68 夜明け①
夜が明けようとしている。
薄暗がりの中、カークモンド公爵クラウスは凭れていた木の幹から身を起こした。若い頃は野宿も楽しかったものだが、年を取ってからは体のあちこちが痛くなり、既にいつものベッドが恋しい。
焚火の向こうで座っていた従兵が動こうとするのを、クラウスは片手を軽く挙げて制した。毎度わざわざ直立不動で応じる必要はない。とは言え、これで不要だと勝手に判断し、以後敬意を示さない者をクラウスは好まなかった。下の者に規律を行き渡らせるのも、人の上に立つ者の役目だ。
今回は、供の者を最小限に留めている。それ故、クラウス自身も見張りの一端を務めなくてはならなかった。勿論、旅を始める時からこの事態を望んでいたわけではない。数が足りなくなったのは、イズリーン港に停泊させているギュスアの快速船フィデスに留め置いた数を増やしたせいだ。
妻であるカリスの意見を聞く前から、クラウス自身もアルシラで何かが起きる気配を感じていた。前回アルシラを訪れた際に寄った異端審問院では、政治的な動きが起こる兆しが見えていたからだ。大主教の侍従の偽者を巡る権力闘争――それに巻き込まれた時に、退路を確保しておく必要があった。
船の存在は重要だ。今回も、仮にクラウスを取り込もうとしている勢力が船を先に制圧し、協力を迫るような事態が発生したとしても、その場合は捕縛される前に速やかに港を離れるよう指示を出している。再合流地点も二か所まで決めて打ち合わせており、それらがもし押さえられたとしても、腹心の騎士フェリエに任せたのでなんとかするだろう。
アルシラで起き得る最悪の事態は、ウィヒトの呪いが成就してしまう事だった。が、どうやらそれが起きたらしい。復調したカリスは大きな魔力の変動を感じたようだが、そのような才能がなくとも、アルシラ方面に異様な黒雲が湧いたのを見れば、ただ事ではないことは一目瞭然だった。後に、アルシラから逃げてきた人々の群れに遭遇し、その読みが正しいことが証明されたのだ。
その事実を知るまでは魔女裁判に間に合うようにと急いでいたが、事が起きたと分かると、クラウスは敢えて歩みを遅くした。カリスはまだアルシラに至ろうと気が急いているようだが、クラウス自身は正直なところ、もう着かなくても良いとさえ思っている。
急いでいた理由は、表面的には魔女裁判へ間に合うためだった。潜在的には、ウィヒトの呪いが成就しないように働きかけられるか、という理由だ。その両方が消滅した今、被害を最小限に抑える努力はできるが、それはクラウスには責任のない仕事だった。若い頃ならば、冒険心を掻き立てられる困難として、寧ろ飛び込むことに吝かではなかっただろう。しかし今は、カリスやデルバート、そして部下たちを危険に巻き込むことになるため避けるべき障害だと認識している。
避難民が騒いでいたように、復活したウィヒトや魔物の手によってアルシラが陥落していたならば、城壁に囲まれたアルシラを外から攻めるのは悪手だ。ましてや、クラウスが率いている兵は少ない。すぐにアルシラの町全体が落ちるとは考えにくいため、外から攻めるより、中の生き残りが対処する方がずっと適しているだろう。そして、責任としてそうすべきだとクラウスは考えていた。
それでも引き返さずにアルシラへ向かっているのは、偏にカリスが望んでいるからだ。しかし、クラウス自身も頭で考えていることとは裏腹に、心の奥では生まれつきの冒険心が疼いているのを感じていた。年齢からくる億劫さがそれを熾火に留めてくれているが、事態が周りで動き出せばやる気が炎として燃え上がるのは止められないだろう。
辺りが次第に仄明るくなっていく様を眺めながら、クラウスは溜息を吐いた。
