70 突破
早朝。
まだ薄暗さが残る中、トバイアは沈んだ気持ちを何とか立て直そうと努力しながら、兵士たちを引き連れていた。ゲリーの頬の冷たさが、未だ掌に残っている気がする。勇敢に戦った結果とはいえ、トバイアにとっては早すぎる死だった。粗暴な後輩ではあったが、全く優しさがなかったわけでもなく、正義感がなかったわけでもない。きっとサイラスの従士として正義感でもって、ゲリーは娘を助けたのだろう。しかし今回はそれが彼の死に繋がってしまった。それがトバイアには遣る瀬なく、酷く悲しかった。生きて帰っていたならば、大袈裟に褒めてやりたかった、と思う。
トバイアは兵たちと共に大聖堂の城壁内へと足を踏み入れた。ガーゴイルたちを刺激しないよう、裏口から一旦城壁外へ出た後、騎士団本部とは逆方向の出入口から再び入ってきたのだ。丁度、大聖堂付属学校の左横に当たる。手にしていた鎖頭巾を被れば、編まれた鉄輪が触れ合い微かな音を立てた。
上空には、未だ暗い雲が立ち込めている。視線を下ろせば、荒れ果てた大聖堂前の中庭に、点在する二体の雨樋像が視界に入った。ウィヒトがその魔術でもって命を吹き込んだ、そしてゲリーをも殺した元石像たちだ。遠巻きにしている今は動かないが、近付けば反応することは分かっている。自分に課せられた任務は、あの二体の石ガーゴイルを端に誘き寄せ、中央での戦いを邪魔させないことだ。つまり、一旦気を引くだけでは十分ではない。中央で戦闘が始まってからも、こちらで石ガーゴイルたちの気を引き続けなければならない。大聖堂入口前にいる、四枚羽のガーゴイルが倒されるまでは。
大聖堂騎士ダドリー・フラッグは石ガーゴイルについて、ウィヒトを倒すことができれば「止まる」と推定していた。ウィヒトによって降ろされた何らかの精神は、ウィヒトが居てこそ存在していられるのだろうと。所謂、魔導士の使い魔のようなものだろうということだ。
しかし、四枚羽のガーゴイルは別だという。異界から召喚されたガーゴイルはウィヒトの僕ではあろうが、使い魔とは違う筈だと、ダドリーは言った。故に、四枚羽のガーゴイルだけはどうあっても倒さなければならない。その役目に名乗りを上げたのは、トバイアの師である大聖堂騎士サイラスだった。
昨日、サイラスは先走った衛兵たちを救援すべくガーゴイルに挑み、大怪我を負った。司祭たちに治療されたものの、彼らも担ぎ込まれる多くの衛兵たちの治療で疲弊していたのだろう、完全に傷を癒し切れなかったと聞いている。
トバイアは、中庭の向こうに見えるサイラスの姿を見つめた。大聖堂騎士団本部を背にした姿は見惚れるほど精悍だ。まるで昨日の怪我などなかったかのように見える。昨日は板金鎧を装着していたが、今日は普段の皮鎧姿だ。左手には盾が見える。そんなサイラスの姿を見ながら、トバイアは胸にある悲しみを堪え、これから始める戦いに向けて気持ちを奮い立たせた。
四枚羽のガーゴイルは、その巨体とは裏腹に、動きは石ガーゴイルよりも数段早い。昨日のような重装備では攻撃を避けられないため――受け止めたとしてもガーゴイルが放つ雷を防ぐことはできない――サイラスは防御を捨て、軽装で回避しつつ攻撃に転じることにしたのだ。トバイアはサイラスを一度は止めたが、決意が固いことを確認すると、それ以上は言わなかった。大聖堂騎士としての誇りもあるだろう。そして何より、サイラスは騎士団において剣技では一、二を争う腕前なのだ。他の者では心許無い――これは正直なトバイアの思いだった。
町に出ていた騎士の内、昨夜戻ってきたのは副団長のアレクス・ダリエだ。彼はサイラスの助力として参戦することになっている。特に弓を得意とする彼ならば、サイラスとの相性も良いだろう。
