07 コムギウサギ
「で、どうだった、ウィスプの森は」
アルシラに戻った翌日、図書室で顔を合わせるなりダドリーに問われ、エリュースは笑みで応えた。ノイエン公爵領の森の調査は、大聖堂騎士兼司書のダドリー・フラッグからの依頼だったのだ。
「すごかったですよ本当に! まるでウィスプの海でした」
「そうか! でかしたぞ、エリュース!」
目を輝かせたダドリーが、棚から羊皮紙を出してきて広げた。鵞鳥の白い羽ペンを手に取り、インク壺にペン先を浸す。
「森に入ったところから、順に話してくれ」
「分かりました」
ダドリーに促され、エリュースは抱えていた書写板と本を脇に抱えたまま、話し始めた。それを書き留めていくペン先の動きと、紙に連ねられていく紫黒色の文字を眺めながら、タオと共に入った森を思い起こす。既に十日ほど前のことだが、昨日のことのように記憶は鮮明だ。
ウィスプが漂う森の光景を話し終えると、暫くペン先を動かしていたダドリーが、その手を休めて顔を上げた。
「なんと不思議な現象だ。エリュース、お前は格別に運の良い奴だな」
「そう思います。こんな弟子を持った師匠も、運が良いということですよ」
「うむ、まったく、その通りだ」
満足そうに笑うダドリーに、エリュースも笑った。
エリュースは、デュークラインと名乗った男との約束通り、ダドリーにあの少女に絡む全ての要素を話すつもりはなかった。本来、教団の末端にいる自分がすべきなのは、あの少女のことを教団に報告することだろう。タオは正確に認識していなかったようだが、あの少女の髪と瞳の色は教団が魔の証としており、特にあの色の瞳を持った赤子が生まれれば、教団及び異端審問院に届け出なければならない。しかし元々その仕組みに、エリュースは懐疑的だった。いつだったかダドリーが、彼が若い頃の話をした時、黒い瞳の足の速い可笑しな魔導士がいてな、と話していたことがあったからだ。魔導士の家系に多い瞳と髪の色だったとして、生き残りの魔導士を探すにしても、赤子に重点を置いていることに、どうしても違和感を抱いてしまう。
それに、ウィスプの森で見た彼女からは、魔物が放つような恐ろしい気配は感じなかった。寧ろ、不自然なほど清純で無垢な印象を受けたのだ。
タオから聞いた話から考えて、あの場所は結界によって囲まれているのだろう。あの少女が怪我をしたのが結界のせいだとして、少女にだけ効力がある結界など作れるものだろうか。こればかりは結界士の知り合いがいないため分からない。それに、デュークラインに従っていると思われるゴブリンも謎だった。タオによれば、人の言葉を喋るのだという。大きな町では人間に使われているゴブリンを見ないこともないが、それほど手懐けるとなると、他に例があるのだろうか。結界のこともゴブリンのことも、博学のダドリーならば答えをくれるかもしれないが、軽率にできる質問ではない。
もしあの男が少女の父親で、不遇にもあの色を持って生まれた娘を護るために森の奥に引きこもったのならば、あの場所にいる理由としては納得がいく。しかし、外に出さないためには傷付けることも辞さない結界には違和感を拭えない。それでもあの場所で護られているならば、とエリュースは思った。暴きたてる必要は感じない。何より、この目で見た少女の控えめな微笑みが、脳裏から離れないのだ。
「ウィスプはどこから生まれてきておった?」
「え!」
ダドリーの質問で現実に引き戻されたエリュースは、慌てて首を振った。どこからと言われても、生まれた瞬間を見てはいない。
「気付いたら、ウィスプだらけだったもので」
苦笑いで肩をすくめる。
それに対し、ダドリーが残念そうに口髭を撫でた。
「そうか。何かそういう場所があるのかと思ったのだがな」
「すみません。調査不足で」
申し訳なく謝ると、ダドリーも諦めたのか、インク壺の蓋を閉めた。
