64 犠牲と成果の天秤
「――ふう」
主教ギディオン・ブライズは一息吐き、額に噴き出した汗を片手で拭った。怪我をしていた衛兵の出血は、ひとまず止めた。未だ彼の全身の傷は完全には癒えていないが、それは故意だ。治療を施すべき対象が、他にも多数いるためである。おそらく、これからも増え続けるに違いない。そちらへ手を伸ばすための余力を、ギディオンは残しておく必要があった。
治療の介助をしてくれていた者から湯を絞った温かい布切れを渡され、ギディオンは血の付いた手を拭いた。その手で額に触れてしまっていたことに気付き、目を閉じると布切れへと顔を埋める。温められていた配慮は効いた。これは、疲れている身に心地良い。
「次は何処へ?」
残念なことに、温かさは直ぐに失せた。いつまでもそうしているわけにはいかないのも事実だ。ギディオンは額を拭きながら、次の重傷者の元へ案内するよう頼む。しかし、返ってきたのは予期していなかった者の声だった。
「ギディオン枢機卿、ご足労願えますか」
振り返ると、知らない男――いや何処かで見かけた可能性は寧ろ高いが覚えていない――が立っていた。しかし名前は分からなくとも、服装から職位はわかる。歳はさほど変わるまい。立ち姿からそれなりの威厳を感じるため、司祭の中でも高位の者だろう。わざわざ『主教』ではなく『枢機卿』と呼んでくるあたり、何らかの決裁を必要とする案件を持ってきた可能性があるな、とギディオンは思った。
主教ギディオン・ブライズは、半島の中程にあるトゥマエ主教領の領主であり、このアルシラの大主教を補佐する枢機卿にも任命されている。しかしアルシラに常駐している同様の枢機卿は二名おり、うち一名は町へと下りたが、もう一人は本部に残っている筈だった。地方の主教である自分が出る幕などないのではと、ギディオンは訝しむ。
「私に何の用かな?」
「学頭司祭のレジナルドでございます。ここでは……」
言葉を濁し、司祭が頭を下げた。見かけは許しを請うているようだが、実際は議論の余地なく連れて行くという意思表明だ。
「……分かった。案内願おう」
冷えた布切れを介助してくれた者へと返し、ご苦労と頷くと、ギディオンは司祭の促しに歩を進めた。
部屋を出れば、教団本部の廊下は俄の施療院と化していた。左右の壁際には、負傷した衛兵たちが横になったり座り込んだりしている。そこに居るのは軽傷か、応急処置が終わり問題ないと判断された者たちだ。手の掛かりそうな者は優先的に部屋の中へと運ばれていた。
憂うべきは、この怪我人たちが更に増えると予想されることだ。既に、大聖堂奪還に突入し、生還できた者がちらほらと帰ってきていた。自力で脱出できた者は軽傷だが、これからは、仲間に運ばれてくる重傷者が増えるだろう。現時点でも死者が少なからず出ており、これから治療の甲斐なく亡くなってしまう者も増えると思われる。
ウィヒトの指図を直に聞いたギディオンは、町にも被害が出ていることを確信していた。民の治療も緊急の課題だと感じたギディオンは、教団の緊急対策会議でその旨を訴えた。それを受けたラステム枢機卿が、この丘にいた司祭や学生たちの一部で治療隊を編成し町へと出て行ったのだ。町の者たちが、衛兵たちが脅威に立ち向ったような無謀な真似をせず安全に身を隠していたならば、被害はこちらに比べてずっと少ない割合で済んでいるのかもしれない。しかし母体となる数が違いすぎるため、総数では町の被害の方が多くなることは必然だろう。
衛兵たちにすれば、再び大聖堂奪還に挑むため、こちらで被害が出た欠員を補充したいと思われる。しかし、ラステム枢機卿たちに加わった護衛を戻すべきではない。
ギディオンは司祭の後を歩きながら、頭を悩ませた。
数が圧倒的に足りないのだ。奇跡の技を使える司祭や学生、町を守る衛兵たち。いずれも今の騒動に対応できる数が足りていない現実がある。それは、すぐに見抜けた事態だった。故に、ギディオンは騎士団に助力を要請したのだ。騎士団も彼らなりに対応してくれているとは思うが、それでもまだ、足りない。