幸い、そうならないような事態に今は陥っている。アルシラへと至る橋が壊されていたのだ。アルシラから魔物の軍勢が追ってくるのを恐れた避難民たちが、恐慌に駆られて暴挙に出たのか。或いは今も各地で暗躍している混沌の神への狂信者による仕業か――。クラウスたちが橋に着いた時には既に破壊されていたため、原因は分かっていない。
橋の向こう側には、遅れて逃げてきた者たちが今も溜まっているだろう。その中に職人もいたようで、昨日の日が暮れるまで、その者と協力者による補修工事が進んでいた。とはいえ、当然ながら材料は元々準備されていない。有り合わせの物や、近くから切り倒してきた木材を使った補修作業は、半日では完了しなかった。だが、橋は完全に落ちたわけではないため、長くとも三日と掛からず通れるようになるだろうとクラウスは見積もっている。三日は、待つ者にとっては長い。それでも、迂回路を取ってアルシラに向かうのに比べればずっと早い。
実は、川を渡ることもできなくはなかった。川の流れはそう早くなく、足が届かないほど深くなる幅も長くはない。だが、多くの荷物を抱えて渡るとなると、それは不可能に近かった。現に、荷を簡素な筏に浮かべて運ぼうとした避難民もいたが、何度も行ったり来たりを繰り返さざるを得ず、結局家族と家財を日暮れまでに運び切れていなかった。川岸が人の背の高さを超えるほど抉れて高くなっているのも、強行して川を渡るのを難しくしている理由だ。いくら荷を減らしてきたとはいえ、カリスと女中頭のトレリスを連れてきているクラウス一行も、川を歩いて渡る選択は愚行と言えた。
そのカリスとトレリスは、唯一運んできていたテントで夜を明かしている。但し、今はその中にカリスはいない。夜闇が薄くなり始めた頃にテントを抜け出しているのを、クラウスは見ていたからだ。
クラウスは、カリスがまだ戻って来ない事を心配してはいなかった。物騒な風向きになってはいるが、魔力行使の能力を取り戻したカリスは野盗程度が束になっても適う相手ではないからだ。戻って来ないのは騒動に巻き込まれたからではなく、居ても立っても居られない心境だからなのだろう。
さりとて、ずっと放置しておくのはやはり心配だ。
クラウスは軋む体を伸ばし、立ち上がった。戦争時のような板金鎧は着けていないが、鎧下と皮のジャケットは着込んでいる。傍に寝かしていた大剣を持って行くべきかと少し考えたが、そちらではなく軽戦鉾を拾った。肘から先ほどの長さの棒の先端に、握り拳よりやや小さい鉄球が付いただけの単純な武器だが、威力は高い。特に金属製の鎧をまとった相手と戦う際には、ありきたりな剣よりもずっと頼りになった。勿論、小剣は帯びている。
予想した通り、カリスは壊れた橋の袂に立ち、アルシラの方向を眺めていた。今はまだ薄っすらとしか見えないが、不吉な雲は未だアルシラの上空に広がっているのだろう。
「冷えるぞ」
そう声を掛けると、まるでその感覚を思い出したように、カリスは自らの両肩に手を回すと身を震わせた。
「でも……、こうしている間にもあの子たちの身に――」
クラウスはカリスに近付き、その冷えた肩を強く抱き寄せる。そうすれば、腕の中に納まった彼女の発言が止まった。これは、既に何度も繰り返された問答なのだ。「心配したところで何も変わらない」そう言い聞かせたクラウスだったが、心配する気持ちを止められないことも理解していた。
ウィヒトが復活したようだと最初に分かった時。クラウスはカリスに、それでもアルシラに行きたいのかと聞いた。カリスは迷うことなく「行く」と答え、その理由としてカイへの心配を挙げた。
「――あの娘は、私の妹が火炙りにされた切っ掛けとなった存在と言えます。ですから最初は、どこかで憎いと思う気持ちがあったように思います。こちらから手を出しにくい状況だったとはいえ、敢えてあの娘にとって厳しい環境に置いたままにしておいたのも、私の中にあった憎しみがそうさせたのかもしれません。ですが……あの娘の成長を見守るにつれて、いつしか憎しみが薄れていったのです。今では、愛おしいと心から思います。考えてみれば、あの娘は妹が命を懸けて守った存在とも言えるのです。そう思うと、あの娘が妹の形見のような、生まれ変わりのような存在だという気にもなるのです」