その時、入口の扉を叩く音がした。リズムを刻むような特徴的なノック音を不思議に思うと同時に、ダドリーが入室を許可する。軽い足音を響かせながら書架の向こうから姿を見せたのは、オーガ退治の報告の際に出会ったスバル・ウェスリーだった。
「あれ、やぁー少年! 今度は何を退治したのかな」
「いや、今回は何も。ただの調査だったんで」
エリュースは言葉を濁しながらも、楽しそうなスバルの笑みに応えた。あまり根掘り葉掘り聞かれたくはない。このウィスプの森の話も、ダドリーの所だけで留まるならば、実際に行ってみようという輩が出ることはないだろう。彼の知識欲は趣味なので、人に吹聴することはほぼない筈だ。
「何の調査? 前の彼も一緒だよね?」
「ええ。ウィスプが出るっていう噂の、森の調査で」
「ああ! 僕も聞いたことある。何か珍しいものとか見つけたの?」
「いや、ウィスプを見ただけで、何も」
「そうなんだー」
少し口を尖らせ、スバルが残念そうにする。彼にはダドリーも話しそうだなと、エリュースは思った。
「ねぇ、そういえば、そこって妖精がいるんじゃなかったっけ。妖精の女王様とか、いなかったの?」
「えっ、あぁ」
一瞬、心臓が縮み上がった。黒髪の少女が頭に浮かぶ。しかし平静を装い、エリュースはスバルから視線を逸らさないよう努めた。
「妖精は、いたかな」
「そうなんだ! ――ん? 妖精が珍しくなかったの? この辺じゃ見ないけど」
ますます心臓が早鐘を打つ。突っ込んで聞いてくるのは興味なのだろうが、悪意の無さそうなスバルの顔に、今は少し苛立ちすら感じる。
「あー、ふわふわ飛んでるのを、ちょっと見かけただけだから」
「ふぅん? そうなんだ」
ようやく納得したかのように、スバルが頷いた。「今度はいつ出掛けるの?」と無邪気そうに聞いてくる。
そんなスバルの様子が面白いのか、ダドリーが豊かな顎髭を撫でながら、息を吐くように笑った。
「スバルよ、エリュースはコムギウサギみたいに、すぐ飛んで出ていくような忙しない奴じゃないぞ?」
「あれ、それじゃあ、僕はコムギウサギみたいだって言うんだね? 否定はしないよ。なかなか落ち着けないからねぇ」
くすくすと楽しそうに、スバルは笑う。
昔、研究のために飼っていたダドリーが言うには、コムギウサギは本当に忙しない兎なのだそうだ。小麦畑で跳ねているのをよく見かけられるため、そう呼ばれているのだが、外に飛び出して戻ってきても、またすぐにどこかへ行ってしまうらしい。故に巷では、落ち着きがなく、すぐ旅に出るような人のことを、コムギウサギと揶揄することがあるのだ。
「じゃあ、俺はこれで失礼します」
「僕のことなら大丈夫だよ? 話を続けてくれて。遊びに来ただけだから」
「話はもう終わったんで、大丈夫です」
スバルの申し出をやんわりと断り、エリュースはダドリーに頭を下げる。またな、と言ってくれた彼に笑みを返し、出来るだけ慌てず、その場を辞した。
大聖堂騎士団本部を出たその足で、エリュースは庭を挟んで向かいにある学校へ入った。午後の授業に参加する年齢も様々な生徒が、思い思いの場所にいる。机や椅子はなく、ただの広間だ。開け放たれた窓からは、明るい日差しが入り込んでいる。
「エリュース! いつ戻ってきたんだよ」
「昨日な。久しぶり、ロニー」
よく話をするロニー・バートンが近付いてきたので、エリュースは彼と共に板張りの床に腰を下ろした。彼の持っている長方形の書写板には、緑の蜜蝋が塗ってある。それを抱き抱えながら、ロニーが心配そうな顔をした。
「神聖語の文法学の口頭試験、今日の午前中だったんだぞ」
「ああ、そういえば、そうだったっけ」
そう言ってから、ロニーの心配を取り除くべく、エリュースは説明する。
「学頭の司祭様に言われて、旅に出る条件としてその試験、もう受けてるから」
「じゃあ、合格してるってことか!? 難しかったぞ、あれ」
「そういうこと」
自信たっぷりに言うと、ロニーが驚いた様子で目を丸くした。
「歌うこと以外は、さすがだな」
