかると、ウィヒトがカイへ言い訳せずに反撃できる可能性があった。そうなると、こちらに勝ち目はない。
渾身の力を込めたエリュースの一撃は――何の効果も示さなかった。いつでも柱を飛び出せる姿勢をとっていた二人が、まだ放っていないのかと思っているような顔を向けてくる。
「いや、撃ったんだけど――」
その時、青白い光が近くを通り、エリュースは慌てて柱の陰に転がり込んだ。
狙いが逸れたのか。それとも、あの雷光にぶち当たってしまったのだろうか。いずれにせよ、自分の力では全く歯が立たないということだ。
「ちっ。打つ手なしなのかよ……!」
そう弱音を吐いた直後、金属を震わせるような轟音が大聖堂内に響き渡った。大きく不快な音に、思わず耳を覆いたくなる。だが幸い、その音はすぐに止まった。
気付けば、ウィヒトの雷の乱打も止まっている。不思議に思い、柱の陰から顔を覗かせると、ウィヒトが顔の前で組んでいた両手を下ろすところだった。同時に、黒髪が一房、はらりと舞った。次いで目に入ったのは奇妙な光景だった。ウィヒトの頭部の脇、拳四つから五つほど離れた空間に、ぼんやりと緑色に光る筋のようなものが浮かんで見えている。
「我が防護を打ち抜く、風の槍――」
ウィヒトがそう言うのを聞き、エリュースは改めて奇妙な緑色の筋が何なのか理解した。あれは、ウィヒトが自身に張っていた見えない防護壁のひび割れなのだ。目を凝らすと、その中央あたりに、透明な棒状の物があることが、光の屈折が僅かに違うことから確認できた。
「――ハンか」
ウィヒトが、ひび割れのできた方を向いた。エリュースもそちらに視線を移すと、いつの間にか翼廊の奥に光源があった。床に置かれたランタンに照らし出され、長い白髪が目を引く男が立っている。片腕のその男は、異端審問院預かりとなっている召喚士のハン・ウォーベックだった。
ここでようやくエリュースは、異端審問院の行動の真意を読み取った。崩壊した翼廊の瓦礫を取り除く作業は重労働だ。その後に重要な戦いを控えている現状では避けるべき攻略路として騎士団は避けたが、異端審問院は労働者を、おそらく強制的に徴用することで、戦闘員の疲労を最小限に留める手を打っていた。そこまでは理解していた。しかし、そうやって作った攻略路は狭く、一度に投入できる戦力は限られる。エリュースたちのように説得が目的なら隘路もさほど困らないが、戦闘員を投入すると考えた場合、非常に厳しい。単数で各個撃破されていくからだ。だが、異端審問院はそれで良かったのだ。単一でも強力な手駒を抱えていたのだから。
「その言葉、そのまま返そう。処刑場で見かけた時からもしやとは感じていたが、我が槍を受け止められる防護壁を張れるのはウィヒトに違いあるまい。見かけは似ても似つかぬがな」
そうハンが答えた。堂々とした態度には、ウィヒトに対する怯えなど全く感じられない。離れているエリュースでさえも、思わず唾を呑み込んでしまうほどの威圧感だ。
「分かっていて聞くが、貴殿も昔話などをしに来たのではなさそうだな。その腕はどうした」
「……死人が蘇るなど自然の摂理に反する行為。精霊使いとして、それを正しに来たのだ。冥府へ帰れ、ウィヒト!」
ウィヒトからの質問には答えずそう返すと、ハンは懐から何かを取り出し、前方の床へとぶちまけた。液状のそれが何なのかはすぐに分かった。ハンが蹴り飛ばしたランタンから漏れ出た火が一気に炎上したからだ。撒いたのは油だ。燃え盛る炎の壁により、その向こうにいるハンの体の腰から下部分が見えなくなる。既にハンは呪術に入っていた。呪文を唱え、片腕で印を切っている。