――いや、違う。
ギディオンは内心で呟き、首を左右に振った。
脅威に対して、このアルシラの人員が不足していたと考えるのは不適だ。ここは、半島随一の都なのだ。アスプロス教団の本拠地たるアルシラであっても人員が不足するほどの、規模の大きな災厄なのだ。
魔導士ウィヒトの復活。これは半島の歴史に残る出来事だろう。これが後世の者に惨事として捉えられないよう、今の自分たちは全力を尽くして対処しなければならない。人手不足を嘆いている場合ではないのだ。
「して、用件は?」
周囲に人が居なくなると、ギディオンは司祭――レジナルドに声を掛けた。何事かはわからないが、移動中の時間を、それにだけ使ってよいほどの余裕がない状態だということは分かっている。
「はい。……騎士団から、申し出がありまして……」
どこか気が乗らないようなボソボソとした声が、レジナルドから返ってきた。ギディオンは、その様子に軽い誤魔化しを感じた。ただ、生まれと要領の良さだけで今の地位に就いたわけではないのだ。多少は他の者の考えを読むことができる。しかし、それを追求できるほどの材料はなく、立場でもなかった。ギディオンは主教として司祭より上位に居るが、彼の直接の指導者ではない。トゥマエ主教領の最高指導者であっても、この大主教領アルシラにおいては余所者なのだ。
「ふむ、騎士団から……。先立って助力を願い出た返答かな?」
ならば、直接ギディオンを呼ばれた理由に納得がいく。が、それは直ぐに否定された。ギディオンの呟きを聞いたレジナルドが、誤解されたままになるのを恐れたのか、より詳しい説明を始めたのだ。
「いえ。……正確には騎士団からと言うより、我が校の学生であり弟子でもあるエリュース・オーティスからの報告、いえ、相談という話なのですが……、それに、騎士団の、あの、ダドリー・フラッグが付いてくると言うのです……!」
最初は遠慮がちだったレジナルドの口調が、途中から怒りの籠もった声色に変化した。
「本来、弟子ならば自ら師の元へ訪ねてくるのが筋です。それを、使者を立てて呼びつけるなど以ての外! ……いや、これはきっとダドリーの入れ知恵に違いありませぬ。彼は本来教団の僕たるエリュースを、まるで自分の小間使いのように扱っておるのです。エリュースが奇跡の技を使えることを良いことに、都合よく利用しているに違いない……!」
ダドリーに対する怒りを露わにするレジナルドに、ギディオンは驚かなかった。ダドリーが嫌われているのは有名だからだ。
『騎士団随一の知恵者』として知られるダドリー・フラッグは、特に異端審問官たちに嫌われている。これは、異端審問を五度、無罪で潜り抜けた実積に因るものだ。本来、異端審問は対象者が異端の罪に問われるかどうかを決める場なのであるから、その結果「無罪」となるのはおかしな事ではない。しかし、実質、罪となる事例ばかりで、量刑の大きさを決める場になっている。即ちこれは審問が歪になっていることを意味するが、同様の結果になっているのは教団における審問でも同じであり、権威ある機関が開く審問はこういった傾向を持つものなのだろう。少なくとも異端審問院は、ダドリーの五度の無実を恥として認識しているようだった。
『柄のない鎌』と、いつだか誰かが言った。異端審問院の者だったかもしれない。“曲がっている”捻くれ者で、“掴みどころがない”存在だからだろうか。無理に触れようとすると手を切る、という意味もありそうだ。
一部の異端審問官が「ダドリーが輝きの丘へと登らない限り、騎士団の者を追求することはできない」と嘆いているのは知っている。また、アルシラではない地方の騎士が「ダドリーに目を付けられては罷免されかねない」と羽目を外しすぎないよう警戒している姿も目にしてきた。どちらの機関にも属していず、そしておそらく中央ではなく地方の主教だからこそ、傍目に両組織の動きがよく見えるのだ。興味深いことに、どちらもダドリーを問題と見ているようだったが、ダドリーがいるからこそ均衡が取れているようでもあった。