「神は音程の悪さなんて、気にしやしないさ」
歌うことは好きだが、ロニーやタオに言わせると、どうも自分には音楽の才能はないらしい。それでも意味を分かって歌っているので、神には届いている筈だ。
「お、堅物の身内が来てるぞ」
ふいに揶揄するような声が聞こえ、エリュースは顔を上げた。『堅物』とは、サイラスのことだ。その声の主を見て、うんざりした気持ちになる。何かと面倒な、貴族の五男坊だ。その後ろには、取り巻きの連中がいる。
「昨日、あの堅物がどこに入っていったと思う? ダルムート通りだ。あんな貧民しかいないところで、することなんて何もないだろうに。あんな連中、さっさと外に放り出すのが、あいつらのお役目じゃないのかねぇ」
「一緒にいた若いのも、あんな堅物についてたんじゃ駄目ですね。木材を担いで何をしているのやら。腰の剣が泣いてますよ。ジャイルズ様の方が強いんじゃないですか?」
「あんな優男には負けないさ。機会があれば打ちのめしてやりたいね」
彼らの聞えよがしな会話を聞きながら、エリュースは溜息を吐いた。同じ時期に入学した割に、無知のうえ短慮だ。出来れば関わり合いになりたくない。それなのに、いつだか会ったサイラスに説教され、それ以来こちらに毒を吐いてくる。こんな奴らが将来、上に立つ司祭や主教に成り上がっていくのかと思うと、げんなりする他ない。建前はともかく、実際には縁故関係と金が、物を言うのだ。そのことは、アンセル・マーシュ司祭や父親の話を聞いていれば分かる。
「そういえば、あいつ。この前女と歩いてたの、見ましたよ。堅物の娘ですが、なかなかの美人で」
「それは丁度いいな。娼婦には飽きてきたことだし」
聞き流そうとしていた中、話の内容が物騒なものになってきた。こうなると、放っておくことは出来なくなる。
エリュースは自分の書写板を心配そうなロニーに預け、立ち上がった。入口の方で立っているジャイルズ・ガーティンに近付く。年は向こうの方が上だが、背丈はこちらが上だ。傲慢さを絵に書いたような、こういう男は嫌いだ、とエリュースはその顔を眺めながら思う。
「何だ? オーティス。地方司祭の息子が、私に何か意見でも?」
「ああ、貴方のためを思って、教えてさしあげようと思いましてね。大っぴらに自分の愚鈍さをひけらかすような者は、すぐに淘汰されますよ」
「俺を馬鹿にしているのか! って、淘汰って何だよ!」
眉尻を吊り上げたジャイルズが声を荒げた。そのせいで、他の生徒の目がこちらに向いたのが分かる。
エリュースは質問には答えず、わざと笑んでみせた。
「心当たりがおありで?」
「お前、私はグラスター伯シリルの息子だぞ! それに兄は大主教様の侍従にまで!」
「兄君のことは知りませんでしたが、父君のことは聞いたことがありますよ。グラスター伯爵は温厚で優秀な人物と噂では聞いていましたが、貴方を見ていると、それも怪しく思えてきますね?」
「なんだと!」
既に頭が沸騰しているようなジャイルズを見ながら、新たな情報にエリュースは納得していた。大主教の侍従といえば、彼の手足となって動く少数の選ばれた従者のことだ。その地位はかなり高く、なりたい者は多いと聞く。確か、アルシラの西にあるグラスター伯爵領にはアルム主教領があり、現在その主教は大主教の息子が務めている。そもそも大主教の出身も、そのアルム主教領の筈だ。勿論、本当にジャイルズの兄が有能ならば、縁故関係でも非難する気は毛頭ない。
「貴方が勝手に自滅して父君や兄君の評判が落ちるのは、俺にはどうでもいい。だが、俺の身内に手を出すような真似をするなら、許さない」
ジャイルズを見据え、静かに言い放つ。本気で言っているのが伝わったのか、ジャイルズの目に怯えが浮かんだのが分かった。無意識なのだろう、彼の足が一歩下がる。
「ご自身の身内に切り捨てられないよう、その場に恥じぬ言動と行動をすべきでは? ジャイルズ卿」
「なっ」