ふいに炎の動きが変わった。炎の壁から小さな火の玉が一つ、また一つと生まれ、炎の壁がみるみる小さくなっていく。あっという間に、炎の壁は六つの火の玉へと変化した。その火の玉はぐるぐると前方で手を回すハンの動きに合わせ、空中で円状に並ぶ。
対するウィヒトも黙って見てはいない。ハンの方へ向き直ると、両手で印を切り、呪文を唱える。しかし、先に仕掛けたのはハンの方だった。ハンが片腕を突き出すと、六つの火の玉は螺旋を描いてウィヒトへと向かう。その途上、火の玉は重なり合い一つの大きな火炎球へと変わった。
「カイ!」
デュークラインが叫んだ。しかし、それは相対する二人の魔法使いのいずれにも届いていないだろう。神聖魔法を使うエリュースにも、術を行使する際の術者の精神集中が如何ほどのものか良く分かっている。
飛んでくる火炎球にウィヒトが左腕を伸ばした。その先端が触れた瞬間、閃光と共に空気を揺るがす大爆発が起きた。と同時に、爆発音が響き渡る。
「まさか……ッ」
輝きを片手で遮りウィヒトの方を見上げながら、エリュースはタオの不安げな息遣いを聞いた。しかし閃光が去った後、爆発の只中にあってもウィヒトは吹き飛ばされてはいなかった。炎は左腕を燃え上がらせているものの、ウィヒトが気にしている様子はない。
「昔の貴様ならいざ知らず、片腕を失った今では我が相手にならぬ!」
ウィヒトが右手で印を切ると、燃え盛る左腕をハンに向けた。すると、燃えていた炎が矢となって、ハンへと飛んで行く。
「そうか!」
エリュースは声を上げていた。片腕と両腕の差は、攻防の切り替えの差となって如実に表れていた。ウィヒトは左腕を犠牲にしながら反撃を放てたが、攻撃を放った後のハンには反撃を防ぐ術がない。
炎の大矢が迫る中、ハンの横から黒い影が前に飛び出すのが見えた。そして、再び爆発が起きた。しかし、今度の爆発後は先程と様子が違っていた。炎の輪が一瞬広がるかに思えたが、それはまるで吸い込まれるように消え、代わりに白い光が反射するように辺りを照らし出したのだ。
「我ら異端審問院が何故魔を払う立場にいるのか、知らぬではあるまい」
その声はハンではなかった。落ち着き払った、自信に溢れたその声の主は、彼の掲げる何かが照らす光によって、はっきりと見えた。異端審問官のジェイだ。翼廊の瓦礫を突破する作戦の指揮を執っていたのも彼だった。
「フン。抗魔の遺物か。味な真似を」
ウィヒトの言葉に、エリュースは衝撃を受けた。
「まさか、実在していたなんて――」
異端審問官には魔導士たちに対抗できる強力な技術がある、という噂は知られていた。魔封じの秘法として伝え聞くそれは、実際に行使されている姿を見た者が極端に少ないため、伝説と化していた。寧ろ、そう喧伝することで魔導士たちを萎縮させることそのものが目的である、とさえ言われていたのだ。しかし、その伝説は本当であり、正確には秘法は秘宝だったのだ。
「――カイ。済まぬが、大義のため、アルシラの民のため、その命、もらい受ける」
カイに対してそう宣言したジェイは、ウィヒト=カイを見据えたまま、背後のハンへと呼びかける。
「ハン。防御は私に任せよ。そなたは次の攻撃の準備を」
「心得た」
直ちに、ハンが呪文を唱え始めた。その精霊への呼びかけに答えるように、ハンたちの周りにある瓦礫が不規則に動き出す。それらは転がり出すと集まり、みるみると積み重なった。そして急に、その石の集合体が縦に聳え立つ。それは石の巨人だった。エリュースは森の塔への道にあるゴーレムを思い出し、昔あの場所にいたのは召喚士だったのかもしれないと思った。または魔導士と召喚士も使える魔法が重なる部分があるのだろう。手足は未だ完全に形作られていないが、瓦礫から更に集まって来ている。そのうち、動き出せる状態になるに違いない。