そのダドリーに、ギディオンは会ったばかりだった。騎士団に今回の騒動の助力を求めた際、騎士団長と共に話を受けた老人がダドリーだったのだ。ギディオンの申し出はすんなりと受け入れられ、逆にダドリーから、ウィヒトに操られた娘とのやり取りについて質問された。ギディオンの話を聞き、一人で頷いているダドリーの姿は、思い返せば確かに、その場に居たはずのギディオン以上に何らかの情報を得ている様子だった。
この司祭はダドリーと一人で相対するのを怖れ、声を掛けてきたのだろう。そうギディオンは納得した。その気持ちは理解できたが、ギディオンは枢機卿とはいえアルシラの筋ではない。
「私ではなく、ヴァレイ枢機卿が同席すべきではないのかな?」
ラステム枢機卿が町の怪我人を救うために出ていても、アルシラにはもう一人の枢機卿――最高齢のヴァレイ主教がいる筈なのだ。
「ヴァレイ様は、アスプロ様御降臨の祈りに入られております」
「ふむ……」
答えながら、ギディオンは眉を顰めた。
アスプロ神の降臨から約五百年。教団はこれまでに何度も、再降臨をしていただけるよう働きかけてきたが、未だその機会は得られていない。小さな噂としては数えきれないほど挙がっており、その度にその奇跡が真実であるかの検証班が派遣されているが、記録上再降臨の奇跡は記されていない。直近で、再降臨の働きかけが最も過熱していたのが蝕の時代だ。あの頃は、ギディオンもその儀式に参加し、三日三晩食事を喉に通さず祈りを捧げたが、明確な奇跡は起きなかった。
結局のところ、蝕による大飢饉は永くは続かなかった。それはウィヒトの呪いの限界だったのかもしれない。アスプロ神が願いを聞き届けてくださり、御姿は現わさなくとも、この地を浄化してくださったのかもしれない。しかし、ギディオンはあの時の経験から一つの教えを得ていた。
それは、安直にアスプロ神に助けを求めるだけではいけない、という事だ。蝕の折り、再降臨という奇跡を示さなかった理由は、人々に自分たちで努力をしなさい、という御意思だったのではなかろうか、とギディオンは解釈している。今の騒動も、結果的には人の手に負えない大きな災厄なのかもしれない。しかし今は、自分たちでできる事をすべきなのだ。それなのに、アスプロ神に降臨を願うのは、ある意味、逃避行動に思えた。おそらく、ヴァレイ主教の内心はそうなのだろう。
だが教団としては、アスプロ神に祈りを捧げるのは間違ってはいない。故にギディオンは公然と非難することはできなかった。もし今回、アスプロ神の再降臨が果たされれば、ギディオンの解釈こそ間違っていたことになる。多くの場合で言えることだが、実績を残してしまえば文句は言えない。その結果が出ていない今もまた、批判をするのに適してはいないのだ。しかし祈りが聞き届けられなくとも、過去に多くの失敗が存在するため、今回の祈りが悪かったのだと追及することもできない。ヴァレイ主教にとってみれば、責任の発生しない逃避だ。
良い点があるとすれば、多くの者を巻き込む儀式ではなく、一人の行動で済む祈り、というところだろうか。今の状況で更に人員を削られれば、さすがに看過できない行動だ。いや、それが分かっているからこそ、ヴァレイ主教は苦情の入らない祈りに入ったに違いない。
「それでは、学頭司祭が話を受けるのが筋だな」
この発言に、司祭レジナルドは案内する足を止め、嫌そうな顔をした。やはり、ダドリーと会談する責任をギディオンに押し付けるつもりだったのだ。しかし、ギディオンの意見は慣習的に正しかった。大主教不在の場合、本来であればアルシラに常駐している主教が代わりに対応する。主教が対応できない場合は、アルシラの司祭の中でも最古参の者が教団の代表権を担うのが慣習だ。更に、混乱の状況下で最古参の者を探し連れてくることが難しければ、同格の者であれば代理として有効である、という慣習がある。