「それに、大聖堂騎士サイラスは騎士団長ヘンリー・パーセルの信頼も厚い騎士団の重鎮。民衆からの評判も良い。そんな彼の娘に何かすれば、話は大主教様にまで届くでしょう。そうなれば、貴方の地位など関係なく、ここを追い出されるでしょうね」
たとえ縁故関係にある伯爵の子息だとしても、民衆の支持を失いたくない大主教ならばそうするだろう。その兄をそのまま侍従として残すならば、伯爵に対する義理立てもできる。
青褪めていくジャイルズに、エリュースは一歩近付いた。
「いや、その前に、貴方が軽んじたサイラスの従士に斬られるでしょうね。貴方の腕前がどれほどのものかは知りませんが、あの従士は、オーガ退治もこなした男です。それを怒らせればどうなるか、想像することは容易いでしょう?」
普段は優しい顔をしているタオだが、やる時はやる男だ。その時、タオを止める気はない。タオが不利にならないよう、後の始末に動くだけだ。
「オーガだって? まさか」
更に一歩下がったジャイルズから、取り巻きが少し離れている。やはり権威に取り入ろうとする程度の輩らしい。
これ以上は何も言わず、エリュースはただジャイルズを見据えるに留めた。これでもまだサイラスの身内に対して愚かな行いをするならば、どんな手を使ってでも叩き潰すつもりだ。
その時、教室に入ってきた硬い足音で、エリュースは下方に視線を落としつつあったジャイルズへの視線を切った。何故か嬉しそうな得意顔で迎えてくれたロニーの傍に戻る。
教壇に立ったのは、修辞学を担当する司祭だ。大聖堂に集まる各方面からの依頼を取りまとめているアンセル・マーシュ司祭と同様、司祭という地位を得ているが実際にどこかの聖堂に務めているわけではなく、この大聖堂付属学校の教師の役目をしている。このアルシラに残ることが出来、優秀さを認められて教師となることは、栄誉なことだろう。ここに入学できる裕福な家の出であっても、司祭の地位を得られるのはほんの一握りの人間だけなのだ。職に空きが生じなければ、次の者はただ待たねばならない。故に殆どの者が、どこかの領主に仕えたり、筆写人になったりする。限りある司祭の地位を得るためにも、なりたがる者の多い狭き門の職業だ。
「ジャイルズ・ガーティン。授業を受けるのならば座りなさい」
厳しい口調で促されたジャイルズが弾かれたように顔を上げ、こちらから離れるようにして壁際に身を寄せて座り込んだ。それを横目で見たエリュースは、小さく溜息を吐いた。小心者ゆえに、無闇に吠えるのだ。
「さすがエリュース、かっこよかったぞ」
耳元でロニーに囁かれ、エリュースは苦笑した。
講義が始まり、尖筆を手にとって蜜蝋を削りながら書写していく。白く削れていくその色を眺めていると、またもウィスプの森の少女のことを思い出していることに気付いた。ほんの少し同じ場所にいただけなのにと思うが、教団の禁忌を目の前にしたのだ。
「そりゃ、仕方ないよな」
知らず、独り言を口にしてしまう。
それに気付き、エリュースはロニーの不思議そうな顔に対し、何度目かの苦笑いをすることになった。
夕暮れの酒場はそれなりに人々で埋まりつつあった。カウンターの向こうでは、この店の主であるラルフが酔っぱらい客の相手をしており、給仕に動いているのは彼の息子や娘達だ。商人たちの店が並ぶチェルシー通りには、こうした酒場がいくつかある。テーブルが五卓ほどあり、既にその半分ほどを客が使っているようだ。明り取りの小さな窓には油を塗った羊皮紙が貼られており、壁の上部には排煙用の穴が作られている。木の壁に間隔を空けて掛けられているランプの灯りと、各テーブル上に置かれている小さな皿状のランプのお陰で、かろうじて視界が利く状態だ。大きな声で話している者もおり、それなりに騒がしい。
そんな酒場の隅のテーブルに、エリュースはタオと共にいた。アルシラに帰ってきた昨夜はサイラスの家で過ごしたが、今夜はタオから少し飲まないかと誘われたのだ。