両手を胸元に当てながら気持ちを紡ぐカリスの表情は、実に愛情深かった。いつもの涼やかな眼差しには涙が浮かんでおり、それでいて強い決意が滲み出ていた。そんな彼女を、クラウスはとても美しいと思ったのだ。
「今ではあの娘のことを、本当の娘のように思っています。母として、これまで助けてやれなかった償いをしたいのです。あの娘は……、自分が自分でなくなるのを酷く怖がっていました。あの娘はきっと、最後まで自分のままでいようとした筈です。それなのにウィヒトが復活したということは、きっとあの娘が耐え切れない何かが起きたということ――。ウィヒトに操られているなら助け出してやりたい。もし……、もう乗り移られて戻らないのであれば、あの娘が望んだように、解放してやりたいのです」
そう言って、カリスは涙を流した。そんな彼女を抱き締めながら、クラウスはカリスのためにアルシラへの旅の続行を決めたのだ。
カリスの気持ちは、クラウスにも分からなくもなかった。カリスの想うカイには会ったことがないため感情移入をしようもないが、デュークラインには似た感情を抱いているからだ。
デュークラインは、人間の姿に成れるようになった当初は、生まれたての子馬よりも頼りなかった。自力で立つこともできず、言葉も喋れなかったのだ。クラウスは、今のデルバートに瓜二つだというデュークラインが、カリスが魔法で造り上げた偽者だと分かっていたし、彼女の復讐の手駒として使うと理解していた。それ故、当初はそういう目で見ていたのだと思う。しかし、カリスの手駒として充分に働けるようデュークラインに戦い方を教え込むうち、気持ちは自然と変わっていった。武術の徒としては寧ろ本物より優秀なデュークラインは、初めの頃は喋りも拙かったため、余計に愚直に学んだのだ。そのうちにクラウスは、デュークラインを『デルバートの偽者』というよりも『デルバートを演じることを課せられたデュークライン』個人として、自らの弟子だと思うようになっていた。
そんなデュークラインは、異端審問院に捕らえられている。牢の中に見た姿は、拷問の痕が見られ酷いものだった。まだ生きているのかすら分からない。本物のデルバートから二人が出会った時の様子を聞いた時には、デュークラインの律儀さに感心すると同時に哀れみを覚えたものだ。
「今は信じるしかない」
アルシラには大聖堂騎士団がいる。異端審問院にも儀侍兵がおり、教団も衛兵団を抱えている。それなりの戦力はある筈だ。だが、クラウスは戦場でのウィヒトの戦いぶりを伝令から聞いて知っていた。ウィヒトがあのまま戦場に居れば、あの戦争は勝てていたかもしれない。実際には王都には周辺地域や国からの加勢があり、アルシラが勝つのは難しかっただろう。しかし、そんな考えが浮かぶほど、ウィヒトの魔法は凄まじかったのだ。
着いたときには既にアルシラが壊滅していてもおかしくはないな――そう思いながら、クラウスは次第にはっきりと見えてきたアルシラの上空に広がる暗雲を眺め見た。
* * *
白み、朧気に輪郭が浮かんでくる町並みを、ダドリーは窓から眺めていた。
空気は冷たいが、煙臭さは抜けている。ウィヒトの騒動が起きてから町の複数個所で発生していた火事は、町の治安が回復するのに合わせて治まったようだ。これからは、朝餉のための煙があちこちから上ることだろう。
一見いつもと変わらない夜明けの光景に、黒い影が空を横切った。鳥にしては大きすぎるその影は、昨日から町を荒らし始めたガーゴイルだ。