「しかし、私ごときが主教様を差し置き……」
躊躇うレジナルドの肩に、ギディオンは手を置いた。
「だから私は、助力として脇に控えさせてもらいましょうぞ」
「……分かりました。そう仰っていただけるなら」
支援してもらえると確信できたのか、レジナルドは渋々頷き、案内を再開させた。
ギディオンの発言に嘘はなかった。場合によっては、多少自分も前に出る必要があるかもしれないと考えているほど、この司祭を支援するつもりではある。しかし、敢えてそれを口にはしなかった。ギディオンが立つべき立場もある。それは、会談の証人という立場だ。少人数の会談だからこそ、後になって「こう言った」「いや言っていない」という水掛け論が発生するかもしれない。後に生じた結果がどちらに責任があるのか、という証明のためにも、会談を見届ける者が必要なのだ。ギディオンは、こういう問題が後に発生した時、教団側が有利となるよう真実を捻じ曲げるつもりはない。アスプロスの主教としての矜持から、真実のみを証言するつもりでいる。この証人としての立場が、レジナルド司祭を救うのか、はたまた失態を裏付けるものになるのかは、本人の交渉に掛かっているということだ。それを今、意識させては、緊張から本来の能力を発揮できないかもしれない。それ故に、ギディオンは黙ったまま彼の後に続いた。
案内された先は、教団本部三階の応接室前だった。ここは本来大主教の占有する領域なのだが、主不在の今、混乱から遠ざかった場所として利用されるのだろう。扉の前には、屈強そうな禿頭の男が立っている。衛兵たちの服装ではないが、騎士にも従士のようにも見えない。だが彼を前にしたレジナルドの様子からすると、教団の雇い人ではなさそうに思われる。おそらくは、大聖堂騎士ダドリー・フラッグの護衛なのだろう。
部屋に入ると、火の入れられていない暖炉の前で、一人の若者と大聖堂騎士ダドリー・フラッグが立ったままで待っていた。久し振りに足を踏み入れた応接室は、相変わらず豪華な調度品で彩られている。
「――お待たせしました」
レジナルドが隣で彼らに頭を下げた。向きとしては同じなので傍目には区別できないが、対象は騎士であるダドリーだけなのだろう。
「いや、こちらこそ急に……。これは、ギディオン主教にもお手間を取らせてしまったようですな」
ダドリーからの呼び掛けに、ギディオンも会釈で応えた。頭を軽く下げた後、ギディオンはふと、違和感を持った。何に対する違和感かと考え、ギディオンが来たことによるダドリーの軽い驚きだと思い当たる。あれは、本当に驚いてはいまい。そう、ギディオンは感じ取っていた。という事は、ダドリーはギディオンが来ることを予想していたということになる。その理由は分からない。しかし束の間の思考では、その理由を掘り下げて考えることはできなかった。
「それで、ダドリー様は一体どういうご用件で?」
司祭レジナルドが少し当て擦りを含んだ言葉で問うと、ダドリーが杖をついていない側の手を左右に振った。
「いや、儂は騎士団の代表としてこの場に参加したまで。具体的には、このエリュースが話してくれる」
この言で、必然的に皆の視線は、この部屋で最も若い男へと集まった。エリュースと呼ばれたその若者の背は高めで、榛色の瞳には確かな信念が宿っているように思われた。
軽く咳払いをした若者が、司祭からの咎めるように厳しい視線に怖気付くことなく、「では……」と口を開く。
「結論から申し上げます。大主教様の御衣装をお借りしたいのです」
間が生じた。勿論、言われた内容は直ぐに理解できたが、その意図がわからず、ギディオンは眉間に皺を寄せた。隣を見れば、司祭はポカンと口を開けており、ギディオンが予期した通り――激昂した。
「何を馬鹿な事を! このような非常事態にふざけている場合ではないぞ! 大主教様の御衣裳をなんとするつもりだ!?」