目の前に座っているタオの明るい金髪が、灯りを受けていつもより色濃く見えている。手元の木製のコップに視線を落としている彼を眺めながら、エリュースは片肘をついた。
「お前が何を考えているか、当ててやろうか」
そう声をかけると、タオが思考の淵から戻ってきたように顔を上げた。
「あの子のことだろ」
「ああ――」
自嘲気味な笑みを浮かべたタオが、否定せずに小さく頷く。
これはかなり重症だな、とエリュースは思った。
「で、ルゥと喧嘩でもしたか」
「え! なんで知って」
「そんな状態じゃ、ルゥに変に思われても仕方ないだろ。どうせ話を聞いてないとかそんな感じじゃないのか」
そう指摘すると、タオが驚いたように目を丸くした。
「エル、お前ってやっぱり天才かも」
「帰ってくるまでの様子を見てりゃ、予想はつくさ」
アルシラに帰ってくるまでの間ずっと、タオとの話題はほぼ、あの少女のことだった。何故怪我を治してやらなかったのか、あの子はちゃんと手当てされているだろうか、と問うのだ。怪我をしていることにはすぐに気付いたが、あの場の状態ではどうにも出来なかった。あの男が斬る気になっていれば、自分達の命はあの場で消えていたことだろう。幸いだったのは、あの男が『考える』力を持った者だったことだ。そして少なくとも、あの場での決定権を持っていたことだ。自分たちを斬らなかったのは、教団にあの場所を知られたくないことに加え、あの少女があの場にいたことも理由の一つだと考えている。タオによれば、あの男は少女を塔へ入れさせようとしていたらしい。まるで斬る様を見せたくないような、そんな気遣いにも思われる。もし彼女を捕えている悪漢だったならどうするのだとタオは言うが、それらの理由から、その可能性は低いとエリュースは見ているのだ。
「何度も言ったろ。あの子は手当てを受けている筈さ。着ているローブも、汚れていなかった。顔に殴られた痕もなかった。何より、あの子はあいつを怖がっていなかった。だろう?」
「それは、そうだけど」
「気になるのか」
改めて問うと、タオの視線が落ち、その首が項垂れた。
「忘れられないんだ。あの子の寂しそうな目を思い出すたびに、心配になるんだよ」
「ルゥとは――」
「それは違う、ルゥとは違うんだ」
顔を上げたタオの目は、しっかりと自分を見ている。嘘偽りを微塵も感じさせない青い瞳は、時に眩しく思うほどだ。
「ルゥへの気持ちは変わってない。ただ、分からないけど、あの子を放っておけない気持ちがあるのは確かなんだ」
「分かったよ、タオ」
落ち着くよう腕を伸ばして肩を叩いてやり、エリュースは手元のエールを飲んだ。
まだ出会ったばかりで気持ちが定まらないのも分かる。サイルーシュに対するタオの真摯な気持ちは知っているし、よっぽどのことがない限り、それが揺らがないだろうとも思っている。しかし気持ちの移ろいは絶対にないわけではない。その時に、タオには本心を偽って欲しくはない。ただし、それは相手が『問題ない相手』であった場合だ。
「まぁ、気になるのも仕方ないよな」
「エルも?」
「そりゃ、あの子は多分、だからさ」
声に出さず、テーブルに指先で『魔女』という文字を綴ると、タオが目を見開いた。その存在が禁忌だということは知っているらしい。
「あの子が? 『浄化』の生き残りだって言うのか?」
「生き残りの、次の世代ってとこだろうな。あの髪と瞳を見たろ。それに、妖精の言葉が分かるようだったし」
「じゃあ、あのウィスプの現象はあの子が?」
タオがした質問に、エリュースは呆れた顔を隠さずに息をついた。
「お前は腕は立つし馬鹿じゃないが――」
「何だよ」
拗ねたようなタオが、答えを急かす。その表情は、彼の素直さの現れだ。
「考えてみろよ、あの子はいくつに見えた? 二十三? 四十六? 六十八? あの現象はずっと前から文献に残っているんだ。あの子が原因とは考えにくい。精霊力の満ち引きなのか、あの小妖精たちが二十三年かけてせっせと準備しているのかは知らないけどな」