「ほほう。人工物とはいえ、長年経っておれば精霊力を宿していたか」
煙が立ち上る左腕を振りながら、ウィヒトが言った。冷静に分析しているようだ。しかし落ち着いた態度とは裏腹に、エリュースにはウィヒトに余力があるようには見えなかった。ハンの火炎魔法を跳ね返したが、代償は大きい。左腕は大火傷を負っているようだ。強力な魔法を立て続けに放っているせいで、顔色はさらに悪くなっている。
「これは、いけるか……」
エリュースは呟いたが、果たしてそれでいいのか、と自問した。異端審問院の攻撃は、このままではウィヒトを打ち破るかもしれない。しかし、それはカイの死をも意味している。最終的にはその選択も決断しなくてはならないと考えていたが、もうその時が来てしまうのか、とエリュースは納得できていなかった。未だあの体にカイが居ることは、確信しているのだ。
「それならば、こうするまでよ!」
ウィヒトが動いた。呪文を唱えながらまた印を切り、右手を下から顔の前に突き上げると、拳を固める。その右腕が、込められた力で震えているのが分かる。ウィヒトの傷付いた左腕が添えられ、更に力を込めたのかウィヒトの表情が歪んだ。
その間に石巨人は完成した。大人の背丈をさらに半人分上回る大きさの巨人が、翼廊から内陣へと向けて踏み出し始める。その時、ウィヒトの右腕が引き下がった。すると、響く地鳴りのような音と振動が辺りを震わせる。思わず柱に背を付け、エリュースはその音の発信源と思われる翼廊付近に目をやった。途端、大聖堂と翼廊の際の天井がひび割れ、崩れ落ちる。それはたちまちのうちに石巨人を上から圧し潰してしまった。
上がる砂塵に咳き込みながら様子を窺うも、翼廊は再び瓦礫に埋められてしまったようだ。ジェイとハンが無事かどうかは分からない。
ウィヒトを見上げれば、肩で大きく息をしていた。無理に無理を重ねているのだろう。もう限界は近い。しかし、限界間際の状態でさえ、エリュースたち三人を薙ぎ払うのは訳もないだろうという確信はあった。
「くそっ。もう一息だったのに」
エリュースが歯噛みする一方で、デュークラインからは安堵と思われる溜息が漏れ聞こえた。その気持ちは分からないでもなかったが、ウィヒト=カイの心配ができる立場ではないことを、エリュースは冷静に受け止めていた。あのままウィヒトが倒されることは心から望んではいなかったが、ハンの石巨人と戦えば、ウィヒトも浮遊の術を解いたかもしれなかった。そうなれば、こちらが押さえられる可能性も、ほんの僅かながらあったのだ。
「やろう! 足場を作ってカイを引き下ろすんだ」
タオが明るく言い放った。彼が現状を正しく理解できているのか、幼馴染のエリュースも良く分からなかった。だが窮地にあっても最後まで諦めないのは、親友の美点だ。
タオとデュークラインが動き出した時、ウィヒトがゆらりとこちらへ向いた。
「止めておけ。もう手加減する余裕はないぞ。邪魔をするというなら、殺す」
右手の指先をこちらに向けたウィヒトに、エリュースたちは身動きできなくなった。今すぐにでも殺されそうなほどの強い殺気に、全身が粟立つ。
手も足も出ない状態だ。こういう時にこそ、神に祈るべきなのかもしれない。そうエリュースは思ったが、アスプロ神への祈りの言葉は、心の中でも唱えなかった。エリュースの中では、アスプロ神は安易に助けを求めるのを良しとしないように感じていたからだ。唱えるとしたら、殺される前に、「これからそちらへ参ります」という挨拶みたいな祈りになるだろう。だからといって、奇跡を待ち望む気持ちがないわけではなかった。寧ろ、奇跡でも起きなければ助からないだろうという認識があった。
そして、次の瞬間――、奇跡が起きた。その奇跡は突然に空から降ってきたのだ。