怒鳴りつけられた若者――エリュースは、レジナルドが怒鳴っている間中、頭を低くしていた。レジナルドが言葉を切り、荒げた溜息を吐き出せば、その姿勢のまま顔を上げずに答える。
「勿論、お借りする御衣裳を着用させていただきたく――」
「何たる無礼!」
エリュースが言い終える前に、更なる怒号が彼に降り注いだ。
「何たる傲慢! 見習いであるそなたが大主教様の御衣装に袖を通すなど、恐れ多いことこの上なし! どのようにして、そのような不遜な考えが浮かぶのやら、恐ろしい――」
叱りつける言葉を次から次へと発するレジナルドを見て、ギディオンはそこに嫉妬の色を見た。この司祭は大主教の身分に憧れているのだな、とどこか冷めた思いで見守る。
ギディオンも、かつては大主教という身分に憧れたことがあった。いや、見習いの頃は色々と覚えることに必至で、そういう考えは浮かばなかった。全くの別世界だと認識していたのだ。しかし、助祭から司祭になりたてのあたりは、いつか大主教になれるかな、とか、大主教になれるといいな、と考えたことがあった。そこから実際、権力の階段を上るよう努力するのだが、その一番の理由は、気に食わない先輩に大きな顔をさせたくない、という個人的な願望からだった。だが、大主教の一つ下の職位である主教になった頃には、もう大主教になろうという憧れや野心は消え失せていた。先輩より偉くなり、大きな顔をされなくなったのは勿論だが、そもそも任地が離れれば先輩と顔を合わせる機会もずっと減り、この問題は懸念するほどのものではなくなっていたのだ。故に、目的意識が喪失したから、という理由が、あるにはある。しかしギディオンが大主教に、寧ろなりたくないとまで思うようになったのは、責任の重さに気付いたからだ。
職位を上っていくと、下の職位に居た時には感じ取れなかった重い責任と多くの義務を背負わされる。勿論その分、権力も増えているのだが、それにあまり魅力を感じないギディオンにとっては、引き換えとなった重荷の方がずっと苦しく思えた。しかし、目の前の司祭には、そういう感覚はないようだ。見方によっては思慮の浅い状態だと言えたが、ギディオンはその思慮の浅さをある種、羨ましく思った。
レジナルド司祭の説教は続いており、エリュースはずっと頭を低くしている。ふと見ると、ダドリーの片手が自身の白い口髭を捻り、口元に軽い笑みを湛えていた。ギディオンのように、司祭の嫉妬を読み取り、彼はそれを楽しんでいるのかもしれない。或いは、司祭の小言こそ、この非常事態に必要でないもの、という矛盾を小馬鹿にしているのかもしれない。そうであれば、教団として今、恥を晒していると言える。いや、小馬鹿にされていなくとも、今グチグチと小言を重ねているのは教団として恥と言えた。
「――司祭。少し落ち着きなさい」
「しかし……、」
ギディオンが声を掛ければ、ようやくレジナルドの説教が止んだ。
「驚くのは無理もないが、まずは詳しい理由について聞いてみたらどうかな?」
そう続ければ、レジナルドは少し躊躇う素振りを見せたが、「主教がそう仰られるなら」いう言葉を口にしてから、エリュースへと再び向き直った。理由を聞く気にはなったようだ。
「エリュース。何故、そのような不遜な行動を必要とするのだ?」
「その前に」
そこで、エリュースの顔が上がった。
「現在、町で大きな騒動が発生していることはご存知でしょうか?」
「無論だ」
レジナルドが答え、ギディオンも頷いた。
ギディオンは、娘に憑依したウィヒトが魔物にそう命じたのを間近で見た者だ。ある意味、最もその変化を知っていたと言えた。
ふと、目を細めたダドリーと目が合った。いや、正確には、ダドリーが目を細めた変化に釣られてそちらを見たからこそ、目が合ったのだ。
「今の被害はガーゴイルに依るものは大きくないぞ。寧ろ、破壊活動の中心におるのは人だ」
ダドリーの発言を、ギディオンはすぐに吸収できなかった。エリュースが、そこに追加する。