元が石像だったものをウィヒトが魔法で動かした経緯から、ダドリーは石ガーゴイルが目で見ていないのではないかと予想していた。そして、どうもそうらしいという報告をエリュースから受けた。だから、ガーゴイルたちは夜の闇の中でも眠ることなく動き続けていたのかもしれない。
アルシラへ混乱を撒き散らしたガーゴイルだったが、大聖堂騎士団や衛兵団、司祭たちの働きによって混乱はほぼ治まっていた。特に、エリュースの演じた大主教による石ガーゴイル退治の噂は、絶望し始めていた町の人々に希望を齎した。ガーゴイルの行動は単純であり、慎重に距離を取っていれば被害は抑えられるという対策が広まったのも、治安が回復した大きな要因だ。
しかし、町で人を見かけなくなった石ガーゴイルは、何かを持って飛び、建物へそれを投下するという行動をとり始めた。当初はそれで慌てて外へ飛び出し、ガーゴイルの餌食となる者もいたが、そのうち大人しく屋内に籠るのが現時点で町民が取れる最良の手だと理解され、被害は少なくなったと聞いている。勿論、落下物により家屋が損傷し、直接怪我をする者は出ている。だが、この攻撃の頻度は高くなく、まだ不安と不満はアルシラ全域に行き渡ってはいなかった。決戦は今朝仕掛ける手筈になっており、それが終わるまでは民にも辛抱してもらうしかない。
扉がノックされた。
ダドリーが許可を出すと、ピンドルが入って来た。夜が明け切る前に、斥候として大聖堂の様子を探るよう放っていたのだ。
扉をきっちりと閉め、少しダドリーの方へと歩を進めてから片膝をついて頭を下げたピンドルの姿は、薄暗い室内でぼんやりとしか見えない。
「ガーゴイルたちの様子はどうだ?」
「はい。大きい奴は朝食の真っ最中でした」
ピンドルは、以前は荒野を旅する行商人だった。町の外の世界は野蛮で凄惨なため、ピンドルはそれに慣れている。だから、町民であれば目を背ける、人が魔物に食われている情景を軽口として扱うのだ。それについていちいち目くじらを立てるダドリーではなかったが、やはり安全な町で生活をする者として気分が良いわけではない。詳細な報告が出てくる前に、話を進める。
「石像だった方は?」
「二体が動かず、待っていました」
「む? 二体? もう一体はどうした?」
ウィヒトが動かしたガーゴイル石像は七体。うち四体が町へと下りている。聖堂前に残っているのは三体のはずだ。もしかすると、エリュースたちが倒した一体の補充として町へ移ったのだろうか――。そう考えていると、ピンドルがそれについての報告を付け加える。
「もう一体は異端審問院の手によって破壊されたようです」
「ほほぅ」
ダドリーは素直に驚き、感心した。
異端審問院は、断罪の広場の混乱を治めるのに手間取ってしまったようだが、アルシラの混乱回復に全く手を出していなかったわけではない。町での行動は分からなかったが、少なくとも大聖堂への行動は確認している。彼らは衛兵団の突撃の失敗によって崩壊した翼廊のうちの一つを、回復させようと試みていた。夕暮れ近くに、ジェイ率いる一団が瓦礫の撤去作業を開始したのだ。
正面入り口はガーゴイルたちが護っていた。今もそうだろう。それ故、側面の翼廊からの侵入を図るのは策としては考えられるが、ダドリーは考慮の対象としていなかった。瓦礫の撤去に多大な労力を取られると考えたからだ。取り除く作業で新たな崩落が起きる危険もあった。もしなんとか進入路を確保できたとしても、その時には騎士たちは作業で疲弊しており、また進入路も必然的に狭く、戦力は一気に投入できない。結果、危険度の高い手段しか採れないだろう。故に、除外した策だった。
だが、異端審問官のジェイは、少なくとも戦力の疲弊を軽減させる手段を採っていた。志願したものか徴用したものかは分からないが、工夫たちを隊に加えたのだ。土砂の扱いに通じている工夫たちの作業なので、崩落の危険も最小限に抑えられるだろう。戦力となる儀侍兵たちは工夫たちの警護に専念するというわけだ。夜通しの作業は工夫たちにも、警護する者たちにも大きな負担となっただろうが、そこは予め交代の人員を用意している様子だった。