トバイアは、サイラスのことよりも心配していることがあった。デルバートの偽者と共に大聖堂内に踏み入る、後輩従士タオたちのことだ。
彼らが突入隊として選ばれた理由は、理解している。しているが、心配なことに変わりはない。後輩であるゲリーは石ガーゴイルに殺されてしまったのだ。更にタオやエリュースまでと考えれば、堪えた悲しみがぶり返してきそうになる。できる限り早く、サイラスに四枚羽のガーゴイルを倒してもらわねばならない。であれば、皆で大聖堂内にも踏み込める。
とにかくも、自分が石ガーゴイルを引きつけておかなければ始まらない。トバイアは弓兵を城壁の壁上歩廊へと急がせた。兵士たち十五名のうち、半数が弓兵だ。通常編成では多すぎる人数だが、今回に限っては大聖堂騎士団所属の兵士たちに加え、衛兵団の生き残りも参加している。槍兵長率いる彼らはこちらの指揮下に入るつもりはないようだが、事前に作戦は共有済みだ。失敗すれば被害は甚大。そのことを身を以て知っている彼らは、トバイアに協力することを承諾してくれている。壁上に弓兵を配置したのは、石ガーゴイルが浮いた際に射かけるためだ。
時機は任されている。サイラスたちの動きを見て判断しなければならない。
「あの二体の石ガーゴイルだけをこちらへ誘き寄せます。絶対に踏み込み過ぎないでください。近寄られたら即座に回避行動を。サイラス様の邪魔にだけはならないよう心してください」
槍を構えている兵士たちの視線は、中庭にいるガーゴイルに注がられている。その表情には強い気概が窺える。
「承知しました」
力強い返事に、トバイアは頷いた。
* * *
見上げるほどの巨体である四枚羽のガーゴイルに対し、城壁のある入口方向からアレクスが放った矢が向かう。それは敢え無く蝙蝠羽の羽ばたきによって落とされた。ガーゴイルの蒼く光る目が、アレクスに向けられる。それでも、ガーゴイルは大聖堂の前から動こうとしない。
サイラスはその様子を見ながら、剣柄を握り締めた。中庭の向こう側では、トバイアが機会を窺っているだろう。自分の斜め後ろには、一見大主教かと見紛う姿をしたエリュースの姿がある筈だ。傍にはタオと、デルバートの偽者がいるだろう。彼らが現れた時には、周囲の兵士が恐縮したように頭を下げたものだ。昨日の会議に参加していない兵士たちにとっては本物の大主教であり、偽者のデルバートも、大主教に付き従う侍従に違いない。
城壁の正面入口側の壁上歩廊に配置されているのは、衛兵団の弓兵の生き残りだ。指揮下に入ったわけではない彼らには、ガーゴイルが飛び上がったときに射かける役割を与えている。騎士団所属の兵士たちとアレクスの従士たちは本部前におり、それぞれ盾と、片手で扱える小型の弩――小弩を手に緊張を高めていた。
昨日、衛兵を助けるために戦った際には、ガーゴイルに勝てなかった。が、敗北とは思っていない。今回は、石ガーゴイルはトバイアが引き付けてくれる予定であり、ダドリーから託された秘策もある。サイラスは左手に嵌めた皮手袋の指を擦り合わせた。このガーゴイルを倒せなければ、大聖堂騎士の名折れだ。
サイラスは左腕にベルトで固定した盾の持ち手を左手で掴み、右手で剣を抜いてガーゴイルの前に進み出た。
「私は大聖堂騎士サイラス・オーティス! ウィヒトに呼ばれし異界の魔物よ! 私が引導を渡してくれる!」
そう叫べば、ガーゴイルの蒼く光る目の輝きが増した。サイラスはその目を睨みつけながら、斬り付ける時機を窺うように移動する。それに合わせ、大きく羽を広げたガーゴイルが、右へ左へと、地を踏みしめ始めた。ガーゴイルにも思うところがあるのか、今すぐ雷を吐き出そうという姿勢ではない。そんなガーゴイルの足元には、衛兵たちの死体が積み重ねられている。それが目に入り、サイラスは眉を顰めた。