「強盗殺人、強姦、放火。そういった犯罪行為が多発しているのです」
「そんな、まさか!」
ギディオンは驚いた。魔物が町を飛び回る今こそ、団結して事に当たらねばならない時だ。それなのに、そのような自分勝手な行動に出る者が多いという説明に、ギディオンは衝撃を受けた。が、すぐにそれを吞み込む。考えてみれば、貧しき者は総じて心も貧しい。そういう行動に走ってもおかしくないな、と思えた。だが、『最もアスプロ神への信仰篤き都』と呼ばれるアルシラであってもそんな状態なのか、という動揺は、簡単には治まらない。
周りを見れば、他の者にはギディオンほどの動揺は見られなかった。発言内容や態度から、あまり民と積極的に関わっていなさそうだと思っていたレジナルド学頭司祭でさえも、伝えられた状況は予想の範囲内にあったようだ。
ギディオンは日頃から民衆の中に身を投じ、民衆の声を聞くよう心掛けていた。しかし他の者の反応を見る限り、これまでのその努力が不完全だったと認めざるを得ない。考えてみれば、民衆と言っても、ギディオンが会うのは地域の纏め役のような者ばかりだった。そういう者はたいてい成功している者で、貧しく知恵の浅い者たちには出会えていなかったのだ。
気付けていなかった溝を認識していると、レジナルドが苛立ったような声を発した。
「それが一体、大主教様の御衣裳にどう関係するのだ?」
エリュースは軽く頭を下げたが、まだ直接的にその回答をしない。
「一部の民がそういう愚行に走っている理由は、その者たちが『アルシラはアスプロ様に見守られていない』と感じているからではないでしょうか?」
「知れたこと。元よりそういう行為を働く者は、信仰心を持たない連中に決まっておる!」
また司祭が叱りつけるように言ったが、ギディオンはここでようやくエリュースの言わんとしている事を把握した。
「故に、アスプロ様の御使いとされる大主教の姿を民に見せつける。そういう事か」
ギディオンは、成る程、と納得した。確かに民衆を勇気付け、自暴自棄な振る舞いを戒めるためには有効な手だと思う。
「つまり、そなたが、大主教様の偽者を演じると? 馬鹿な、馬鹿な!」
想像した姿を追い払うように、レジナルドが顔の前で手を左右に振った。
「そのような真似を、見習いであるそなたができるわけがない。それならば私の方が適して――」
そこでレジナルドはふいに気付いたように言葉を止めると、ギディオンの方へ片手を向けた。
「いや、最も適した主教がここにおられるではないか!」
そんな事は改めて指摘されなくとも分かっている筈だ、とギディオンは思った。そこを敢えて前に出たい目立ちたがり屋なら主張しかねないが、司祭が話すと恭順の意を示している若者は、そのような性質の者には見えなかった。
エリュースが顔を上げた。
「ですが、危険です」
「き、危険、とな?」
レジナルドが動きを止めた。
「はい。ウィヒトに操られていると思われる娘は、大主教様のお出ましを要求している、とのこと。であれば、その使いであるガーゴイルたちは、大主教様の姿をした者を連れ去ろうとする可能性があります」
「そ、それは……。……そう、なのでしょうか?」
レジナルドの視線がギディオンに向けられ、問い掛けられる。そんな事をいきなり聞かれても魔物の気持ちなど分からないギディオンには、答えられるわけがなかった。呆れてギディオンが無視していると、エリュースが更に話を続ける。
「大主教様のお姿を見て、民は皆、希望を取り戻すでしょうが、それだけでは充分とは言えません。脅威が取り除かれていないからです」
「それは、大聖堂を占拠しているウィヒトの事か?」
エリュースがレジナルドに向け、首を左右に振った。
「いえ、大聖堂の現状はまだ多くの民は知りません。いずれは断罪の広場から出た者からウィヒト復活の噂は広まるでしょうが、その者たちも大聖堂の中の様子までは分からないでしょう」
ここでダドリーが軽く咳払いをし、口を挟んだ。