ジェイの策は、正攻法ではあるが、いわば力押しの策だ。奇策を用いがちなダドリーに対し、ジェイは意外にも策士としては剛腕な手を好むようだった。
この異端審問官たちの試みは、昨日の段階でピンドルから報告を受けていた。ダドリーは自分にはなかった攻め筋を見て感心したが、同時に心配もしていた。主に大聖堂正面を護っているガーゴイルたちだが、石像のガーゴイルは、時には周囲を飛び回っているという報告を受けていたからだ。
「そうか――、石ガーゴイルの妨害も力技で解決したか」
「はい、そのようです。石を割る鎚などを持ち込んでおりましたので……。翼廊の傍に叩き壊された石像が散らばっていました」
「ふぅむ」
魔法でどのように石像が動いているのかはよく分かっていなかったが、成る程、石像としての形が崩されると魔法が解けてしまうのだろう。
全く考慮にない対策だったため、ダドリーは感心しつつも唸った。剛腕な策ではあるが、土木工具を武器としても使うという柔軟な発想もあり、なかなか侮れない攻め筋だと思う。話した時にも感じていたが、異端審問官のジェイは、指し手としてはかなりの好敵手となるだろう。
「ならば石像をもっと破壊して欲しかったが、そちらへ巡回するのは一体だけだったようだな。そのあたりも、事前に調べておったのかもしれぬ。抜け目のない男よ……。して、その作業の進み具合はどうか?」
「もう暫くかかりそうです。夜通しの作業と思っていましたが、実際にはかなりの者を休ませながら進めていたようです」
「無理はせず、か。強引に見えて慎重なところも、恐ろしい男よのう」
言葉とは裏腹に、ダドリーは込み上げる愉快さで頬が緩んだことを自覚しながら、自身の顎鬚を片手で撫で付けた。
「うむ。ご苦労。暫く休め」
ダドリーはピンドルへ労いの言葉を掛け、退出を命じた。しかし、ピンドルは頭を下げた姿勢のまま動かない。
「私は、総攻撃の支援をしなくとも良ろしいのでしょうか?」
そう問われ、ダドリーはピンドルの禿頭を見つめた。
ピンドルには夜明け後の突撃について、詳しい説明はしていなかったのだ。それは彼を突撃に参加させるつもりがなく、説明が不要だったために過ぎない。しかし彼には斥候という役目を申し付けていたため、この後の突撃が重要な作戦だという事をピンドルは知っている筈だ。そのうえで役に立とうという心なのだろう。完全武装の騎士たちには敵わなくとも、それなりに戦力になるという自負も、この発言を促したのかもしれない。
「協力の申し出は嬉しく受け取っておくが、そなたにはまた別の重要な役目が待っておる。それ故、その時まで休養を取っておくのだ」
「別の、ですか?」
ピンドルが頭を上げた。暗くて表情は見えないが、声には驚きが表れている。騎士たちが突撃に失敗すれば、戦力を失った大聖堂騎士団に次の手はないと考えているからだろう。厳密には、半島各地に散っている騎士たちの戦力は残っている。だが、アルシラに居る大聖堂騎士の半数と騎士団所属の兵士たち、加えてまだ動ける衛兵団員たちがこの決戦に投入される予定なのだ。ピンドルの驚きは当然のものだろう。
ダドリーは少し考えてから、今伝えておいても良いだろうと判断した。どのみち、実行前に幾らか準備が必要なのだから、心の準備くらいしておいた方が寧ろ良い。
「――先の戦争の後、儂は程なく、また戦争が起きると思っておった。戦争の疲弊に蝕が追い打ちをかけ、エルド王は弱った半島の者たちを、ここぞとばかりに叩くだろうと思ったからだ」
会話の流れからすると突然飛んだ内容だったが、ピンドルの様子に狼狽えは見られなかった。それを、ダドリーは当然のことと受け止めた。ピンドルは、ダドリーがこういう話し方をすることを良く知っているのだ。