「そっか。そうだよなぁ」
可笑しそうにタオが笑った。
「小妖精がせっせと、か。面白いな」
「だろ」
互いに顔を見合わせ、笑い合う。
ひとしきり笑った頃、テーブルの傍を肉体労働者らしき数人が通っていった。汗臭い臭いが鼻をつき、エリュースはゴブリンを思い出す。
「そういえば、あのゴブリン、臭くなかったよな」
そう言うと、タオが思い出したように頷いた。
「そう言われれば、臭くなかった。あれ? 前にゴブリンの洞窟に行った時、鼻が曲がるほど臭かったのに」
「だよな」
エリュースは、ウィスプの森で見たゴブリンを正確に思い出そうと努めた。少女の傍にいたゴブリンは、明らかに今まで見たそれと違っていたのだ。
「ゴブリンの洞窟が臭いのは、あいつらが水浴びもせずに食べ散らかして、糞尿をそこらへんに撒き散らすからだよな」
「うん、酷い有様だった」
思い出したのか、タオが顔を顰める。二度と入りたくないのが本音だ。
「あのゴブリン、着ているものも、しっかりした生地のものだった。しかも、あの体形にぴったり合っていたぞ。まるで誂えられたみたいに」
「誰かが作ってあげたってこと?」
「多分な。案外優遇されているのかもしれない。他の領地の大きな町じゃあ、たまに溝さらいをさせられていたりするのを見掛けたことがあるけどさ、ボロボロの布切れを引っ掛けただけの恰好だったし、お前の言うように会話出来たりなんて聞いたことがない。せいぜい簡単な命令を理解する程度のものだと思っていたんだがなぁ」
ゴブリンを従えていたあの男も得体が知れない、と思う。着ているものも悪くなかった。少女が『デューク』と呼んだ時、すぐに可能性を否定出来なかったのは、コット(※丈長のチュニック型の衣服)の腰に巻かれているベルトが、庶民が持てる物ではなかったせいだ。金具の部分は銀製のようだったし、小さな宝石もあしらわれていた。そういえばあの剣も、珍しい物だったことを思い出す。
「あのデュークラインって、サイラスおじと同じくらいの年だよな、多分。どっちが強いと思う? お前の体感的に」
「そうだなぁ……」
少し考え込むようにして、タオがコップの縁を撫でる。迷っているようだ。それほど、あの男が強いと感じたのだろう。
「まだ本気を見た気はしないから、なんとも言えないかな。でも、二人が戦うことがないよう祈りたいよ。あんな剣も初めて見たしね」
「あれなぁ。刀身が波打ってる形なんてあるんだな。渡来物の可能性もあるぞ。片刃だったしな」
「そうだった!?」
「お前、本当にあの子しか意識してなかったんだな」
呆れながらも、タオがこれほど気にしていることには納得がいく。
これが俗にいう一目惚れというやつか、と思っていると、タオがエールを飲み干したらしく給仕に銅貨を渡して追加を頼んだ。それから持ってこられたエールを珍しく呷り、両手で頭を抱え込む。
「不思議なんだよ、あの子。初めて会ったのに、それだけじゃない感覚というか、懐かしいような感じ。すごく悲しそうで、寂しそうだったんだ」
タオがそう言うなら、そうなんだろうとエリュースは思った。自分が見た感じでは、少女の表情はほぼ無表情に近かった。笑いかけると、ほんの少し笑ったように見えたが、それも僅かな変化だった。
「護ってあげなくちゃって、思うんだ。もう二度と会えないんだと思ったら、余計にそればかり考えちゃって。ごめん、おかしいよな、こんなの」
「おかしかないさ、ちっとも」
落ち込んだ声を軽く跳ね飛ばし、エリュースもエールを飲み干した。
あの少女とタオを引き合わせたのは、自分のようなものだ。少しばかり責任を感じる。それに、自分自身、あの少女が気になっていることは否定出来ない。
「アンセルさんに頼んで、あっち方面の仕事があったら振ってもらう」
そう言うと、タオが勢いよく顔を上げた。驚いた様子の後、不安そうに眉尻が下がる。
「でも、行って大丈夫かな? 今度こそ斬られるかも」