その時、ガーゴイルがいた場所に異変があった。積み重ねられた死体が確かに動いたのだ。サイラスはギョッとした。まるで内側から押されているような動きだと気付く。そのことに、エリュースたちも気付いたようだ。
大主教の衣装に身を包んだエリュースを護るように、タオが剣を抜き前へ出た。サイラスはガーゴイルを気にしながらも、その足元の死体の山を注視する。次の瞬間、死肉から這い出るように飛び出してきた複数の異形のものに、サイラスは息を呑んだ。膝丈ほどの背の魔物だ。死肉を食らっていたのか膨れた腹をしており、その尻には鉤のある長い尻尾が生えている。小さな蝙蝠羽を動かし、血走った目で飛び跳ねるそれらは、一気に辺りを騒然とさせた。兵士たちが武器を手に斬ろうとするが、襲ってくるその小さな魔物――小魔物たちの動きが素早く、たちまち翻弄されている。
「え! あのガーゴイルって雌だったのかい!?」
アレクスの慌てたような声が上がった。
それを受け、サイラスはこの小魔物たちが、あの四枚羽のガーゴイルが生み出したものである可能性に気付く。そういえば、幼体に見えなくはない。サイラスは、昨夜ダドリーが言っていたことを思い出していた。こちらが策を練っているということは相手もそうである可能性がある――ダドリーはそう言っていたのだ。それがこれか、と納得する。
自身に飛びついてきた小魔物を、サイラスは距離を取って斬り伏せた。耳障りな叫び声が短く上がる。首に食らい付こうとした小魔物を掴み引き剥がせば、大きく開かれた口に見える鋭い歯に血が滴っているのが見えた。周りからは兵士たちの慌てた悲鳴が挙がっている。このままでは総崩れになる――サイラスは焦りを覚えた。この小魔物たちは勢いよく中庭に飛び出し、迷いなく人に向かっているのだ。まるで飢えた餓鬼のように、血肉を欲している。石ガーゴイルがそれにつられるようにして動き出し、サイラスは更に焦った。
その時、トバイアの声が左方から聞こえた。号令だ。こちらを向いていた石ガーゴイルが、ふいにそちらへと背を向けた。
* * *
トバイアは、射かけて誘わせた石ガーゴイルを待ち受けていた。持っているのは剣ではなく戦棍だ。硬い石ガーゴイルを相手にするには、殴打に適した武器の方が良いだろうとの判断からだ。
大聖堂前で異変が起こったことを、トバイアは察していた。発生した小魔物たちは、トバイアたちの方にも襲いかかってきたからだ。槍兵はそれの相手に追われたが、トバイアは課せられた任務を忘れはしなかった。収拾がつかなくなる前に石ガーゴイルを引き寄せるため、弓兵に射かけさせたのだ。向かってくる石ガーゴイルは誰に射られたのか分かっていない様子を見せている。近付いて存在を示せば、ようやくその目が向けられた。目で視ていないということだが、彼らは近付く命のオーラには反応するようだ。蒼く光る目に補足されたことを確信し、トバイアは石ガーゴイルを誘った。
振り上げられた石ガーゴイルの腕の動きに合わせてそれを避け、次いで掴もうとしてくる手を下がって回避した。転ばないよう細心の注意が必要だ。万一掴まれて飛ばれないようにと板金鎧装備だが、転んでから立ち上がるのは難しい。おそらくサイラスならば問題なくできるのだろうが、トバイアにはまだその技術にも体力にも自信がなかった。
武器を振るえば、石ガーゴイルが嫌がるように蝙蝠羽を羽ばたかせる。浮き上がった石ガーゴイルを後目に、トバイアは更に奥のもう一体を誘導するよう指示を出した。
四枚羽のガーゴイルに補足されないよう、大きく迂回する。弓兵と槍兵の連携で同様に注意を引かせ、トバイアは石ガーゴイルを附属学校側へと引きつけることに成功した。