「戦争の折、寡勢を覆すほどの力を誇った魔導士たちに王都側は煮え湯を飲まされた……。が、それらの魔導士たちを半島側は自らの手で排除しおった。その愚かさは言わずもがなだが、これはもう、半島を焼き尽くす戦火はそこまで迫っておる、と儂は思った。……しかし、知っての通り、そうはならなかった」
そうなのだ。ダドリーの予想とは異なり、現実には戦争は勃発しなかった。これは、幸運な誤算だった。
「予想通りにならなかった主な理由は二つあった。一つは、蝕の被害は半島に留まらず、内陸の王都側にも広がっておったということ。特に、半島に近い辺境部の被害は大きく、そこを通って新たな軍隊を派遣しては、軍から王への不満が爆発する恐れがあった。もう一つは、大主教の政治力だ。今回の騒動を起こした責任の一端を担わねばならぬ輩ではあるが、エルド王との駆け引きでは成果を上げている。将兵を多く倒された王都側が抱く憎悪を、こちらへと向かわせなんだ。どちらも、実に意外な誤算だった」
「はぁ……」
曖昧な相槌を打つピンドルには、話がしっくりと来ていないようだ。無理もない、とダドリーは内心で小さく笑う。本題はこれからだ。
「だが、これらの誤算は時を経てようやく分かったことなのだ。そうなる前に、儂は次の戦争に備えなければならないと思っておった。魔導士たちの助力が望めぬのなら、それに匹敵するだけの力を早急に整える必要があった」
ピンドルの明確な視線が向けられた。話に興味を示したようだ。或いは、無茶なことを言っていると驚いたのかもしれない。戦力というものが懐から不意に取り出せるほど簡単なものではない事くらい、子供でも理解できる。
「ところで、近頃、異端審問院の牢が破られたのは知っておるか?」
「……はい。異端審問院は火災だと話しており、牢が破られたとは言ってはおりませんが、一部の者は知っております」
勿論、ピンドルもその一部に入っている。当時、ダドリーがピンドルに調べさせていたからだ。
「あれは、単なる火災ではない。爆発だ」
「ばくはつ……ですか?」
「うむ。単に燃えるのではない。爆ぜる、という程度でもない。石壁を打ち壊してしまうほどの勢いのある火災――それが爆発だ」
「……では、異端審問院を襲ったという狂信者たちの中に魔導士の残党がいたのでしょう」
異端審問院の発表では襲撃だと公表されていないため、当然ながら襲ったのが狂信者だという言及もなかった。が、ピンドルはそこまで掴んでダドリーに報告していた。
「そうだな。爆発とは、魔導士の魔術の一つに見られるような現象だ。故に、魔導士がいたのに違いないというその推理は理に適っておる。しかし、事実はそうではない。あの後、儂は独自に調べて確信したのだ。あの事件で使われていたのは、火薬というものだ」
「かやく、ですか」
「うむ。お前も聞いたことがあるだろう? 東方のジン・ヨウでは戦で一般兵が魔導士のような技を使う、と。それが爆発を起こす粉、火薬の力だ」
「……なるほど。狂信者たちは、まさにその異端の技を使ったと……」
「そうだ。それを儂も持っておる。それもかなりの量をな」
沈黙が生まれた。
これは、自らが異端の者である、という告白でもあった。
ダドリーは、ピンドルの表情を窺った。驚きと困惑からか、頬を強張らせているように見える。ピンドルとしては、仕えている主がそうだとは知りたくなかったことだろう。
「異端審問院の牢が爆破された時、儂は肝を冷やしたのだぞ。密かに所蔵していた火薬を盗まれたのかとな」
ダドリーは笑ったが、ピンドルにとっては笑い事ではなかったようだ。その心境を察し、ダドリーは笑いを収めた。