「来るなとは言われていないぜ。あの場所を誰にも言わない、とは約束したけどな」
タオの心配は分かる。しかしあの少女がいれば、何とかなりそうな気もしている。そもそも、常に彼がいるとも限らない。
「寂しそうならさ、友達になりに行こう」
「友達」
「そうだ、友達」
みるみる内に、タオの表情が明るくなる。嬉しそうに、片手を取られた。剣を持つ硬い両掌で、強く握られる。
「エル。お前って最高」
「そりゃどうも」
「ついでに、今夜は一緒に帰ってくれない?」
「それはいいが、ルゥとのことは自分でなんとかしろよ。花でも買って帰れ」
ちょうど、酒場に花売りが来ている。まだ年端もいかない幼い少女だ。売れ残りの花が、まだ籠にそれなりに残っている。
「うん、そうする」
元気の戻った様子のタオが、溢れんばかりの笑顔で頷いた。
「すぐにとはいかないからな。それと、阿呆な連中がいるから、ルゥの周りも含めて注意しておけよ」
あそこまで言えばジャイルズ・ガーティンも手を出して来ないとは思うが、それなりに頭の足りない奴はいるものだ。用心に越したことはない。
「分かった」
少し驚いたように瞬きをした後、真顔に戻ったタオから、しっかりとした返事があった。意味は伝わっているようだ。それに満足し、エリュースは花を買いに席を立ったタオの背中を見送った。
自分達もコムギウサギみたいなものだなと、可笑しく思う。ダドリーはああ言ってくれたが、結局もう行くことを決めてしまった。出掛けて、戻って、また出掛ける。ダドリーの兎も、もしかしたら出掛けた先で、何かを見つけていたのかもしれない。
腰を屈めて少女と話しているタオから視線を外し、追加を頼もうか悩みながら空のコップを見ていると、鼻先に紅色の花が触れた。黄色の花芯の鮮やかな花だ。顔を上げると、その小さな花束を持ったタオが陽気に笑みを浮かべている。
「おぅ、綺麗だな」
「だろ」
花束をテーブルの端に置き、タオが椅子に戻った。
「喜んでくれるかなー」
そうタオが呟きながら、視線を上げたことにエリュースは不思議に思った。何を見ているのかと振り向く前に、肩に一瞬、軽い重みがかかる。驚いて振り向き見上げると、そこには見知った人物が立っていた。
「スバル!?」
「やぁ、少年。偶然だね」
にこやかに笑みを浮かべているスバルが、タオに片手を差し出した。律儀に立ち上がって手を差し出したタオと、握手を交わす。
「タオ・アイヴァーです」
「スバル・ウェスリーだよ。こっちの少年とはちょっとした知り合いなんだ。よろしくね」
「こちらこそ」
挨拶を交わした後、目ざとく花束を見つけたのか、スバルがその目を細めた。
「女の子への贈り物? 君、もてそうだもんねぇ。さては喧嘩の仲直りかな」
「え!」
目を瞬かせながら、タオの視線がスバルと自分とを交互に見ている。
「エルといい貴方といい、俺ってそんなに分かりやすいかな」
「当たり? 浮気でもバレちゃった?」
「し、しませんよ! ただ気になる子に出会っただけで――」
慌てたように否定し始めたタオに、エリュースは彼の言葉を止めるために花束を手に取った。それを、タオに持たせるように差し出す。
「だったら、ほら、早く持っていかないと、萎れちまうぞ。それこそまた怒らせちまう」
「あ、う、うん」
一瞬不思議そうにしたものの、それもそうかと思ったのか、タオが花束を手にした。エリュースも立ち上がると、スバルが体一つ分退いてくれる。
「悪いな、スバル。俺達もう行くから」
「いいよ。仲直りは早い内がいいからね。でも、今度は一緒に飲みたいなぁ。君は、いや、君達は面白いからさ」
楽しそうに笑んでいるスバルに、エリュースはとりあえずの笑みを返した。妙な人懐こさからそう感じるのかもしれないが、やはりどうにも胡散臭い人物だと思うのだ。
「じゃあ、また機会があれば」
当たり障りのない言葉を返す。
スバルが笑んだまま見送ってくれている視線を感じながら、エリュースはタオを促し、酒場を後にした。