「従士殿!」
兵士の一人が叫んだ声で、トバイアは危険を察した。死角になっている方へと視線を向けた瞬間、自らに迫る最初の一体の攻撃が視界の端に見える。咄嗟に戦棍で薙ぎ払うようにし、その遠心力に逆らわず石ガーゴイルの股下を滑り込むようにして抜けた。駆け寄ってくれた兵士二人の力を借り、体を起こす。それからトバイアは一旦石ガーゴイルから離れた。見れば、衛兵団の槍兵たちが標的になってくれており、二体ともが中庭の中央部分から離れた状態となっている。
飛んで中央の方へ逃げようとする一体に、城壁の壁上歩廊から矢が射かけられた。それにより、石ガーゴイルが壁の方へ振り返る。攻撃対象が弓兵たちに移ったことを察知したトバイアは、急いで帯びていた小剣を手にした。迷わず上空の石ガーゴイルへと投げ付ける。それは運良く命中し、石畳へと落ちて跳ね転がる音が聞こえた。下から攻撃されたことに石ガーゴイルが気付いてくれたようだ。蒼い光を帯びた目に見下ろされる。地に降り立った石ガーゴイルにより足元が揺らぐのを堪え、トバイアは再び標的となった。
* * *
これを殲滅しなければ、エリュースたちを大聖堂内に入らせることができない。そうサイラスが思った時には、複数の小魔物が体を切断されて地に落ちていた。エリュースとタオの前に踏み出したデュークラインによるものだ。会議の時から顔色は悪いままだが、その剣技は冴えている。余剰の剣を貸してやった甲斐はあった。タオも、彼を倣い動き出したようだ。大聖堂の入口へと進むエリュースを護りつつ、次々と向かってくる魔物を寄せ付けていない。そんな二人に、サイラスは感心した。あちらは任せておいても問題ないだろう。
サイラスは獣を挑発し、ガーゴイルの意識を自身だけに向くように仕向けようと考えていた。元石像のガーゴイルとは違い、これは住む世界は違えど獣には違いない。それならば、大聖堂の護りよりも目の前の敵に集中させてやればいい。しかしそうしたいものの、今は、突如生まれた小魔物たちにこちらが翻弄されている状態だ。
その時、頭上で荘厳な鐘の音が鳴った。大聖堂の斜め後方に聳える鐘楼からだ。騒動が起こってからは鳴らされていなかったものが、今この決戦の最中に鳴ったことに、サイラスは驚いた。ダドリーが誰かに命じて鳴らさせたのかと思うが、そこに人を割く余裕はない筈だ。
その鐘の音に、一瞬、ガーゴイルの注意が逸れたことをサイラスは察知した。その隙を逃さず、サイラスはガーゴイルに突進する。懐に入り込み、剣を振り上げ、右上から斜めに斬り下ろした。手応えはあったが、やはり石ほどとはいかずとも皮膚は硬い。剣を持つ手が僅かに痺れている。
サイラスはガーゴイルから振り下ろされた鉤爪を盾で防ぎ、巨体から速やかに離れた。すぐにも雷を吐き出してくるかと思ったが、そのつもりはないらしい。昨日殺し切れなかったことに対して思うところがあるのかもしれない。ガーゴイルの視線は確かに自分に向かってきており、執拗に殴りかかってくるからだ。サイラスはその傾向を歓迎した。
大聖堂の前が空き、タオとデュークラインに護衛されたエリュースが暗い大聖堂の中へと入っていく。その背を視界の端で確認し、サイラスは剣を握り直した。ここまで来れば、ウィヒトのことはあの三人を信じるしかない。
中庭は未だ小魔物たちに襲われているようだ。それでも、サイラスは目の前のガーゴイルだけに神経を集中させていた。少し離れて盾を構えながらガーゴイルを囲んでいる兵士たちも、機会があれば撃てるよう小弩を盾の上から構えている筈だ。だが小魔物たちにも注意を払わねばならないことを考えれば、彼らからの援護を受けることは難しい。