実際には、盗まれてはいなかった。狂信者たちは密輸した火薬を使い、牢破りを決行したようだった。ダドリーも最初は火薬を密輸したが、大量に密輸してはさすがにばれてしまう。そこで製法を解析し、材料を個別に集めることで、目立たずに火薬を秘蔵することに成功したのだ。
「今回の決戦が失敗に終わった場合。火薬を使い、大聖堂を文字どおり、落とす。屋根を破壊し、ウィヒトを大聖堂ごと潰すのだ。そなたには、その火薬の設置を頼みたい」
「しかし、それでは――」
ピンドルが言わんとした事を察し、ダドリーは頷いた。この策を考えた時に、既にダドリーはその覚悟をしたのだ。
「うむ。わしは異端者として処罰される。火薬を大量に秘蔵していただけでも危ういが、独断で大聖堂を破壊しては、もう処刑は免れまい。ウィヒトを倒すためであっても大罪には変わりない。だが、この老いぼれの命でこの件に片が付くのであれば良かろうて」
「ダドリー様」
ピンドルが息を呑んだのが、分かった。そんな彼に、ダドリーは笑んでみせた。
大聖堂前の中庭にいるガーゴイルたちを騎士たちに任せ、大聖堂内に向かわせるのは三人だ。大主教を演じるエリュース、一度はウィヒトの娘への乗っ取りを阻止したというタオ、そして娘と最も関わりが深いデュークライン――彼らが娘を取り戻すことが叶わず、娘ごとウィヒトを殺すこともできなかった場合。彼らは間違いなくウィヒトに殺される。首尾よく表のガーゴイルを倒した騎士たちが大聖堂内に踏み込めたとしても、彼らがウィヒトに勝てる可能性は低い。正直なところ、ダドリーはそう考えていた。それ故の、最終手段だ。
「ですが、ダドリー様はこれからのアルシラにとっても必要なお方です!」
力の込められた声がピンドルから上がった。そこには、恐怖と焦燥が窺える。ピンドルが仕えてくれて二十年ほどだ。そんな彼からの引き留めの気持ちを、ダドリーは有難く受け取った。しかし覚悟は揺らがない。
「だがこの聖地を残すためには、いや、これからのアルシラのためには、もう犠牲なしでは無理なのだ。こうなってしまった以上な」
大聖堂騎士団は騎士団長が残るため、まだ立て直しができるだろう。異端審問院にもジェイがおり、教団にもギディオン主教たちがいる。
「大聖堂を破壊すれば、そなたたち家族にも責めが及ぶ。手筈を整えた後はすぐにアルシラを発て。急な話で申し訳ないが、事態はそこまで悪いのだ。――許せ、ピンドル」
押し黙ったピンドルに、ダドリーは真っ直ぐに体を向けて気持ちを伝えた。無茶な主からの命令のために、ピンドルたち家族はこのアルシラを追われることになるのだ。それでも、この男にやってもらわねばならない。
「……いえ」
長く感じられた沈黙の後、ピンドルの小さな溜息と共に、彼の首が左右にゆっくりと振られた。
「私たちには生き延びる機会を与えていただき……、有難く思います。ダドリー様。貴方のような偉大な方のお力になれたことを、私は光栄に思います」
覚悟を決めたようなピンドルの声と言葉に、ダドリーは頷いた。と同時に、軽く笑ってやる。ピンドルも自分と同じように、短時間で覚悟ができたのだろう。彼もまた偉大な男だ。
「これこれ、まだ儂が処刑されると決まったわけではないぞ? サイラスたちが、いやエリュースたちが上手くやってくれればそれで良いのだ」
「た、確かに……、そうですね。申し訳ありません」
そう言ったピンドルの声にも、ほんの少し明るさが戻った。
その時、背後に明るさを感じた。上って来た朝日が町を照らし始めたのだろう。ダドリーは窓へと振り返った。アルシラの上空には暗雲が未だあれど、光は完全には失われてはいない。
微かに、背中の向こうでピンドルが出て行く音がした。仕事が早いのも彼の長所だ。
「さて……、この朝日を明日も見られる者が多いと良いがのぅ……」
肌を撫でる風は凍えるほど冷たい。
ダドリーは朝餉の煙が上り始めた町並みを眼下に眺めながら、ゆっくりと顎鬚を撫で付けた。