「皮肉なことに、町の混乱が噂の拡散を抑えておる。処刑を観に行った者どもは、我が家に逃げ帰って閉じ籠もるであろう。避難所へ逃げた者はそこで話すだろうが、それもその場所に限定される。士気の低下が町全体に広がらぬという点では、これらの暴動は不幸中の幸いと言えるやもしれぬな」
被害に遭っている者にとっては不幸中の幸いなどと言われたくないだろうが、全体を見て対処せねばならない者は、好む好まざるに関わらず、あらゆる面を見て判断しなくてはならない。ギディオンはダドリーの言に頷いた。
「して、何を為すつもりだ?」
ギディオンはエリュースに対し、問い掛けた。若者から真っ直ぐな視線を向けられ、ギディオンはそれを受け止める。
「石ガーゴイルを倒します」
冗談には感じなかった。そうだとしたら、今の状況では質の悪い冗談になるが、若者の真剣な眼差しは、彼の言葉が本気のものだと示していた。加えて、瞳に輝く知性の光が、この発言に根拠がある事を物語っている。
――策があるのか。
ギディオンは、それを授けたであろうダドリーへ視線を移した。どこか飄々とした雰囲気のあるその老人は、傍観者のように若者を見守っている。
「どうやって、為すというのだ?」
レジナルド司祭の声は苛立っていた。誇大妄想に取り付かれた虚言だと判断したのだろう。エリュースが、そんなレジナルドの方に視線を向けた。
「失礼ですが、詳しくお話しする時間が無駄だと思います。立体的構造物を頭の中に展開できなければ、説明は只の言葉の垂れ流しになるでしょう」
「な、リッタイテキ……」
言葉に詰まったレジナルドは、確かに理解できなさそうだった。さりとて、ギディオンにも分かる自信はない。
「その危険な役目を、敢えて君が引き受けるというのか?」
答えは分かっていたが、ギディオンは重ねて聞いた。
「はい。策を理解し、聖職者らしい振る舞いができるのは私だけですから」
「ふむぅ……」
ギディオンは自身の右手首を、腰の後ろで左手で掴んだ。そして右手を握ったり開いたりしながら考える。これは上位の者からすれば、死を覚悟させる指令となる案件だ。本人が志願しているとはいえ、その許可を出すなら当然責任を負わなければならない。それについての覚悟は、既にギディオンにあった。主教となって以来、人の命を左右し得る決定は、数え切れないほどしてきたのだ。しかし、それに無感覚になっているつもりはない。毎回、事に向かい合い、しっかりと背負っているつもりだ。
今回、ギディオンが考えさせられたのは、失われるかもしれない人材についてだった。少し話しただけだが、この若者――エリュースは傑物だ。未来の教団の為になる人材だろう。政敵になり得る余地すらあるが、そこは年齢差による安心感があった。エリュースが階段の上が空かないことに不満を覚え、上の者の排除を考えた時には、もうギディオンは輝きの丘の向こう側へと旅立っていることだろう。故にギディオンは躊躇うことなく、エリュースの成功を支援するつもりであった。
もし失敗しエリュースの命が失われたとしても、現時点での教団の損害は小さいと考えられる。将来得られる成果は少なくなる可能性は高いが、まだ得られていない成果だ。諦めがつく。大主教として死ぬことも、短期的には民衆の不安を煽る結果を生むだろうが、殉教という切り札は極めて強力だ。民衆を守る為に大主教が代わりに犠牲となったという流れを作れれば、求心力はむしろ増すだろう。それに、大主教は本当に死んではいない。今は不在だが、いつかアルシラに帰還すれば、民衆は復活したと考え、アスプロス教団の威光は増すだろう。これは民衆を騙すことになるが、エリュースが大主教だと名乗らなければ、民衆の勝手な思い込みになる。また、変装について民衆が早期に気付いたとしても、復活だと騒いだ後に偽者だと知ったとしても、「民衆を勇気づけるために勇敢な若者が殉教した」という事実は変わらない。アスプロス教団にとって、損がない策と言えた。