サイラスは大きな振りの攻撃を躱し、その隙を突いて再び踏み込んだ。しかしそこからの剣の振りは、舞い上がったガーゴイルには届かなかった。上空のガーゴイルに対し、壁上の弓兵から矢が射かけられる。それに腹を立てたのか、ガーゴイルがそちら――大聖堂とは反対側――へ向かった。そこへ、大聖堂騎士団本部前に戻っていたアレクスが、弓を引き矢を放つ。アレクスがこちらに戻っていたのは、作戦通り上空にいるガーゴイルの動きをある程度誘導し、結果的に地に下ろすためだ。目論み通り、射かけられたガーゴイルが空中で振り向いた。
サイラスは次に標的になるであろうアレクスたちを建物内へと退かせ、ガーゴイルの視界から見えなくした。そのことに気付いたガーゴイルが、サイラスへと再び向かう。苛立ったように上空から強襲してきたガーゴイルの鉤爪が狙ってきたところを避け、サイラスは剣で下方から斬り上げた。今度は手応えをしっかりと感じ、そのまま腰を落として踏み込む。降り立った瞬間に反撃をくらったせいか僅かにバランスを崩したガーゴイルをサイラスは見逃さなかった。思い切り地を蹴り飛び上がる。剣を大きく振り上げ、サイラスは全体重を掛けてガーゴイルの顔面に叩きつけた。瞬間、振られた太い腕を右脇腹に食らい、今度はサイラスが地に叩き落とされる。石畳に打ち付けた左腰に強烈な痛みを感じたが、サイラスは剣柄を握ったまま即座に身を起こした。中庭のほぼ全域に敷かれている石畳が、今だけは恨めしい。
今の衝撃で左腕の痛みも増したが、休んでいる暇はなかった。怒りの表情を見せたガーゴイルの四本の腕が襲い来る。飛び掛かってきたガーゴイルを、サイラスは痛む腕で盾を構え待ち受けた。外野の騒ぐ声が聞こえるが、それは無視だ。いくら斬り付けたところで、このガーゴイルに致命傷を負わせることは難しい。硬い皮膚に加え、サイラス自身の怪我もある。ならばこちらの体力が無くなる前に、勝負は早く着けるに限る。
盾に鉤爪の一つが掛かり、サイラスは地に再び倒された。勢いよく地に足を着いたガーゴイルが、目の前でその口を大きく開く。その奥で、雷の閃きが見えた。
「待っていたぞ……!」
サイラスは握っていた剣を手放した。
師に剣を離した時が命を手放す時だと教わり、サイラスはそれをこれまで守ってきた。自身の従士たちにも、サイラスはそう教えた。しかしこの瞬間、サイラスは剣を手放すことを躊躇わなかった。懐に持っていた火薬玉を取り出し、盾の持ち手を離す。次いで玉の導火線に火を付けるべく、革手袋をした左手指を擦り付ける。その行動中、サイラスは迫る雷を視界の端に収めながら、時が緩やかになったような感覚に見舞われていた。
* * *
城壁上の歩廊に配置した弓兵を指揮しているフェンレイは、自身は壁上には上がっていなかった。城壁を背にした状態で、サイラスとガーゴイルの戦いを食い入るように見つめていた。
フェンレイは衛兵団の副団長の一人であり、弓兵隊長でもある。昨日は団長の命令で、大聖堂に三面攻撃を仕掛けた。結果、衛兵団は団長の死亡を含む多大な損害を被り惨敗。フェンレイは弓兵隊長ということで後方におり、痛めた腕は司祭に癒してもらったため、こうして今日の戦いに参加できている。生き延びたのは、同じく副団長の槍兵隊長もだった。同じ副団長という立場ながら、槍兵隊長のチャスが衛兵団長の代理をすることに自然となった。それには、フェンレイも納得はしている。やはり後方支援の弓兵より前線に出て体を張って戦う方が評価されることは仕方がないことなのだろう。しかしそもそも弓兵という存在が軽んじられがちなことは、看過できない問題だった。技術面で優れていなければ、遠くの敵を射抜くことはできない。当然、風を読むことも必要とされる。前線で戦う者を援護するために戦闘の流れを見極めることも重要だ。それらに対し鍛錬を積んできたフェンレイは、弓の腕に関しては誰にも引けを取らないと自負している。
今回、大聖堂騎士ダドリー・フラッグから指示されたのは、ガーゴイルの開いた口を狙えということだった。だが、動き回るガーゴイル相手には難しい。それでもフェンレイは弓兵隊長としての矜持にかけて、その機会をずっと待ち続けていたのだ。
ガーゴイルが口を開いてからでは間に合わない。弓を引く時間、矢が飛んでいく時間があるからだ。故に、フェンレイはその兆候に目を凝らしていた。そして、ついにその時が来た。ガーゴイルが、まるで大きな息を吸うように、胸部を膨らませたのだ。同時に、両肩と四枚の羽も僅かに上がる。視界にはガーゴイルに比べれば羽虫のような飛び回る小魔物がいるが、フェンレイはそれには構わず弓を引いた。
部下がフェンレイの名を呼び、警告を発しているのが聞こえた。右を見れば、小魔物が一体、近付いている。近い。小さな口にびっしりと並んだ鋭い歯と、その歯から粘り滴る唾液が見える。が、フェンレイはちらりと見ただけで、ガーゴイルに視線を戻した。
四枚羽のガーゴイルが、その口を大きく開く。それがフェンレイには前回よりも大きく見えた。右側から小魔物の喚き声がすぐ近くに聞こえ、生暖かく血生臭い吐息が首元にかかる。しかし、フェンレイの集中は乱れない。そして、渾身の一射を放った。
* * *
周りの動きが止まったような感覚の中、サイラスは皮手袋を擦り合わせ導火線に火を点けた。視界は目を開けていられないほど眩しい。間に合わないか――そう思った時、雷の元へと飛び込む一射があった。いや、正確には僅かに外れた。しかし、放たれようとした雷が一瞬、確かに収束する。驚いたのか、それに伴いガーゴイルの口が閉じた。そのことにサイラスは焦った。間に合わず至近距離からの雷を食らうことからは助かったが、これでは機会を逃してしまう。もう紐に火は点いているのだ。
サイラスは玉を持った右手をガーゴイルの口元に突き出した。反射的に噛み付くようにしてガーゴイルの両顎が開かれ、サイラスの右手を狙って閉じる。しかしそこで、牙同士が当たる硬い音が響いた。見れば、ガーゴイルが驚いたように目を白黒させている。噛み付かれる直前に、サイラスは右手を引いていたのだ。次いでガーゴイルの顔が不快そうに歪み、玉を呑み込んだであろう喉が上下に大きく動く。それを目にし、サイラスは内心で笑った。ガーゴイルがおそらく今まで味わったことのない、火薬の実をくれてやったのだ。
盾を構えた瞬間。
激しい爆発音がサイラスの耳を劈き、肌を焼かれる熱さに包まれた。と、ほぼ同時に耳障りな獣の叫び声が上がる。
それを聞き目を開ければ、大きく欠けた盾の向こうに、空を仰ぐように仰け反るガーゴイルが見えた。喉の辺りが赤く爛れ、口からは黒い煙を吐いている。
盾を捨てて傍から離れれば、盾の上から小弩を構えた兵士たちがガーゴイルに矢を放った。矢はガーゴイルが飛び立とうと広げた羽に次々と刺さる。さすがに飛び立てなくなった様子のガーゴイルに対し、サイラスは剣を拾った。手に戻した剣柄を強く握る。体のあちこちが強い痛みを訴えているが、この勝機を決して逃すわけにはいかない。
サイラスは剣を水平に構え、ガーゴイルに突進した。混乱している様子のガーゴイルの四本の腕を搔い潜り、渾身の力で刃をその体に突き入れる。爆発を体内で受けた影響か、意外にも刃は深く刺し入った。そのままガーゴイルを仰げば、見下ろしてきた蒼い目と目が合う。怒りと諦めが混ざり合ったようなそれを、サイラスは見据えた。