「いや、しかし、民衆を落ち着かせるためとはいえ、そのために前途ある若者を……」
レジナルドが顔を曇らせた。叱りつけてはいたが、エリュースの才能を見抜いており、その将来に期待しているのだろう。学頭司祭直々に彼の師となっていることから、日頃から彼なりに目を掛けているのかもしれない。指導者としては良い資質を持っているようだが、大局的な視野がない点では、司祭止まりでレジナルドは適切なのかもしれない。ギディオンは冷静にそう思いながら、落ち着いた様子で立っているエリュースを見た。
「それに、やはり大主教ではない者が大主教として民を欺く点は問題になり得るな」
「そ、そうですとも! 大問題です!」
引き留める手立てを得たとばかりに、レジナルド司祭が大きく頷いた。ここでダドリーが口を挟む。
「騎士団は、エリュースの案に応える事を決定した。我ら大聖堂騎士団の威信にかけて、我らが大主教の衣に身を包んだ者を護ろう」
ダドリーの言に、ギディオンは目を細めた。表面的にも教団の者を護るという大義に沿っており、騎士が護衛をしているという事実が、偽の大主教をより本物らしく見せる効果があるのは明白だ。
「これこそが、儂がここまで同行した理由だ。エリュースが『騎士団との約束は取り付けた』と言っても信用してもらえぬかもしれぬのでな」
レジナルドを見れば、彼の動揺は明らかだった。既に騎士団が話に乗ったという事実が、この計画をより大きく彼に認識させたのであろう。最早、エリュースの案を内々に却下できない、と悟ったのだ。
「卑怯な手だと思いますが、こちらから『大主教である』と名乗るつもりはありません。大主教様の御衣裳はどういうものであるべきだ、という決まりはありますが、逆に、それを大主教でない者が着てはいけないという戒めもない筈です。ですから、私は掟を破っておらず、民衆も騙しません。ただ、民衆は勘違いをするかもしれません。それは、きっと各々の信仰心の為せる業なのだと思います」
エリュースが祈りの印を切り、自身の胸元にその手を当て、話を纏めた。ギディオンはそれを黙って見つめながら、これで懸念点は解消されたと心の中で思った。
「しかしだな、エリュース! お前はまだ助祭にもなっておらぬのだぞ。そのような者にこのような命に関わる重荷を――」
「司祭」
ギディオンはレジナルドの肩に片手を置いた。
「教典にある、翠丘の父子の一説にあるように、人の価値は身なりではなく中身で決まるものなのだ。私には、彼にはもう、行動に見合う中身を備えているように思える」
「主教様……」
レジナルドはギディオンを見上げ、次いで考え込むように目を伏せた。教典の一説の引用は、信徒である民衆にのみ説得力のあるものではない。寧ろ、教典をよく知る教団の聖職者にこそ深く響くのだろう。彼の眉間に皺が寄せられている。
「あとは司祭が許可を出すだけだ。こうして迷っている間にも、町には被害が広がっておるのだぞ」
そう促せば、レジナルドの眉間に寄っていた皺が更に深まり――ひと呼吸後、その目を開いた。
「……分かりました。しかし、万一何かあった場合は、主教がそう仰ったという事実を皆にもお伝えくださいますよう」
「勿論だとも」
答えながらもギディオンは、自身の意見をレジナルドが責任逃れに利用するつもりだと見抜き、それはあまり意味のない事だと考える。上に立つ者は、時に矛盾する内容の報告を受けるものだ。それをどう判断するのかは、決定を下す者の責任となる。虚偽の報告を受けたのならば別だが、ギディオンは自分から見えた意見を正しく述べた。故に、後で「主教様に言われたから」と主張しても筋違いなのだ。
「では、私から話を通そう。だがエリュース。くれぐれも、気を付けるのだぞ!」
そう言い、レジナルド司祭がエリュースに対し、祈りを捧げ始めた。ギディオンもエリュースのために祈る。しかしギディオンの祈りは、おそらく真に弟子を思う彼とは異なり、犠牲と成果を天秤にかけた先を見据えながらのものだった。