「我々の勝ちだ」
宣言し、刃を引き抜けば、ガーゴイルの腹から赤黒い血が噴き出した。揺らいだ巨体がとうとう横倒しになる。そして暫く喘いだ後、動かなくなった。
慎重に様子を見ていたサイラスは、ガーゴイルの目から蒼い光が薄れていくことに気付いた。それは、そう時を置かず、完全に消え失せる。それを確認し、サイラスは剣を収めて深い溜息を吐いた。未だ傷の痛みに耐えていられるのは、まだ興奮が冷めていないためだろう。しかし自然と膝を突いてしまうのは、やはり体が疲れ切っているためだと思われた。
「大丈夫かい! サイラス!」
アレクスの高揚した声が近付き、サイラスは腰を落とした状態で顔を上げた。心配そうな表情をした彼に、なんとか無事だと両手を広げてみせる。安堵したように、アレクスが笑みを浮かべた。
「さすがだねサイラス。でも、何を使ったんだい? すごい爆発があったけど一体?」
「――ああ、……ダドリー殿から秘術を授かっていてな」
少し考えた後、サイラスはぼかした言い方をした。異端の物とはいえ、あれが無ければ勝てなかったことは確かだ。使っておきながらダドリー一人に責任を押し付ける気は毛頭ない。
「秘術? ああ、そうか! 爆発を起こす遺物だね?」
アレクスが納得したように明るく言った。遺物、と言われ、サイラスは成る程と思う。古代魔法王国時代の遺物は、様々な不思議な力を宿している品で、形も様々だ。今では使い方も分からない品が殆どだと聞く。それらは教団などで厳重に保管されているのが通常だ。しかしダドリーならば、その内の一つを所持していてもおかしくはない。そうアレクスは考えたのだろう。
「とにかく良かったよ。君がやられるかと思った」
深い溜息を吐く彼を見れば、片足を若干引きずっている。お互い、これ以上は戦えないだろう。
「君のところの従士もうまくやったようだよ。トバイアだっけ。あっちの端に石ガーゴイルが止まっている」
「そうか」
座り込んだままアレクスが指した方を見れば、確かに石ガーゴイルが二体、大聖堂付属学校前に並んでいる。兵士たちは遠巻きに警戒しており、トバイアも無事のようだ。そのことに、サイラスは安堵した。
「そういえば――」
ふと、サイラスは死体の山から飛び出てきた小魔物たちの姿が見えないことに気付いた。あれほどの数がいたのだ、それなのに一匹も見当たらない。
「おい、あの小さいのはどうした」
「ああ、あれ――」
大きく両肩を竦めたアレクスが、その優美な眉を顰めた。
「君がこの大きいのを倒した途端にね、あっと言う間に逃げ出したんだよ」
「逃げた?」
「勿論、それなりの数は倒したよ。でも全てじゃない。確かにまだ生きている奴がいた」
「それが行方知れず、か」
ガーゴイルが倒れたことで何処かで消滅していればいいが、そうでない場合、町に下りて潜む可能性も否定できない。不確定だが、あの小魔物たちが成長していき、このガーゴイルになるのだとしたら――。そう考え、サイラスは考えたくないという思いで首を左右に振った。もしそうであっても、今は探索する余力など有りはしない。小魔物に襲われ続けた兵士たちは疲弊しており、とても動かせる状態ではない。奇跡の技を使える司祭たちも限界に近いだろうが、更に怪我人が多く出ている状況だ。
「……中は静かになったね」
アレクスが、心配そうな視線を大聖堂へと向けた。サイラスも動きを感じられない暗闇を見つめる。ガーゴイルとの戦いに集中していたため、中の様子は全く窺い知れていない。アレクスの言からすれば、少し前までは静かではなかったということなのだろう。
「無事かな……あの子たち」
そう言ったアレクスの声には、強い不安が滲み出ていた。




